今日は小寒、寒の入り。すでに十分寒いがこの先もっと寒くなるのかと思うと気が滅入る。今週末には喪中葉書を出し忘れてしまった方からいただいた年賀状へのお返事に寒中見舞いを出そう。ほんの数通でも、いただいた近況を読むと嬉しく思う。年賀状とはいいものだ。
昨晩、NHKのニュース番組で塩野七生さんがコロナ禍に見舞われている日本そして世界について語っていた。印象に残ったのは、”政治家は誰も責任を取ろうとしていない”という言葉。そして、それは日本に限らず、世界中でのことだという。海外でも、日本でも責任を取る覚悟で新型コロナウイルス感染症に立ち向かっている政治家はいるので、世界中というのはどうかと思うし、都道府県知事の中には率先して感染対策に乗り出している人がいる。地方と中央では違うという中央省庁の官僚もいるかもしれないが、そんなことはない、地方は経済規模が小さいからもっと大変かもしれない。政治家の多くは責任をとらずになんとかやり過ごそうとしているようにみえる。
間近で感じる日本の状況はといえば、政治家はイニシアチブは維持しつつ、責任は取らない、というように動いている。責任を取りたくないから、思い切った政策をとることはできず、すべてが中途半端。GoToをめぐる迷走はそのことを如実に物語っている。責任を取りたくないから、専門家の意見を取り入れながらという。専門家といってもどんな人がいるのかはわからない。まさか医療関係者ばかりではあるまいに、政治経済の専門家もいるはずなのにその人たちの名前は挙がらない。このままでは、分科会の医療関係者に責任が押し付けられてしまう。延期となったオリンピック・パラリンピック、開催するにせよ、中止するにせよ、誰かが決断しなくてはいけない。その誰かは政治家であって、よもや分科会であってはならない。
やるならやるでいい。責任を取る覚悟があれば真剣に感染拡大防止対策を考えるだろう。自分が決めたことで人がなくなるというのであれば、ロックダウンだって辞さないはずだ。中止にするなら中止にしたらいい。それは英断以外の何物でもない。今の状況を見ていると、先延ばし先延ばしで、いったいどうなることやら。ワクチンが効くかもしれない、というのであれば、ワクチンの効用が確かめられた段階で決定すると、宣言したらいいのにそれができない。全く情けない限りで、残念だ。
塩野さんは最後に、日本へのメッセージとして”失敗することを赦す社会になってほしい”といっていた。たしかにこの国は失敗した人に厳しい。資源のない国で競争が厳しいということがあるからかもしれないが、それよりも”セコイ”からではないかとも思う。セコイから足を引っ張り、叩きのめすことが日常茶飯事となってしまう。こんなことではだれも勇気をもって正しいと思うことができなくなってしまう。失敗は失敗でも、十分な議論と準備と説明の上での失敗であれば、許せるような社会にしなくてはいけないのだが、今の政治状況がそうなっていないのはとても残念だ。
絶望していてもはじまらない