夕方、伊豆から帰りました。
新幹線車中でも読書で見つけた、毎田周一師の言葉。
「平和とは何であるか。一切のものに頭下るといふことである。
南無不可思議光如来と、一切万物の不可思議光の前に頭下るもの、
そこにしか平和はない。
まさしく平和は徹底謙虚の打ち砕かれたる境涯である。
跪くことを知らないものに、決して平和の来ないこと、知るべきのみである。
如何にして世界に平和が来るか。念仏のみ。
(世の平和運動者なるものは、これを知らねばならぬ。)
毎田周一著 『釈尊の心 一真海』 昭和53年6月30日初版
最近、TVで、予備校講師の「いつやるか?今でしょう」
という言葉が流行しています。
この言葉を聞くたびに、(その底は仏教だなー)と思うモノである。
また、この予備校講師やこの言葉に関心を寄せる国民は、
そのことに気がついているのか?
単なる流行語にしてはもったいない。
大経には、「去来現」
道元禅師には、「而今」
がある。
また、ロジャーズのカウンセリングを学び始めた頃、
先輩の先生方の口癖は
「いま、あなたはどう感じているの?」であった。
話を戻す。
毎田師の「世界平和。
「お念仏をいつするか?」
「今でしょう」
現代の日本人の多くは、お念仏や仏教を、お葬式・法事の荘厳と
考えている方々が多い。
また、日常で、お念仏や坐禅や仏教に関心をもっている日本人は、少数派のように思う。
日本人・日本国は、仏教を土台としてその上で営まれていることを忘れていますね。
(もちろん仏教だけでなく、古神道等もありますが…)
(ねてもさめても、お念仏の一道です)