「ここは何かいい手がありそうだ。何かよくなる順があるのでは?」
そこで手を止めて考える。少し考えてみても、ぱっとした手が浮かばない。焦った末に冷静にみればとても自信の持てない順に飛び込んで、勝手に転ぶ。相手は手に乗っているだけでよくなる。(つまりは完全なお手伝い)いっそ何もしない方がましだったということはよくある。だが、何もしないことは案外に難しい。「いい手を指さないと」という強迫観念、気負いのようなものが、払い切れないからだ。
「将棋には何も指さない方がよい局面がある」
そうしたことを知っておくのも大事なことの1つだ。相手から次に厳しい手がなければ、慌てることもない。何かいい手を見つけようとするのではなく、逆に何もしなければ何かあるのかと考えてみる。「何もしなくても大したことはない」また、そうした余裕を持って局面を眺めることができれば、陣形を整えたり、ゆっくりと遊び駒を活用したり、落ち着いた手を発見できるものだ。(いい手ばかりは続かない)
「何もしないのが難しいのは社会的背景にもよる」
ちゃんとしろ、しっかりしろ、真面目にしろ。もしも、幼い頃から、そういうことばかり繰り返し言われ続けていたとしたら、大人になっても引きずってしまう。しろしろという(あおり)が脳裏から離れないのだ。何をどうすべきかはやたらと教え込まれるが、何もしなくていいとはあまり教えてくれない。
あるいは大人になっても、話はあまり変わらないのかもしれない。お前ぼーっとしてる暇があったらちゃんと働け。無駄なく計画的に動きなさい。かけがえのない人生だから何かしなくちゃ。趣味くらい見つけないと。貴重な手番を生かさなきゃ。そうした周囲にあふれる声や環境が、何もしないことを難しくしてしまうのだ。そこまでして頑張らなきゃならないのは、いったい誰のためなのだろう。
常に何かをしてないといけない。そんな固定観念に締めつけられて苦しい時には、人から離れて窓辺の猫と寄り添ってみるのもいいだろう。ぼんやりと窓の外を眺めている内に、何かよいことが閃いたりするものだ。
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