「茫洋物見遊山記第140回&鎌倉ちょっと不思議な物語第301回
安養院は躑躅の名所で初夏になると道路に向かって大きく張り出しながら咲き誇って壮観であるが、いまは遅い秋であるから静まり返っている。
この浄土宗のお寺は今から30年以上前に誰かが仏像を盗み出して大騒ぎになったことを覚えているが、その後無事に元に戻って来たのかしら。
誰かに訊ねようと思ったのだが、すっかり忘れてしまったのは、本堂裏手にある鎌倉に現存する最古の宝筐印塔の後ろの樹木の上ににわかにミドリシジミが飛来したこと、および参拝客の中に若くてとびきり美しい娘さんがいたためである。
蝶も娘もすぐに何処かへ飛び去ってしまったが、むかしこのお寺には作家の広津和郎が住んでいたことがあるそうだ。
また歌人の佐々木信綱も、この近所の別荘「溯川草堂」に住んでいた頃に、「家人みな海にとゆきてしづかなり東鑑のつづきひもとく」という歌を詠んだそうだが、ここから海はそれほど遠くないのである。
私と同じ姓を持つこの歌人は短歌というよりは古式豊かな和歌を詠むが、どれも悠揚迫らぬゆったりとした歌いぶりで、まったく当節ふうではないところが好ましい。
なにゆえにひとの食器を下げてしまうのか耕君もその人も食事は終わっていないのに 蝶人