今後の見通しは依然として立たないままG20が閉幕した。窮屈とはいえ、小さな地球上で互いに妥協しながら生きていたらよかったのに、ロシアというかプーチン大統領がウクライナへの侵略戦争を始めなければ、これほどの経済の混乱は生じていなかった。先日作った寄せ植えが元気になってきた。この子たちが美しく咲く頃にはウクライナに早く春が来てくれるだろうという願いが通じることを祈る。
私は通勤時、電車とバスを使っている。バスを利用する人のほとんどは病気の人か病院職員で、このうち、病気の人の多くは老人だ。バス停は駅前にあって、改札口を出ると停車中のバスが見える。そのせいで発車時刻を把握している私であっても少し焦って早歩きになる。気の毒なことに(病気持ちの)お年寄りは私よりも余計に焦るようでヨタヨタと小走りでバス停に向かう。
いくら小走りでも、その歩みは遅くて少なくとも私の倍はかかる。発車時刻が遅れることもしばしばあって、老人たちを追い抜いてバスに乗り込んでいる私は「おそいなー、次の(バス)にしたらいいのに」などと医療従事者にあるまじき感情を持つこともたまにあった。さすがにこれはお門違いと、もう一本早いバスに乗るように時間を調整した。このおかげでお年寄りの(駆け込んでいない)駆け込み乗車については、怪我をしないようにと祈りながらも鷹揚に待っていられるようになった。
年をとって体の自由が利かなくなってきたことをひしひしと感じる。駅の改札口からバス停までのほんの100メートルかそこいらの距離だって、私が若かった頃はちょっと走って20秒もあったら余裕で着いただろうが、今では30秒、いやそもそも走りたくないので最低でも1分あまりは必要だ。あと、10年もたって70歳近くになったら、早く歩くのも嫌になって2分ほど必要になるのではないか。ということは見方を変えたら、歳をとってのろくなっても100メートルは100メートルであって、単に周囲の時間が早く流れるようになったということではないかと考えらようになった。
年をとると時間の流れを早く感じるようになるのは、生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなるためだというジャネーの法則がよく知られている。そうなのかもしれないが、子供の頃に夕焼け空をみて感じた永遠とも思えた未来はこれとはちょっと違う。圧縮されてしまったとはいえ、記憶の中では、子供の頃、周囲の時間の流れは今に比べて圧倒的に遅かったように感じる。これに対し、今、周りの人の動きは少しずつ早くなっている。この先、周りの人はもっと早く動き回るようになり、私はゆっくりと流れる時間の中に取り残されていくのではないだろうか。かけっこではるか先を走る友人の背中は永遠に追いつくことはできないと思えるほど遠かった。これが歳をとると時間が早く流れるように感じるようになるメカニズムなのではないかと、乗り遅れまいとバスに向かって走ってくる老人を見て考える。
もう少し年を取ってから死にたい