照る日曇る日第795回

いくら作家でも書きたくないことはあるものだろう。それが自分の欠点や不利になること、世の中のタブーとされていることならなおさらだ。たいがいの作家は意識してか無意識にかそれを遠避けたり、曖昧にしてしまう。
しかしプルーストは違った。小説の主人公である「私」の設定はそのようにはなっていないが、自分がユダヤ人であること、同性愛者であることの意味の問いかけを、この20世紀を代表する大河小説の大きなテーマとして取り組んだ。
当時のフランスにおいてもこの2つはタブーであったが、作家は己の分身を登場人物のあれやこれやに割り振って、己の内なる怖れとおののきを相対的に対象化しながら、小説世界の深化拡大と苦悩する自意識の鎮静を図ったのである。
たとえ社会が己の人種や性癖をゆえなく差別し指弾しようとも、己の精神的肉体的淵源に遡って真実をつまびらかにし、その持続的表現に挑むことは創造者の誠実さと良心の問題であり、プルーストはわが谷崎潤一郎と同様にこの一筋の道を貫いた。
川端康成や三島由紀夫にもそういうアプローチは散見されるが、プルーストや谷崎ほどの真剣さ深刻さ、落とし前の付け方には到底及ばない。
しかし本巻の叙述の大半は、サロンでの社交生活の些事のあれこれであり、延々と執拗に綴られるそれを読んでいると、いかに大革命が王侯貴族に打撃を与えたとはいえ、花咲くサロン文化こそが近代西洋文化の搖籃であり続けた理由がなんとなくわかるような気がする。
本郷台の駅前に立つ楠並木アオスジアゲハが泣いて喜ぶ 蝶人