こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

上手く年老い上手く死ぬにはどうしたら

2023年05月02日 | 生き方について考える
少しひんやりしたとても爽やかな朝。
こんな天気がずっと続いてくれたらいいのにと思うが、曇りも雨も大地には必要、都合のいいことばかり考えていてはいけない。
ヴェランダに置いた巣箱に2年目にしてやっとシジュウカラが住んでくれた。
2、3日前にヒナが生まれたようで、親鳥がせっせと餌を運んでいる。
親鳥は、人の姿が見えると電線の上でじっと待っていて、一瞬目を離した隙に巣に飛び込む。
その都度、ヒナの可愛い声が聞こえてきて親子というものに、鳥も人もない。

天気が崩れるかもしれないという連休後半だったが、私の願いが空の神様に通じたのか、スパコンの計算をも狂わせ、3日4日5日、ひょっとすると関東地方は6日も晴天に恵まれそうだとのこと。
すでに休みに入っている人はたくさんいるようで、電車は昨日よりさらにガラガラ、私もこんな気分のいい日なら、職場のある駅を乗り過ごし、仕事とは無縁そうなハイキングの格好をした人たちについて、そのまま郊外の山まで行ってしまいたくなった。

そんなわけで最近、どうも仕事への熱意が足りない。
これが気力の減退なのだろうし、それこそ老化の一つの表現型だから仕方がないのだが、こうして歳をとっていくことを次々と実感させられるようになり、ちょっと気が滅入る。
このまえどこかで、終活は早めにというのを読んだ。
たしかに、還暦ともなればいつ病を得て死んでしまうかなんてわかりはしないので、いつ死んでもいいように準備を始めなくてはならない。
せっせと働き、子育てに精を出し、やっと独立してくれるというところで、もう”おしまい”の準備かと思うとなんともやるせないが、人の一生なんて所詮こんなものなのだろう。

死んでいくのに上手い下手があるのかどうかはわからない。
重い病気にかかって死ぬか、認知症でもやがかかったような世界の中で死ぬか、災害か交通事故かで死ぬか、自分の最期などわかりはしないが、死ぬ時に自分の人生は良かったと思って死にたい。
そうなるにはどうしたらいいか、まずはそのことを考えながら過ごしたい。
まずは過去の精算か

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自分の居場所なりの生き方

2023年04月16日 | 生き方について考える
風は強かったものの、晴天の1日。
鎌倉では、鎌倉まつりが開催されていて、鶴岡八幡宮では流鏑馬が行われたはずだが、人混みが嫌で、観にいかなかった。
流鏑馬は4年ぶりになるそうだが、コロナで失われた時間の大きさを改めて実感する。

そんなわけで、今日は1日、庭の手入れやそのほかあれこれ家のことをして過ごした。

そうこうしていると自分の居場所がここだと感じる。

生きていると、人と自分を引き比べてしまうが、自分の居場所がどこかということを自覚すると、人は人、自分は自分ということがわかる。

いいじゃないこれで

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何も分かってなかったのだと分かってきた

2023年04月11日 | 生き方について考える
今日は花粉がずいぶん飛んでいるみたいで、鼻水に加え頭痛もする。
薬で抑えていてもこれほどなのだから放っておいたらどうなってしまうだろう。

駅のホームは今朝も学生であふれていた。
ドア口前に行儀よく列を作って並ぶとあっという間に端まで来てしまう。
列の間のスペースはエアポケットのように空いているが、そこで電車を待とうとする人はほとんどいない。
そんな時、最後の方に乗り込むことになってもしかたないと、そこで待つ私は規律を守ることのできない人間なのか、ただの天邪鬼なのか、閉所恐怖症なだけか。
それはさておき、たびたび称賛される日本人の律儀さというのは、どの程度までが常識的な範囲なのだろう。
現時点でマスクを着用せざるを得ない私としては、何がどこまでいいことなのか、どこからがだめなことなのかの加減がわからない。
こんな歳になれば、いろいろわかるようになると思っていたが、実は何もわかっておらず、40代よりよほどオタオタしている。

学会がもう明後日から始まるというのに、ギアが上がらない。
自分の発表はこれといった結果が出ないままで、ピリッとしたものにはならないままとなった。
座長の仕事は昨日になってやっと抄録を手に入れたところで、これから準備。
他にも積み残しはたくさんあって、今年中、今年度中、いや死ぬまでに全部終わらせることはできるか心配になる。

どうして人生はこんなにも短く、世の中はこんなにも難しいことばかりなのだろう。
歳を取れば桃源郷とまではいかないまでも、子や孫に囲まれた、笑顔あふれる悠々自適の生活が待っていると思っていた。
それなのに、老後の生活には不安が多く、世の中では還暦を過ぎたら終活をすこしずつ始めた方がいいとも言われている。

死んだ父は、亡くなる1年ぐらい前から、長生きが今や最大のリスクだと言っていたが、社会的にある程度成功した人であっても老後は辛かったのだろうか。
それともそれは私たちがもっと大事にしてあげなくてはいけなかったのだろうか。
生きることは難しいという意味がだんだんとわかってきたような気がする。
気づくのが遅過ぎたのかもしれないが、せめて頭のはっきりしているうちに考え始めることができたことをよしとすべきなのかもしれない。
何もわかっていなかった

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人生は短いね、僕はなにをしてきただろう

2023年04月04日 | 生き方について考える
昨日、顔見知りの臨床医と廊下で偶然会った。
30年近く前、初めて病理学教室から外の〇〇病院に出されて、勤務した病院の同僚で、とても明るく、少し年上の兄貴分のような人だ。

いったん喋り出すと話が長くなる傾向があるが、せっかくだから会釈だけでなく声をかけた。
エレベーターに乗り込むところだったので、一緒に乗って話をした。

 「先生、今年度もよろしくお願いします」

と、声をかけた。

 「そう、結局今年もいることになりましたよ(もう、やめるというのが彼の口癖)
  でも、いよいよ定年なので今年が本当に最後だよ。」

 「私も今年で還暦ですから、もうすぐですね。
 早いものですね。」

 「そうなんだ、先生はもっと若いと思っていたけど。

  人生はほんと短いね。

  これまでの間、僕はこれまで一体何をしてきたのだろうって考えますよ。」

 「いや、そんな、先生は立派にやってこられてきたじゃないですか。」

 「いや、僕なんて、〇〇病院とか××センター(その後私が10年余り勤めた病院で、彼は私がやめる前に今の医療センターに勤務している)みたいな大きなところで、一体何をしただろうって思うんでよ・・・。
  そういえば、〇〇病院の忘年会では一緒に司会をやったね、なつかしいな。」

 「そうでしたね、それにしても先生あんな昔のことよく覚えていますね。
  ほんと、あのときは楽しかったですね。」

などと愉快に仕事をしていた昔を懐かしんでいたら、私の降りる階となり別れた。

自分はこれまで何を残してきたか。

あまり気にしたことはないが、彼も定年ともなると思うところがあるのだろうか。
何を残したか、それは自分なりに考えることだ。

Apple Musicで、坂本龍一追悼アルバムが編集されたのを聴くと、あらためて彼の残した数々の楽曲の素晴らしさがわかる。
私も彼の楽曲のように後世に残るものでなくても、なにかこれ、というものを残したい。
それはなにか形のあるものである必要はない。
ただ、少しだけでも世のため人のためになるものであったらいい。
それすらも贅沢な願いだとしたら、せめて晩節を汚すような悪名さえ残さなければ上出来かもしれない。

残りはもっと短い

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新年度の仕事始めは坂本龍一さんの訃報とともに

2023年04月03日 | 生き方について考える
新年度最初の日は、YMO(イエローマジックオーケストラ)の坂本龍一さんががんのため亡くなったという訃報とともに始まった。
71歳はまだまだ若く、残念だ。

中学・高校時代、テクノポップという新しいジャンルの音楽に接し衝撃を受けた私は熱心なファンとしてアルバムを買い集め、時間があれば聴いていた。
YMOという偉大な音楽グループが現れ、それが消えていくのを見ることになるとはあの頃は微塵も思っていなかった。
命というか形あるものの儚さ、そしてそれがあるということの貴重さというものをしっかり自覚して生きる必要がある。

NHKニュースでは訃報の最後に、坂本さんが好んでいた言葉として

 芸術は長く人生は短し
(すぐれた芸術作品は作者が死んだのちも長く残る)

を紹介していた。
彼が生み出した名曲の数々はこの先もずっと残っていくに違いない。
年末に園芸店の球根掴み取りで取ったチューリップとフリージアを一つの鉢に植え込んでいた鉢があり、チューリップがひとしきり終わったら、入れ替わるように新たにフリージアが咲き出した。
主役交代という感じだが、日本の社会も今日から新しい年度が始まる。

わが、〇〇医療センター病理診断科も2人の臨床検査技師が入れ替わる。
息子は半年間の出張を終え、以前勤務していた病院に戻るが、嫁は入れ替わるように産休で休んでいた地方出張に戻る。
乳飲子を抱えているので、ちょっと心配なのと同時に、女性のキャリア形成の難しさを目の当たりにして気の毒だ。
今日からスタートするこども家庭庁の活躍に期待したい。
娘も転勤で、新勤務地は少し遠くなる。
もうしばらく実家暮らしが続くようで、通勤は頑張らないとならないだろう。

新という字は”神により選ばれた特別な木を新しく切り出す”という意味があるそうで、ただ単に、時間が過ぎ次が来るのを待つというわけではなく、人間自らが手を動かすということが含まれている。

せっかくの命ある時間、ただ生きながらえるためだけに過ごすのではなく、私のために新たに選ばれた木はどれか、すなわち私の新たな使命が何であるかを考え、心機一転その達成のために行動したい。
自分の頭で考える

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どうせやること 面倒ならば すぐにやる

2023年03月17日 | 生き方について考える
冬の間に植えた花がここを先途とばかりにあふれんばかりに咲き乱れ、これはちょっと多過ぎたかとも思えるほどだが、毎日楽しみながらそれぞれを愛でている。
花苗から育てた子が多いが、こぼれ種から育っている子もいるし、ホトケノザのようにしっかり根付いて育っている子もいる。

人間至るところに面倒ごとと、人間関係には面倒なことが多い、とつい先日書いたが、それ以外にも世の中には面倒なことがこれでもかというほどある。
面倒なこと、というのを換言すればそれはいつか解決しなくてはならない困難なことで、先延ばしにしておけるのなら面倒でもなんでもない。
いつか取り組む、すなわちどうせやらなくてはいけないことでもすぐにできる簡単なことと、そうでないことがある。

面倒か、面倒でないか。

今私が抱えていることのうち、面倒なことは、
・来月の病理学会の発表準備。
・某研究会の総務幹事としての勉強会開催の準備。
ちょっと面倒なことは、
・研究費の申請書の作成に関すること。
・改訂版執筆のための資料の渉猟。
・来年の還暦同窓会の準備。

職場の自分のデスクに座った途端にまだなにかあるのを思い出すかもしれないが、いまのところざっと挙がるのは、これぐらい。
ほかのことはそう面倒ではないということだろう。
ちなみに、今、面倒でないけれどやらなくてはいけないことはあるが、それは家庭内・家族間のことで、そのうちどうせやること、ここで触れることもあるだろうから、ここでは割愛。

やらなくてはならない面倒なこと、というのはすなわちToDoリストに載ってくることで、結局のところToDoリストがあるということは世の中の多くの人が面倒でやりたくないけど、やらなきゃいけないことをいかに抱えているかということを示している。

ToDoリストのいいところは締め切りが明示されているということだが、そうすると締め切りまでの”猶予期間”がわかってしまい心はつい緩んでしまう。
もちろん、ToDoリストは利用すべきツールだが、頼り過ぎず常に、どうせやるならすぐにやるという習慣を心がけておくのがいい。
さらに、やらなくてはならないことが面倒ならば余計にそうするようにしたらいいだろう。
やる気スイッチ

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人生捨てられ拾われて

2023年03月13日 | 生き方について考える
朝焼けの日は天候が崩れるというが、今日は昼から大雨とのこと。
しっかりした傘を持って出るようにと天気予報でいわれたので、素直に従うことにした。
今日から、マスクの着用は個人の判断に委ねられる。
朝晩の満員電車ではマスクはしておこうと思うが、駅のコンコースやホームでは外して歩くつもり。
これだけ大々的に言ってくれているのでこれぐらいは許されるだろう。

昨日の、かつていた職場でお世話になった方の退職記念のパーティーに参加。
志半ばで退職した職場だったが、声をかけていただいた主賓の方はもとより、かつて一緒に頑張って研究に励んだ仲間と再会し、今の元気な姿をお見せすることができたのは嬉しかった。

主賓の方はひとかどの人物で、私が変わらないでいただろうことはわかっていたようで、全く変わらずに接してくださった。
かつての仲間は私が左遷されてしまったことを未だに残念がってくれていた。
しょんぼりしているようではかえって心配させてしまうので、いまの職場ではかつての仕事を続けていることを報告した。
話し相手がいなかったらどうしようという不安は杞憂だった。

捨てる神あれば拾う神ありの人生を歩んでいるが、捨てられたと考えるか、拾ってもらったと考えるかは本人次第、ネガティブに考えるのはよしておこう。

拾ってもらっていばかりというわけにもいかないので、私ももうちょっと人様のためになることを考えたいものだ。
順番だから

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なぜ死ぬことが怖いのかそして嫌なのか(下)・・・死ぬ時に死ぬことを思い出す

2023年02月03日 | 生き方について考える
冬型の気圧配置が崩れるとかで、空はどんよりしている。
季節の変わり目となる今日は節分。
寒さは底を打ったようで、あとは暖かくなるらしい。
今年の冬もなんとか乗り切ることができそうだ。

天寿をまっとうするというのは難しいということで、話がおわった一昨日からの続き
生きている限り、自分の意のままにならない死というものが訪れる可能性がある。
無事(?)に自分の家で死を迎えるためにはどうしたらいいかと考えたが、そんなことは土台無理だと思ったほうがいい。
いつどこで大怪我を負うかわかないし、いつ癌が見つかるかもしれない。
その都度それらを乗り越えなくてはならないと考えるか、それともそれらを受け入れて生きてく方が楽だろう。
痛かったり苦しかったりと体の自由がきかない辛さはあるが、それに立ち向かうのではなく、その状況を生きる、その状況と共存する、それこそがうまい生き方だろう。
機能障害があっても、生きる。

そして、いつも死を覚悟して生きる。
それが難しいからこそ、死を考え、恐れおののくわけだが、死から目を背けて生きていては、突然の死に立ち向かうことはできない。
かといっていつも死ぬことを考えて生きるのも馬鹿馬鹿しい。
ただ、その瞬間、

ああ、自分という人間はいつかこうして死ぬ存在だった、そしてその時がいまなのだ

と死を思い、受け入れ、とにかくここまで生きてくることができて、いい人生だったと思えるのではないか。
そうやって、自分の死を客観視することは可能かもしれないが、では死による別離はどうするかというと、こればかりはどうしようもなく、やはり死はやっかいなものである。
これが宿命か

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なぜ死ぬことが怖いのかそして嫌なのか(中)・・・老衰で亡くなる日本人は10%

2023年02月01日 | 生き方について考える
2月1日。
東京神奈川の中学受験が始まる。
子育て支援策が国会で議論されているが、受験にかかる費用というのも子育ての負担になっており、こういった点も含めどうしていくつもりだろう。
秘書官に抜擢した息子すらしっかりコントロールできない岸田総理にそういったことまで含めた考えがあるのか疑問に思う。

実際のところ、日本人にとって死はどのようなところにあるのだろうかと、死因を調べてみたら、日本人の死因の上位はがんが25%、心疾患が15%そして老衰が10%ということだ(厚労省の人口動態統計)。
80、90と齢を重ね、もう十分生きてきたよ、死ぬ時にそう自分の死を納得し、それを受け入れることができたらいいだろうし、それが老衰による死だと思う。

老衰による死を目指すことで、死ぬ準備はできるが、それでもそれまでにはいくつもの辛いことを乗り越えていかなくてはならない。
もっとも辛いのは死による別離だ。
死は不可逆的で取り戻すことはできない。

私の親族は今のところ、順番に逝っていて、私の番も見えてきたところだ。
そんなわけで、その人たちとの別れは受け入れやすい状況にあるが、それでも喪失感は大きい。

生命の仕組みがまだよくわかっていなかった頃、死神が命を持ち去ると思われていただろうが、今だって大して変わらない。
私は病理医で、解剖を通じてその人の死因を診断するのが仕事の一つだ。

この人は何が原因で、呼吸機能が低下し、全身が低酸素に陥り、やがて心機能が停止したのか、を考え、診断する。
これまで数百人の人の死因を考えてきて、死のメカニズムはわかっているのに、死に対する感覚がいまだに理解できない。

おそらく、生きようという思いがあるうちは、不慮の事故、病気による身体活動の制限と停止などに対する拒否反応があるのだろう。
そこで思うのは、天寿をまっとうするというのは難しいということだ。
この話、あとちょっと考えてみたい。
(この項続く)
腰痛がつらい

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なぜ死ぬことが怖いのかそして嫌なのか(上)・・・老衰が望ましい

2023年01月31日 | 生き方について考える
慌しかった1月が早くも終わる。
厳しかった寒さも少しずつほころびはじめ、立春ももうすぐだ。
道路を挟んで向かいのお宅が家を引き払ってからひと月あまり、不動産屋ののぼりの後ろでは解体工事が始まっている。
今は、リサイクルできる廃材をはずしているところらしく、今朝見たらアンテナが取り外されていた。
この家も思っていたより土地が広く、二筆に分けて売り出されているが、どんな人がやってくるだろう。

さて、昨日の話の続きになるが、人間どうせ死ぬとわかっているのにではなぜ死ぬことが怖いのかそして嫌なのかと、書きながら考えていたが、どうしてなのかなかなかわからなかった。

人が死ぬ時のパターンはいくつもあるが、大まかに5つに分けられるのではないだろうか。
老衰、病死、事故、他人に殺されるそして自殺。
老衰、これは最も理想的な死に方で、加齢とともに年老い、やがては生きる気力を失い命の灯が消える。
病死、人は死に至る様な病気に侵されるが、ひと昔前だったらすぐに亡くなってしまうような病気でも近年は大幅な延命を得られるような治療法が出てきて、ここから、死ぬまでの準備時間を得ることができるようになり、老衰のような死に方ができるようになってきたのではないだろうか。
現代医学が向かっている方向はこの辺りだろうか。

老衰にしても病死にしても、最期に自らの死を受け入れることができるという点で、主体性のある死と言えるだろう。

これに対し、事故死、他人に殺されるというのは、いずれも理不尽な死で、準備がほとんどできないという点で、このような目には遭いたくない。
そういう意味で、他人との諍いも時として死に発展しうるので、日常生活でもトラブルを避けたい。
自殺は自分の意思で選ぶ死のようだが、実際は社会的な要因によって追い込まれたもので、主体性は乏しい。
これら3つの死は、一生に一度しかない機会を自分以外の事によって奪われるという点で歓迎されるものではない。

こうして整理してみると、なぜ死ぬことが怖く、そして嫌なのかが見えてくるのではないだろうか。
どうしたらそこに至ることができるか

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自分を客観的に捉えて生きるには

2023年01月30日 | 生き方について考える
朝の写真が日の出の時間に戻ってきた。
といっても、写真を撮る時間はほぼ同じで、夜明けが少し早まってきたわけで、私が生きて生活している地球と太陽との相対的な位置関係が変化した結果こうなっているというだけの話しだ。

自分のことを客観視するというのは難しい。
それはこうしてあれこれ考えていることからも明らかだ。
考えというのは、肉体が感じる快不快から始まって、頭で考える利益不利益などで、結局のところすべては自分の判断の範囲内。
今、こうして書いていることだって私という人間が思いついたことに過ぎない。

人間の行動はすべて主観的な思いから始まるのに、その結果が思い通りになることは滅多にない。
仮に、短期的な目標を立ててそれを達成したところで、その後アテが外れたなんてこともある。
がっかりしないためには、できる限り客観的に結末を予想しておくといいのだろうが、では、どこまで予想しておけばいいのかなど誰にもわからない。

客観的にみて一番はっきりしているのは、死ぬことだが、残念ながらそれがいつ来るのかよくわからないし、わかった時に自分が何をどう考えるかもわからない。
こうして考えてみると、父の死に様は見事だった。
仕事に打ち込み、多くの人の役に立っていたが、体調を少し崩したのち、最期は生きる気力を失って静かに旅立った。
犬のナイトもコロも、最期は生きようとする気力を失ってやすらかに旅立った。
人生で唯一明らかな結末は死ぬことだ。
自分というものが死にゆく存在であり、生きているのは死ぬためだと常に考えていられるようになれば落ち着いた毎日を送ることができるかもしれない。
生きることは怖いかもしれないが

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どうしたらいつも笑顔でいられるか

2023年01月23日 | 生き方について考える
明日からいよいよ大寒波がやってくるということで、いまからもう緊張している。
寒くなる寒くなると騒ぐほど心臓に毒の様な気がするが、無防備でいる人への警鐘としては必要なことだから仕方ない。
それにしても今朝は風花が舞うような曇り。
昨日のように気温が低くても太陽が出てさえいたら赤外線の効果でポカポカしてくるが、これでは寒いばかりだ。
かさばってしまうが、一番大判のマフラーを首に巻いて出てきた。
ここ数年、毎朝、妻に駅まで送ってもらっている。
車を降りる時に必ず、

(今日も1日)笑顔でね

と背中から声をかけてくれる。
その都度、必ずといっていいほどそのことを忘れている私は、口角を上げて笑顔を作ってみるが、どうもいつも引きつってしまい、駅の方から歩いてくる女子学生たちに訝しがられているのではないかと心配している。
せっかく作ったその笑顔も駅のホームにならぶ頃には消え失せていて、ふと思い出して口角を上げてみる。

世の中には基本的に笑顔の人、というのがいる。
笑いながら歩いている人というのはあまりみないが、話すとすぐに相好を崩す人というのがいる。
私もそんな人を見習いたいと思うが、どうもそれは難しく、いつも仏頂面を下げている。
気に入った人と話したら放っておいても笑顔にもなるが、それは特定の相手とだけで、誰にでもというわけではない。
マナーの悪い人にはムッとした顔を向けて、険悪な空気すら漂ってしまう。
世の中の人みなが、恨みも争いも忘れて笑顔でいたらもう少しマシな社会となるだろうが、なかなかそうはならない。

いっそのこと、朝昼晩に笑顔の時間を作ってみたらどうだろう。
イスラム教では1日5回礼拝するというから、日本でも1日3回笑うことを義務化したらどうだろう。
さすがに笑顔で悪事は働けないだろうから、犯罪も減る。
そんなことを皆にお願いする前に、私自身が1日3回笑ってみようか。
365日、休みなし

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死を受け入れるための一つの方策としてのメメント・モリ

2023年01月17日 | 生き方について考える
平成7(1995)年1月17日に6千人余りの人が亡くなった阪神・淡路大震災が起きてから28年、私はまだ生きている。
自分の意志で生きているのか、それとも神さまに生かされているのかはわからない。
YMOの高橋幸宏さんが70歳で亡くなった、脳腫瘍を患っていたという。
中学〜高校の間、YMOの熱心なファンだった私としてはすくなからず衝撃を受けた。
久しぶりにYMOを聴くと、全く色褪せない曲調に感動すら覚えるが、もうそれを聴くことはできない。
自分の人生の一部が重なる出来事、人物が、死によって過去のものとなっていく。

メメント・モリという言葉を最近よく耳にする。
ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」「人に訪れる死を忘る事無かれ」というような意味だ。
このことは多くの方がブログで触れているし、私ですらこれまでに何度か書いたことで、死は人類いや、生きとし生けるもの全てに共通した運命だ。

こういった言葉が流行るようになったのは、どこまで行ってもいつまで経っても逃げることのできない新型コロナウイルスのせいなのか、ウクライナでのロシアによる民間人の虐殺を目の当たりにしてのことなのか、それとももっと他のことのせいなのかはわからない。
ただ、死というものが以前よりもぐっと近くなってきたことは間違いなく、より多くの人が”死”を考えるようになったのではないか。

自分が死ぬということを考えるのは辛い。
たとえ五体満足のつもりでも、いつ死が訪れるかなど全くわからないし、それが突然やってくることになったらさぞ慌て、恐れおおのくだろう。
そんな死から逃れることはできないが、死の恐怖から逃れることはできるのではないか。
そんな思いが、死への恐怖をメメント・モリというちょっとオシャレな言葉に置き換えているように思う。
人はなぜ、生きたいと思い、死にたくないと思うのか。

ベランダに集う小鳥やリスたちは、生きることが当たり前で、一生懸命生きているようにみえる。
彼らは自らのというものをどう考えているのだろう。
それより、人に食べられてしまうために生かされている家畜たちにとってのとは何か。
死は全ての生命にとって普遍的であるが、それと同時にそれぞれの個体にとって固有の事象でもある。
生命を共有することはできない。

ところで、私は病理医で、医師としてこれまで数百の死体と向きあってきたはずなのに、生命活動の停止としての死しか考えておらず、死そのものの意味は考えてこなかったような気がするが、いったいなにが死の本質であるのかはよくわからない。

死んだあとのことは考えない

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世界は人間が考えているよりずっと広いのにそれがわからない

2023年01月04日 | 生き方について考える
今朝は2度、ずいぶん冷え込んだ。
ゴミの初日は、剪定材の回収。
剪定材といっても、すべて落ち葉で、庭木の落ち葉以外にも裏山の木の落ち葉も多く、パンパンになった大きなビニール袋2つを集積所まで出しにいった。
外に出ただけで心臓に負担がかかりそうだった。

昨日は、駅伝を見ながら昼過ぎにはブログのエントリーというか、今年の抱負を書き上げ、年賀状も書いて投函した。
娘のフィアンセ君が帰国して、正月疲れとおもてなし疲れがあわせてどっと出たようで妻はほぼ動けず、私もこれといった用もないので、ハンギングやプランターに水やりをしたあとは、今日から仕事に着て行くシャツのアイロンがけをした。
家事のうち、黙々とやるアイロンがけは好きな部類に含まれ、苦にならない。
ちょうどいいことに、WOWOWで博多・天神落語まつりをやっていたので、2時間余りがあっという間に過ぎた。

落語で語られるのは、ほぼすべて人間の営みの描写だ。
賢者と愚者、金持ちと貧者、そしてその他多くの普通の人間。
そんな人たちが時に立場を入れ替え、さまざまな人間模様を繰り広げる。
テレビドラマだとしょっちゅう画面に目をやらなくてはいけないが、落語だったら噺家がそばを食べるところと下げ以外は、無理をしてみていなくてもたいていのところは楽しめる。

そんなわけで落語はアイロンがけにはちょうどいいのだが、ではなんで噺家を見ていなくてもたいがいのことがわかるのだろう。
それは、落語の表している世界が人間同士のやりとりであり、畢竟、人間が考えつくことには限度があるからだ。

善悪愛憎貧富美醜、すべては人間が勝手に決めたことで、人間以外の生物、鳥や獣、魚に木々にそんな価値観など理解できないし、その必要もない。
愛憎は殺し合いに、貧富は分断へ、そして美醜は差別へと、どれも初めはほんの些細な違いに過ぎないのに気がつけば元の場所に戻ることのできないところに来てしまっている。
ほかの生物からしたらはた迷惑な話だ。

人間の価値観に普遍性を持たせることは難しいことかもしれないが、少なくとも世の中におきているあれこれはすべて人間の営みが原因であるということ、そのことを私たちひとりひとりが自覚したら、どれもしょせん大したことではなく、ずっと単純化できることなんじゃないだろうか。
しょせんは仏様の掌の上

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私にとっての結婚の意義と「こどもまんなか社会」

2022年12月12日 | 生き方について考える
昨日の午前中の掃除のせいで、右腕と腰と尻が痛いがおかげでぐっすり眠れた。
夜中起きても、サッカーはやっていないので、ちょっとテレビをつけるというようなこともなかった。
今朝も冬の青空で寒かったが、気合を入れて仕事に出てきた。
掃除をひととおり終え、出し忘れていたお歳暮の手配に横浜まで出た。
デパ地下のレストランで少し遅めの昼食を妻ととりつつ、私たちの来し方行く末について話した。
こういう話になると、たいていは子供たちの話がでる。
息子も娘にしても私から見たら”普通”の人生を歩んでいるので、何か心配があるというわけではないが、それでも話すことはある。
そこから、少子高齢化社会のこと、自分たちの行く末についての話になる。

経済的な担保が将来的にどのぐらい必要かという話になり、子供を持ったことが良かったのかということになる。
若い人が経済的理由で子供を持ちにくい状況であるということについては、大いに同意する。
習い事をいくつかやらせたらあっという間に月に4、5万円はかかるし、私立の中学、高校に行かせでもしたら学費だけでも相当な額だ。
最近は行政からの支援が増えたが、そのほかにも物入りだ。
見栄を張るわけでもない、自分たちがやってもらったことを子供達にもしてやろうと思ってもそう簡単にはできない。
畢竟、子供など持たない方がいいとなるのも無理はない。

SNSで自分の人生を楽しんでいるようにみえる人を多く見ると、自分もそんなふうに面白く、映える人生を歩みたいとも思う。
時計の針を戻すことはできないので、いまさらどうしようもないものの、子供をもっていなければ、もっと二人で気楽な自由な夫婦生活を歩むことができたのではないかと考える。

妻は、子育てを苦労しながらも楽しんでいたが、私には苦労ばかりでだったような気がする。
子育ては私の、そして私たち夫婦の人生の中の半分以上を占めてきたように思うがそれが苦労の多いものだったとしたら、私は人生の半分以上を楽しむことができなかった、子どもたちによって楽しみを奪われてきたということになる。
こんな考え方は、私の人生に対して否定的すぎるだろうか。
今になっても、子供を持つべきだったか、よくわからない。

妻とそんなことを話したあと、

 では、この結婚もよかったのかわからない。

と、言ってしまった。
妻が、驚いた顔で、

  なにを言っているの?

と私の顔をまじまじと見た。

私は我に帰り、言ったことの重大さに気がついて、否定しその場を取り繕った。
妻は一応納得はしてくれたが、気にはなっただろう。
妻への愛情は変わってはいないものの、もし結婚しないでいたら妻に愛想を尽かされていたかも知れず、未だに続いていたかはわからない。
結婚は、人間のあやふやな心をある一点に固定してくれる強制力がある。

日本は今、未曾有の少子高齢化社会、人口減社会へとつき進んでいる。
岸田首相は、「こどもまんなか社会」の実現を表明した。
私たちは、若者が、子供を持つことが人生のリスク、結婚が人生のリスク、というような考えに陥らないようにするにはどうしたらいいかをもっと考えなくてはいけないが、懐疑的にならざるを得ないのは、人間社会が複雑化しすぎたからだろうか。
案ずるより産むが易し

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