強い雨の音で目が覚めた。
まさしく春の嵐で、ホワイトデーのお菓子を入れたデパートの袋を持っている上に長傘をさすとなったら困ると思っていたが、支度をするうちに雨はすっかり止んで傘を持たずに出てくることができた。
先週は少しのんびりしたが、週末にリフレッシュできたので今週は少しギアを上げて頑張ろうと思う。
この"ギアを上げて”、なぜあまり普段使わない言葉が出てきたのだろうと思ったら、先週借りたレンタカーがカラムシフトだったのを思い出した。
人間の記憶というのは幾重にも重なって蓄積されていくものだと感じる。

人生は経験の連続で、それは死ぬ直前まで続き、経験はその都度記憶となって体に染みこんでいく。
染み込むというよりは、大脳の中にはハードディスクのような記憶のための大きな領域があって、そこに一つ一つの出来事が小さなファイルとして書き込まれ蓄積されてくのだというイメージだ。
コンピューターではファイルを区別できるのはその名前だが、人間の記憶は重要度により区別される。
昔、警察関係の人に、
人間て、自分のやったこと、結構覚えているものですよ
と言われたことがある。
犯罪を犯した人というのは、結構前のことでも詳細を覚えているようで、知らぬ存ぜぬを貫き通すということは難しいようだ。
初恋の思い出や学業やスポーツで優れた成績を残したことなど、忘れたくない出来事がある一方で、思い出したくない、忘れてしまいたいということもある。
だが、楽しい思い出というのもうっかりすると忘れてしまう。
大小全ての記憶は頭の中のどこかには格納されているはずだが、その記憶を書いてある脳神経へのアクセスが年月とともに減ってやがてはなくなってしまうことですっかり忘れてしまうのかもしれない。
かといって、その時の思い出をかけがえのないものとして、忘れないようにと毎日毎日書き出しても、やがてはその詳細はぼやけてしまう。
それは、どんなに楽しく素晴らしいことであったとしても、自分の行動は完璧であるわけはなく、消しておきたいことが少しずつ含まれ、最終的には全体がぼやけてしまい、やがてはほとんど忘れてしまうのではないか。
そう考えてみると、記憶なんていい加減といえばいい加減なものだが、いつまでもあれこれ忘れないでいるというのも頭がパンクしてしまうに違いない。
記憶は自分のいいように