課税新時代② 民主主義取り戻す運動
国際課税研究者 津田久美子さんに聞く
―金融取引税の前身であるトービン税が初めて提案されたのは1970年代でした。
米国の経済学者ジェームズ・トービンが74年に言及し、78年の論文で提唱したのがトービン税と呼ばれる構想です。国際通貨取引に低率の税金を課すというアイデアでした。
当時はオイルショックをきっかけにして国際通貨制度が固定相場制から変動相場制に移行した時代でした。世界大恐慌の反省から金融規制が敷かれて国家の内側にとどめられていた資本は、国境を越えた自由移動へと解き放たれました。
このとき、過剰な資本移動と通貨取引が各国の自律的な財政・金融政策の阻害要因になる、と懸念を表明したのがトービンでした。対策として通貨取引に低率の税を課し、「よく油のひかれた車輪にわずかな砂をまく」政策を提唱したのです。トービン税の目的は、投機を抑制して市場の不安定化を防ぐとともに、各国の経済政策の自律性を取り戻すことにありました。
米国のニューヨーク証券取引所(ロイター)
お金の価値激変
―資本の国際移動が各国の自律的な経済政策を阻害するのはなぜでしょうか。
わかりやすいのは投機の攻撃です。92年のポンド危機ではイギリスの通貨ポンドが投機家ジョージ・ソロスによって売り浴びせられて急落しました。投機家は利ざやをとる商品として通貨を買い占めたり売り浴びせたりして荒稼ぎします。そのせいで人々が日々使うお金の価値が激変し、危機が引き起こされてしまう。通貨や経済を安定化しようとする各国の政策が無効化されてしまうわけです。
金融市場のマネーゲームに振り回されて各国の政策譲叢鋼が無効化されるのは、民主主義がないがしろにされるということでもあります。
―トービン税が注目を集めたのは90年代でした。
80年代に中南米諸国の累積債務が問題になりました。続いて92年にポンド危機、94年にメキシコの通貨ペソが暴落するメキシコ通貨危機が起こりました。新しい国際経済秩序のあり方が議論される中、94年に国連開発計画(UNDP)が報告書で開発財源としてトービン税導入を提案し、トービン税が世界的に知られるようになりました。
トービン税への関心が大爆発するきっかけは97年、タイの通貨バーツの暴落から始まったアジア通貨危機でした。アジアは新自由主義的な経済モデルに基づき、外国資本に市場を開放して開発を進めましたが、通貨と金融の荒波にのみ込まれてますます貧困になってしまったのです。
97年以降、市民運動の側からトービン税導入を求める声が強まります。その流れを決定づけたのが98年にフランスで結成された社会運動団体ATTAC(アタック)でした。トービン税の実現を掲げたATTACは経済学者や市民活動家、労働組合員、学生など、さまざまな立場の人々を結集して世界に広がりました。議員連盟も創設され、フランスのATTAC議員連盟には99年当時3万人のメンバーがいました。
議論の空間提供
―「金融業界の利益追求のせいで失われた民主主義を奪回する」が運動の合言葉になりました。
70年代から約20年間、トービン税は「総すかん」の状況でした。新自由主義思想が支配的になり、規制緩和や「金融ビッグバン」によって国際金融の「車輪」にますます多くの「油」をさすことが至上命令とされました。各国が追求したのは規制を通じた経済政策の自律性ではなく、市場の効率性を加速するための政策協調でした。
その状況を大きく変えたのが、アジア通貨危機とATTACの運動でした。新自由主義に対抗する勢力を結集した世界社会フォーラムの創設に関わるなど、ATTACには多くの功績があります。中でも有用だったと評価されているのは、教育的な空間をつくったことです。国際金融がどのような状況になっていて、いかなる問題があるかを考えて議論する空間を提供したのです。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年3月24日付掲載
新自由主義のもと、各国が追求したのは規制を通じた経済政策の自律性ではなく、市場の効率性を加速するための政策協調でした。
その状況を大きく変えたのが、アジア通貨危機とATTACの運動。
経済学者や市民活動家、労働組合員、学生など、さまざまな立場の人々を結集。国際金融がどのような状況になっていて、いかなる問題があるかを考えて議論する空間。
決めるのは企業や国家ではなく市民社会だ。
国際課税研究者 津田久美子さんに聞く
―金融取引税の前身であるトービン税が初めて提案されたのは1970年代でした。
米国の経済学者ジェームズ・トービンが74年に言及し、78年の論文で提唱したのがトービン税と呼ばれる構想です。国際通貨取引に低率の税金を課すというアイデアでした。
当時はオイルショックをきっかけにして国際通貨制度が固定相場制から変動相場制に移行した時代でした。世界大恐慌の反省から金融規制が敷かれて国家の内側にとどめられていた資本は、国境を越えた自由移動へと解き放たれました。
このとき、過剰な資本移動と通貨取引が各国の自律的な財政・金融政策の阻害要因になる、と懸念を表明したのがトービンでした。対策として通貨取引に低率の税を課し、「よく油のひかれた車輪にわずかな砂をまく」政策を提唱したのです。トービン税の目的は、投機を抑制して市場の不安定化を防ぐとともに、各国の経済政策の自律性を取り戻すことにありました。
米国のニューヨーク証券取引所(ロイター)
お金の価値激変
―資本の国際移動が各国の自律的な経済政策を阻害するのはなぜでしょうか。
わかりやすいのは投機の攻撃です。92年のポンド危機ではイギリスの通貨ポンドが投機家ジョージ・ソロスによって売り浴びせられて急落しました。投機家は利ざやをとる商品として通貨を買い占めたり売り浴びせたりして荒稼ぎします。そのせいで人々が日々使うお金の価値が激変し、危機が引き起こされてしまう。通貨や経済を安定化しようとする各国の政策が無効化されてしまうわけです。
金融市場のマネーゲームに振り回されて各国の政策譲叢鋼が無効化されるのは、民主主義がないがしろにされるということでもあります。
―トービン税が注目を集めたのは90年代でした。
80年代に中南米諸国の累積債務が問題になりました。続いて92年にポンド危機、94年にメキシコの通貨ペソが暴落するメキシコ通貨危機が起こりました。新しい国際経済秩序のあり方が議論される中、94年に国連開発計画(UNDP)が報告書で開発財源としてトービン税導入を提案し、トービン税が世界的に知られるようになりました。
トービン税への関心が大爆発するきっかけは97年、タイの通貨バーツの暴落から始まったアジア通貨危機でした。アジアは新自由主義的な経済モデルに基づき、外国資本に市場を開放して開発を進めましたが、通貨と金融の荒波にのみ込まれてますます貧困になってしまったのです。
97年以降、市民運動の側からトービン税導入を求める声が強まります。その流れを決定づけたのが98年にフランスで結成された社会運動団体ATTAC(アタック)でした。トービン税の実現を掲げたATTACは経済学者や市民活動家、労働組合員、学生など、さまざまな立場の人々を結集して世界に広がりました。議員連盟も創設され、フランスのATTAC議員連盟には99年当時3万人のメンバーがいました。
議論の空間提供
―「金融業界の利益追求のせいで失われた民主主義を奪回する」が運動の合言葉になりました。
70年代から約20年間、トービン税は「総すかん」の状況でした。新自由主義思想が支配的になり、規制緩和や「金融ビッグバン」によって国際金融の「車輪」にますます多くの「油」をさすことが至上命令とされました。各国が追求したのは規制を通じた経済政策の自律性ではなく、市場の効率性を加速するための政策協調でした。
その状況を大きく変えたのが、アジア通貨危機とATTACの運動でした。新自由主義に対抗する勢力を結集した世界社会フォーラムの創設に関わるなど、ATTACには多くの功績があります。中でも有用だったと評価されているのは、教育的な空間をつくったことです。国際金融がどのような状況になっていて、いかなる問題があるかを考えて議論する空間を提供したのです。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年3月24日付掲載
新自由主義のもと、各国が追求したのは規制を通じた経済政策の自律性ではなく、市場の効率性を加速するための政策協調でした。
その状況を大きく変えたのが、アジア通貨危機とATTACの運動。
経済学者や市民活動家、労働組合員、学生など、さまざまな立場の人々を結集。国際金融がどのような状況になっていて、いかなる問題があるかを考えて議論する空間。
決めるのは企業や国家ではなく市民社会だ。