居飛車の人が飛車先をぐんぐん伸ばしてくる。角道を止めもせずに、そればかりかこちらの角道をこじ開けにきている。居飛車の人はやけに好戦的に映る。仕掛けられた歩は素直に取る他はなくて、居飛車の人は角で角を取って成る。
いや不成だ。
どうせ取るのだから、成っても成らなくてもそれは同じことだ。スマートで合理的な居飛車の人。盤上から角が消える。角のいなくなった8筋はもう支え切れなくなった。居飛車の人は飛車を走る。一方的に桂を拾おうとしていた。早くも竜ができそうだ。そればかりか居飛車の人は角を打ち込んできた。角がいなくなったスペースに角を打ち込んで香を拾おうとしている。あるいは、もう一枚の飛車までも自分の物にして二枚飛車で攻めるつもりかもしれない。
居飛車の人の攻めっ気に押しつぶされてしまいそう。だけど、そんな弱気でどうするよ。居飛車の人がちゃんと攻めてくれるから、さばきのチャンスも訪れるのではないか。振り飛車の人は、自分だけの力ではどうすることもできないのだから。
頼みの綱は美濃囲い。居飛車の人のエルモよりも一路だけ深い。6筋からの反撃はあるか。8筋は明け渡したけれど、6筋は8筋よりも玉に近い。攻められた時こそ、反撃を開始するチャンスなのだ。きっと今がそう。振り飛車の上手い人ならば、きっと上手くさばくはず。
「ねえ、棋神さま。上手いさばきがあるんでしょう?」
「今は忙しい! それくらい自分で考えよ!」
棋神さまの言う通りだ。将棋は自分で考えてこそ強くなるのだ。
考える内に自分の時間が削られていく。形勢不利。けれども、振り飛車は逆転のゲームでもある。先に攻められることばかり。いくらか不利にもなるだろう。苦しい時間にどうにかして反撃の糸口をみつけることこそが振り飛車のロマンなのだ。攻めている時はいいけど、攻められると弱い人がどれだけ多いことか。何かあるはず。弱い自分にはみえていない何かが、きっとあるはずだ。
●飛車と角の物語 ~さばきの心
飛車取りに迫られた瞬間、振り飛車のセンスは問われている。最もよくある状況は、飛車取りに角を打たれる場面ではないか。居飛車党というものは、だいたい角を打って飛車を攻めてくるものだ。そこは将棋の中でも割と重要な局面で、しっかりと足を止めて考えるべきところだ。
(無条件で逃げることはあり得ない)
飛車は王様の次、人によっては王様よりも大事だと考える人もいるかもしれない。しかし、一番痛いのは飛車を取られることではなくて、飛車を逃げ回っている間にどんどん自分の手が指せなくなってしまうことの方なのだ。
ありがちなのが、直前に自分が立てた予定が飛車取りにされたことを重くみるばかりに全部キャンセルになってしまうような指し回しだ。
「飛車取りですか? 飛車取りですね。
へへー参りました。お通りください」
突然偉い人が目の前に現れて、今までの計画も厳格なルールも全部台無しになって例外的に都会の街を通り抜けていくような感じ。
(あんたそんなに偉いのかよ……)
飛車取りって、そんなに偉いものか。
確かに飛車は偉大ではあるけれど、そこは立ち止まって冷静に考えるべき局面だ。
打たれた角には別の狙いもあるはずだから、ただ逃げることは通常は利かされになる。逃げるとどうなるか。飛車に紐はついているか。取られた形は乱れるのか。飛車にはどれだけ強いのか。自分も飛車を取り合う順はないか。そうしたことを色々と比較した末に最強の手を導くことが望ましい。手段はだいたい三択、手抜くか、強く当て返すか、おとなしく逃げるか。
振り飛車は、相手に二枚飛車を渡して戦うような指し方もできなければならない。自陣に打ち込まれる飛車は、怖いばかりの存在ではない。角を手持ちにして、逆に目標にしていくことも可能だ。成り込んでいくばかりが、振り飛車のさばきではない。取らせておいて奪い返す。そのようなさばき方もあるのだと思う。
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