昨日、広島と浦和は似ているということを書きました。広島は森崎和幸、浦和は阿部勇樹と、ボランチの位置にチームのレジェンドと呼ばれるベテランがいるという意味でも共通しています。それで思い付いたので、今日は阿部勇樹について書きたいと思います。
阿部勇樹は、育成に定評のある、ジェフ市原(現千葉)のユースの出身です。この頃の市原ユースには、佐藤勇人、寿人兄弟などのちの代表クラスが所属していました。阿部勇樹も16歳でプロ契約を結び、17歳では既にトップチームでレギュラーという活躍ぶりでした。ただ、当時の阿部はうまいものの、故障が多いという現在では考えられないイメージもありました。
阿部勇樹にとって残念だったのは、2001年にアルゼンチンで開催されたワールドユースを負傷欠場したことです。当時のユース代表を、駒場スタジアムの親善試合イタリア戦で見たことがありますが、当時の阿部勇樹はキャプテンで4バックのCBでした。彼の欠場はユース代表にとっても痛かったようで、事実このワールドユースは1勝2敗でグループリーグ敗退に終わります。
阿部勇樹が輝くようになったのは、千葉時代のオシム監督の指導も大きかったと思います。当時の市原(千葉)はマンツーマン気味の守備を軸としており、阿部勇樹は最も強力な守備の駒として相手のキーマンをマークする役割でした。浦和は、千葉と対戦した試合で、ポンテを阿部勇樹にマンツーマンで消された苦い敗戦の記憶もあります。
2007年に26歳になった阿部勇樹は、浦和へ完全移籍してきました。当時のオジェック監督は、阿部勇樹にボランチだけでなく、3バックのDF、左SBなど様々なポジションを任せました。現役日本代表でありながら、チームではどこでも守る、史上最強の便利屋でした。その後のエンゲルス監督以降、一時イングランドのレスターに移籍したものの、ほぼボランチとして起用されています。
毎年、阿部勇樹の後継者候補として、様々なボランチを補強している浦和ですが、阿部勇樹はその挑戦をすべて跳ね返し今でもポジションを守っています。守備的なボランチ「アンカー」には最適と呼べるベテランですが、今でも衰え知らずの脚力で中盤の底に壁を築いています。チームが連敗中で苦しい、こんなときこそ阿部勇樹の力が必要です。何とか広島戦を勝ってくれるよう、彼に期待しています。
阿部勇樹は、育成に定評のある、ジェフ市原(現千葉)のユースの出身です。この頃の市原ユースには、佐藤勇人、寿人兄弟などのちの代表クラスが所属していました。阿部勇樹も16歳でプロ契約を結び、17歳では既にトップチームでレギュラーという活躍ぶりでした。ただ、当時の阿部はうまいものの、故障が多いという現在では考えられないイメージもありました。
阿部勇樹にとって残念だったのは、2001年にアルゼンチンで開催されたワールドユースを負傷欠場したことです。当時のユース代表を、駒場スタジアムの親善試合イタリア戦で見たことがありますが、当時の阿部勇樹はキャプテンで4バックのCBでした。彼の欠場はユース代表にとっても痛かったようで、事実このワールドユースは1勝2敗でグループリーグ敗退に終わります。
阿部勇樹が輝くようになったのは、千葉時代のオシム監督の指導も大きかったと思います。当時の市原(千葉)はマンツーマン気味の守備を軸としており、阿部勇樹は最も強力な守備の駒として相手のキーマンをマークする役割でした。浦和は、千葉と対戦した試合で、ポンテを阿部勇樹にマンツーマンで消された苦い敗戦の記憶もあります。
2007年に26歳になった阿部勇樹は、浦和へ完全移籍してきました。当時のオジェック監督は、阿部勇樹にボランチだけでなく、3バックのDF、左SBなど様々なポジションを任せました。現役日本代表でありながら、チームではどこでも守る、史上最強の便利屋でした。その後のエンゲルス監督以降、一時イングランドのレスターに移籍したものの、ほぼボランチとして起用されています。
毎年、阿部勇樹の後継者候補として、様々なボランチを補強している浦和ですが、阿部勇樹はその挑戦をすべて跳ね返し今でもポジションを守っています。守備的なボランチ「アンカー」には最適と呼べるベテランですが、今でも衰え知らずの脚力で中盤の底に壁を築いています。チームが連敗中で苦しい、こんなときこそ阿部勇樹の力が必要です。何とか広島戦を勝ってくれるよう、彼に期待しています。