蒸し暑く湿度の高い日が続く。
気温はさほど上がらないようだが、体に熱がこもりそうだ。
庭のバラが咲いたはいいが、みんな壁の方を向いてしまっていたので、雨が降る前に切って家に入れた。
外で見るよりもよほど大きく、顔を近づけなくても良い香りだ。
裏山の紫陽花は何株かあってそれぞれが順次咲いている。
青とピンクが混ざり合っているので、土のpHは様々な程度なのだろうか。
などと思いながら今朝もぼんやり眺めていたが、後から見た妻が、
あら、百合が頑張っているわね!
と、声を上げた。
そこに百合があるのは知っていたが、それに目はいかなかった。
この写真のちょうど真ん中に膨らみつつある白い蕾が4つほどあり、それらのことを言っているのだった。
こんな時、男性的は視覚感覚と女性的な視覚感覚の違いを感じる。
男性である私は、紫陽花を見たらそればかりに目がいって、それらがどれほどあるか、どのような色がどのような割合になっているか、この先花はもっと増えるかもう終わりかというようなことを考える。
一方、これは私の想像だが、女性である妻はこの情景の全てを均等に眺めて、自分にとって心地よいものというものを抽出しており、この場合とくに新規の百合の蕾をトピックとして取り上げたのだろう。
もう、紫陽花は旧いものになっている可能性はある。
買い物に行ったら、私は目的とするものの売り場に向かうが、妻は、その日のうちにたどり着くことができるのかが心配になるほど、あれこれを見ながら歩いている。
”早く(売り場に)行こう!”と促しても、”せっかく(あなたと一緒に)いろいろなものを見ることができるのだからそんなに急がなくてもいいじゃない”といって、ノロノロ(しているように見える)歩いている。
こういった特性が普遍的なものなのか、私たち夫婦に限ったものかはわからないが、ある程度は男女の違いとなってはいるのではないか。
男性は目的達成のために女性よりも突進してしまう傾向がある。
男性が政治家のトップにいると戦争に突き進みやすいように見える。
目的達成のためには手段を選ばないという男性的な特性はもちろん必要だが、目的物以外にも目を配る女性的な特性というのも必要で、この二つがバランスよく共存するのがいい社会のような気がする。
理解し合うのは難しいけど