こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

なんとか生きてくることができた人間に残された使命

2022年11月01日 | 生き方について考える
ハロウィーンの昨夜、You tubeで、渋谷駅前のスクランブル交差点のライブカメラというのを少しの間見た。
信号が変わるたびにたくさんの人が、規制線沿って行儀良く交差点を横切っていたが、その先のハチ公前広場やらセンター街の入り口には結構な数の人がぎゅうぎゅうになっているのが遠目でもよく見えた。
朝になってどうやら大きな事故は起こらなかったようだが、警察や渋谷区の尽力があってこそのことだろう、ご苦労様でした。
韓国であんな悲惨な事故があったばかりでも、やっぱり渋谷に行った人はたくさんいた。
一体どんな人が行ったのだろうかと思うが、私だって若ければ2度や3度は行って、さんざん酔っ払って、そこらへんに酔い潰れていたか、喧嘩をして大怪我をしていたかもしれないし、下手をしたら死んでいたかもしれない。
それとも渋谷などもはやおのぼりさんのいるところだからと二丁目あたりでハメを外していたかもしれないが同じことだ。
そう考えるとよく、これまでほぼ五体満足で生きてくることができたのは奇跡的なことだと感じる。
若い時というのはどうして何も怖いものがないのだろう、というか歳をとるとどうしてこう分別くさくなってしまうのだろう。

若い時は人生経験も背負うものもあまり多くないのでさまざまのリスクが分からないのだろう。
歳を重ねるごとに肉体的には強靭になり、少ないながらも経験を積むことでいろいろなことが見えてきて怖いものはどんどん少なくなる。
そんなことで馬鹿をやってしまう若者はいくらでもいるし、経験がないために期せずして事件や事故に巻き込まれてしまうこともある。

逆に歳をとると人生経験を重ね、多くのものを背負って生きるようになる。
さまざまなリスクを知るようになるし、肉体的に自分の力が衰えてくることも自覚するようになる。
さらには、社会的地位、家族といったものに対してさまざまな責任が生じる。
そういうことが重なって、年寄りは慎重に生きることを学び、分別くさくなっていく。

でも、実際に多くのものを背負っているのは、年寄りではなく若者だ。
人類の未来は若者の双肩にかかっていて、年寄りの存在価値はそれを守り、育ててあげることでしかない。
私など歳をとっても相変わらず馬鹿で、私よりもよほど立派な若者はたくさんいるので、守り育てるなどと言うこと自体おこがましいのかもしれない。
そうなると、私にできることなど、彼らに迷惑をかけないように、ひっそりと生き、やがて消えていくことなのかもしれない。
それなりに頑張りながら

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