「お前が先手だ」
僕は中央の歩を伸ばして中飛車を選択した。すると相手は四間飛車に振ってきた。純粋な四間飛車党だろうか。僕は美濃囲いに組んでから向かい飛車に振り直した。相振りでは玉頭からの攻めが有効だ。対して相手は金無双囲いに組んできた。端攻めに対しては美濃よりも強いが、逆サイドからの攻めを食らうと一撃で崩壊してしまうことがある。なかなか大変な囲いである。
互いに攻撃側の端歩を突き越した。相手が角道を止めた間に、僕は角を中段に構えた。端に狙いをつけた手だが、歩越しのため狙われるリスクもある。相手は銀を四間飛車の飛車先に繰り出してきた。棒銀調ではあるが、美濃囲いに対してはそれほどの脅威は感じられない。僕は飛車先を切ってから1つ引いた。中段飛車だ。駒組みが一通り終わったところで、僕の手番になった。
相振り飛車は仕掛けの形、タイミングが難しい。自ら動きすぎると無理筋となり、ずっと動かなければ手詰まりになる。いつでも千日手と隣り合わせといった側面があるように思う。3分切れ負けのような短い将棋ではそこまで慎重になるケースは少ない。ほとんどの棋士は隙をみて仕掛ける。また、隙がない場合でも気合いと勢いを持って仕掛けていけば、だいたいいい勝負くらいにはなるものだ。
その時、僕には1つの仕掛けが閃いていた。それは自らの囲いから歩を突っかけていくという少し危険な筋だった。こちらの主張としては、相手の攻撃の歩が無駄に浮いていること、囲いの強さに差があること、自分から動くとすれば他に浮かばないことだった。10秒、20秒……。ためらっている間に、どんどん時間は減っていく。3分という持ち時間の中で、30秒とはどれほどに大きい時間だろうか。
そうだ。僕には決断力が欠けている。水羊羹だって、プリンだって、ワインだって、多彩な顔ぶれを目の前にすれば、足が竦み、その場から逃げ出したくなる時がある。人はどうして、それを選ぶことができるのだろう。
「お前はぽんぽん指してぽんぽん負けよ!」
その時、棋神様の声が聞こえたような気がした。
ここで見送れば、相手から攻めてくるだろう。そうなったらもうこの仕掛けの善悪はわからなくなる。(局面が)動かなければ得るものもないではないか。失敗してもいいのだ。「いけるかも」と閃いたのなら、やってみることだ。失敗して得るものは、目先の勝利よりもきっと大きい。
僕は玉頭から突っかけて、歩を食いながら飛車を転回した。すると相手は歩を謝ってきた。僕は再び元の位置に飛車を転回した。相手はグイッと銀を立ってきた。瞬間少し危険な形のようにも思えた。僕は更に技をかけにいった。飛車と角の利きに歩を垂らした。
焦点の歩だ。これが中段飛車の横利きで銀取りになっている。相手は歩を角で払い大決戦に応じる他ない。大駒が入り乱れ、素抜きの筋があるので見落としがあると終わってしまう。短時間の将棋で大技をかけにいくのはなかなかのスリルがある。本来なら慎重な読みの裏付けが必要で、最低でも5分10分ほしいところではないか。そこを十秒そこらで決行するには、直感、経験値、読みの簡略化/集中といったものが必要になる。それにしても確信は得られないだろうから、最後は気合い、勇気、決断力なのだ。自分の直感が間違っていなければ、大きな自信になるだろう。
僕は飛車で銀を取った。一瞬銀得だ。相手は角で角を取る。僕は飛車を飛車で取って成り込む。相手は角で銀を取る。王手だ。僕は金で馬を取る。相手は金で竜を取る。飛車角銀が互いの持ち駒になる。駒の損得はないが手番がきた。
僕は敵陣深くに銀の割り打ちをかける。これでいけそうだという判断だったが、こちらも自陣に歩が垂れて金が乱されているので形勢は微妙か。相手は受けずに金取りに角を打ち込んできた。一瞬厳しくもみえるが、手順に金を引き、桂を取りながらの馬は玉から遠ざかるのでほっとした面もあった。
僕はゆっくりと玉から遠い方の金を取り駒損を回復した。すると相手は遙か昔、僕が開戦した時の傷跡から銀を打ち込んできた。しかし、この瞬間何でもなくむしろ質駒として利用できそうだ。僕は弱体化した金無双の最後の金に対し金を張り付けて寄せにいった。すると相手は壁銀を引いて受けてきた。金無双の凌ぎとしてはよくある筋である。
ここで僕は決め手を逃してしまう。実はこの銀引きは受けになっておらず、普通に金を取って角を捨てていけば簡単な並べ詰みだ。手数こそ13手かかるが並べ詰みなので紛れも何もない。こういう筋を逃す度に、終盤の強さとは何だろうと考えさせられる。詰将棋にもならない即詰みを見逃しているようでは、もっと厳しい状況では勝てないのではないか……。(例えば詰ます以外に勝ちがない局面だったらどうなったのだ)
時間に制約のある状態での終盤の強さとは、ただの技術ではなく、意識や体力をコントロールする力ではないだろうか。冷静であること、準備ができていること、集中していること。(局面を広くみれること、常に寄せのルートが描けること、最も大事な点を理解すること)ぎりぎりの局面で、僕の気持ちは緩み、震え、慌て、大いに取り乱してしまうのだ。勝てる将棋を普通に勝てなくて勝てない将棋をひっくり返すことができるだろうか。
「実力を出せなかったのでは?」と問われたある棋士はこう答えた。「それも含めて実力である」と。「強いなー!」という言葉は、思わず出るもので、美味しいとか楽しいに似た素直な感情表現にすぎないのではないか。「強さ」について、どれほどの人がその本質について見抜いているだろうか。「強くなりたい」誰もが漠然とそう願うものではあるけれど。
即詰みを逃がした僕は下段に飛車を打ち下ろした。詰んでいたのだから力を溜めた手は詰めろくらいになっているはず。ところがそれが怪しい。将棋は一手緩むと三手も緩むという場合がある。急所を見極めるか外すかで手数はまるで変わってしまうのだ。それに対して相手は玉頭の歩を突いて逃げ道を作ってきた。そこで急所がみえていれば質駒の銀を補充し、銀を竜で食いちぎっていけば詰み筋だった。竜から捨てることによって駒が全部さばけて綺麗に寄る。詰将棋的なのは初手くらいのことで、それさえ浮かべば難しくない。冷静であること、常に準備しておくこと、集中力を高めることによって、急所の一手を逃さないようにしたい。
いっぱいいっぱいで取り乱していた僕は、そこで玉のこびんに歩を打った。何かよくわからない一手だ。一度リズムが崩れ始めると最も厳しい一手も、普通の手も指せなくなってしまう。対して相手は下段から攻防風の飛車を打ってきた。僕は前手の意図を継承しながら王手をかけ、玉を中段に逃がす形で寄せにいった。そして、ついに質駒の銀を補充した。すると相手は玉頭にと金を作りながら銀を取り返した。当然詰めろだ。
「頼む。詰んでくれ!」
僕は祈りながら詰み筋を読んだ。馬を捨てて……。銀からいくと上に逃げられてつかまらない。
(あっ!)
その瞬間、ようやく僕に確信に近い閃きが訪れた。
歩を食いながら馬を切る。(詰将棋的に鋭い一手)
取る一手に頭から金を押さえあとは銀を滑り込ませていけばよい。詰まし切って勝つことはなんて素晴らしいことだ!
だが、これはたまたまの結果にすぎない。そう思えるほどの「危なっかしい」勝ち方だ。成長を望むなら、勝ったとしても探究すべき課題は多い。
~もつれることの価値
もっと上手ければ完封できてしまう。だけど、下手くそだからもつれてしまう。あれだけよかったものが、こんなことに……。そうして繰り返しカオスの中の終盤戦に入っていく。
詰まさなければ負けてしまう。(時が切れてしまう)
そうした状況は、終盤力を鍛えるチャンスとも言える。
下手くそだからこそ、チャンスに恵まれることができるのだ。