こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

父のこと、父と私のこと

2020年06月10日 | 家族のこと
父が亡くなってから今日まで、涙はほとんど出なかった。ナイトが死んだ時はあれほど泣いてしまったのにこれは一体どういうことだろう。

父は四国の資産家の家に生まれ、画家になるか医者になるかを悩んだほど絵が上手だった。ピアノも上手なおぼっちゃまだった。ただ、生まれつき足が少し悪く、それは一生治らないものだった。戦後、家業が傾き経済的に苦労をしたそうだが、手に職をという祖母の勧めもあり、名門大学の医学部に進んだ。たしかに、継ぐべき家業が無くなってしまっては、そうするしかなかったろうし、画家になる夢も諦めざるを得なかったのだろう。インターンを終え、国内より給料がいいからとアメリカの病院で働く資格を取り、結婚してすぐに渡米した。先の大戦の戦勝国アメリカが日本を助けていた時代だった。
長男である私と弟は両親がアメリカにいる間に生まれた。弟は生まれてすぐにダウン症だと、父はわかったが、母には日本に帰ってくるまで話さなかったそうだ。私が小学生の頃妹が生まれた。生活のこともあり、父は帰国後市中病院に勤め、以来その病院に定年まで勤務し、定年後も顧問として関わっていた。テレビや新聞に引っ張りだこな時期もあったとても高名な臨床医だったが、ついに大学に戻ることはなかった。
とても穏やかな人で、夫婦喧嘩を見たことはない。
息子の私に口を出すこともほとんどなかったが、重要な局面で干渉し、私の人生を決定づけた。部活のこと、進路のこと、その二つについては、父が亡くなる少し前までわだかまりは残った。叱られた覚えは少ない。父の机に置いてあったタバコをくすねて吸った時に殴られたのと、大学で成績が振るわなかった時に怒られたことぐらいしか覚えていない。
それらはすべて、私への愛情からのものだった。
父が病気で伏せってから、どんどん弱っていくのを間近でみてきた。弱っていく父は、もうかつてのようなコンプレックスを持つべき対象ではなくなっていた。もう、父は私に意見することはなく、毎晩のように私の名前を呼んで母を困らせ、見舞いから帰る時には、「また、時間があったら帰りに寄ってね」と頼んでくるだけだった。もう、そこにかつての父の姿はなく、私は父を必要としない人間になっていた。
亡くなった父は私には何も話しかけてこなかった。
さよならお父さん

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