1本のペンを手にした時、お祝いはしない。それが命だとは思わないし、出会いは誕生などではない。走り始めた瞬間、誰がそれが尽きる時のことを想像するだろう。時間などいくらでもあるように思う。けれども、終わりは突然やってくる。
尽きた時になって死を意識し、遡って命を思う。
(もう滲みもしないのだ)
無限ではなかったとようやく理解し、振り返る。
あの頃、どうして1タッチ1タッチを惜しむことができただろう。
(愛することができなかっただろう)
残された軌跡が魂に訴えかけている。
それは色あせることのないモノクロームだ。
・
病室に入った時、父は気づかずに眠っていた。テレビの方に横向きになっていて、顔は見えなかった。もうずっとそのままだと思い込んだ僕はベッドの傍にかけながら泣き始めていた。寝息の他には何もない。父の方を見ていられなくなって、窓の外へ目を向けた。
屋上に飛んできた鴉が降り立つ。僕は鞄からノートを取り出してその様子を走り書いた。何かを客観的に書き留めることで、自分の精神を落ち着かせ、感情をコントロールすることができるような気がした。ノートがあれば、少しだけ強くなることができる。父の状態がどうであれ、それとは関係なく世界は存在していることを冷静に受け止めなければならない。
いつの間にか父は起き上がり、リモコンをテレビに向ける。チャンネルがめまぐるしく変わる。昔好きだった時代劇のところで止まるでもなく、いつになっても欲しいものが見つからないというように、ボタンから指を離さなかった。
動き出した父の様子をノートにつけた。ただ目の前にあることを書いていくだけ。この時、僕は自分が物書きであることを決意した。(どんなかなしみに触れても、これからは一定の距離を置くのだ)
「おー、来たか……」
父はまだ僕を認識することができた。
難しい話はしなかった。代わりに今日の日付と曜日についてしつこいほどに質問してきた。どうしてだという問いがおかしくて僕は笑った。
看護師さんがやってきて、名前、生年月日、現在地をたずねた。当たり前の質問に、父はほぼ正しく答えることができた。
突然、ベッドから起き上がりパイプ椅子にかけた父を見て僕は驚いた。ずっと寝たきりというのは、完全な思い込みだった。何かそわそわしているのは、売店の閉まる時間を気にしていたのだ。僕はお使いで売店に缶詰を買いに行った。
「開けてくれ」
父は昔から何かを開けることが苦手だ。僕はグイッと缶詰を開けた。(僕が誇れる唯一の親孝行だ)父は喜んで缶詰の桃を食べた。それから長い時間をかけて缶詰の成分表示を読んでいた。目の前にあるすべての現実が、父の研究対象だったからだ。穴が開くほどに見つめ、世界と自分とをどこまでもつなぎ止めようとしていた。その様子を見ながら僕はペンを走らせた。
次に訪れた時は病室が変わっていて、父はずっと眠ったままだった。理屈ではわかっていたが、そのあまりの変化の速さに僕は打ちのめされた。そこには窓もなく、チャンネルを変える者もなく、書いて気を紛らわす題材に欠けていた。(振り返ってみれば、間違えたり思い出せないくらい、なんて些細なことだろうか)
どこからか紛れ込んだ『蛍まつり』のチラシに虚しさがこみ上げてくるのを止められなかった。ただ泣いていると見知らぬ面会人が現れた。若い頃の父に世話になった人らしい。彼と並んで椅子にかけてノートの取り方などについて話をした。
「ノートの右をあえて空けておくんだ」
昔、父がそのように教えてくれたのだと言う。それは後から言葉が生まれてくるためのスペースだ。無駄なく詰め込みすぎるのは、合理的なようでいて間違いだ。あふれるものがやってきた時に行き場がない。役に立たないようなスペースこそ、創造の余地なのだ。
見舞い人を通じて、僕は父の言葉を受け取った。(物書きとして行き詰まった時、どこかでそれを思い出すことだろう)
唇が動かなくなってから、別れは早かった。
短い一日だからこそ永遠に定着する時間があることを学んだ。
・
記憶を頼りに夏のはじまりの一日のことを書いてみる。(きっと前にも書いたのだ)あの時、父がじっと見ていたのは缶詰ではなく、キャラメルの箱の裏だったような気もする。デタラメでも何でも、書くことが見つかれば僕はそれだけでうれしくなる。
突然の出来事にも困らないように、いつでも予備のボールペンを持っておくことにした。(ひと時も手放すことはないのだ)ささやかにすぎる命は、何度でも再生することができる。
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