あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

川喜多映画記念館で成瀬巳喜男監督の「驟雨」をみて

2013-12-16 08:38:44 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.607


妻の言い分、夫の言い分、どちらにも一理はある。質量と重心が決定的に異なっているのでなかなか調和させることが難しいのだけれど、時間の経過とともに収まるべきところへいつか収まる。そんな昭和の東京梅が丘周辺の小市民の夫婦関係を、原節子と佐野周二が巧みに演じてみせる。

しかし最後の戦いに勝利するのはやはり女性であって、胸を患い、リストラに晒されて郷里へ帰ろうと弱音を吐く夫を、紙風船を「どすこい、どすこい」とぶっ叩きながら励ます妻の男性的な意思の魅力的な発露で終わるこの映画は、やはり弱そうでもしっかり強い女の物語なのだろう。

「山の音」では酷かった水木洋子も、岸田國士のいくつかの戯曲をうまく脚色しており、ピアノ演奏を多用した斎藤一郎の音楽もまずまず。それまで陳腐な表現に終始していた成瀬の演出も、ここぞとばかりに爆発している。



なにゆえに愛国心を押しつけるのかそれは権力者の精神的「テロ」 蝶人

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私は

2013-12-15 09:15:08 | Weblog


「これでも詩かよ」第52番&ある晴れた日に第186回


私は一人の人間です。
夢を見ながら生きてます。
朝から晩まで陽に戯れる
いろんな雲を見ながら生きてます。

私は一人の人間です。
山から海へとひたすら下る
川の流れを見ながら生きてます。
野の緑、道に咲く花、空ゆく鳥や蝶を見ながら生きてます。

私は一人の人間です。
残り少ない人生を、
まだ息ができるこの一瞬一瞬を
まことに有り難く、貴重なものと感じながら生きてます。

私は一人の人間です。
毎日悪くなっていく世の中を呪い、絶望しながらも、
これ以上悪くならないようにと
少しは抗いながら生きてます。

私は一人の人間です。
私は佐々木眞です。
家族のしあわせを祈りながら生きてます。
毎日霞を食べながら生きてます。


なにゆえに君の掌は多くの患者を癒すのか私の奥歯もおばさんの足も 蝶人

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川喜多映画記念館で成瀬巳喜男監督の「山の音」をみて

2013-12-14 09:08:57 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.606&鎌倉ちょっと不思議な物語第304回&照る日曇る日第640回


 この映画のはじめにいきなり出てくるのが、1954年現在の鎌倉駅東口の京急バスの停留所である。主人公のひとり山村聡はここから「浄妙寺方面行き」に乗って、「浄明寺」で降りる。私も毎日その同じバスに乗って浄明寺のちょっと先まで乗っているので妙に懐かしい。

映画はその浄妙寺付近の民家で撮影されたらしく(小説では長谷の自宅が、映画では浄明寺に変わった)見覚えのある路地や谷戸が出てくる(しかし谷戸で鳴っている鐘の音は、浄妙寺ではなく杉本観音)。

山村聡とその息子役の上原謙が、彼らの嫁であり妻である原節子の堕胎について激しく言い争うのはなんと観光名所の寿福寺の境内であるし、当時の横須賀線では鎌倉駅から座って東京まで行けたということが分かって面白い。今では夢のような話である。

夢のような話といえば、この映画を見た私は自宅まで歩いて帰ったのだが、その途中ふと思いついて、岐れ路のY字路を左に折れたすぐの場所にある「魚三」に立ちよって、「ここは原節子がアワビを買いに来た魚屋さんでしょ?」とおじいさんに訊ねると「そうだよ、朝突然撮影に来たんだよ」という返事。映画ではヒロインのバックに若き日のおじいさんが映っていました。

ところで水木洋子による脚本は、原作とは似ても似つかぬ改作になっているが、これでよく川端康成が文句を言わなかったものだ。だいいち小説の題名ともなった「山の音」なんか最後まで出てこないし、両者の結末が月とスッポンなので開いた口がふさがらない。

はじめは処女の如くのんびり歩いていた映画を、なんとか95分の長さに収めようとしてか新宿御苑で脱兎の如く終わらせようとした報いが、全体の出来栄えに微妙な斑を帯びさせてしまった。

しかし小津監督の「晩春」(1949年)ときわめてよく似た「舅(山村聡)と嫁(原節子)の思慕と肉欲」というテーマが、ほとんど小津映画のような出演者とキャメラワークで繰り広げられているのは、果たして偶然の一致だろうか。

「われ遂に富士山に登らず老いにけり」とは川端康成の俳句だそうだが、句意とは裏腹に、作家もこの映画の主人公も、性夢のなかで美しき嫁をおのれのものにしたかったに違いない。


なにゆえに君は洗濯物を全部手洗いしてしまうのかどうせ洗濯機が洗うのに 蝶人
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鎌倉大町の「妙法寺」を訪ねて

2013-12-13 09:06:57 | Weblog


茫洋物見遊山記第142回&鎌倉ちょっと不思議な物語第303回


日蓮はおよそ20年にわたって鎌倉に滞在したが、このお寺には彼が初めて開いた法華経の道場があり、彼はこの松葉谷妙法寺の裏山の奥にある小さな庵で富士山を眺めながら修業に励んだ。

私は鎌倉に30年以上住んでいるのに、恥ずかしながらこのお寺を訪ねたのは今回がはじめてだったのだが、安国論寺に比べると地味でこぶりなのにどこか惹かれるものがあった。

とりわけ本堂の裏手にある釈迦堂とその左手にある鐘楼は見事なもので、文化年間に水戸家が建立したそうだが、江戸の建築のエッセンスが崩壊寸前の姿で現存している。

またここから本堂を見下ろす苔石段もちょっと京都の苔寺を思わせる雅を湛えていて、虚子の娘が

美しき苔石段に春惜しむ 立子

と詠み、尾崎喜八が「その土地への愛の序曲」で手放しで感嘆した気持ちが分かるような気がした。

観光客はもちろん市民からも見放されているような鄙びた趣が、私好みである。


なにゆえに君は友達の飲み残しのジュースを勝手に呑んでしまうのか情けないぞ悲しいぞ 蝶人
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鎌倉大町の「安国論寺」を訪ねて

2013-12-12 11:01:25 | Weblog


茫洋物見遊山記第141回&鎌倉ちょっと不思議な物語第302回


建長5年(1253年)に鎌倉に入った日蓮が初めて庵を結んだのがこのお寺で、本堂の向かいにある「日蓮岩屋」と呼ばれる岩窟で彼の有名な「立正安国論」が書かれたそうだ。

しかし私は日蓮も日蓮宗も創価学会もそれほど好きではないので、このお寺ではサザンカやカイドウの巨木くらいしか興味が無い。なぜか右翼政党の自民党の忠犬ないし体制のコバンザメとなりさがった公明党の現在の哀れな姿を知ったら、鎌倉時代における永久革命家の日蓮上人はなんとおっしゃることだろう。

最近は選挙運動にばかり熱中している彼らは、ろくに法華経や日蓮の教典すら読んでいないのではなかろうか。それとも彼らはそもそもが日蓮の宗徒ではないのかもしれない。

と、大いなる疑問を懐きながら寺の入り口で佇んでいると、そこには正岡子規の日蓮を詠んだ異様に大きな句碑が立っていて、

鎌倉の松葉が谷の道の邊に法を説きたる日蓮大菩薩

という俳句が大書されていた。おそらく子規が明治の学生時代に鎌倉、江の島を旅行したおりの作品だろうが、まことにくだらない腰折れで、もし子規が生き還ってこれをみたら赤面するのではないだろうか。日蓮を大菩薩とする見解にも妙な違和を覚える。

安国論寺のすぐ隣には額田病院があって、昭和13年のはじめに堀辰雄がここにしばらく入院していたという。




なにゆえに朝4時半に電話してくるのか障がい者ホームでもっとネンネグーしてなよ耕君 蝶人
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鎌倉大町の「安養院」を訪ねて

2013-12-11 10:59:26 | Weblog


「茫洋物見遊山記第140回&鎌倉ちょっと不思議な物語第301回


安養院は躑躅の名所で初夏になると道路に向かって大きく張り出しながら咲き誇って壮観であるが、いまは遅い秋であるから静まり返っている。

この浄土宗のお寺は今から30年以上前に誰かが仏像を盗み出して大騒ぎになったことを覚えているが、その後無事に元に戻って来たのかしら。

誰かに訊ねようと思ったのだが、すっかり忘れてしまったのは、本堂裏手にある鎌倉に現存する最古の宝筐印塔の後ろの樹木の上ににわかにミドリシジミが飛来したこと、および参拝客の中に若くてとびきり美しい娘さんがいたためである。

蝶も娘もすぐに何処かへ飛び去ってしまったが、むかしこのお寺には作家の広津和郎が住んでいたことがあるそうだ。

また歌人の佐々木信綱も、この近所の別荘「溯川草堂」に住んでいた頃に、「家人みな海にとゆきてしづかなり東鑑のつづきひもとく」という歌を詠んだそうだが、ここから海はそれほど遠くないのである。

私と同じ姓を持つこの歌人は短歌というよりは古式豊かな和歌を詠むが、どれも悠揚迫らぬゆったりとした歌いぶりで、まったく当節ふうではないところが好ましい。




なにゆえにひとの食器を下げてしまうのか耕君もその人も食事は終わっていないのに 蝶人
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ある晴れた日に

2013-12-10 09:53:03 | Weblog



「これでも詩かよ」第51番&ある晴れた日に第185回


ある晴れた日の昼下がり、
「岐れ路」のハム屋さんで買い物をするために、妻と歩いていたら、
「歌の橋」をちょっと過ぎたところで、
2人の女の子が手をつなぎ、歌をうたいながらこちらへやって来たんだ。

横浜国大付属小の帽子をかぶった双子の姉妹のような女の子。
たぶん2年か3年生くらいだろう。
聴いたことのない曲だが、見事にハモッてる。
歌ってる。ハモッてる。なおも歌ってる。ハモッてる。

思わず振り返って、その後ろ姿を眺めていた私だったが、
「可愛いわね。目がキラキラ輝いていたよ」
という妻の言葉を聞いた途端、なぜだか涙があふれでた。
なぜだか涙が飛び出したんだよ。


   なにゆえに少女の歌を聴いて涙が出るの「歌の橋」を過ぎた邊りで 蝶人

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リー・タマホリ監督の「NEXT」をみて

2013-12-09 09:01:18 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.605


主演のニコラス・ケージがフィリップ・K・デイックの原作「ゴールデン・マン」を映画にしたそうだが、なかなか楽しめるSF映画である。ケージはなぜか身辺で2分後に起こる事件を予測できる超能力を持っているために、核兵器を持って米国に潜入したテロリストを探すようにFBIの捜査官ジュリアン・ムーアから強要される。

FBIトテロリストの双方から追われる中でケージは恋人ジェシカ・ビールと逃走するのだが、いくら予知能力があるといってもたった2分先ではろくろく事態の全貌を把握したり、より安全で正しい行動を選びとれるわけもない。

あんのじょう主人公とヒロインはさまざまなトラブルに巻き込まれてゆくのだが、ハラハラ、ドキドキの結末はどうぞご自身でお確かめあれ。



なにゆえに体罰許して純真な生徒を死なせしや体罰容認する大阪の人よ 蝶人
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ジョン・アーヴィング著小竹由美子訳「ひとりの体で」下巻を読んで

2013-12-08 13:05:29 | Weblog

照る日曇る日第639回


「こうして私はひとりの体で幾人もの人間を演じ、どれにも満足することがない」というシェークスピア「ロチャード2世」の科白が掲げられたこの本は、だから、

ひとりの体の中にいる男や女を見い出し、大いなる苦悩と孤独の中で、その男や女が男や女たちを愛し、愛されつつ一身にして二生を経るが如くみずからを深く豊かに形成してゆくLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トタンスジェンダー)てんこもりの著者の自伝的ビルダングスロマンであるといえよう。

最近ようやくこれら「LGBT者」の存在が社会的に認知され、芸能人の人気者も登場するようになったとはいえ、依然として「異性愛者のみが正常」とするストレート社会で、「LGBT者」という名のレッテルを張られた「非人間的人間」が、とりわけ80年代のエイズ騒動でいかに不当な誹謗と中傷を蒙ったかは、それらをつぶさに体験したアーヴィングのこの小説を読めばよく分かるというものだ。

またシェークスピアのみならずバイロン、ランボオ、プルースト、ホイットマン、テネシー・ウイリアムズ、M・フォスター、ロルカ、ボールドウイン、オーデン、メルヴィルなどの偉大な詩人、劇作家、文学者たちがまとめて鋭敏繊細な「LGBT者」であったことも、私は本書で改めて知らされた。

けれどもこの本に書かれていることのすべてが著者の個人的な体験ではない。アーヴィングは彼自身がそう述べているように、おのれの内部の隠された性世界をどこまでも生き切り、とことん進んでみたら果たしてどのような天国や地獄が現出するか、という前人未踏の壮大な実験を、この小説を書きながら全身全霊で「体験」しようとしているのだ。

確かにある時は男としてストレートに男&女をつんざき、またあるときは女として男&女から貫かれる快感は、いわば「愛の倍返し、百倍返し、千倍返し」として我らの人世をば幾何級数的に無類に楽しくするのであらうことよな。


     ある時は男としてまたあるときは女として男&女から貫かれるめくるめく快感! 蝶人
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ジョン・アーヴィング著小竹由美子訳「ひとりの体で」上巻を読んで

2013-12-07 08:43:19 | Weblog


照る日曇る日第638回&「これでも詩かよ」第51番&ある晴れた日に第185回


私たちは、誰もが秘密を持っている。
他人にはけっして明かせない秘密。
墓場まで持っていきたいような秘密のひとつやふたつを。

私たちは、その私だけの秘密を大事にしよう。
なぜならそれは私が私である証しであり、
その秘密を生きることが、掛け替えのない自由であるからだ。

私たちは、自分を知らない。
私は生まれながらに男だと思っていたら、女だった。
女だと思っていたら、男だった。

私はあるときは男であり、ある時は女であり、
あるときは、その両方であり、
またあるときは、そのいずれでもないような何かである。

そんな私ひとりの中にいるさまざまな私を
どこまでも、どこまでも生き抜いてみたら
長い旅路の果てに、はたしてどんな私が現れるのだろう。

私たちの中に隠されていた、さまざまな私。
誰からも知られたくない秘かな欲望。
その秘められた欲望の蠢きこそ、私たちの生きている証し。


なにゆえに君はオギャアと泣かなかったのか いや泣けなかったのだ小町の針谷産婦人科で 蝶人
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大江健三郎著「晩年様式集」を読んで

2013-12-06 10:20:12 | Weblog


照る日曇る日第637回

私はこの作家のきざなタイトルともって回った粘着質のいそぎんちゃく的文体が大嫌いで、昔からほとんど読んでこなかったのですが、「これで最後」と銘うたれた前作の「水死」が、それこそ想定外の、途方もない、かつまたまぎれもない大傑作だったので、「最後の最後!」とまたしても銘うたれた本書をいさんで手に取ってはみたものの、いったいこれはなんじゃらほい。

老残の大家がその生涯と旧作を回顧しながら私小説風に物語るメタ・フィクション、という点では、前作と共通する部分もあるのですが、過去の彼の作品や親戚、友人知己とのああした、こうした、それがどうしたという思い出話に無関係で無知な読者にとっては、まるで事態がチンプンカンプンなのであります。

もちろん作家が大震災に衝撃を受けたことや原発再稼働に強く反対していること、障がいを持つ息子との交渉に難渋していること、死んだ伊丹十三とその家族たちに寄せる想いなどについては充分に共感できるものの、大半はこの偉大な作家の熱烈なファンでなければとうてい読むに堪えないどうでもよい話の、さながら牛のよだれの垂れ流しです。

彼の宿敵であった江藤淳なら「歳は取りたくないものです」と冷やかすところでしょうが、「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる」という主人公の母親が彼に遺した「形見の歌」こそ、著者が声を大にして後世に届けたかった希望のメッセージなのでしょう。

 *本日の特別付録
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1419435341&owner_id=5501094



     何ゆえに黄色い蝶に心が騒ぐのだろうわが小幸のエンドルフィンよ 蝶人
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ロバート・アルドリッチ監督の「ヴェラクルス」をみて

2013-12-05 08:37:12 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.604


ゲーリー・クーパーとバート・ランカスター、どっちが強いか? 

そりゃあ見かけは後者だが最後に勝つのはクーパーに決まっとるじゃないかと思って眺めているとやっぱりそうなる。

しかしアルドリッチは、人物造形の刻みに年期が入っているので、全然つまらなくはない。彼は西部劇のドラマツルギーというやつの裏も表も知り尽くし、2大スターをあざやかに操って見せる名人なのである。

オール・メキシコロケによる映像も生きている。



なにゆえに毎晩40ワットの電球を枕元に置いて眠るのうちの耕君 蝶人

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愛と友情のメタモルポーセース

2013-12-04 10:33:54 | Weblog


「これでも詩かよ」第50番&ある晴れた日に第184回



よしこちゃんと耕君はもうすぐ四〇歳になる養護学校の同級生。

よしこちゃんは数字と漢字がダメだけど、ほかはだいたい健常者と同じ。

耕くんは数字と漢字はちょっぴり強いけど、ほかはあんまりか全然。

ああ、できたら二人がホバーパイルダーとマジンガーZ、

あるいは兜甲児と弓さやかのように合体して、

トランスフォーム! マジーン、ゴー! パイルダー、オーーン!

強くなくても構わないから、普通の一人になってくれればうれしいんだけど。

二人の頭脳と体を加えた時に、

トランスフォーム! マジーン、ゴー! パイルダー、オーーン!

マジンガーZ、兜さやか、そして佐々木よしこ誕生!!

君たちこそ人類と地球の素敵な未来をもたらすのだ。



     なにゆえに今日は1本も耕君から電話が無いの40本かけてくる日もあるのに 蝶人
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西暦2013年鎌倉の秋

2013-12-03 09:44:19 | Weblog


「これでも詩かよ」第49番&ある晴れた日に第183回&鎌倉ちょっと不思議な物語第300回


夕方、妻と珍しく喧嘩してしまったので頭を冷やそうと外に出たら、南西の空に大きく明るい星が燦然と輝いていたのでいま話題のラブジョイ彗星かと思ってしばらく見つめていたが、いつもの宵の明星なのかもしれない。

ところでラブジョイ彗星のラブジョイとは人名ならむか? それとも「愛する女医の悦楽」ならむか? 甚だ怪しき命名なり。ああ、どすこい、どすこい。

町内の掲示板には大木宣明治さんが94歳で亡くなられた。近日カドキホールでお通夜と告別式を行います、とあった。この歳まで生きれば上等だと思うけれど、家族の人はもちろんもっともっといてほしかったに違いない。

されど余はさほど長く生きたしとは思わず。あと10年くらいで十分なり。と漠然と思い描きしが、あまりにもとく罷りたれば余の年金尽きて路頭に迷う困る向きもあるべし。ああ、どすこい、どすこい。

橋の上で見えない川を見つめていたらなにか妙な鳴き声がして頭上を黒い影が横切っていった。たぶん子供のベンジャミンを亡くしたばかりの青鷺のザミュエルだろう。
今夜はどこで眠るのか知らないが、電線にぶつからないで飛んで行けよ。

妻にはコーヒーを入れておきしが、果たして飲みたるや? 飲まずに冷たくなりせば喧嘩は明日に持ち越されるのでヤバシ、オトロシ。なんとか今晩中に和解したいものなり。ああ、どすこい、どすこい。
 
午後の光がアクアに烈烈と差し込んでいるので、ナビを故障させないために覆いをかけたら、そんなくだらないことはどうでもいいから車を洗うとか、ほかのもっと大きなことをやってほしい。

などと文句をいうので、くだらないとはなんだ。ナビのような精密な電子機器は高温に一番弱いんだ。冬でもすぐに熱くなるからこまめにかけないとすぐに壊れてこないだのように修理に大枚を払うことになるんだ。ああ、どすこい、どすこい。

とかえすと、もうプンプンしていっさい口を利かずなりにけり。暫時あって「ネットでは車のナビは夏はもちろん冬の日照にも壊れないように堅牢につくられています、と書いてあるよ」と大声で朗読せしゆえ、なるへそさもありなむと思ひしが、余もたやすく引き下がるわけにはいかぬ。じゃによってどこへとも告げず黙って散歩に出たり。

ああ、どすこい、どすこい。度し難いものは女なり。表面は柔らかでも、底面部ではじつに頑固なものが埋め込まれているのだ。
些細な口げんかで秋日和の日曜日を台無しにしたなと後悔したがあとの祭り。私は尖閣諸島を巡る日中の駆け引き、核開発を巡るイランと西欧諸国の角逐の実相に触れたような気がして、それ以上の衝突はヤバイと心得、黙して外に出たんだ。

毎年無数のギンナンを降らせる十二所神社のイチョウは今年は全滅。この夏の鎌倉は台風の潮風で大半の樹木がやられてんげり。かくて余は沈痛なる面もちにてこの界隈でもっとも見事な黄葉を見せている光触寺の方へと向かいつつあり。

ああ、どすこい、どすこい。


なにゆえに20日を過ぎれば翌月のカレンダーに変えるのか生き急ぐなようちの耕君 蝶人
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黒澤明監督の「白痴」をみて

2013-12-02 09:03:16 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.603


ドストエフスキーの原作をものの見事に換骨奪胎し、全身全霊もて激情と慈愛と憎しみの相克に囚われた主人公たちが札幌の吹雪をさすらう光景は、さながらペテルブルクの街をゆく愛の亡霊かと錯覚するほどである。

そして原節子の、この世のものとは思えない凄絶な相貌と激烈な独白! 一歩も引かず美しい猛禽のように翼を広げる久我美子!

ナターシャを演じる原とアグラーヤを演じる久我、いずれが菖蒲か杜若、どちらも強烈な存在感を発揮し、丁々発止と渡り合う。ムイシュキン公爵の森雅之(超名演!)がどちらにも惹かれ、愛を感じるのは当然だろう。

脚本の久板栄二郎、撮影の生方敏夫、美術の松山祟が良い仕事がしており、惜しむらくは早坂文雄の音楽がやかましく付けすぎという汚点はあるが、黒澤が生涯で最も愛したこの作品は、もしかすると彼の代表する傑作かしれない。

それにしても黒澤が松竹の圧力で泣く泣く半分をカットした原作通りの4時間半のフィルムが、どこかに残っていないものだろうか。


   純粋で無垢で善良でちょっと莫迦我が家の家宝ムイシュキン耕爵 蝶人

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