「ねえあの人困ってるんじゃない」
よからぬものが紛れ込んでいるこの部屋のセキュリティーはゆるゆるだった。
「何考えてるの?」
「ここで手が止まるって変じゃない?」
「手がないんじゃない?」
「明らかに変調だね」
禁止されている助言とは違うけれど。やっぱり駄目だろう。本当のことを言ったら駄目な場面というものがある。小さな声だから許されると思っているのか。いいやささやきほど声は通るのだ。
私は気分転換に席を離れた。指し手に窮していることは事実だった。多くを犠牲にした上で手に入るはずだった飛車を、上手く捕まえ切ることができない。この錯覚が致命的なものであっても不思議はない。
「いい手があるよ」
帽子を深く被った男は廊下ですれ違いざまにささやいた。
「一万でどう?」
部屋を出てもセキュリティーの甘さは変わっていない。いい手? あったとしてもそれはこの男の頭の中にではない。秘密の通信によって人知を超えた情報を持っているだけだろう。いい手かどうかは問題でなく、接触そのものが悪手になるのだ。私は一言も返さなかった。
ハンカチで手を拭いて気持ちを落ち着かせる。錯覚のこと、飛車を手に入れることは忘れ、玉頭から攻め合いに出よう。やるだけやって、それでも駄目なら頭を下げるだけだ。
席に戻ると相手の席に別人がかけていた。(席を間違えたか)私は何度も盤面を確認した。おかしい。やはり私の将棋に間違いない。
「不正行為が発覚しましてね」
運営の男が言った。
えっ? 何も。私は何もしていない。邪なものは近づいてきたけれど、私は少しも揺るがなかった。私は大いに取り乱し、存在もしない罪の言い訳を探しかけていた。
「相手の方がね」
「ああ……」
間違えたのは相手の方か。
冷や汗をかきながら、私は2回戦に駒を進めた。