
今日は晴れるというが、それまでにはもう少し時間のかかりそうな朝。電車に乗る勤め人少なく普段の1、2割ぐらいで、電車は比較的空いていて、世の中には10連休の人というのがいるのだなあと実感する。こうやって日本中みんなで一斉に休むというのを日本人はもう数十年も続けてきている。休みなんて各自バラバラにとってもいいとも思うが、こういった習慣を漫然と続けていてもいいのかというような議論が出たことを聞くことはない。
近頃、ネットニュースを眺めているとあまりのくだらなさにため息をついてしまうことがある。ため息とまではいかないまでも、そこにあるのが出来事の羅列で考察がほとんど行われておらずしばしばがっかりさせられる。たまに論考があってもミクロの視点というか視野狭窄とも思われるものが多く、俯瞰的に考察されているものは少ない。個々人の多様な価値観、考え方というものが尊重される時代となり、ミクロの視点でしか意見を述べることができなくなっているからかもしれない。
一方で、これら多様な個が封殺され、戦争というような巨大な暴力が国家によって行使されることもある。そこでは個の声は失われ、個は国家を動かす歯車の一つとして場合によっては国家によって殺される。国家は国家を守るために存在し、個々の国民を守るために存在するのではない。
これはこういうものだから、こんなものだと何も考えずに生きることは楽なことだが、結果に対して責任を持った生き方とは言えない。個人個人は常に国家のあり方というもの、国家に対する立ち位置というものを考えながら生きていなくてはいけない。気がついたら大きな力によってシステムの維持のために存在するようになってはいけない。世界各地で起こっていることを見聞きするとそうやって生きることこそが私たち日本人に求められていることではないかと考える。
個人として納得できる生き方を