照る日曇る日第812回
「細雪」の下巻と「磯田多佳女のこと」「都わすれの記」「月と狂言師」等を収めているが、「疎開日記」のなかで谷崎潤一郎と永井荷風の2人の文豪の出会いが2度にわたって触れられているのが興味深い。
最初は昭和19年3月4日に潤一郎が麻布に偏奇館を、次は翌年8月の敗戦の日前後に荷風が勝山在の潤一郎を訪ねて、「ひとりごと」「踊子」「来訪者」の生原稿を託しているのである。
谷崎潤一郎の最高傑作の感想は別に書いたので、ここでは触れないが、今回の最新版の編集者が、どうして「細雪」を、私が持っている昭和41年版の全集のように1冊に収録しないのか良く分からない。
ところで「細雪」の初回は、「細雪回顧」に書かれているように、昭和18年の「中央公論」新年号に出たきり、陸軍省報道部将校の忌諱に触れて発禁処分になり、その後書きためた私家版「細雪」を上木したところ、今度は兵庫県庁の刑事が自宅にやって来て、「今度だけは見逃すが、これを公刊するのは許さない」と恫喝されたという。
こういう「吹き捲くる嵐のやうな時勢」のなかを、足掛け6年に亘って細々と書き継いだ著者であったが、それ以上の「弾圧」を恐れるあまり、関西の上流階級の不倫や不道徳も含めての生活の実相を描きだそうとする当初の構想を、もはやそのまま進めるわけにはいかなかったと述懐しているが、それも宣むべなるかな。
不幸なことに私たちは、その御蔭でもっと自由奔放で生き生きした彼本来の真正な「細雪」の世界をのぞき見る機会を失ったのである。
著者は「せっかく意気込んで始めた仕事の発表の見込みが立たなくなったことは打撃であったが、文筆家の自由な創作活動がある権威によって強制的に封じられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認しないまでも、深くあやしみもしないという一般の風潮が強く私を圧迫した」と記しているが、このコメントの最後の箇所を、私たちは今こそしっかりと胸に刻むべきではないだろうか。
官憲にこと上げしない民衆の怠惰と不作為が作家を殺す 蝶人