照る日曇る日第617回
2011年3月11日の大震災の記憶が早くもボロボロに風化しつつある現在、そんな日々を生きる若き作家が、そのような危険な徴候に対して決然と立ち上がり、それらの天災はこれからも繰り返される大地の法則であるから、あたかも大地とゲームを演じるごとく、すべての経験智と意志とノウハウを結集してこれらの再来に厳しく備えねばならぬと戒める、いわば警世の書である。
しかしながら、そうした悦ばしく価値ある意図とは裏腹に、震災で倒壊の憂き目に遭った大学の校舎の中で、数多くの家族や同胞を震災で喪いながらも、さながら70年年代の学園闘争のバリケードの内部の全共闘の学生のようにアナーキーに過ごす主人公たちの希望無き夜営生活の描写はいちおうはもっともらしくスケッチされてはいても、彼らの内在的な不安や孤独を生き生きと浮き彫りにしているとはいえない。
彼女の恋人や学内のリーダー的存在の男性や男女の友人たちといった青春群像が、なんだか劇画の中の出来合いの人物のように思われてあんまり感情移入できないのである。
本書の語り手はヒロインの「私」であるはずなのに、1ヶ所だけ突然学園のリーダー格の男性にとって替わられるのも、小説作法の致命的とは言えないにしても大きな破綻の要因をなしており、いやしくもプロの作家ならこういう不備は犯さないだろう。
小説の構想じたいは悪くないとしても、その実行のお膳立てはいささかお粗末なものではないだろうか。
現世かはたまた隠り世で鳴くらむか喨々と鳴る油蝉の声 蝶人