Kobby loves 埼玉&レッズ

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ここで踏ん張れレッズ(阿部勇樹)

2017-06-29 21:59:31 | 浦和レッズ
昨日、広島と浦和は似ているということを書きました。広島は森崎和幸、浦和は阿部勇樹と、ボランチの位置にチームのレジェンドと呼ばれるベテランがいるという意味でも共通しています。それで思い付いたので、今日は阿部勇樹について書きたいと思います。

阿部勇樹は、育成に定評のある、ジェフ市原(現千葉)のユースの出身です。この頃の市原ユースには、佐藤勇人、寿人兄弟などのちの代表クラスが所属していました。阿部勇樹も16歳でプロ契約を結び、17歳では既にトップチームでレギュラーという活躍ぶりでした。ただ、当時の阿部はうまいものの、故障が多いという現在では考えられないイメージもありました。

阿部勇樹にとって残念だったのは、2001年にアルゼンチンで開催されたワールドユースを負傷欠場したことです。当時のユース代表を、駒場スタジアムの親善試合イタリア戦で見たことがありますが、当時の阿部勇樹はキャプテンで4バックのCBでした。彼の欠場はユース代表にとっても痛かったようで、事実このワールドユースは1勝2敗でグループリーグ敗退に終わります。

阿部勇樹が輝くようになったのは、千葉時代のオシム監督の指導も大きかったと思います。当時の市原(千葉)はマンツーマン気味の守備を軸としており、阿部勇樹は最も強力な守備の駒として相手のキーマンをマークする役割でした。浦和は、千葉と対戦した試合で、ポンテを阿部勇樹にマンツーマンで消された苦い敗戦の記憶もあります。

2007年に26歳になった阿部勇樹は、浦和へ完全移籍してきました。当時のオジェック監督は、阿部勇樹にボランチだけでなく、3バックのDF、左SBなど様々なポジションを任せました。現役日本代表でありながら、チームではどこでも守る、史上最強の便利屋でした。その後のエンゲルス監督以降、一時イングランドのレスターに移籍したものの、ほぼボランチとして起用されています。

毎年、阿部勇樹の後継者候補として、様々なボランチを補強している浦和ですが、阿部勇樹はその挑戦をすべて跳ね返し今でもポジションを守っています。守備的なボランチ「アンカー」には最適と呼べるベテランですが、今でも衰え知らずの脚力で中盤の底に壁を築いています。チームが連敗中で苦しい、こんなときこそ阿部勇樹の力が必要です。何とか広島戦を勝ってくれるよう、彼に期待しています。
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森慎二さん、逝く

2017-06-29 21:10:51 | 他スポーツ
今朝入ってきたニュースは衝撃的でした。元西武ライオンズ投手、現ライオンズ一軍投手コーチの森慎二さんの、多臓器不全による訃報でした。森慎二さんは私と世代が近いので、自分が最も元気で西武ドームに通っていた頃の思い出の選手です。今日は彼の思い出を書こうと思います。

森慎二さんは、社会人野球の新日鉄君津からドラフト2位でライオンズに入団しています。入団当初は制球難で苦しみ、ローテーションの谷間の先発か、負けている試合のロングリリーフでしか怖くて出せない投手でした。

しかし、ライオンズというチームは、これまでそういう制球難の投手を戦力にしてきたチームです。森慎二さんといえば、東尾監督の当時に8回を投げる中継ぎに起用されたのが転機でした。ペース配分を気にせず思い切って投げて良くなったことで、ストレートは最速155kmを記録するようになり、連投が効く体力面の適性もあって最盛期には71試合に登板したほどでした。

当時のライオンズのファンブックのインタビューで、「本当は豊田さんを上回って抑えができるようにならなければ」と、中継ぎの起用には複雑な心中もありましたが、それでも2002年のリーグ優勝にフル回転で貢献してくれました。最優先中継ぎのタイトルも獲得しています。

森慎二さんは、メジャーリーグに対する強いあこがれを持っていました。西武側もそれを聞き入れ、ポスティングシステムでタンパベイデビルレイズに移籍してライオンズを去りました。しかし、夢だったメジャーリーグでの登板を目前にしたオープン戦で、森さんは右肩を投球中に脱臼するという不運に襲われました。デビルレイズは森さんを解雇し、メジャーリーグでの登板は叶わぬ夢で終わりました。

その後の森さんは、メジャーリーグ復帰を目指して、孤独なトレーニングを積んでいたというニュースを見たくらいしか消息を知りませんでした。しかし、北信越独立リーグの石川で、一時選手兼監督で復帰を果たすことができました。良かった。まだ野球に関わっていたんだと嬉しい気分で聞いたニュースでした。

その後はライオンズの投手コーチになり、今度は後輩たちにメジャーリーグへの夢を託すと思った矢先の訃報でした。言葉がありません。私はその剛腕ぶりを忘れない、それだけしか出てきません。
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