あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

鈴木志郎康著「ペチャブル詩人」を読んで

2013-09-15 09:16:38 | Weblog


「これでも詩かよ」第24番&ある晴れた日に第155回&照る日曇る日第621回



全国の学友諸君、詩集に栞が付いていないのは、いっきに最後まで読んでしまうか、それとも気が向いたときにどこかの頁をえいやっと開くのが、詩を読むときの暗黙のならわしだからということを知ってたかい?

まあそれはどうでもいいんだけど、遅まきながらわが敬愛する鈴木志郎康氏の詩集「ペチャブル詩人」を読ませて頂きました。

まずは不可思議な題名がとても気になりますね。「ペチャブル」というのは、なんぞや? 「ペチャブル詩人」とは、いったいぜんたいどういう詩人なんだろう?

私はなんか平成の御代に健気に生きる老残のプチブル詩人、のことか、あるいはまた、処女プアプアのペチャパイがブルブル震えるポルノっぽいイメージなんかをかんがえていたんだけど、台所に立つ詩人の手からリノリュウムの床に滑り落ちたコンニャクが、ペチャブルル、ペチャブルルと震えたので、ここから採られた、とは知らなんだ。

いやあ想定外、想定外。

それなら「ペチャブル」じゃなく「ペチャブルル詩人」にすれば良さそうなものだけど、「ペチャブルル詩人」はいかにも語呂が悪い。そこで一字カットして「ペチャブル詩人」になったのではないでしょうか、ねえ志郎康さん?

私はここでどうしても「鈴木さん」ではなく、「志郎康さん」と、なれなれしくファーストネームで呼びかけてみたい衝動に駆られる。初対面でチュトワイエで話すが如き極私的無作法をお許しあれと願いつつ。

けれども見事な装丁と繊細なレイアウトで仕上げられたこの詩集の、どの頁を開いてどの詩を読んでも、志郎康さんの「心の欲するところに従って矩を超えない」融通無碍の境地に感嘆のほかはなく、

(例えば「和人さんと美弥子さんの祝婚の詩」なんか最高だなあ。こんな言葉で結婚を祝ってもらえたら、と、私は羨ましくて羨ましくて、思わず涙が出そうになる)

その簡にして熟した言葉たちが胸にまっしぐらに飛んできて、私たちのハートにやわらかく突き刺さるのです。

そんな詩人を、天下無敵の親和力を備えた七十八歳の愛すべきキューピッド、と申し上げても、怒りませんよね、志郎康さん? 




    エジプトやシリアの人が死にゆく日湘南の海で泳いでいるわたし 蝶人

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中上健次著「火まつり」を読んで

2013-09-14 09:44:27 | Weblog


照る日曇る日第620回


これは著者がしばらく居住していた熊野市二木島町で1980年1月31日に起こった一族7人殺人事件を受けて書かれたそうで、実際に物語はこの悲劇を象徴する7発の銃声と共に幕を閉じている。

しかしながらいくら精細にこの小説を読みこんで、その主人公である達男の思藻と行状を追ってみても、彼がいったいどうしてそのようなむごたらしい凶行をおかすに至ったかは、実際に起きた事件の動機と同様さっぱりわからず、そういう心理的な謎とき要素についてはまったく解明されていない。

けれどもそのような瑕瑾があるにもかかわらず、往年のお大尽の唯一の末裔であり貴種でもある主人公が、二木島のみどりの海と山との交感の内部生命に生きる天然児であり、神武天皇上陸の場所という神々の舞台にふさわしい一種の霊性を天から賦与されていた半神半獣半人的な存在であることは、彼を兄のように慕う弟分の良一の眼をとおしていきいきと描かれており、この点にこそ本作品の最大の魅力が存する、というてもけして過言ではないだろう。


        戯れに北枕でする昼寝かな 蝶人



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トーキョー サイコー

2013-09-13 10:12:29 | Weblog


「これでも詩かよ」第23番&ある晴れた日に第154回



トーキョー サイコー トーキョー サイコー
ニッポン チャチャチャ ニッポン チャチャチャ
死のれ 死のれ マザー マザー

うるさいなあ 
どこがサイコーなのか知らないが
少し静かにしてくれよ

トーキョー サイコー トーキョー サイコー
ニッポン チャチャチャ ニッポン チャチャチャ
死のれ 死のれ マザー マザー

君は陽気なトーキョー人
貴女は元気なトキオギャル
みんなポンポコニッポン人

トーキョー サイコー トーキョー サイコー
ニッポン チャチャチャ ニッポン チャチャチャ
死のれ 死のれ マザー マザー

おいらは根暗な中年男
あえていうなら裏日本人
ニッポン人を休業し市井に隠れ住むただの人

トーキョー サイテー トーキョー サイテー
ニッポン ジェジェジェジェ ニッポン ジェジェジェジェ
死のれ 死のれ マザー マザー



      君のその愛国主義が君が住む愛する国を滅ぼすだろう 蝶人
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スタンリー・ドーネン監督の「シャレード」をみて

2013-09-12 09:07:06 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.556


ともかく脚本がうまく出来ていて、いったい新犯人は誰なのか最後の最後までハラハラどきどきさせられる。

子鹿のバンビのようにキュウトでファニーな、しかしけっして演技がうまいとはいえないヘプバーンを、海千山千のドーネン監督がじつに巧妙に踊らせている。

相手役のケーリー・グラントの他にウオルター・マッソー、ジェームズ・コバーン、ジョージ・ケネディなどの渋い脇役で固めたのも勝因のひとつ。さらにジバンシーの衣装とヘンリー・マンシーニの主題歌が華を添えている。

そういえばこの1963年製作の映画の中でケーリー・グラントが自慢する、「丸洗いしても型くずれしないスーツ」は、最近アオキ、アオヤマ辺りから発売されましたね。ようやく時代が「シャレード」においついたのかな。




門君が越した高崎あたりでは今頃きっと三〇度だろう 蝶人
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ビリー・ワイルダー監督の「麗しのサブリナ」をみて

2013-09-11 10:24:33 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.555


1953年の「ローマの休日」の翌年のこのモノクロ映画では監督がビリー・ワイルダーで、ヘプバーンのお相手をハンフリー・ボガードとウィリアム・ホールデンが務めた。

元になったサムュエル・メーラーの戯曲がよく出来ているうえにワイルダーの演出が見事で、女に無関心だったボガードと弟役のホールデンに夢中だったヘプバーンの恋物語がどんでん返しの幕切れとともに鮮やかに描かれている。

ドレス担当のジバンシー、衣装担当のイディス・ヘッドも良い仕事をしていて、かの有名なサブリナパンツも名車ロールス・ロイスともども印象的に画面を刻んでいる。




     教室の女子学生の大半がパンツの膝を出している2003年夏の試験日 蝶人
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中上健次著「紀伊物語」を読んで

2013-09-10 10:28:00 | Weblog


照る日曇る日第619回


大島から始まった物語は、いつのまにかお馴染みのオリュウノオバや中本一族が棲息する路地へとなだれ込む。

若く美しいヒロインの道子は、胎内から突き上げる欲情に突き動かされてみさかいなしに性の喜悦をむさぼり、とうとう実の兄とも禁断の愛を体験してしまうのだが、その人間獣のような行状を彼女の同伴者として叙述する著者の筆の神々しさを、いったい何に譬えたらいいのだろうか。

路地とは何か? それは男とつがった女体の奥の奥の水宮に湛えられた聖なる泉の別名である。そして泉から滔々と流れ出る聖水は、路地に住む人間たちのもっとも醜く俗悪なるものを洗い流し、もっとも聖なるもの、至純にして崇高なるものへと昇華するのである。

しかし時代の悪しき変遷と近代化の歪んだ進行は、その聖なる土地の源泉を徐々に枯渇させ、汚染し、ついには破壊し、うるわしいまでに猥雑な懐かしき路地の思い出は、いよいよ最後の時を迎えるのだった。

稀代の呪術文士、中上健次の恐るべき筆力に脱帽の他はない。




空也の念仏のように思念が現実になってゆく稀代の呪術文士中上健次 蝶人
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エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮「The art of mravinsky in Moscow 1965$1972」を聴いて

2013-09-09 10:25:34 | Weblog

「これでも詩かよ」第23番&音楽千夜一夜第314回 &ある晴れた日に第154回



Scribendumというマニアックなレーベルから発売された七枚組のCDを聴いてみました。

私は昔はいざ知らず、いまでは貧乏な三等遊民になり下がってしまい、あまつさえいまの政府の変態的経済政策のとばっちりで輸入価格が急騰したために、一枚二〇〇円以上もする輸入盤なぞてんで買えなくなってしまったのですが、この「スクリベンダム」は相当割高だ。希少価値を売り物に、暴利をむさぼってるぞ。

現在の私などには絶対買えない代物なのですが、むかし臨時収入があったおりに勢いで手が出てしまった。なんせかの名人ムラビンスキーのロシア、いなソヴィエト時代の名ライヴ録音だというので、ついつい買ってしまったんです。けれども、どんな演奏でもムラビンスキーはムラムラさせる。むらむら。

ここにはマエストロ得意中の得意のチャイコフスキーの五番目の交響曲や、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」の疾風怒濤の序曲、ブーラームスの第三シンフォニーもそれなりに聴けるのですが、けっしてこれらの曲の他の演奏と録音の水準を超えてはいない。

チャイコの五番の録音はあまたあるけれど、一九六〇年に彼と彼の手兵レニングラード交響楽団が「欧州出稼ぎてなもんや三度笠」に出かけて、たまたまウイーン楽友協会の大ホールでアルバイトしたライヴ演奏に勝る録音がない、というのもとても面白いことですね。一期一会が空前絶後となったのか。

それでこのCDセット最大の聴きものは、やはりショスタコーヴィチの交響曲。第六番ロ短調はショスタコの最高傑作ではないけれど、それでもその氷の刃のような冷徹さが灼熱の嵐の咆哮へと展開してゆく眼の眩むような開放感、知と情と意志の絶妙のバランスは、絶対に他の追随を許さないこの孤高の指揮者独自の世界です。

死ぬまでに一度はお試しあれ。



    考えてみれば我らの平平凡凡たる人生のすべてが空前絶後の一期一会 蝶人
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チャールズ・チャップリン監督の「街の灯」をみて

2013-09-08 11:00:17 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.554


盲目の少女とそのさいわいを願った主人公との再会は感動的である。しかしこのお話も、チャップリンの演出もちょっとやりすぎではないだろうか。いわゆるひとつのステレオタイプではないだろうか?

少年が石を投げて割ったガラスをチャプリンが直すというマッチ・ポンプの悪戯をやっていた頃に比べて、ここでは彼の映画作法は成熟はしたかもしれないが、喜劇にとって一番大切なエッセンスを失っていわば退廃している、というような感想を、私ではなくって詩人の中原中也が述べている。

で、それを頭の片隅に置いて鑑賞してみると、かつての「キッド」なんかに比べてチャップリンのお涙頂戴の作為のあざとさが気になってくる。われらが喜劇王は、すでにして観客の涙が先取りされているのに、いやがうえにも紅涙を絞りに絞ろうとするのである。

いやがうえに、ということでは、大金持ちの男の飛び込みをチャプリンが助けるシーンの繰り返しも少ししつこい演出で、むしろ金持ちのパーティなどで展開される毒々しいまでの乱痴気騒ぎや、ボクシングのシーンでの圧倒的な可笑しさこそ、この映画のハイライトなのだろう。

ファシストの独裁に異議を唱え、庶民の平和と幸福を賛美する喜劇王は、幽かに妖気漂うアナーキストでもあった。




      おお、あの欲望もこの欲望も行合の空に消えてゆくのだ 蝶人
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「第一回超短詩型文学賞」レポート

2013-09-07 09:24:20 | Weblog

「これでも詩かよ」第22番&ある晴れた日に第153回



「超短詩型文学」への期待が内外で急速に高まるなか、丹波盆地の山紫水明の由良川町で「第一回超短詩型文学賞」が4月1日に開催され、以下のような作品が最優秀賞に輝いたそうだ。

ところで、超短詩型文学とは何か?

それは俳句、短歌を中心とする短詩型文学よりも少ない音素(文字数)で構成された文学をさす。俳句が「5+7+5=17」の音素で成り立っているのに対して、超短詩型文学はそれより少ないゼロから16の音素で構成される。

「しらべ」を武器とする短詩型文学に対して、超短詩型文学は音素に内在する「ことだま」および無調ないし無調的音律に依拠して、前者におけるいささかの不毛、倦怠、停滞の状況をいさましく切り開こうとするのである。 


*「第一回超短詩型文学賞」受賞作

ゼロ字部門 該当作なし

一字部門 「あ」

二字部門 「闇」

三字部門 「WHY」

四字部門 「あくがれ」

五字部門 「こんにちは」

六字部門 「グ・ラ・ラア・ガア」

七字部門 「薔薇と軍艦」

八字部門 「宵闇迫れば」

九字部門 「わたしとしたことが」

一〇字部門 「おきなめぐみがすきだ」

一一字部門 「慈しみ深きエスよ」

一二字部門 「由良川に夕陽が沈む」

一三字部門 「すたすた坊主がやってきた」

一四字部門 「遥かな昔遠い所で」

一五字部門 「そんな男のここだけの話」

一六字部門 「Rose is a rose is a roseだ」


短詩形文学はむずかしいけれど、悠長な「しらべ」を当てにできない孤立音型単独点灯瞬間燃焼の超短詩形文学は、もっとむずかしい。

しかし国内のみならず世界からもっとも期待され注目された「ゼロ字部門」に当選作が出なかったことは、まことに残念なことであった。




駐車場で「皆福」という名札を見つけたのが今日いちばんの仕合わせでした 蝶人


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小川国夫著「ヨレハ記 旧約聖書物語」を読んで

2013-09-06 08:14:57 | Weblog


照る日曇る日第618回

作者畢生の未完の代表作

私が読んでこれほど面白いものはないと思うのはシェークスピアと新旧の聖書であり、この2つ、特に後者が西欧の宗教のみならず文学や思想にも大きな影響を及ぼしてきたことも分かるような気がする。

そんな新旧のバイブルを読んでさまざまな天啓を受け、「よーしおれもいっちょう自己流の聖書のような物語を編み出してやろう」と夢想しない作家はいないだろう。

すでに作者は新約聖書を題材とした「或る聖書」を世に送ったが、これは本作と違ってメタ・フィクションであった。ところがなんとこの「ヨレハ記」は、「旧約」の向こうを張って企画構想敢行された巨大なフィクションなのである。 

作者の死によって残念ながら永久に未完の書となったこの大作がもし完成されていたとしたら、この作品は旧約に多い偽書のひとつに数えられたかもしれないし、旧約と同様の生命力を有しつつも、本家本元よりも面白い「平成版旧約物語」が誕生したかもしれない。

あるいはまた世界中の頑なな護教の徒から異議申し立てが相次いだり、時と場所によっては異端者として糾問されたに違いない。

なぜなら作者が心血を注ぎこみ、本書の主人公と目されているヨレハとその周辺の登場人物たちは、旧約に登場する様々な預言者たちに伍していささかも引けをとらない異様な存在感と輝きに満ちているからである。

 作者は誠実なキリスト者作家たらんとしてみずからの頭と手と想像力を駆使して「旧約の世界」を再創造しようとのぞみ、その思いを半ば以上に達成していたのだった。未完ながらも、本書こそは作者畢生の代表作であろう。


一等賞になれなどと言われてもなんのことやらさっぱり分からんうちの耕君 蝶人
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マイケル・アプデッド監督の「アメージング・グレイス」をみて

2013-09-05 08:39:11 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.553



仏蘭西革命当時の英国の政界のおはなしです。

有名なピット首相の親友ウィルバーフォース(ヨアン・グリフィズ)がこの映画の主人公で、当時アフリカからの奴隷貿易で大儲けしていたトーリー党の権力者たちと生涯に亘って生命を賭して闘い、その志をついに実現するという涙ぐましく感動的な実話の映画化なんですね。

まあ感想と言ってもそんなとこでっしゃろか。あと主人公は、オックッスフォード出のインテリなんだが、歌手を志望していたくらいで「アメージング・グレイス」を上手に歌うんですわ。



目の前で微笑む君が大学院教授とは畏れ多くて近寄れないよ 蝶人
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駆込訴え

2013-09-04 09:46:06 | Weblog



「これでも詩かよ」第21番&ある晴れた日に第152回


2013年の暑い夏の日、妻と私は市役所の中にある市議会事務局を訪ねて、鎌倉市議会への陳情の申込みをしました。

私は生まれてこのかた個人的な「お願い」や学校に対するストライキ、国家権力に対するデモンストレーションを行ったことはありますが、地方公共団体の議会に対する「陳情」をするのは生まれて初めてのことでした。

それは「障碍者ホーム入居者に対する市独自の家賃補助」についての陳情です。

神奈川県内の市では、国からの家賃援助1万円は別にして、それぞれ市独自の家賃補助があるのですが、鎌倉市だけはまったくない。よって障碍者のグループホーム、ケアホーム入居者に、鎌倉市としての家賃補助を付けてください、というのが陳情の趣旨なのでした。

私たち夫婦には、生まれながらに脳の機能障碍を持って生まれた息子があります。知能やコミュニケーションに遅れや欠陥がありますが、私たち健常者には持ち合わせのない、純真で無垢な彼の魂は、時折私たちをこのうえない仕合わせな気持ちにしてくれるのです。

息子は、鎌倉市で初めて誕生した障碍児通所施設「あおぞら園」に開所と同時にお世話になり、第二小学校、大船中学校、鎌倉養護学校を卒業しました。

卒業後の彼は市内では行く場所がなく、悩んだ末、遠く大和市の県央福祉会「ふきのとう舎」への通所を受け入れていただいた。

小なりといえども最底辺に生きる労働者となって、もう20年になります。
折も折、ちょうど法人で新しいケアホームが大和市内に出来たので、思い切って「ホーム入居」を決断しました。時を逃がすと、それも難しくなりますからね。

 その入居手続きをする中で、ホームの家賃補助が、鎌倉市と他市では大きく違う現状を知りました。横浜市、大和市、藤沢市、茅ヶ崎市、相模原市、横須賀市、逗子市、みんな市独自の補助金があるが、鎌倉市には無い。ゼロなのです。

息子と同じような障碍を持つ方々はたくさんいらっしゃると思いますが、現在の彼の給料は月3000円位、年金収入月6万5000円位です。(最近、年金再審査願いをしましたが、却下されました)

家賃54000円-10000円(国からの家賃補助)=44000円。あと食費、光熱費がかかり70000~80000円位になります。その上、日中の施設利用料が別にかかります。それだけで、すでに収支はマイナスですが、息子は服も着ます。

本を買ったり、たまには旅行をしたり、障碍があっても人間として当たり前に楽しむことも親としてはさせてやりたい。だからここで市からの家賃援助が1万円あれば、まさしく「旱天の慈雨」で大助かりなのです。ホームでも暮らせる補助金が絶対に必要です。

 海と山と緑の美しい鎌倉は、いまユネスコ世界遺産誘致運動に血迷い、税金も無茶苦茶に高い。けれどもどうか市制は弱者に温かく、血の通った障碍者福祉政策であってほしい。

 老い先短い私たちはもうどうなっても良いのですが、愛する息子のためにはなんだってします。「半沢直樹」のように、土下座だって平気でするのです。

血を吐くような油蝉の大合唱を背に受けながら、私たちは真昼の市役所に入って行きました。


 何ゆえに蓮の葉っぱをちょん切って川に捨ててしまうのか依然謎多き我が家の自閉症児 蝶人

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ジョージ・クルーニー監督の「グッドナイト&グッドラック」をみて

2013-09-03 09:40:03 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.553

もう今では誰も関心もないだろうが、50年代前半のアメリカ政局に一世風靡して猛威を振るったのがマッカーシー上院議員だった。

この全篇モノクロのドキュメンタリー風の映画は、全米のメディアが沈黙する中、彼が主導する「なんでもかんでも反共キャンペーン」に異議を唱え、表現の自由を求めて敢然と立ち上がったCBSの報道番組「See it Now」のキャスター、エドワード・R・マローの不屈のジャーナリスト魂を生き生きと伝えて鮮烈な感動を呼ぶ。

なんといっても主役を演じるデヴィッド・ストラザーンが圧倒的にカッコいいが、じつは脇役に徹していたジョージ・クルーニーが、この反時代的インディーズ映画の監督脚本を担当していたとは知らなかった。

さいきん本邦でもじぶんの主体性の放棄を棚に上げてメディアの問題点をあげつらう人が多いが、「マッカーシーにあらずんば人にあらず」というくらいの反動旋風が荒れ狂った時代にあって、あくまでも事実に基づいて冷静に報道を続けたこうした先達の業績に謙虚に学んでほしいものである。

「See it Now」のエンディングで、マローが「Everybody, good night and good luck」と毎回締めたことにちなんだ題名もお洒落だ。

クルーニー、最高だぜ。




またしても午前二時半に鳴る非通知電話もしや丑の刻参りではあるまいか 蝶人
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綿矢りさ著「大地のゲーム」を読んで

2013-09-02 08:24:44 | Weblog


照る日曇る日第617回


2011年3月11日の大震災の記憶が早くもボロボロに風化しつつある現在、そんな日々を生きる若き作家が、そのような危険な徴候に対して決然と立ち上がり、それらの天災はこれからも繰り返される大地の法則であるから、あたかも大地とゲームを演じるごとく、すべての経験智と意志とノウハウを結集してこれらの再来に厳しく備えねばならぬと戒める、いわば警世の書である。

しかしながら、そうした悦ばしく価値ある意図とは裏腹に、震災で倒壊の憂き目に遭った大学の校舎の中で、数多くの家族や同胞を震災で喪いながらも、さながら70年年代の学園闘争のバリケードの内部の全共闘の学生のようにアナーキーに過ごす主人公たちの希望無き夜営生活の描写はいちおうはもっともらしくスケッチされてはいても、彼らの内在的な不安や孤独を生き生きと浮き彫りにしているとはいえない。

彼女の恋人や学内のリーダー的存在の男性や男女の友人たちといった青春群像が、なんだか劇画の中の出来合いの人物のように思われてあんまり感情移入できないのである。

本書の語り手はヒロインの「私」であるはずなのに、1ヶ所だけ突然学園のリーダー格の男性にとって替わられるのも、小説作法の致命的とは言えないにしても大きな破綻の要因をなしており、いやしくもプロの作家ならこういう不備は犯さないだろう。

小説の構想じたいは悪くないとしても、その実行のお膳立てはいささかお粗末なものではないだろうか。

 
      現世かはたまた隠り世で鳴くらむか喨々と鳴る油蝉の声 蝶人
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鰻の三郎

2013-09-01 09:36:29 | Weblog



「これでも詩かよ」第20番&ある晴れた日に 第151回


ソ ソラ ソラソラ 鰻のダンス 
ソ ソラ ソラソラ 三郎のダンス
大きな鰭をゆるゆる動かし、
ぶっとい体をくねくねさせて
鰻は踊る 三郎が踊る 

2013年8月の最後の土曜日
紅蓮の炎を吐きだしながら、午後5時の太陽が頭上に輝いているというのに、
息も絶え絶えの油蝉が、人類への最後の連帯の挨拶を叫んでいるというのに、
滑川の源流でただひとり優雅なダンスを踊っているのは、
世界でも希少な天然記念物となった、ニッポンウナギの三郎だ。

思えば去年の台風で、
君の兄弟の太郎と次郎は、相模湾まで流されてしまった。
君の仲間の花子と葉子は、蛍橋の下で陰険な漁師の罠に掛ってしまい、
あえない最期を遂げたそうだが、
お前はよくぞここまで戻って来てくれた。

さあ三郎よ、ここがお前の第二のふるさとだ。
ニッポンウナギの母なる港だ。
さあ泳げ、さあくねれ。さあ踊れ。
さあ歌え、さあ跳び上がれ。さあ踊れ、
僕は朝まで君の宴を見守っているよ。

ソ ソラ ソラソラ 鰻のダンス 
ソ ソラ ソラソラ 三郎のダンス
大きな鰭をゆるゆる動かし、
ぶっとい体をくねくねさせて
鰻は踊る 三郎が踊る 


相模湾の海底深く沈みゆく第三臼歯に追い縋りたり 蝶人
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