
梅雨寒。六月も折り返しで、紫陽花がどんどん大きくなりその色も濃くなってきた。今日は四月ごろの気温で最高でも20度には届きそうもないというが、長袖のシャツを着るとそれをまたアイロンがけするのが面倒なので、半袖のシャツにジャケットを羽織って出てきた。雨は小降りになって折り畳み傘を使うことなく駅舎に入った。駅のホームは学生で溢れかえっていて階段の上り下りなどうんざりしてしまうが、自分がその年の頃はどうしていただろうと思い返すと恥ずかしくて何も言えない。
思い出というのは、いいことばかりではなく嫌なこと、恥ずかしいことの方がたくさんある。しかしながら本当の自分はこんなじゃない、今の自分こそが本当の自分だと思って、自分を肯定しようとしても過去を変えることはできない。恥をかいたこと、迷惑をかけたことというのは山ほどあって、いまさらそれらを修正して、なかったこと変えることにはできない。

変えることができないのは他人も同じだ。自分のことでも変えるのは難しいのに、他人を変えるとなるとそれは不可能だ。気付きとかきっかけを与えるということぐらいなら可能かもしれないが、主義主張、生きるスタイルを変えさせるなどということは望むべくもない。頑固だとかそういう問題ではなく、人間とはそういうものだ。独裁者は他人を力で屈服させるが、屈服させられた人が真に変えられてしまったとは考えられない。ただ、残念ながら、独裁者にその政治姿勢を改めさせるというのは諦めるしかない。
他人をまともな道に導こう、などと大それたことを考えてはいけない。自分の考えるまともな道というのは自分にとってのそれであって、万人にとってのまともな道ではない。誰もが自分を正当化し、歩んできた人生を都合のいいように修正しようとするが、そのことに対して周りの人は干渉しようがないが、多くの人が規範として持っているもの、例えば殺してはいけない、盗んではいけない、だましてはいけない、というような普遍的なことは守らせる必要がある。普遍的であることを検証することは難しいが、そのために考えなくてはいけないことはたくさんある。
困難でもあきらめない