午前11時に伊豆稲取出発。
午後3時に自宅着。1時間程午睡して、声明学園に出かけました。
東京大谷声明学園の同窓の◇◇さんと、
仏法・声明の学び方について座談。
◇◇さんの質問。
「仏法・声明を勉強してきて、何か役にたつようなことはありましたか?」
ボクの応え。
「仏法・声明の学びを、役に立つ・役に立たないとの視点で学んでいません。
ボクの場合、仏法の学びは『歎異抄 第二章』を要にしています」と。
◇◇さんには、分かってもらいたかったのですが???
『歎異抄 第二章』を引きます。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、
念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、
すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。
いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、
またもって、むなしかるべからずそうろうか。
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
大事な言葉は、「総じてもって存知せざるなり」。
仏法・声明の学びは、「役に立つ・役に立たない」といった
評価意識を超えたところのもののように思います。