あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ジャン=ポール・ラブノー監督の「シラノ・ド・ベルジュラック」を見て

2013-06-15 08:46:08 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.475

読んだことはないのだが、ロスタンの有名な原作を映画化。ジェラール・ドパルデューが出てくると、どんな原作でもある種の色がついてしまうのが、長所でもあり短所でもある。ものによってはウンザリすることもあるが、ここではまずはうまくマッチしたほうだろう。本作ではそのヒロインも若きヒーローもあまり魅力的な俳優ではないために、よけいシラノ・ドパルデューの存在感が際立っている。

長くて大きくて醜い鼻の持ち主といえば芥川の短編「鼻」の主人公、禅智内供であるが、シラノは禅智内供と違ってそれを矯正しようなどと愚かなことは考えず、ひたすら恋する女の黒子になって、顔だけは美貌で頭はパアの若者のために献身するのだが、そのありよう自体が人の常であり、哀れと共感を呼ぶのである。

ここで「いとおかし」なのは若きヒロインの心根である。彼女は外貌の美醜よりも内面の文学的特性、すなわち即興的な詩作力や文飾の華美の魅力で異性に惚れるというのだが、これは少しく平安時代の本邦の貴族の教養ある女性を偲ばせて興味深かった。

もっともその手紙の口説き文句を読んだだけで失心してしまうのはいくら名文にしてもインポシブルではないだろうか。



          短歌とは全三幕のオペラにて「序破急」をもてわが魂を歌う 蝶人
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吉田照幸監督の「サラリーマンNEO劇場版」を見て

2013-06-14 08:24:26 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.474


NHKのもっともすぐれたコメディ番組が映画になったが、オリジナルのレギュラー番組の爆発力には及ばず、いまいち、いま2、いま3の出来栄えであった。

サントリーが協賛しているこの映画のテーマは、業界下位のNEOビールが例の「セクスイー」ビールを発明して業界首位の大黒ビールにひと泡吹かせるまでのリーマン諸君の奮闘苦労を描くサクセスストーリーなのだが、一番笑えるのはその大黒ビールの社長がサントリーの現社長にそっくりなことくらいだろう。

この作品の失敗の原因は、私の大好きな女優、奥田恵梨華を主役にしなかったからであることは明明白白である。

それにしてもNHKがこの面白い番組の製作を中止して、下らないコント番組を連発しているのはいったいどういう訳だろう。早くこの不滅のメンバーで続編を再開しなさい。


   若冲が金閣寺の水墨画に描きたる四方竹を斬るな農夫よ 蝶人
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アンソニー・マン監督の「エル・シド」を見て

2013-06-13 08:52:18 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.473


この映画は今までにたぶん3回は見たと思うのだが、いつも初めてのようなつもりで見物してしまう。私のボケが激烈に進行しているせいだ。

途中で海岸線の右奥にそびえる城塞が出てきて、「おや、これはどこかで見たことがあるぞ」という気持ちになるのだが、それでも「そう思うのは私が夢の中でいつか見た光景に似ているからなのだ」と思いなおし、なおも手に汗握って鑑賞しているうちに、突如大団円がやってきて、イスパニアの英雄「エル・シド」は瀕死の重傷を負いながらも白衣の騎士となって単駆敵陣に殺到する。さながら頭が狂っていないドン・キホーテのように。

さうするてえと、「この瞬間からエル・シドは歴史から伝説になった」という超カッコイイナレーションが入り、白馬に跨った鉄仮面の騎士は青い空と青い海原をバックに全速力で疾駆しながら画面の左隅に消え去ってゆく。

そのいまや伝説と化した英雄の雄姿を涙ながらにかつ誇らしげに見送る愛妻ソフィアローレンと双子の娘の姿! ここまでしっかり記録したからにはもう絶対に忘れまいぞ。やるまいぞ、やるまいぞ。



      交尾ちうの恥ずかしき姿追うキャメラ秘事暴かれしパンダは哀し 蝶人
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プルースト著高遠弘美訳「失われた時を求めて第2篇花咲く乙女たちのかげに1」を読んで

2013-06-12 10:22:15 | Weblog


照る日曇る日第598回


「源氏物語」と「失われた時を求めて」は誰の翻訳でもこれくらい面白い本は無いから、次々に目を晒すのだが、いずれも翻訳によってその文学世界が完全に異なってしまうので、面白いというより恐ろしい。だから本当の読書とは、やはり原書・原文に直接当たるべきなのだろう。

実際に今までにそうしてみたこともあったが、源氏よりもよく頭に入ったのはプルーストで、この重層的複合文てんこもりの牛のよだれのような羊腸の小径を辞書を頼りにおぼつかなく分け入る辛気臭い作業は、しかし微分積分的読解の快楽というものを与えてくれたのである。

かというて文庫本で10数冊に及ぶこの膨大な著作をそのまま読み切る自信はまるでないから、次々に出版される翻訳につい手が伸びるのであるが、最初に触れたように翻訳のテーストはこんにゃく同様十人十色であるから、いろいろ読み比べて自分の感覚に合致したものと仲良く付き合えばよろしいかな、と思うのである。

光文社から出ている高遠訳は今回がはじめてであるが、語学的に正確であろうと努めるあまり、井上訳で成功していたプルーストの独特の文学的香気がまったく感じられない点に不満を覚えた。こういう文章なら別にプルーストでなく、ジッドでもアナトール・フランスでもおんなじことではなかろうか。

全体のトーンとしては岩波の吉川訳に似た現代文の平明さを基調にしているのだが、訳者としては完全にその調子になり切っては困ると考えたのか、ときおり「されど」といういささか古めかしい接続詞を節目節目で投入する。

「されど」は私も嫌いではない言葉であるが、3ページに1回の割合でそれが繰り返されては迷惑千万。さながら平成のビジネスレターに明治の候文が闖入してくるような違和感が付きまとい、今度はいつ出てくるのだろうと比叡山のお化けの出現に身構えてしまうようになり、とても主人公とオデットの娘ジルベルトの恋物語の透徹した心理分析に身を委ねるどころの騒ぎではなかった。


今宵また我が家のチャイムを鳴らすのはおそらく風の又三郎ならむ 蝶人
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イーゴリ・タランキン監督の「チャイコフスキー」を観て

2013-06-11 07:49:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.471&音楽千夜一夜第308回

旧ソ連時代の1970年にモスフィルムで製作された偉大なるロシアの作曲家の伝記映画である。

チャイコフスキーとその美しく富裕な支援者フォン・メック夫人との交情を中心に彼の音楽生活を描いているが、演出の手際と技術が拙劣でほとんど見るに堪えない駄作といえよう。

ピアノ協奏曲第1番や交響曲4番、5番、6番などのサワリやかなり長い楽章などがゆったりと流されたりするのだが、その間に流される映像がおきまりの雪の白樺林であったり孤独な作曲家の憂鬱そうな物想いシーンであったり、ディミトリ・ティオムキンの音楽も、チャイコフスキー作曲の音楽の演奏そのものも、2流の体育会系指揮者ロジェストヴェンスキによる下手くそな演奏にかかるものなので、どうにもドラマに集中できないのである。

チャイコフスキーとフォン・メック夫人のうるわしき交友を無惨に絶ち切ったのが夫人の秘書役のバフリスキーということになっているが、恐らくこれは事実ではないだろうし、チャイコフスキーの突然の死の原因についても触れていないこの映画は、もういちど現代ロシアの総力を挙げて再製作される必要があるだろう。


   万緑の奥に潜むか暗黒物質 蝶人
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浦山桐郎監督の「キューポラのある街」を観て

2013-06-10 07:01:50 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.469


吉永小百合は確かにわが国を代表する大女優なのだろうが、高倉健、石原裕次郎などと同様あまりいそいそと尊顔を拝し奉りたくならないタイプの役者ではある。

しかしこの映画での彼女の、役も自分も投げ捨てた懸命の演技はなにか胸を衝くもおのがあり、1962年当時の鋳物製造の街の猥雑ではあるが生気漲る風情と共に強く印象に残った。

特に本作では北朝鮮に集団帰国する少年少女たちの揺れ動く心情が描かれており、新潟港から旅立った彼らの悲惨な末路を知っているだけに胸が痛む。この映画を北朝鮮を肯定的・好意的に描いたとして脚本を書いた今村などは反省したそうだが、まさかそれほど酷い国であるとは当時の日本人の誰もが思ってもみなかったのである。

 この頃は石原慎太郎などと共にまだ左翼系の陣営に属していた黛敏郎が日本共産党が主導していた労組内の歌声運動のお先棒を担いでいるのもちょっとしたみものである。

人も、国も、イデオロギーも変わればどんどん左右に変わるものであり、当の本人からみても絶対的定位などを信じられない存在であることを知っておく必要がある。



宇宙にも存在するとひとはいうわが心底の暗黒物質 蝶人
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6月のうた「これでも詩かよ」第5弾 過ぎにぞ過ぎし

2013-06-09 03:57:20 | Weblog


ある晴れた日に第132回


ただ過ぎに過ぐるもの、帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。
私の近所では、どんどん人が土に帰る。

私の家のすぐ斜め向かいの若いご主人が急死したのは、確か「子供の日」だった。

私の家の少し先のご夫婦の長男で、夜眠っている間に亡くなった高校生の息子さん。彼はバスケットが大好きだった。

私の家のちょっと先にあるアパートで練炭自殺した見ず知らずの男女3人。これは最近流行の「ネット死」だということで新聞ダネになった。

そのアパートのすぐ傍に住んでいた芥川賞作家の岡松さん。この人は三代将軍実朝の物語を書いた。

日本画の絵描きとして還暦を過ぎてから素晴らしい作品を生んだ小泉さん。この人は腐りかけのカブや建長寺の天井画の龍を描いた。

まだ50代なのに、ご主人と娘さんとお孫さんを残してガンで亡くなった植木屋の奥さん。

「鳩サブレー」を真似した「いちょうサブレー」の営業所の前のカーヴで、主婦ドライーバーのカローラに圧殺された働き盛りの労働者。まだその顔を覚えている。

金井不動産の金井さん。この人は私たち一家のために家を探してくれたが、美人の奥さんに先立たれ、若くしてガンで死んだ。

前々代の町内会長の大木さん。この人は突然町内から市会議員に立候補して落選した人に、「どうして事前に挨拶に来ないんだ」と呆れていたっけ。

そういえばうちのおばあちゃんも、泉下の人となってからはや1年が経つ。

もういちいち挙げないが、そのほかにも私の家の近所では毎日のように命が散らされ、そのたびに町内の回覧板に死亡告知が張り出される。

死はつねに私の傍にある。いま私が生きている場所が、死の場所。生者よりも懐かしいのは死者たち。

私は微かに震える水面を息をひそめて見詰めている。
ときどき半身を泉に浸したりもする。

さて、ここで問題です。

町内で、次のカロンの渡し船でアケロン河を越えるのは誰でしょう?

我が家で、次に黄泉の国に旅立つ人は誰でしょう?


ひたぶるに過ぎにぞ過ぎて夕暮れの泉のほとりにたたずむ二人 蝶人
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クロード・ペリ監督の「プロヴァンス物語」前後編を見て

2013-06-08 10:15:36 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.465&466

劇作家マルセル・パニョルの少年時代の思い出「丘の泉」の映画化であるが、南仏プロヴァンス・オーヴァーニュの山岳地方の雄大な景観が素晴らしい。前篇の「プロヴァンス物語 マルセルの夏」では、この手つかずの自然の美しさと楽しさがあふれる山奥の地に、マルセル一家は叔父一家と共にひと夏を過ごす。

叔父と狩猟に出かけた父に手柄を立てさせようとがんばるマルセル少年は、見事幻の巨鳥を撃ちおとさせ村人たちの祝福を受ける。そしてマルセルの親友リリとの交友は感受性豊かな少年の魂に忘れ難い刻印を残したに違いない。

後編の「プロヴァンス物語 マルセルのお城」では主人公のあこがれの美少女イザベルが登場し、マルセルは彼女の我がままに嬉々として従うのだが、初恋に舞い上がる彼の心中に家族は誰も気付いてくれない。

別荘への行き帰りに私有地を無断で通る近道を利用していた一家だが、ついに意地悪な番人に見つかり、マルセルの父は教師を首になるのではないかと心配するが教え子の暗躍で窮地を脱する。やがて成人して映画プロヂューサーとして成功した主人公は、その番人がいた洋館を手に入れ、亡き母や兄弟や親友リリと過ごした甘美な人生のひとときを懐かしく回想するのだった。

どういうわけかあらすじだけを書いてしまったようだが、うっとりと眺めているだけで心がおのずから安らぐような不思議な魅力をもつ映画である。


母上の身まかりし日にふるさとの丹波の山に舞ひしギフチョウ 蝶人
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周防正行監督の「Shall weダンス?」を見て

2013-06-07 08:47:59 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.464


この監督の映画のための素材選びについては定評があるが、サラリーマンと社交ダンスという組み合わせが意表をついて素晴らしい。2004年のリチャード・ギア主演の同名の作品や、2006年製作のリズ・フリードランナー監督の「レッスン!」なども本作から大きな影響を受けている。

配役がズバリ的中している。地味なリーマンの役所広司といわくつきの美しいプロダンサーの草刈民代(初の映画出演!)はもちろんだけれど、脇役の竹中直人、渡辺えり子、田村たま子役の草村礼子、徳井優、田口浩正、原日出子など、いずれもこれ以外にないという個性的な役者を起用している。

いっけん一人前のリーマンがマイホームを購入してローン返済を始めた途端に生きがいを喪失して、そこに謎めいた草刈民代が窓辺にたたずむところからドラマが始まるという設定も心憎い。

冒頭のシェークスピアの言葉(もう忘れたけど)、それまでネグレクトしていた妻とはじめてステップを踏むシーン、英国に旅立つ草刈民代が待ちに待った役所広司とラストダンスを踊るシーン、しかもテーマ曲の「Shall weダンス?」をなんと大貫妙子に歌わせるという選択! 

ダンスの素晴らしさと生きるよろこびを、これくらい見事に表現した映画はなかった。ダンス映画というよりは人世映画の大傑作というべきだらう。


泣きながら娘は駅へ走りたり激しく祖父を憎みながら 蝶人
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横浜能楽堂で「熊野」を観る

2013-06-06 01:55:12 | Weblog


茫洋物見遊山記第126回


いつもは本邦で音響1,2を争う県立音楽堂に行くために紅葉坂を喘ぎながら登るのだが、今日はその右奥にある能楽堂で第61回横浜能をみました。

演目は狂言が和泉流の三宅右近、近成演ずる「酢薑」で、シテの堺の酢売りとアドの津の薑(はじかみ=山椒)売りの2人が鉢合わせして酢と薑の利点をお互いに自慢し合う滑稽譚ですが、その頭韻を踏まえた両者の秀句(洒落句)セリフの切れ味の鋭いこと。作者が誰だか知りませんがよほど学のある人物に違いありません。

後半の能は金剛流の「熊野」(金春禅竹の作と伝えられ、「ゆや」と呼ぶ)でシテの熊野を豊嶋三千春、ワキの平宗盛を福王和幸が務めました。昔から「熊野松風に米の飯」と称されるほどポピュラーで興趣に満ちた能の代名詞的なこの演目は、何度見ても米の飯のように飽きない名作です。

平家物語の小さなエピソードを大きく膨らませた宗盛とその愛妾熊野の細やかな心遣い、そして胸に病床にある母親への思いを殺して舞う熊野の「中之舞」こそ、この演目のハイライトでしょう。この日の熊野の「中之舞」をマイケル・ジャクソンやEXILE(エグザイル)の外面模写的で内容空虚なロボトミー・ダンスと比べてみれば、本邦の中世の踊りがどれほど高雅な芸術的価値に満ち満ちているかが小学生にも分かることでしょう。

本作に限ったことではありませんが、歌舞伎という「江戸オペラ」で最も重要な役割を果たしているのが「下座音楽」であるとするならば、能という「室町オペラ」を特徴づけるのは笛(能管)、小鼓、大鼓(大皮)によって構成される三拍子(時として太鼓を加えて四拍子)の囃子方でしょう。

鋭くリズムを刻む笛、柔らかくシテの心情に寄り添う小鼓、非情で激烈な運命の転回を打哭する大鼓というトリオが奏でる音楽こそが「室町オペラ」、いな本邦の芸能の最下層に脈打つ「血の音楽」あるいは原始心母であり、この三拍子の囃子の一撃は、マーラーの交響曲第六番第四楽章のハンマーによる「運命の打撃」よりもはるかに骨身にしみ通るようにして私たちの心臓を直撃します。

かくして私たちは能を観るたびに、世界で最も単純にして、最も強力な音楽との出会いを果たすことになるのです。



またしても世界最強最美の音楽が鳴り響く六月一日横浜能楽堂 蝶人
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6月のうた「これでも詩かよ」第4弾 <背番号ゼロ>の人 

2013-06-05 09:34:13 | Weblog

ある晴れた日に第131回

久しぶりに紅葉坂を登って掃部公園を訪れたら、横浜能楽堂の裏門に放浪者が寝転んで2匹の猫に餌をやりながらワンカップ大関を飲んでいるのを、井伊掃部頭直弼の銅像が見下ろしていた。

1匹は白ネコ、もう1匹は黒猫だった。
黒猫のタンゴ、タンゴ。
まことに幸福そうな顔をしてなにやら演歌を口ずさんでいる男を見て、私は羨ましかった。

以前私の家の隣に自由が丘の花屋が住んでいて、毎晩遅く鎌倉まで帰って来るのに、翌朝早くにはまた車で出かけてしまう。

そんなある日のこと、鎌倉税務署長と名乗るいかにも尊大な男がやって来て、「隣の方はどういう生活をしているのでしゅか」と詰問するので、「そんなことは全然知らない。知りたければお前さんが夜中に玄関で見張っていろ」と突き放したが、署長は「は、花屋は市民税を払っておりましぇん。くぅえしからん!」と息巻いていた。

5年も10年も日本一バカ高い税金を踏み倒して、花を売り続ける男って素敵じゃないかと、そのとき私は思ったものだ。

話は違うが、この前の戦争のときに、私の祖父は寺社仏閣に頭を下げないふざけたクリスチャンであるというだけで牢屋にぶち込まれ、私のおじさんの一人は陸軍20連隊から脱走してあちこちの親戚を頼って日本全国を逃げまわったそうな。

最後にはとっつかまってしまったが、丹波・丹後の兵隊たち、特に福知山、舞鶴、伏見連隊の兵たちは南京の占領地のあちこちで銃剣を振りまわし、中国の兵隊のみならず女子供の非戦闘員までも虐殺していたから、おじさんはその先兵にならなくて良かったと私は思ったものだ。

さらに話は飛んでしまうが、古代からこの国には民草の所在を厳しく追究して租庸調を収めさせ徴兵しようとする権力者たちと、年貢や軍役、強制労働を嫌って村ごと逃散する農民や諸国一見の僧や「すたすた坊主」などもいて、支配・被支配の両者の見えざる攻防が現在も続いていると考えれば話が早くなるのだろう。

夏山を裾をからげてすたすた坊主 蝶人

どんどん話が飛び去ってしまうが、聞けばさいきん「マイナンバー制」というと耳触りはよいがつまりは「国民総番号制」が国会で可決されたそうだ。
年金や収入や医療や保険やらのバラバラ情報が一元化され、便利になって結構ではないかという能天気阿もいるようだが、これによって国民の個人情報を国家が完全に掌握することになる。

世に国家ほど恐ろしいものはない。平和なときにはニコニコしながら収入の無いものからも税金をむしりとり、いったん急あれば私たちの自由や人権や財産を略奪し、悪魔のように地獄の3丁目に導いて血祭りに上げるだろう。

私も、紅葉坂の放浪者や自由が丘の花屋さんや諸国一見の僧や「すたすた坊主」にならって税金なぞ踏み倒し、できれば国境の南に見え隠れする<背番号ゼロ>の人となって姿を隠してしまいたいと思ったことであった。

じぇじぇと呟きながら今朝の夏 蝶人
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6月のうた「これでも詩かよ」第3号  一挺の銃と二発の銃弾

2013-06-04 08:09:40 | Weblog


ある晴れた日に第130回

長男のしょうがい者施設入所に備え、現金30万円を持って鎌倉から大和市へ向かった。
家具やテレビ、寝具など一式を、大和市のヤマダ電機やニトリへ行って買い込むのだ。
施設に入るのは大変だ。「もうこれがラスト・チャンスです」と言われて思い切ったのだ。

しかし、いくら私たちが思い切って、新居の備品を買いそろえても、好き嫌いの激しくデリケートなカナー氏症候群者が、急に「ノー!」と言い出せば、すべてがオジャンになってしまう。

何事もなく入所してくれればいいのだが、と祈る思いで、雨の246を走っている。
妻が運転する自動車に乗って。
正確には、乗せていただいて……。

車は、去年の暮れになけなしの金をはたいて買ったAQUAである。
色はどう見てもただの白なのに「ライムホワイトパールクリスタルシャインです」とセールスマンは言い張ったっけ。

妻は、「私たちが買う最後の車ね」と、のたまわった。
ちなみに車のナンバーは2012。
こうしておけばいくら耄碌したって買った年を忘れないだろう。

さっきから妻は黙って運転している。
何を考えているんだろう。
彼女は、老人がいつまで自動車を運転できるかという偉大な実験に取り組んでいるのだ。

私は自分ではなにも出来ないので、妻に先立たれたら私は終わりだ。
「いわゆるひとつの江藤淳」だ。
無能の極致。夢見ることしかできない、愚図で低能のわたし。

雨はだんだん激しくなる。

桜ケ丘辺りを走っているうちに、私は、いま自分が心の奥底でいちばん欲しているものが何であるかに気がついた。
本当に私と息子に必要なもの。それは家具やテレビや寝具ではなく、一挺の銃と二発の銃弾。
これさえあれば、いざというときに一番役に立つだろう。

でもそれは、残念ながらヤマダ電機でも、ニトリでも、無印良品でも売ってはいない。
どこかで売っていないか、一挺の銃と二発の銃弾?
誰か私に、一挺の銃と二発の銃弾を売ってくれる者はいないか?

こういう時にはジャパンは不便だ。アメリカならすぐにも買えるのだが……。
突然私は、出張でアメリカに行くたびに、靴底に短銃の部品を数回に分けて密輸入していた西部劇マニアの元上司を思い出した。

雨はどんどん強くなり、とうとう土砂降り。
街も、道路も、車も、隣で運転していたはずの妻も灰色の雨に覆われ、
そして、何も見えなくなった。


ついにゆくその日のために一挺の拳銃と二発の銃弾を我に与えよ 蝶人
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狂言畸語

2013-06-03 07:36:48 | Weblog


バガテル-そんな私のここだけの話op.169


◎橋下大阪市長の本質は、トリックスターではないだろうか。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、全く異なる二面性を併せ持つまことに興味深い存在であるが、そのことを十二分に心得た彼がこれまでに繰り返してきた発言、たとえば文楽という芸術の真価を認めずに馬鹿にしたり、現行憲法の前文の理想主義を否定したり自民党と同様に天皇元首制に賛同している点には同意しかねる。
しかし大阪の府と市の財政危機を救済するための取り組みや彼が石原慎太郎と違って大戦中の本邦の他国への侵略責任を認めていることなどは至極当然のこととはいえやはり評価しなければならないと思うのである。

◎さてその彼が「慰安婦は必要である」と言ったか言わないかで大騒ぎになっているようだ。5月13日のぶら下がり発言の文字起こし全文を読んだが、彼が「慰安婦は必要である」と明言した箇所はなかったので、ではマスコミのでっちあげかと思った。しかしどうも13日は2回ぶら下がり発言があって、その第1回目に「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」(5/29朝日)と述べたらしい。

◎これを聞いた朝日新聞の記者が13日附の夕刊で「橋下氏『慰安婦必要だった』と見出しをつけたのは別に「誤報」でも「事実誤認」でもないだろうと私は思う。もしその発言が事実なら、ここで彼は、さきの大戦の際のわが国の慰安婦制度についてはもちろん、時と場所を問わずどんな軍隊でも慰安婦制度が必要である、と言っているように受けとられても仕方がないからである。
彼は自分の真意は「当時は慰安婦が必要だった」という事情を指摘したまでで「慰安婦必要」は持論ではないと抗弁しているが、さあ本当のところはどうであろう。愚かな政治家は、愚かな発言によって身を滅ぼすに違いない。

◎これまでの内外の戦争で、娼婦はもちろん慰安婦が国家、軍隊の指導者の意思で大量に強制的に動員され活用されたことは事実だろう。しかし古今東西のすべての戦争で慰安婦が必要とされたわけではない。テルモピュライでもアラモでもレイテでも硫黄島でも、慰安婦などそっちのけで男たちは黙々と戦い、死んでいった。
「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団」は、現在でもシリアやイスラエルなど現代の民族紛争や独立戦争、ゲリラの武装蜂起集団などあまた存在しているが、彼らが「どこかで休息したい」とか「慰安婦制度が必要だ」と思っていないことは、橋下氏以外の誰にだってわかるのではないだろうか。

◎私はいまのところ絶対平和に自虐的に殉ずるつもりの不戦論者であるが、もし不幸なことに従軍を強要されて橋下氏の隣で敵と戦わねばならなくなったら、彼がよよと身を委ねて行く娼婦や慰安婦の豊満な胸と乳房に頼ることなく、3Dプリンターで製造された最新型の国産ハイテクダッチワイフでいくたびも「休息」しながら、かわいいムクちゃんさようなら!と叫びつつ見事に玉砕するだろう。


ありとある木にナンバーが振られたる霊園の道を歩みけり 蝶人
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6月のうた第2号 「おり」より「たり」

2013-06-02 10:28:28 | Weblog


ある晴れた日に第129回&遥かな昔、遠い所で第90回


2013年5月18日、俳人の山田みづえさんが老衰で亡くなられた。亨年86。風の便りでは長く認知症を患われていたという。

山田さんは1926年に本居宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者、山田孝雄の次女として宮城県仙台市に生まれた。兄は「新明快国語辞典」の山田忠雄、同じく国語学者の山田俊雄という偉大な古典学者の血脈を引き継いでおられた。

石田波郷に師事し、1976年に俳人協会賞を受賞。76年から「木語」主宰、句集「忘」「中今」、随筆「花双六」などの著作があり、晩年は江東区の芭蕉記念館などで俳句を教えておられたことは、私がそこに貼られたビラで確認している。

ところが私は長年にわたって同じ会社で働きながら、彼女がそういう立派な経歴の持ち主とは夢にも思わず、“ちょっとうるさいタイピストのおばさん”と思っていたのである!

みづえさんは、わが社の顧客へのお詫びの言葉に「海容」という言葉を使った若輩者の私に興味を懐いて、私が生まれて初めて作った「鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり」という下手くそな歌を「悪くないわよ」と褒めてくれ、
「でも、吹きたりを吹きおりにするともっといいよ」
と教えてくれたりする人だった。

それでも「おり」より「たり」の方がいいと頑なに思いこんでいた私が、いや、やっぱり「おり」の方がいいなと気付いたのは、それから半世紀近く経ってからのことだった。

というと、いかにももっともらしい嘘になる。

ほんとは、私は山田さんの傍らで働いていた「鎌倉の海のほとり」の娘を恋するようになり、彼女が越してくるまでは鈴木清順監督が住んでいたという「庵」を詠んだその歌を、誰からもいじられたくなかったのである。

そんな途切れとぎれの記憶の繋がりのなかで、いつも謹厳な学者の娘のたたずまいを残していた小さな女の子のような山田みづえさん、さようなら。私はあなたのことをけっして忘れないでしょう。

合掌。

「たり」よりも「おり」がよろしと言われたり厳父孝雄の眼光をもて 蝶人
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6月の詩第1号 「悪と善」

2013-06-01 08:29:06 | Weblog

ある晴れた日に第128回


ブレッソンの「ラルジャン」という映画では、高校生がこづかい稼ぎのために作った偽札をつかまされた真面目な労働者が、親切なおばあさんとその一家を斧で皆殺しにしてしまう。江戸の敵を長崎でとはこのことか。

誰かから被った悪意が、罪の無い善意の人をこの世から抹殺してしまうとは、なんという残虐さであろう。

ブレソンの世界には、神はいない。あるいは、いても沈黙を守っている。

                 *

私の中には、間違いなく悪意がある。

そしてその悪意は、ふとしたはずみで他人の中に流れ込んで別の悪意を生み、その悪意がまた拡散してさらに毒々しい悪意を生みだすのだ。

もしかすると、この悪意の巨大な集積が、戦争をもたらすのかも知れない。

                  *

私の中には、間違いなく善意がある。

そしてその善意は、ふとしたはずみで他人の中に流れ込んで別の善意を生み、その善意がまた拡散して、さらに清々しい善意を生みだすのだ。

もしかすると、この善意の巨大な集積が平和をもたらすのかも知れない。

                  *

私の中には、間違いなく悪意と善意がある。

私が発した悪意は他人を傷つけるばかりか、私自身にも逆流して、その醜い毒液で私の中の良きものを損なうが、同じ私から流れ出た善意は、その無惨な傷を少しでも癒そうと努めるのだ。

                  *

私の中には、間違いなく悪意と善意がある。

そしてその悪意と善意は、ふとしたはずみで他人の中に流れ込んで、別の悪意と善意を生み、その悪意と善意がまた拡散して、さらに強力な悪意と善意を生みだすのだ。

もしかすると、この悪意と善意の果てしなき反復が、私の生そのものなのかも知れない。


わが心を流るる毒素今日もおのれを殺しひとを殺し世界を殺している 蝶人
コメント
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