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日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日韓の歴史をたどる⑱ 満州侵略と朝鮮 軍事拠点化で地域を破壊

2020-02-15 15:42:36 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑱ 満州侵略と朝鮮 軍事拠点化で地域を破壊
加藤圭木
かとう・けいき 1983年生まれ。一橋大学准教授。『植民地期朝鮮の地域変容』、『だれが日韓「対立」をつくったのか』(共著)、『歴史を学ぶ人々のために』(共編著)

朝鮮半島の最北に位置する咸鏡(ハムギョン)北道。この咸鏡北道の中で、旧ソ連・中国との国境からほど近い所に、新安面(面は日本でいう村のこと)という漁村があった。この村は決して豊かとはいえなかったが、ワカメ採集やイワシ漁業などを中心に暮らしが営まれていた。
1931年、日本は満洲侵略戦争(「満洲事変」)を開始し、翌年には日本の傀儡(かいらい)国家である「満洲国」がつくりあげられた。日本側から見れば、植民地朝鮮、特にその北部は、日本から満洲への中継地点としての役割が期待される場所だった。そこで、日本側は「北鮮ルート」と呼ばれる新交通ルートの形成を推進
していった。(当時、日本側は朝鮮北部を差別的に「北鮮」と呼称していた)
「北鮮ルート」は、新潟・敦賀などの港から海を渡り、朝鮮北部の港に上陸し、「満洲国」の首都「新京」(長春)までを結ぶというものであった。これに伴って、朝鮮北部を満洲侵略拠点として再編する政策が進められた。




一方的に進めた新しい港の建設
「北鮮ルート」の一拠点として選定されたのが、冒頭で見た新安面だった。新安面に新たに港を建設し、すでに開港していた朝鮮北部の港である清津(チョンジン)・雄基(ウンギ)両港とともに「満洲国」への玄関口とすることが目指された。新安面に新港を建設することは日本陸海軍の強い要求を背景としており、軍事拠点としての役割も強く期待されていた。
こうしたなかで、多数の日本人が新安面に移り住んでいった。新安面は日本人の街という役割を付与され、羅津(ラジン)府に再編された(府は日本の市。以下、羅津と呼ぶ)。こうした一連の動きは、現地の朝鮮人に断りなく日本側が一方的に進めたことである。



羅津港全景


日満連絡図(ともに南満洲鉄道株式会社鉄道建設局『羅津港建設工事写真帖』1935年から)

強権で住宅撤去 警察が強制執行
羅津では「満洲事変」の少し前から、新たな港湾が建設されるのではないかとうわさされていたこともあったので、その主要な土地は日本人を中心としたブローカーによって、不当な低価格で買い占められた。
また、日本の軍事拠点を建設するために、強権的な土地収用令などを背景としつつ、行政側が執拗に住民を圧迫して、低価格で土地を買い上げるなどの政策をとった。こうしたなかで、漁業を中心としていた朝鮮人の生活基盤が脅かされた。
さらに、「満洲国」への玄関口として羅津に「都市」を新たに建設することになった。朝鮮総督府は「朝鮮市街地計画令」(日本本国の都市計画法にあたる)を1934年に制定して、羅津建設を断行した。「市街地計画」といえば聞こえはいいが、実態は地域破壊にほかならなかった。本国の都市計画法よりも強権的な住宅撤去規定を持つ朝鮮市街地計画令にもとづき、住宅撤去は警察などの手で強制執行された。
36年夏、事業関係者である朝鮮総督府の技師・山岡敬介が羅津に来た際、強制撤去された数百名が殺到し抗議した。人びとは生活の保障を要求したのであるが、山岡は面会を拒絶した。
こうした一連の経緯から浮かび上がるのは、朝鮮への差別である。朝鮮人住民を無視し、日本本国よりも強権的な「法」を適用して、一方的に地域を破壊したのである。
羅津は満洲侵略の影響を最も直接的に受けた地域だが、同じような経験をした村は少なくない。当時、新潟などでは「北鮮ルート」によって、開発が遅れていた自らの地域を発展させる契機になるとの「夢」が語られていた。そして日本人の多くが満洲に「夢」を抱いた。だが、その「夢」の下で中国の人びとが虐げられ、朝鮮の村々が踏みにじられたことを知る必要がある。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月12日付掲載


中国東北部の満州侵略の足がかりとして、朝鮮北部の町に日本の敦賀や新潟と結ぶ港と都市を建設。そのために住民の追い出しまでやったのですね。

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