眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

ラッシュ

2024-08-11 23:24:00 | 将棋の時間
 何度目覚めても完全に自分を取り戻すことはできない。いつだって半分は夢の世界に置き忘れている。だから完全に正気な人と仲良くすることは難しい。目覚めは春だ。輪郭、影、記憶、窓の外、光、電車の音、重力、歌、好きなもの、好きになれないもの、痛み。少しずつみんな戻ってくる。お前はいいよと拒むことはできない。順路は変えることができない。

 僕はぽかんと上を向いている。ボールはまだ落ちてこない。ホームラン? 隣で見上げていた猫が慌てて逃げ出して行く。雨? ドームじゃない。野球じゃない。何か妙だ。つかみ切れない空気。何かが間違っている。いや、何もかも変じゃないか。お茶と畳の匂いがする。ゆっくりと空から落ちてくるのはと金だった。
 今、振り駒をしたところだった。
 ここは駒犬の間だ!

「それでは時間となりました」

 三間にまで行った飛車が1秒で四間に出戻りするとホームにいた2000人の乗客がずっこけた。評価値は200ほど下がったが人間的に見ればまだ互角の範囲に収まっている。序盤から惜しむことなく投入される時間。先生の時間はいつだって足りない。まだ見ぬ指し手がどこかで眠っている。それを掘り起こすのが探究者の使命。もっと深く、もっと鋭く、もっと機敏に、もっと奇妙に、もっともっともっと探究の野獣が目覚めて盤上を駆けめぐる。その間、僕も一緒になって読み耽る。記録用紙はずっと白いままだ。

 悩ましげな先生の頭に基地局が立ち上がってグローバルに新手を集め始めた。3月の雲、ふざけた鴉、風化した上の句、近所の野良猫、マカロンの残党、異国のヒットチャート……。霊的な風とカオスに触れた角がショートを起こすと突然炎上した。

「水だ!」
 取り乱した先生の頭に僕はボトルに入った水をぶっかけ事なきを得た。

「この手は?」
「40分です」
 先生の時間はいつだって足りない。

 中盤から突如目覚めたスナイパーが居飛車陣の勢力を一掃し始めた。金銀桂香から隅々の歩まで遠慮なく手駒に加え始めると、振り飛車の大将が悲鳴を上げた。

「ひえー! もう載り切れないよ。何か持ってきて!」
「何かって言われても……」
 無理なリクエストに僕は動揺を隠せない。だけど、苦しい時に何かをひねり出せなければ、自分の壁を越えてはいけない。

「何でもいい!」
 追い込まれた僕はゴミ箱をひっくり返して駒台の横に置いた。
「おお、いいじゃないか」
 即席の駒台の上にあふれ返っていた歩が次々と乗り移る。

 先生が手を伸ばして棋譜を求めた。
 しばらく目を落としていた先生の顔が奇妙に険しくなっていき、やがて真っ直ぐに僕の方を睨んだ。返ってきた用紙を見て僕は青ざめた。
 四間飛車の振り出しは順調だったが、途中から符号がずれ出していたのだ。数字と数字が合体と分裂を繰り返しながら、猫に似たもの、鬼に似たもの、消しゴムに似たもの、雲に似たもの、ティラミスに似たもの……。人参、椎茸、水風船、マンモスに乗った火星人。これは文字化けカオスだ! 

「君これはいったいどういうことだね?」

 記録というのは何よりも正確でなければ意味がない。そして対局は一度切りなのだ。何度指しても今日と全く同じようにはならない。失われた一日は二度と再び戻ってくることはないだろう。

「ちょっと待ってください」

 最善手は冷静のあとにやってくる。そう信じて僕は待ったをかけた。






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