野球に飽きたら外野に行けばいい。あるいは、駒に手を伸ばせばいいのではないか。視点をちょっと変えてみることで、全く違ってみえることがある。ほんのちょっとしたことで人生は大きく動き出すのかもしれない。行き詰まれば気分転換は必要だ。
将棋に飽きたら振り飛車をすればいい。振り飛車は面白い。振って囲ってさばけばいいのだ。さばき方は簡単だ。攻められた筋に飛車を振ればいい。だからと言って簡単に勝てるわけではない。だいたい振り飛車は少し苦しめになる。駄目で元々。それくらいに開き直って指すくらいが上手くいく。
僕は振り飛車に飽きたので色々試して、今はゴキゲン中飛車にはまっている。ゴキゲン中飛車は普通の振り飛車とちょっと違う! 積極的に動くことができるのだ。あるいは、反対に積極的に動かれることがあるが、それはだいたい同じことだ。(動かせているのだとも言える)
仮に動かれたとしても、複雑で難解な中盤になることが多い。(簡単につぶれるとしたら対処がわるいのだ)がっちり囲って右四間飛車から仕掛けるという単純すぎる展開にはならない。また、振り飛車穴熊とあわせることによって、固めつつも積極性を維持するという戦術にも期待が広がっていく。
「お前が後手だ!」
僕はゴキゲン中飛車にも少し飽きたので、角道を止めない四間飛車でいくことにした。すると相手はなかなか角道を開けてこない。将棋は相手の出方次第。いつだって自分の意図するようにはいかない。様子をみながら僕は玉を動かす。相手は玉より銀の進出を急いだ。ぐいぐいと銀を出て銀のいた場所に角を引いた。
これは鳥刺しか? 数の力によって一方的に振り飛車の飛車角を攻めようというのだ。どう受けていいかわからず、僕は穴熊に入ることにした。(角道を止め向かい飛車にして銀で角頭を守りにいけば無難だった)すると相手は囲いもそこそこに銀を進出させて、振り飛車の角頭めがけて歩を突っかけてきた。
やむなく僕は角を引いた。さばきというよりも避難だ。相手は歩を取って飛車に銀をぶつけてきた。僕は飛車を横にかわして銀の圧力から逃れた。さばきというよりも脱出だった。居飛車の飛車先から突破を許す間に、角の転換ルートを確保した。
飛車は何度も追われ、結局自陣に押し戻された。居飛車の右桂が中段に跳ね出してきた時、僕は受けを誤った。角を大きく使うべきところを、逃げ癖がついたように同じところに戻ってしまったのだ。それによって中央に成桂を作られてしまう。僕は垂れ歩を使い、必死で反撃の手がかりを作ろうとした。すると相手は成桂を玉とは反対方向に動かして飛車取りに迫ってきた。
ここが最大のチャンスだった。飛車取りを無視して強くと金を作るのだ。生粋の穴熊党ならばそうするはず。だが、僕にはそうした力強さが欠けている。序盤から飛車角を逃げ回っていた。その逃げ癖を引きずったまま飛車を逃げてしまった。(これによって穴熊に飛車角がくっついた珍形が完成した)飛車を大事にしたのは、穴熊+袖飛車の形が好きという理由もあっただろう。
数手進み、再び寄ってきた成桂に角を取られてしまう。大きな駒損で形勢は振り飛車不利。しかし、穴熊は手つかずのまま残っており、飛車も健在で切れ筋には至っていない。僕は居飛車の玉頭に向けて歩を伸ばした。元々角道を突いていないため普通よりも遠い。すると相手は左辺で駒得を拡大した。僕は玉頭に歩を突っかけて袖飛車を頼りに継ぎ歩をした。すると相手の角が飛車取りに飛び出してきた。強い受けだが、穴熊相手には強すぎたようだ。
僕は玉頭の歩を取り込んだ。飛車を角で取る一手に桂で取り返す。これによって飛車が持ち角となった上、自陣の桂が玉頭攻めに参戦する形となっては、展開的に居飛車が勝ちにくい流れとなった。以下は玉頭から戸辺攻めで押していった。玉を中段にまで追い出し、退路を封じながら角取りに金を打つ。角が逃げた手に対して金と桂の間に角を打って王手。そこで相手は突然投了された。
「詰んだの?」
残りは16秒。正直どうなるかわからなかった。
端に玉をかわして詰みはない。しかし端歩を突いて以下どう受けても、打ったばかりの金を押し上げていく手があり必至がかかるようだ。
しかし、ここでなの……。
投了図を前にしてしばらく動けなかった。
先に読み切られたのなら、そこは僕の方が負けだ。もしも王手ラッシュができる局面だったとしても、この方はしないのかも。
世界には様々なタイプの棋士がいる。
投了のタイミングも色々である。
●思い出学習 ~強さは思い出の中に
「毎回違うから困るんだよ」
解説の先生がぼやきながら、玉の周辺を調べ上げていた。将棋というゲームは千変万化、同じ初形から始まったとしても、最後の最後まで同じように進むということはまず起こらない。(あるとすれば定跡の延長線上で即詰みまでいったという場合だろうか)
「初めての局面で最善手なんて指せるわけがない」
僕は突然、そのような不安を抱いてしまう。
だけど、本当に初めてなのだろうか……
どう考えても、それは生まれて初めて地球上に降り立った瞬間のようではない。ルールを覚えて最初に駒を動かした時とは違う。
そう言えば……、と僕は思う。
「この道はいつかもきたような……」
この人は、どこかで会ったような気がする。街でも、人でも、目の前にある存在が、突然、遠い過去の風景にリンクされる。忘れかけていた出会いがよみがえって、新しい場所での道しるべとなるのだ。初めてであって初めてではない。完全に同じではないとしても、何かは何かに似ているものではないか。街でも、人でも、将棋の局面だってそうなのだ。
手筋はお決まりものが強力だし、美しい形には普遍性がある。過去の経験をそっくりそのまま当てはめることはかなわないけど、照らし合わせて応用することはできる。
(強さは思い出の中にあるのかもしれない)
強い人は思い出を宝物のように身につけることができるのだ。
一局の将棋と感想戦(反省会)を通して思い出を作り、感覚として指先に蓄えることができたら、それが自分にとっての力になるのかもしれない。よい思い出を増やせばそれは自信となり、またよい手を再現することができるだろう。