ストローの抜け殻が落ちている。誰も拾いに来ないのだ。ずっと気になってしまうくらいなら、気づかなければよかった。
どうして誰も拾おうとしないのだ?
面倒くさいのか、業務に含まれていないのか。見て見ぬ振りをできる人の集まりなのか。あるいは、上を見ている人の視界には入らないものなのかもしれない。
(まあいいじゃないか)
もしもそういうスタンスの店なら、信頼性に欠ける。汚れのついたカップでも、落ちた豆でも、平気で使っているかもしれない。
「僕のかな?」
誰も気にとめないということは、そういうことではないのか。この先のどこかで落としたものが、遡って現在の僕の傍に落ちているのではないか。
(お前が拾えよ)
そういう目で、誰かが僕を見ている気がした。
どうしてここまで来たのだろう。
僕は2.8キロの道程を歩いて来たのだった。
歩くとどんどん景色が変わる。それが楽しかった。窓辺にかけて一方的に動くものを見ている楽しみとも違う。共に動きすれ違うことがある。道の上では、風や景色を感じることができる。同じに見えても全く同じ道はないのだ。歩く度に街の移り変わりがわかる。さっき来たような道でも、帰路ではまた別の顔を見せることがある。自転車を使えばもっと早く来られるかもしれないが、僕は無駄なことをしたいのだ。
歩いている時は、頭を空っぽにできるのがいい。何も考えなくていいのだ。だから、何かを考えることだってできる。
たどり着いた実感を得るために、ある程度の距離が必要だった。例えば、それは校長先生のお話だ。一行では味気ない。よくわからなくても色々あって、ようやく終わりが見えてきたという方が、喜びがある。
(2.8キロ)
それはほんの少し遠いかな、と思えるくらいの距離だった。
基準となる器を求めて、僕はここまでやってきた。
1つのコーヒーカップ。カフェという空間。テーブルの形。閉店時間という結末。そうした器の中に身を置いて、何かを考えたかったのだ。考えるには、あらぬ1点を見つめねばならない。視線の先には広がった自由な空間が必要だ。ここにはそれをかなえる高い天井がある。
よい考えが生まれる前に、何も考えない時間がほしかった。あと100年早く来て10年ゆっくりしたかった。遅れた分だけ閉店時間が気になる。けれども、時間は一定のものでもないはずだ。自分が冴えて高い集中をみせられれば、限られた時間を引き延ばすようなこともできるのではないだろうか。
2点間の距離が今度は気になり始めた。
一旦それが発動すると、様々なところに距離を感じた。隣人と自分。机と椅子。コーヒーとポメラ。ポメラと僕。天井と机。
遠すぎず近すぎず。最適な距離を、互いに求め合うのだ。
(落ち着ける空間は貴重だ)
僕は地下街のカフェのカウンターにかけた時のことを思い出していた。僕がかけてからしばらくして、隣に鞄が置かれた。次々と横並びに。それから3人がやってきて、横で談笑を始めたのだ。何か自分だけが部外者になったようで、落ち着かなかった。(先にいたのは自分の方なのに)
テーブルが空いてなかったのだろう。楽しげに話すのだが、声が大きいのが気になった。だが、カウンターで2つ隣の人にも届けるなら、多少大きくもなるだろう。
「あははははっ!」
(3人だから)
(若いから)
(冬休みだから)
(旅の途中だから)
声は大きくなるものだ。
僕はそう結論づけて納得したのだ。
(どうした環境に身を置くことになるか)
どんな場合でも言えることだが。最初は自分で選べたとしても、途中からどうなるかは、わからないのではないだろうか。確率とか運とか。そういうことになる気がした。
表の看板が取り込まれて、すぐそこに結末が迫っていた。
僕はまだ何かを考え始めたばかりだ。