名刺代わりのホームラン
「どうしたら打てますか?」
ミルクが落ちてコーヒーの中に溶け込んでいく。テーブルの中央に置かれたコーヒーは主役だ。コーヒーは僕の中に取り込まれて僕の一部となる。それからコーヒーを少し遠ざけるとポメラをテーブルに置いて開く。そこからしばらくコーヒーの存在は希薄になる。今度はポメラが主役だ。少しずつポメラに触れて、僕の一部はポメラの中に取り込まれていく。
「何をされているのですか?」
正解がわからない。どうにも困った問題だ。打ち出した文字群がどのような結果に結びついたのか、そこが問題だ。将棋世界の1ページ、日経新聞の片隅、どこにも確かな座標が存在していない。浮きながら消えていくようなものばかりではないか。
「指の運動をしています」
それが最も正確な答えだとして、他人にどのような理解を得られるというのか。
得体の知れないポメラではなく、純粋な犬をつれていたら、もっと素直に信頼されることだろう。わかりやすい役割を帯びているほど、信頼に値するというものだ。
ポメラを閉じてコーヒーを引き寄せる。温かい主役のおかえりだ。遠ざけて引き寄せて、閉じて開いて、主役は何度も入れ替わる。コーヒーは僕の中へ、魂はポメラの中に、僕は温まったり真っ白になったりする。営みは単純で取るに足りず、信頼を築く方法は未だ見つかっていない。息苦しい。(生きにくいな)
ポメラは猫ほどに認知されていない。テレビで猫を見ない日があるだろうか。猫に職質をする警官がいるだろうか。(何をしていても何もしていなくても)猫は一目で猫と認めてもらうこができる。そして、猫であるということだけで、既に十分に素晴らしすぎるのだ!
人が人に認めてもらうことは、それほど簡単ではない。(人が真っ先に疑わなければならないのも人だ)年齢は、性別は、会社は、連絡先は……。オフィス・ビルに入るというだけで、どれだけのラベルが必要なのか。
気がついたらコーヒーカップが空っぽになっている。魂はポメラに吸い取られて、僕もすっかり無になった。あるいは、元からそうだったのかもしれない。ポメラはどこへ行くのだろう。
「ねえ、君はどこへ行きたいの?」
ポメラのささやきに、僕の指は固まったままだった。