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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「村上春樹とイラストレーター」展

2016年06月29日 22時53分53秒 | アート
 東京の「ちひろ美術館」で、「村上春樹とイラストレーター」という展覧会をやっている。8月7日まで。見たのは先週なんだけど、村上春樹のまだ読んでない最近の本を読んでから書くつもりでいた。ところが、小川洋子も少し残しているのに、突然「獅子文六」ブームになってしまった。書きそびれそうなので、展覧会だけ先に紹介。(7月2日の「日曜美術館」アートシーンでも紹介される由。)
 
 村上春樹の本の表紙、挿絵、絵本などを担当したイラストレーター、佐々木マキ大橋歩和田誠安西水丸の原画をいっぱい展示した展覧会である。「村上主義者」(村上春樹は「ハルキスト」ではなく、「村上主義者」と言って欲しいと書いてる)なら、見た瞬間にワーーと(心の中で)歓声を上げてしまうような好企画。現代を代表するようなイラストレーターばかりだから、村上春樹のファンでなくても興味深いとは思うけど、やはり読んでる人向きなのかな。

 2階の展示室から見るようになっている。2階に上がると、佐々木マキ大橋歩の展示。佐々木マキはデビュー作「風の歌を聴け」の表紙を描いた人である。チラシの絵がそれ。初期三部作をすべて手掛けたが、村上春樹が依頼したという。所蔵も著者本人になっている。今まで表紙だけをしげしげと眺めたことがなかったけど、よく見るといろいろ描かれているんだなあ。原画と印刷では、色具合が微妙に違っていて、そういう違いを味わうのも楽しい。佐々木マキ(1946~)は、60年代末には「ガロ」に前衛漫画を描いていた。村上春樹は当時からのファンだったという。その後、絵本「羊男のクリスマス」や童話「ふしぎな図書館」で共同作業を行うことになる。展覧会では初期三部作の原画とともに、「羊男のクリスマス」の原画がズラッと出ている。いやあ、圧巻。

 大橋歩は「アンアン」で3回にわたって連載された「村上ラヂオ」のイラストである。モノクロで小さいので、なるほどと思いながら、1階へ降りる。書いてなかったけど、館内にはこの4人だけでなく、もともとの「いわさきちひろ」の絵もいっぱい展示してある。それらも見ながら、今度は和田誠安西水丸。この二人は青山近辺で個人的にもよく合うとエッセイに出てくる。そういう仲の良さ、趣味の共通性が根底にある楽しい世界。安西水丸の本名「渡辺昇」(ワタナベ・ノボル)が、村上春樹の小説の登場人物になども出てくることで有名である。作家デビュー以前の、ジャズバー経営者時代からの友人だということだ。2014年に急逝したが、さまざまのイラストが思い出を呼び起こす。

 ところで今回の最大の収穫は和田誠だった。昔、「倫敦巴里」というパロディ画文集に抱腹絶倒した思い出がある。のちに映画監督にもなったし、最近ではフィルムセンターのミュージカル映画ポスター展で解説していた。ごく最近、上野樹里の義父になった。というのはどうでもいいけど、共通の趣味であるジャズに関する楽しい本の数々に、イラストを寄せている。それが中心と思っていたら、他にとんでもない仕事があったのである。それは「村上春樹全仕事」の表紙である。長年のファンは単行本で読んでいるし、若い人は文庫で読む。だから、よほどのファンでない限り、「全仕事」を買ったりしていないと思う。僕もあまり意識していなかったけど、今まで2期にわたって刊行されていて、その表紙を和田誠が描いている。ということは、一番村上ワールドを描いているのは、和田誠だったとも言えるのだ。その表紙原画が多数出ている。もちろんジャズミュージシャンの肖像も楽しい。 

 「ちひろ美術館」というのは、言うまでもなく「いわさきちひろ」の個人美術館である。いわさきちひろ(1918~1974)は、子どもを描いた童画タッチの水彩画で知られているが、あんまり関心はなくて、今まで行ったことはなかった。どっか「あっちの方」にあるなあとしか思ってなかった。東京の東側の方に住んでいると、個人美術館は大体東京の西の方にあるなあという感覚になる。同じ東京と言えど、家から1時間半ぐらいかかるから、時々フラッと行くというような場所ではない。

 調べてみると、西武新宿線上井草駅から歩くのが近い。西武池袋線石神井公園駅からバスで行くというのもあるけど、上井草からの方が近そうだ。家から3回乗り換えて西武新宿線に乗って、さらに準急から一駅前で乗り換え。都合4回も乗り換えたけど、畑もあるような郊外ムードも残る地域だった。案内は多いので間違えない。非常に素晴らしい美術館で、今まで地方で何回か訪れた地方の美術館、文学館を思い出す。小さいけれど、休める場所が多くていい。またカフェで、美味しそうなケーキなどが出ていて、つい寄り道した。「風の歌を聴け」にある「ホットケーキのコカコーラ掛け」も限定数量で出している。まあ、そっちはいいなという感じだけど。なお、7月10日まで、村上春樹の本を持参すると、100円引き。

 村上春樹を一番大切に読んでいた時期は、僕には終わったかもしれない。それでも翻訳を含めて、同時代で一番読んできた作家である。「誤解」して読まない人がかなりいるのは残念。しかし、小川洋子や辻原登などと同じく、「物語」を必要とする人には確実に届く世界である。そうじゃない人が無理に読む必要はないだろう。ただし、村上春樹の主人公は「闘わない」などと、つまらない読み間違いをしている人もいる。そういう人には、80年代以後の世界で「巻き込まれずに世界と向き合う」主人公をこれほど描いて、世界中に勇気を与えてきた作家は他に何人もいないではないかと言いたい。ノーベル賞を取るかどうかなどは僕にはどうでもいい。「物語」に関心がない人でも「アンダーグラウンド」は現代日本で最も重要な本だから、ぜひ読んでおくべきだろう。
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「受胎告知」に再会-大原美術館コレクション展

2016年03月18日 21時51分16秒 | アート
 東京・六本木の国立新美術館で、「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」をやっている。(4月4日まで。)東京では、たくさんの外国画家の展覧会(例えば、ダ・ヴィンチやボッティチェリ、カラヴァッジョなど)をやっている。見逃せば外国へ行かないと見れないわけだが、それよりも大原美術館のコレクションを見たかった。懐かしいからである。倉敷まで行けば見られるわけだが、これだけのコレクションが東京でまとまって見られるのは滅多にないことだろう。

 2015年に北陸新幹線が金沢まで開通し、2016年には北海道まで新幹線が延伸する。それが大きな話題となっているが、1964年に東京-新大阪間が開通した日本の高速鉄道が新たに伸びた最初の年は1972年である。東海道新幹線が西へ延びて、山陽新幹線と名を変えて岡山まで延伸したのである。その年高校生だった僕は、初めての一人旅として山陽新幹線を利用して中国地方を旅行した。岡山・倉敷を見て、松江、津和野、秋吉台、広島とめぐった。岡山もだけど、広島もそれ以後行ってないのである。全部ユースホステルに泊った旅だった。

 その時に見たのが、倉敷の大原美術館。倉敷の街並み(美観地区)も良かったけれど、この美術館も良かった。エル・グレコの「受胎告知」はその時に見たのを覚えている。他にもゴーギャンやモネやキリコを見たのを覚えている。もちろん、もっと飾ってあったわけだが、どれを見たか見てないのか、もうよく判らない。「受胎告知」がそんなに好きか、素晴らしいかと言われると、正直言って実は判らない。ヨーロッパの宗教画には理解しがたい面があるが、それでも有名だということで覚えているんだと思う。

 さて、今回の展覧会場に入ると、まず古代オリエント、古代中国の美術品が展示されている。解説でも「意外に思われるかもしれないが」と書いてあったが、このような発掘されたエジプトやペルシャの収蔵品に名品が多かったのは確かに意外だった。続いて、海外、日本の画家の作品。ここに「受胎告知」の他、セガンティーニ「アルプスの真昼」とか、ゴーギャン「かぐわしき大地」などがある。が、それに続く日本の絵に、重要文化財指定の2作品、関根正二「信仰の悲しみ」小出楢重「Nの家族」、さらに藤田嗣治「舞踏会の前」佐伯祐三「広告“ ヴェルダン”」など素晴らしい作品が多い。大原美術館開館以後に、同時代的に収集してきた素晴らしい作品群である。

 続いて、民芸運動の作品。棟方志功、富本憲吉、バーナード・リーチ、芹沢介、濱田庄司、河合寛治郎の作品群。さらに戦時中の作品。そして現代美術。ジャクソン・ポロックやジャスパー・ジョーンズなどの作品。そして河原温「黒人兵」など。これらはまあ昔は見てないような気がするが、自分の記憶にないだけなのか。そして、最後に21世紀に大原美術館が企画して若い画家に滞在してもらって描かれた大作群。これらが素晴らしいのである。単に過去を展示するだけでなく、一貫して「芸術運動」の発信基地となってきた大原美術館の現在を見て、感慨と感動を覚える。最後に思わぬプレゼント。

 大原美術館は、倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)などを創業し大原財閥を築いた実業家、大原孫三郎(1880~1943)が、1930年に倉敷に開設した。大金持ちが集めた美術品を展示する美術館はその後いっぱい作られるが、その先駆けと言えるような重要なところである。大原孫三郎は本当に偉大だと思うのだが、美術館以外に教育、農業、福祉などにも尽力した。反対する者もいたらしいが、「わしの眼は十年先が見える」と言って押し切った。この題名で城山三郎が書いた伝記小説がある。中でもすごいと思うのが、「大原社会問題研究所」。社会問題の研究機関で、戦前の労働運動、社会運動のぼう大なコレクションがある。社会主義的な団体の史料も多いわけで、よくその収集を続けたものである。故あって東大を去った高野岩三郎、森戸辰男などがここに集い、戦後に活躍できる基盤となった。戦後に法政大学に移管され、「法政大学大原社会問題研究所」となっている。僕もここにしかない史料を見に行ったことがある。京王線めじろ台駅からバスで行くというので、都心から遠いんだけど。そういう重要なものを作った大原孫三郎という人はエライと感嘆するのである。
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恩地孝四郎展と「ようこそ日本へ」展

2016年02月27日 00時24分55秒 | アート
 東京国立近代美術館で、近代の抽象版画の大家、恩地孝四郎の本格的な展覧会が開かれている。28日までなので、今日行ってきた。ところで、同じ28日まで「ちょっと建築目線で見た美術」という展覧会と「ようこそ日本へ」という展覧会も開かれている。時間がなくて「建築目線」の方を見る時間がなかったのだが、「ようこそ日本へ」展が面白かったので、そっちから紹介。
 
 これは副題を「1920-1930年代のツーリズムとデザイン」と言い、大正から昭和戦前期の日本観光のポスターを中心にした展示である。そんな時代に国際観光があったのか。第一次大戦後の国際協調時代ならともかく、1929年の世界恐慌以後は世界は戦争の時代へと傾斜していく。日本も満州事変をきっかけに国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩む。という視角だけで見ると、当時の日本政府が国際観光を呼びかけているのが不思議に思えるが、実際は連盟脱退で円安が進行し、観光客が訪れやすくなっていたという。そして、1936年にはベルリンで五輪が開催され、1940年には東京で五輪が開催される予定だった。円安と五輪、今と同じではないか。

 違うのは、当時の日本イメージはもっと広かったということである。つまり「大日本帝国観光」である。「帝都東京」と「古都京都」、「霊峰富士」などと並び、朝鮮半島の金剛山、台湾の新高山(玉山、富士山より高い当時の「日本一の山」)、そして大連ヤマトホテルに泊って翌日から「特急あじあ号」で「満州国」の観光へ。それもまた日本観光の目玉だった時代なのである。だから「日本海時代」などというポスターまで作られた。いやあ、時代に先駆けているではないか。そのポスター。
 
 現在のJTBである「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」ができたのもこの頃。国立公園制度だって、この国際観光振興のために作られたのである。もちろん、飛行機で来る時代ではない。大型商船で来るのである。だから、商船のポスターが多い。実に魅力的である。そういう「忘れていた」、あるいは「忘れたかった」日本観光のイメージを再確認できる。なお、この前「春の夜の出来事」という映画について書いた時に触れたけど、赤倉観光ホテルや蒲郡ホテルなど、今も残る国際観光ホテルがいっぱい作られたのもこの頃。そういうクラシックホテルに泊まってみれば、少し時代の追憶に浸ることができる。

 恩地孝四郎(1891~1955)の方は、いっぱい版画(だけではないが)が並んで、満腹。僕にはうまく表現できないんだけど、この世界的な版画家の全貌が展示されている。萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀を担当したことでも知られる。北原白秋や室生犀星など多くの作家・詩人の本を装幀した。それらも大量に展示されている。戦中にはやはり「戦争版画」を作っていた。「大東亜会議」に来たビルマのバー・モウの肖像版画もあった。戦後になると、抽象が温かい感じになっていき、見ていて飽きないし、癒されるような作品が多かったので、ホントはもっとゆっくり見たかった。ちょっと体調がいま一つで、若い時期はなんだかじっくり見る気になれなかったのが残念。そこから、今度は同じ国立近代美術館でもフィルムセンターへ回って「尻啖え孫市」を見て帰るが、映画を見ているうちにだんだん体調が戻ってきた。(美術館のある竹橋のあたりも、80年前の「2・26事件」の舞台だったが、美術館で使ったコインロッカーの番号が「226番」だったことに開けるときに気づいた。
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国宝・曜変天目を見る

2015年09月11日 23時53分14秒 | アート
 ここしばらく強い雨が続いていた。台風と秋雨前線のためで、茨城県常総市で鬼怒川が決壊するなど、ちょっと考えがたい被害が起こっている。自分の家のあたりは雨の災害にあったことはまずないけれど、使っている電車が栃木県や茨城県に通じているので、ダイヤが大きく乱れてしまった。よく行く日光なんかも、電車が不通になっている。鬼怒川温泉でも大被害。確かに、特に水曜日(9日)などものすごい雨が終日降り続いていた。(ちなみに「常総市」と言われても、どこだという感じだが、水海道(みつかいどう)市が石下町を編入して2006年に出来た市名である。)

 書きたいことがまたたまるので、今日は頑張って二つ書きたいと思っているが、新聞切り抜きをしているうちに遅くなってしまった。時事問題系はもう一つに回して、まずは今日見た「藤田美術館の至宝展」の話。六本木のミッドタウンにあるサントリー美術館で、9月27日まで。昨日までは映画を見るつもりだったのけど、疲れていたので突然こっちに行こうかなと思って、仕事帰りに久しぶりにサントリー美術館へ。前売り券を買ってあるので、早く行ってしまいたい。藤田美術館というのは、大阪にある美術館で藤田組を作った明治の実業家・藤田傳三郎(1841~1912)とその長男、次男のコレクションを収める。藤田組というのは明治時代にはよく聞くけど、今はどうなっているのかと調べてみたら、同和鉱業を経て、今はDOWAホールディングスという。そこから別れたのが藤田観光で、椿山荘、箱根小涌園、ワシントンホテルなどを展開している。
 
 藤田美術館というのは、年中公開している美術館ではなく、なかなか行きにくいようだ。その前にまず大阪に行ったことが数回しかない。「維新国の首都」だから、しばらく足を踏み入れる予定もない。こうなると予想して、数年前に(まだ橋下知事だった時代に)、リバティ大阪(大阪人権博物館)やピース大阪(大阪国際平和センター)はたっぷりと見学して記憶に焼き付けてきた。ということで、今回は大変貴重な機会。国宝、重文がいくつもあるすごい展覧会である。例えば、奈良時代8世紀に作られた「大般若経」。あるいは「紫式部日記絵詞」。さらに「玄奘三蔵絵」。まあ、大般若経はよく判らないから、字を見るだけだけど、絵は素晴らしい。いずれも国宝。快慶作の「地蔵菩薩立像」も素晴らしかった。

 入り口は3階なんだけど、まず4階から展示が始まり、「第1章 傳三郎と廃仏毀釈」が出てくる。この宗教美術がもしかしたら一番いいかもしれない。続いて「国風文化へのまなざし」「傳三郎と数寄文化」となる。曜変天目はどこだという気持ちで見てしまうので、つい急ぐのが残念。3階に下りてきて、「茶道具収集への情熱」「天下の趣味人」となる。「曜変天目」と書かせるけど、普通は「窯変」である。要するに焼いた時の予期しない変化だけど、特に星の輝きのような模様になった物を日本で「曜変」と呼ぶ。中国の福建省建陽市で作られたというけど、こういうことは今調べたこと。世界で3つしかない。いずれも日本にあり、国宝指定。(もう一つ、重文指定のものがあるが、曜変ではないという説もあるという話。)一つが、今回の藤田美術館だが、もう一つが世田谷の静嘉堂美術館。三菱系の美術館だけど、今は改修中。両方の写真を並べてみる。最初が今回見たもの。
 
 これが案外小さくて、ちょっと「へえ」という感じがあった。もう一つがあるだろうということになるが、それは京都にある「龍光院」所蔵。大徳寺の塔頭だけど、一切公開しないという。国宝4つの他、建築も含めて多くの重文もあるが、特別公開もしないという。ということで、見られないから写真も載せない。「曜変天目茶碗」を見ると、確かに美しいのである。だけど、同時にそれは一種の「破格」の美でもある。デザインにシンメトリーが全くなく、偶然にできたものだからである。しかし、それを「破格」と見てしまうのなら、日本で作られた志野などの方がしっくりくるという部分はないだろうか。僕がどうしても感じてしまったのは、志野の破格の懐かしさだったとも言える。茶に素養も経験もない自分には茶道具のことは判らない。いっぱい並んだ茶道具を見て、これは判らないなと思った。自分は要するに、彫刻や工芸の一種として陶芸を見るしかない。

 日本で国宝に指定されている茶碗は数少ない。他に中国・朝鮮のものでは、大阪市東洋陶磁美術館の油滴天目茶碗や孤篷庵に伝わる「井戸茶碗」などがある。しかし、日本の物では国宝は二つ。三井記念美術館の「志野茶碗 銘卯花墻」とサンリツ服部美術館(長野県諏訪市)にある光悦の「楽焼白片身変茶碗」である。この二つはどっちも見ている。驚くほど素晴らしいと思う。僕には評する言葉が出ない。やっぱり「曜変天目」より好きなのではないかと思う。写真を見つけて載せておく。前者が志野、後者が楽焼。それはとにかく、この展覧会は本来、最初の方をじっくり見るべきなのではないか。見応えのある日本美術の集成であり、昔の実業家はすごかったと改めて思う。
 
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エリック・サティ展

2015年08月20日 23時00分35秒 | アート
 昨日のことになるが、渋谷のBunnkamuraでエリック・サティ展を見て、ユーロスペースで「野火」を見た。映画の話は時間がかかりそうだから明日にして、まずは「エリック・サティとその時代展」。
 
 エリック・サティ(1866~1925)という人は、20世紀初頭のフランスで「音楽界の異端児」と言われた作曲家だが、後の時代の芸術に大きな影響を与えた。日本では70年代半ばころから注目を集めるようになったが(雑誌ユリイカが特集を組んだのが74年5月号)、最初の頃は聞いていても違和感の方が大きかった。いつの間にかCMにも使われるようになったりして、僕も違和感どころか「癒し」を覚えるようになり、今も一番聞いている音楽と言っていい。

 今回は「キャバレーから前衛へ」とうたい、19世紀末のキャバレー音楽時代から始まる。当時のポスター(ロートレックなど)も展示されている。その後、次第に前衛的な芸術家との交流を深めていき、ディアギレフのバレエ・リュスのため「パラード」を作曲した。これはコクトー台本、ピカソ美術というすごい顔ぶれの作品である。その舞台の様子も展示されている。また、マン・レイが「目を持った唯一の音楽家」と呼んだということだが、マン・レイ作がサティをイメージした作品も展示されている。

 このような20世紀前半の前衛的な芸術運動に関わりを持った面が中心的な展示になっている。もちろん譜面などの展示もあるが、それらは僕は見てもよく判らないので、どうしても絵などを見て回ることになる。そうするとフランスを中心とする前衛芸術の流れを見ることになる。その意味で、誰にも興味があるという展覧会ではないと思うけど、エリック・サティという名前に惹かれる人には避けて通れない。

 僕のいとこが音大に通っていて、サティという名前をよく聞かされた。70年代半ばには、秋山邦晴・高橋アキ夫妻を中心にして、エリック・サティの連続演奏会が開かれていた。音楽評論家の秋山邦晴(1929~1996)は当時「キネマ旬報」に「日本の映画音楽史」を連載していて、名前を知っていたし影響も受けた。御茶ノ水の日仏会館があった時代、そこでルネ・クレールの「幕間」を上映した時に見に行った記憶がある。その短編映画の音楽がサティである。それ以上に思い出深いのが、渋谷のジァンジァンで行われた「ヴェクサシオン」の演奏会。これは同じフレーズを840回弾くと指定されたピアノ曲だが、それを一晩ががかりで何十人かが演奏したのである。有名な作曲家やピアニストが続々と登場して、豪華な顔ぶれだった。朝の渋谷をすぐ帰るのがもったいなくて原宿まで歩いて帰ったような記憶がある。もう何年のことだか覚えていなし、検索してもよく判らない。70年代後半のことである。

 昔、新宿の伊勢丹に美術館があったころ、エリック・サティ展が開かれたことがあり、その時に買った高橋アキさんの弾くCDをいつも聴いている。そんな思いでがあるからでもないけれど、何人も持っているサティのCDだが、高橋アキの弾くサティが僕には一番しっくりするように思うのである。Bunnkamuraザ・ミュージアムで30日まで。
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ブリジストン美術館の「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展

2015年03月07日 23時55分08秒 | アート
 東京・京橋にあるブリジストン美術館が本社ビル建て替えに伴い長期休館するということで、その前に「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展を開催している。3月31日からは展示替えがあり、青木繁「海の幸」なども公開される。(5月17日まで。)3月17日から31日は、学生無料ウィークと銘打ち、大学生、高校生が何度でも無料で入れるとのことである。フランスや日本の近代美術を中心に、魅力的なコレクションを誇っていて、今までにも見た絵が多いんだけど、数年間休館するなら見ておこうかと思った。フィルムセンターの近くなので、最近ずっとアジア映画特集に通ってるので、その前に寄るのに好都合。
 
 まず、最初の部屋にブリジストン美術館の開館(1952年)以来の歩みが展示されている。その前には彫刻の数々。あまり触れられないのだが、ここにはブールデルやロダンなどの近代彫刻、さらにエジプトやギリシャなどの古代彫刻がかなり多い。絵を見てると疲れてしまって、彫刻は通り過ぎてしまったりするが、すごくもったいない。さて、絵の展示室に入ると、モネシスレーセザンヌ等の素晴らしい絵が並んでいて、さらに名を知る画家の作品が続々と出てくる。名前は誰かなと心で思い出しつつ見ていくと、ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、アンリ・ルソー、ルオー、マティス、ピカソ、クレー、モンドリアン等々、僕らが何となく知ってる画家の特徴に合うような絵が並んでる。逆に石橋の選択が、日本人好みを選んでいて画家の印象を作ってきた側面もあるのかもしれない。

 先に載せた最初のチラシはピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》(1923)という作品で、ピカソの新古典主義時代の代表作だという。これは1980年の収蔵品だという。それより印象派やポスト印象派の作品群が強い印象を残す。特にセザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904~1906年頃)は、前にも何度か見てるけど非常に力強くて、またいかにもセザンヌ作品というイメージ。

 1987年に購入したルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(1876)が絵葉書の売り上げダントツ1位だという。35歳のルノワールが出版業者のシャルパンティエに頼まれて描いた。ジョルジェットは当時4歳。父親は当時ゾラやモーパッサンの小説を出していたという。確かに実に愛らしい。一体、この子は近衛の後、どのような人生を歩んだのだろうと夢想を誘われる。1876年の絵で4歳だから、1872年生まれ。1914年の第一次世界大戦時には、42歳ということになるわけだが。

 その後、日本近代絵画、特に藤島武二、安井曽太郎、藤田嗣治、岡鹿之助等の名品が続々と出てくる。最後に現代美術の部屋もあって、ついじっくり見なくなってしまうのだが、これももったいない。

 ブリジストンというのは、もちろん世界的タイヤメーカーを作り上げた初代・石橋正二郎のコレクションに始まる美術館である。石橋は福岡県久留米の出身で、青木繁、坂本繁二郎と同郷である。若くして亡くなった青木作品の散逸を恐れる坂本のすすめで、青木作品を集め始めたのが始まりという。青木繁の絵は久留米の石橋美術館に収蔵されていたが、2016年9月をもって石橋財団から離れて収蔵品は東京に移るとされている。地方の名だたる美術館の役割をめぐって議論されているが、その是非はともかく、一度は見ておきたい絵ばっかりの展覧会。(チラシに割引券が付いてるが、ホームページにも100円引き券がある。)
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海老原喜之助展を見にいく

2015年02月11日 21時37分45秒 | アート
 横須賀美術館で4月5日まで開かれている海老原喜之助(えびはら・きのすけ 1904~1970)の展覧会を見に行ってきた。遠いので、車で行ったんだけど、話は逆で車で行きたい場所に行ってきたのである。(その話は最後に。)横須賀美術館というのは初めて行ったけど、横須賀も先端の方、観音崎に近い当たりで観音崎京急ホテルの真ん前あたりにあった。ここは昔泊まったことがある。その時は、翌日に浦賀のペリー碑などを見て回った。幕末の土地勘を得るために、一度は行きたい場所。
 
 海老原喜之助といっても、知らない人が多いと思う。僕もよく知らない。だけど、いろいろな美術館でひとつ二つと見ることがあって、特に出身地の鹿児島を旅行した時にたくさん見て、どれも気に入った思い出がある。そういう風に、何となく「妙に気になる画家」がいるものである。美術館の目玉としてたくさん展示してある画家ではなく、「所蔵品展」の中に一つぐらい架かっている。それが結構いい。名前を憶えていると、次にまた別の美術館で出会う。外国の画家だと、キスリングという人が同じく気になる画家なんだけど、日本の画家では海老原喜之助という名前を憶えていた。

 その海老原喜之助の生誕110年を記念した展覧会で、ここで初めて画業の全貌を目にすることができた。1904年に鹿児島市に生まれた海老原は、19歳で単身で渡仏、藤田嗣治に薫陶を受け、「エビハラ・ブルー」と呼ばれた雪景色の絵などが有名になった。この時期が第一の時期で、ブリューゲルの影響を受けた雪景色の絵や、デュフィを思わせる地中海の絵などを描いていた。ベルギー女性と結婚し、フランス画壇で活躍した若き日々である。下の画像の「雪景」(1930)がその時期の作品。しかし、妻とは別れ、1933年に帰国。詩情あふれる作品を次々に発表し、若い画家の絶賛を得たという。代表作のひとつで、チラシの表紙に使われている「曲馬」(1935)がその時期の作品で、馬も人も詳しくは描いていないのに、一度見たら忘れられない懐かしい世界が描かれている。背景の空の青も素晴らしい。

 戦争末期に熊本県内に疎開し、その後人吉、熊本で活動した。デッサンをたくさん残し、後進の教育にも力をつくした時期という。その時期は力強い構成の圧倒的な作品が多い。下に画像を載せておく「船を造る人」(1954)に戦後のエネルギーの一端がうかがわれる。1960年代になると、神奈川県逗子市に移住し、さらにパリにわたって絵を描き続けた。藤田嗣治が死んだときには、教会で最後のあいさつを(藤田の妻に代わって)行ったという。しかし、パリに移住した海老原に残された歳月は少なく、1970年に肺がんで死去した。一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、(鹿児島や熊本ではもっと知られているだろうが)、非常に心に残る画家だと思う。1934年に描かれた「ボアソニエール」(魚売りの女性)など、忘れがたい詩情が漂う。最後の頃は、フォーヴィズム風の力強い絵が多く、生涯にわたって歩み続けた画家だと思った。
  
 さて、昔はよく山へ行ったりして、そのために大きな(昔は流行ったけれど、いまどきは全然見かけなくなった)、後ろに替えのタイヤを付けた「RV」というタイプにずっと乗ってきた。一度買い換えたんだけど、使い勝手がいいので10年を超えても乗っていた。だけど、税金は高いし、燃費は悪いし、山はもう行かないから、いいかなと思っている。最後に旅行でもしたかったんだけど、個人的な事情で難しかった。車検も近いので、最後にどこかドライブしてこようと思って、横須賀美術館に行ってきた。

 小さいころは車酔いするタイプで、大人になって車に乗るようになるとは思わなかった。運転していると、無念無想で車と一体化できるので、(電車なら本が読めるという利点もあるけど)、思ったより自分が運転好きだと知って驚いた。自分の車で、北海道の利尻、礼文島から、九州の阿蘇、霧島などまで行った。今のクルマでは、四国に行って石鎚山、剣山に登ったり、祖谷温泉に泊ったりした。熊野古道に行ったときは、台風の直撃を受け、吉野川があふれて通行止めになった。そして一番の思い出は、震災のボランティアにこの車で行ったこと。上の画像のクルマ。
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須賀敦子展と石川文洋展

2014年11月18日 23時28分12秒 | アート
 神奈川近代文学館で、11月24日まで須賀敦子展ををやっている。そのことは知っていたけど、会期末が迫ってきて、これは逃してはいけないということで、今日横浜まで行ってきた。
 
 須賀敦子(1929~1998)が亡くなって、もう15年以上過ぎてしまった。イタリア文学の優れた翻訳者として知っていた須賀敦子という人が、「ミラノ 霧の風景」で突然読書界にデビューしたのは、1990年、すでに61歳になっていた。評判になり、一読、並々ならぬ力量に感嘆するとともに、その背景にあるだろう世界の奥深さに恐れを抱いたものである。続いて書かれた「コルシア書店の仲間たち」(1992)では、ミラノにあったカトリック左派の書店を舞台に、後に夫となるペッピーノ(ジュゼッペ・リッカ)との出会い、その家族との深いつながりを描いた。僕はこの作品に深く心を打たれ、何度も何度も読み返した。まるで映画「鉄道員」のような貧しい鉄道員一家に生まれた夫、60年代の熱狂と社会変革への熱い思いを共有しながら、やがて立ち行かなくなるコルシア書店。そしてわずか6年間の結婚生活を残して、あっという間に先だった夫。一度読んだら永遠に忘れられない世界。間違いなく、現代に書かれたもっともすぐれた文章表現だと思う。

 こうして20世紀の最後の10年を須賀敦子を読むことを心の支えにして生きていったわけだが、生前に遺した著作はわずか5作、1998年に69歳で亡くなってしまうとは思いもよらないことだった。「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」を書き、様々な翻訳、特にナタリア・ギンズブルグやアントニオ・タブッキ、そしてウンベルト・サバなどの素晴らしい詩の数々を遺し、あっという間に逝ってしまった。没後にも多くの著作が出ているが、生前の5作の印象が強い。僕は単行本で読み、文庫で読み、さらに全集で読んでいる。今は河出文庫に全集が入っているが、さすがにそこまでは買っていない。でも文庫版全集が出ているくらいだから、須賀敦子を心の糧にしている人は思いの他多いのではないか。今日もかなりの人が来ていたようだったし。

 没後に出た追悼本の中で、夫のペッピーノの姿などには接していたが、今回の展覧会では幼年時の芦屋や夙川(しゅくがわ)の住まいの写真、コルシア書店のあった場所に今もある書店(中のようすはほぼ同じだという)、聖心女子大の卒論、ローマ留学時代の写真、須賀敦子がイタリア語に訳した日本文学の数々(「春琴抄」「陰翳礼讃」「山の音」「砂の女」「夕べの雲」など多数にわたる。)、そして多くの書簡や本などなど、様々な展示物に目を奪われる。まあ、須賀敦子を読んでない人には何の意味もないし、説明のしようもないんだけど。

 神奈川近代文学館は、「港の見える丘公園」を元町・中華街駅からずっと歩いて行く。寒い北風の吹く日だったけど、空は晴れて気持ちがいい。まあ今は「高速道路がよく見える丘公園」だと思うけど。このあたりは東京の学校だと遠足でよく行くところで、僕も何回か行っている。自宅からはちょっと遠いので、あまり個人的によく行くところではなく、近代文学館も堀田義衛展しか行ってないような気がする。手前に大佛次郎文学館があり、前に一度行った。今回は他のところはすべてパス。その横に陸橋があり、「霧笛橋」という。大佛(おさらぎ)の作品名から付けた名前。その先に近代文学館。
    
 丘を下りて、ずっと歩いて地下鉄の日本大通り駅まで。けっこう歩きがいがある。最近、天地真理主演の「虹をわたって」という映画を神保町シアターで見たら、元町あたりに水上生活者がいっぱいいて、そこに家出した天地真理が転がり込むという設定だった。いやあ、70年代初期までそんな生活が残っていたのだろうか。(この映画は初見なんだけど、天地真理は結構ファンだったので楽しく見られた。)元町から中華街入り口を経て、県庁のところまで。県庁前のイチョウが黄葉の初めできれいだった。その角に「新聞博物館」で石川文洋写真展をやっている。石川さんは確か2004年に、都立中高一貫校の教科書問題で集会を開いた時に講演をお願いした。中高一貫化でなくなってしまった都立両国高校定時制の出身である。石川さんのベトナム戦争の写真は、何度も見ているけれど、同時代の沖縄の写真も展示されている。12月21日まで。この新聞博物館は一度は行っておきたい場所で、なかなか勉強になる。横浜に行ったら是非。
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あしたのジョー、の時代展

2014年09月19日 23時55分22秒 | アート
 朝日問題はちょっと置いといて、また教育問題などもちょっと置いて、まず今日見てきた「あしたのジョー、の時代展」の話。前から見たかったけど、真夏は暑いのでなどと思ってるうちに、最終日の9月21日(日)が近づいてきてしまった。練馬区立美術館(西武池袋線中村橋)。
  
 いやあ、懐かしいなあ。「あしたのジョー」もだけど、当時のテレビCMが2階会場で流れてる。「大きいことはいいことだ」(森永エールチョコ、山本直純)、「オー、モーレツ」(小川ローザ)、「男は黙ってサッポロビール」(三船敏郎)…当時を生きていた人なら皆覚えているものばかり。同じフロアには当時のフォークソングのジャケットもたくさん展示されている。何と言っても岡林信康の圧倒的な存在感。高田渡の「自衛隊に入ろう」のニュアンスが今伝わるだろうか。それにしても最後は仙人みたいだった高田渡がこんなに若かったんだなあ。

 「あしたのジョー」っていうのは、高森朝雄(梶原一騎の別名義)原作、ちばてつやの作画によるボクシング漫画。データ的には、1967年暮れから1973年まで『週刊少年マガジン』に連載されたということだけど、アニメ化、実写映画化などで一番インパクトがあったのは、69年、70年頃のことだろう。主人公「ジョー」(矢吹丈)「宿命のライバル」力石徹の死闘は、比喩ではなく死闘だったわけで、両者ノックダウンのあとで力石徹は死んでしまう。それがジョーのトラウマにもなるわけだが、「打たれても打たれても決して相手に屈せず、血反吐にまみれながら強敵に立ち向かう」(展覧会の説明文)ジョーの姿は、「反乱の時代」の象徴にもなっていく。

 梶原一騎と言えば、まったく同時期に「巨人の星」の原作も書いていた。川崎のぼる作画による「巨人の星」は、1966年~1971年に「少年マガジン」に連載されていたわけで、今もなお多くの人の記憶に残る大河マンガを同時期に創作できるというのはすごい。マンガというジャンルの「伝説的な英雄時代」だったわけである。しかし、今は梶原一騎展ではないので、その話は止めておくとして、「あしたのジョー」に戻すと、矢吹丈は「巨人の星」の星飛雄馬以上の大変な環境に育ち、少年院でボクシングを身に付ける。山谷の「ドヤ街」でジョーを気にかけてきた元プロボクサー丹下段平は、毎週「あしたのために」で始まるボクシング技術を書いたハガキを送る。そして少年院で力石徹に出会うのである。そこからの経緯は省略するが、大衆文化のもっとも豊かなドラマ性に富んでいる。しかし、僕はこのスポーツもの定番の「身を持ち崩した昔の英雄」による「あしたのために」に泣かされるのである。

 力石徹の死を悼んで、実際に葬儀が執り行われたというのが、この「あしたのジョー」が最も話題になった瞬間だったと思う。1970年3月24日のことだった。場所は講談社の講堂で、何だかもっと大きな場所でやったような「記憶の改ざん」が生じていたのだが、要するに「基本的にはファン向けイベント」だった。しかし、呼びかけたのが天井桟敷の寺山修司で、ボクシング評論家でもあった寺山が司会をし、読経や焼香も行われた。この時の遺影は残されていなかったというが、今回書き直され、当日の祭壇も復元されている。これが今回の一番の目玉ではないか。僕はこのイベントの話は当時知っていたけど、もちろん出かけていない。(もちろんというのは、当時まだ中学生だったということ。)この時の写真を見ると、寺山修司のもっともカッコいい時代ではなかったかと感慨深かった。天井桟敷のポスターなんかも展示されている。

 そして、力石徹葬儀の一週間後、1970年3月31日、日航機よど号がハイジャックされたわけである。赤軍派の田宮高麿は「われわれは明日のジョーである」と有名な声明文を残した。(「あしたのジョー」ではなく、「明日のジョー」と書かれていた。)このマニフェストの意味も、当時の時代の文脈でとらえないとよく理解できないのではないかと思う。当時の運動世代は「左手に朝日ジャーナル、右手に少年マガジン」といった感じで、マルクスや吉本隆明を読みながら、一方でサブカルチャーにも親しんでいた。「明日のジョーである」という時のヒロイックな昂揚感と未来への確信、革命のために異邦に身を投じる悲壮な覚悟…、そういった時代精神の象徴として「あしたのジョー」ほどピッタリするものはなかったと思う。

 「世界同時革命」を標榜しながら、結局は「チュチェ思想」を受け入れざるを得ず、強大な権力の手ごまとして生きていくしかなかったその後の「よど号グループ」の現実の歩みを思い起こすと、何とも言えない苦い感慨を覚える。しかし、そのような時代を「あしたのジョー」は生きていたのである。赤軍派が「現実の肉体」をもって越境しながらも、実際には世界を「観念」でしかとらえられていなかったのに対して、60年代の「肉体の復権」を今回の展示では「暗黒舞踏」の土方巽(ひじかた・たつみ)に求めている。梶原一騎、寺山修司、土方巽…、その交点に存在したのが「60年代末の熱気」であり、「あしたのジョー」であるという今回の展覧会はとても興味深かった。もちろん「あしたのジョー」の原画がたくさん展示されてます。(もっと早く紹介できれば良かったんだけど。)
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素晴らしきクーデルカ展

2013年12月03日 23時23分17秒 | アート
 チェコ出身の写真家ジョセフ・クーデルカ(1938~)の全貌を見渡すジョセフ・クーデルカ展国立近代美術館で開催中。1月13日まで。今日見たんだけど、とても素晴らしいので紹介。この人は1968年にソ連が「プラハの春」をつぶしたチェコスロヴァキア侵攻事件の写真を撮った人である。東欧諸国の「ジプシー」を撮りに行っていて、侵攻前日に帰国していた。その写真は侵攻一年目の1969年に外国に持ち出され、大変大きな反響を呼んだ。その写真は2011年に東京都写真美術館で公開され、「クーデルカ展とセヴァンの地球のなおし方」の記事で紹介した。今回はその時の写真もあるが、その前、その後の写真が大部分を占める。報道写真家ではない、クーデルカの本当の偉大な業績が初めてまとまって公開された。
 
 全部で、7つのパートに分かれているが、圧倒的なのは「ジプシーズ」と「カオス」。最初と最後である。初期作品もあり、学生時代に中古カメラで撮った時から、彼は「作家」だったことが判る。実験的作品も撮りながら、彼は主に二つの領域で自分の写真を確立していった。一つは「劇場」写真で、演劇舞台のエッセンスを伝える写真群。60年代プラハで演じられたシェークスピア、チェーホフなどの舞台と俳優を永遠に伝えている。もう一つが「ジプシーズ」で、チェコスロヴァキア各地やルーマニアなどの「ジプシー」の人々を訪ね歩き、その生活のひだ、喜びと哀愁のドラマを写真に遺した。トニー・ガトリフやエミール・クストリッツァの映画で見た、東欧の「ジプシー」の生活とエネルギーを感じることができる。質量ともに圧倒的で、ドラマチックな写真の数々二はすっかり魅了された。(なお、原題は英語で「 Gypsies」。)

 そこで「侵攻」が入り、クーデルカは1070年に出国したまま帰らなかった。ヨーロッパ各国を渡り歩き、イギリスが長かったが、その後フランスにわたりフランス国籍を取得した。その間の各国で撮った写真が「エグザイルズ」としてまとまっている。うっかりするとここを見逃すが、会場に置いてあったカタログを見ていたら、こんな写真があったかなと思い、再び見直した。「ジプシーズ」に圧倒され、また最後の「カオス」が素晴らしいので、うっかり簡単に通り過ぎてしまうが、この「エグザイルズ」は一編一編が素晴らしい短編小説を書き始められるような写真である。見てると、スペインやイタリアやアイルランドで、どのような自然の中で人々の生活が営まれているか…。一つ一つの写真が深い。

 最後に「カオス」であるが、英仏海峡地帯を撮るときにパノラマカメラを使ったのをきっかけに、ヨーロッパの山奥都市の廃墟、イスラエル、レバノンなどの風景写真をパノラマで撮っていく。これは黙示録的な世界で、非常にダイナミックな写真である。「文明論的」と解説にあるが、文明論というか、昔流行った「終末論」的というか、人間以前または人間以後の世界というべき壮大な写真もある。しかし、イスラエルやレバノンでは再び戦車のある風景もパノラマで撮っている。このように実に様々な写真を撮ってきたけれど、いずれも見る者に鮮烈なイメージを喚起する写真。なお、同年生まれの日本の写真家、森山大道の「にっぽん劇場」を2階で展示している。もちろん常設展示も同時に見られるので、近代日本の名作を時間があるなら見ることができる。12月7日(土)には、飯沢耕太郎(写真批評)氏の「ジョセフ・クーデルカの写真世界」という講演も予定。時間:14:00-15:30(予約不要)。本人にも会った時のエピソードがあるという。
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チェコの映画ポスター展

2013年11月15日 22時52分43秒 | アート
 国立フィルムセンターで行われている「チェコの映画ポスター展」を12日に見た。非常に面白かったので、その日に紹介記事を書きたいと書いておいた。特定秘密保護法案の記事で遅くなったけど、12月1日までなので紹介しておきたい。
 
 僕が紹介するのは、この展覧会の面白さを多分多くの人がまだ知らないのではないかと思うからだ。8月28日からやってるけど、映画や美術、あるいはチェコ文化に関心がある人でも見てない人がほとんどだろう。その理由の一つは、場所が映画上映が中心のフィルムセンターの7階にある展示室だからだろう。そこは実質は「日本映画博物館」で、日本の映画の歴史、貴重な映画のビデオ上映、映写機材、脚本やポスターなど映画史の展示を行っている。とても面白い博物館で、映画ファンなら一度は行っておきたい場所だ。その展示室の最後に特別企画コーナーがあり、このポスター展をやっている。そこでは年間3回程度の企画展示を行い、前回はスチル写真展、次は「小津映画の図像学」である。

 入場料は200円だけど、上映がある日の映画半券を見せると100円になる。(大学生、シニアは70円のところが、40円。高校生、障害者無料。映画上映は3時と7時だが、展示室は6時で閉まるので、午後3時上映を見た場合しか意味がないが。)フィルムセンターの上映は、会場の改修で8月から10月いっぱいまで中止されていた。僕が12日に見たのは、その日の3時の回の上映を見たからなのである。常設展示は何度も見てるから、最近は大体いつも軽く通り過ぎる。チェコやチェコ映画に関心はかなりあるのだが、常設展示は見なくてもいいので、上映再開まで見に行かなかったわけである。

 それはまた、展示内容に誤解があったのである。それは「チェコ映画のポスター」展と思い込んでいたのである。チェコ映画は僕は20本くらい見てるのではないかと思う。それでもチェコの映画だけかなと思うと、見なくてもいいような気がしてしまう。チェコは戦後長くソ連圏にあり、1968年の「プラハの春」の悲劇を経て、1989年の「ビロード革命」で民主化されるまで長く苦難の時代が続いた。今国立近代美術館でやってる写真家クーデルカ、東京五輪の女子体操金メダルのチャスラフスカなどの記事を以前に書いたことがある。

 映画では、後にハリウッドに行き「アマデウス」を監督するミロス・フォアマン、チェコに居続け困難な中で映画製作をつづけたイジー・メンツェルなどの監督を生んだ。しかし、それ以上に有名なのは、チェコアニメの素晴らしさで、カレル・ゼマンイジー・トルンカなどの巨匠がいる。今回の展示ではそれらのチェコの名匠の映画ポスターもある。それらはとても興味深い。しかし、チェコ映画より興味深いポスターがいっぱいあったのである。「チェコ」の「映画ポスター展」なのである。例えば次のポスターは何の映画だと思うだろうか。
 
 何と前者は黒澤明監督の「羅生門」である。後者は羽仁進監督の1965年公開「ブワナ・トシの歌」。東アフリカに研究で赴いた日本人をドキュメンタリー的に描いた作品で、主演は渥美清。渥美清の顔と牛が発想のもとにあるイメージかと思うと、実に面白い。「羅生門」も、日本人なら三船敏郎、黒澤明、芥川龍之介などの顔がすぐに浮かんでくるので、ここまでシンプルなポスターは作らないだろう。これは日本映画にインスパイアされた「現代美術」と呼んだ方がいい。では、次。
  
 最後は画像と字から判る人もいるだろう。「ターミネーター」である。でも、前の二つは難しい。前者はフェリーニの「甘い生活」、真ん中はゴダールの「女は女である」。実に面白いポスターだと思う。そもそもこの展覧会のポスターに使われている「髪の毛に覆われた女」、これは何の映画かと言えば、ロベール・ブレッソンの「やさしい女」という作品。ドストエフスキーの原作だけど、映画や原作を超えた素晴らしい幻想画だと思う。(もっとも映画は見ていないが。)

 このように、この展覧会はチェコ映画の展示ではなく、映画を発想のもとにした素晴らしい現代美術、ポスターの展覧会なのである。日本映画ももっとたくさんある。「ゴジラ」「切腹」「怪談」など、50年代、60年代の作品がほとんど。世界映画も「シェルブールの雨傘」「イージーライダー」などあっと思うような作品である。映画に詳しい人なら、ポスターを見て映画題名を当てる一人ゲームを楽しめる。日本の60年代には、ATGの映画や寺山修司、唐十郎などの演劇のポスターに、今見ても素晴らしい熱気を感じる作品が多い。同時代のチェコでも同じような熱気があふれ、多分それは「プラハの春」につながる地下水となったのではないか。これらのポスターを作っていた人の思いを深く感じる展覧会だと思う。是非、映画にもチェコにもあまり関心がない人にも、絵やイラストが好きな人には見逃せない企画。
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ベスト・オブ・山種コレクション-絵を見に行く⑥

2012年01月26日 01時00分59秒 | アート
 六本木高校で「人権」の授業に出て、夜はアトリエ・フォンテーヌで、イッツ・フォーリーズ「見上げてごらん夜の星を」を見る。(31日まで。)もう遅いので、夜の話は後で。その前に、広尾にある「山種美術館」の「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」(2.3まで)を見に行った。前後期あって、前期も見たけどブログには書かなかった。最近絵の話を良く書いてることもあるけど、あまりに素晴らしい一品揃いなので、後期は簡単に紹介。広尾から六本木まで歩いたので、なかなかいい散歩。

 山種美術館というのは、山種証券(現・SMBCフレンド証券)の創始者である山種二(1893-1983)のコレクションを集めたものだけど、山種証券と言う会社も名前が変わって、判らない人も多くなっているかも。昭和期に活躍中のそうそうたる現役日本画家と個人的に知り合いで、直接頼んだりしてすごいコレクションを作った。僕は昔切手コレクターで、近代美術シリーズの記念切手を全部持ってるけど、そこに選ばれた絵の実物がいくつも山種にある。それらを含む、なかなか一堂に展示されないスグレモノばかりを展示しようと言う今回の企画は見逃せない。

 前期は、浮世絵の元祖、岩佐又兵衛官女観菊図》〔重要文化財〕(ちなみにこの人は信長に背いた荒木村重の子供である)、近代日本画の竹内栖鳳班猫》(はんみょう)〔重要文化財〕、村上華岳裸婦図》(切手になってる)、速水御舟名樹散椿》〔重要文化財〕などが目玉だった。重文そろい。言うまでもなく、近代絵画では国宝はまだないから、重文指定が最高ランクである。
 (村上華岳「裸婦図」)

 後期は、まず洋画が出ている。日本画で知られた山種だが、佐伯祐三は素晴らしいではないか。日本画になると、別室展示で目玉の速水御舟炎舞》〔重要文化財〕。これも切手になってるけど、実物は言葉に表現しようもなく素晴らしいですね。福田平八郎》(たけのこ)も切手になった。
 

 他に名品はいくつもあるけど、東山魁夷年暮る》は冬の京都を描いて心に沁みる。はっきり言って魁夷作品は似たような感じで多数あり過ぎて、若い時に最初に見ると心をとらえるんだけど、セルフ・リメイク感を感じるときも多い。でも、川端康成に今京都を書いておかないとと言われて書いたこの作品は素晴らしいと思う。


 他に、岩橋英遠(文化勲章受章の日本画家)の「」(えい)の素晴らしさ。横山操(新潟出身で洋画に近いような作風で力強い日本画で知られた)の「越路十景のうち 蒲原落雁」(かんばら・らくがん)は忘れられない素晴らしさ。他にいくつも名品が並んでるので、是非見るべし。
 
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「北京故宮博物院200選」展-絵を見に行く⑤

2012年01月24日 00時00分30秒 | アート
 関東地方はただいま降雪中。乾燥注意報が一月以上続いた後で、今度は先週金曜日から寒い雨の日が続き、ついに積雪になりました。寒いのでパソコンのある部屋になかなか行きたくない。でも、関東地方の場合、晴れの連続が崩れて、寒い雨の日が何回か訪れるごとに春が近づいてくるのです。

 そういう寒い日に、上野の国立東京博物館で「北京故宮博物院200選」を見てきました。エッと思う人もいるでしょう。国立博物館は月曜日休館じゃないの?そうなんですね、今日は休館日。でも、主催の朝日新聞社の会員サイト、アスパラクラブで募集していた「休館日の特別招待」ってのに当たったわけです。最近いろいろネットやハガキで応募しているけど、全然当たらない。でも腐らずに応募を続けていて良かった。

 今回は、24日まで公開の神品「清明上河図」(せいめいじょうがず)がすごいと言う話。でも全然知りません。大体、清(しん)や明(みん)の時代の風俗を描いた絵かと思っていたくらい。これは宋代の絵で、1000年近く前の絵でした。ちょっと小さくて、画面も古いから暗い。でも、驚くほど長くて、ものすごく長い絵巻物でした。日本の「洛中洛外図屏風」みたいなものかと思ってたら、スケールがけた違いの逸物でした。縦24センチながら、全長5メートル。773人の人物が描かれているというすごさ。犬やロバ、ラクダまでいます。北宋の都、開封の光景を描いたものだそうです。確かに素晴らしい。
 

 長い絵巻物は、他にも出ています。特にすごいのが、時代はずっと下って、「康熙帝南巡図巻」の11巻と12巻。色彩がぐっと明るく、皇帝の巡行図だということもあり、国家的行事のすごさが伝わってきます。あまりにも長いのでビックリ。さすがに迫力が違うな。

 中国では国宝を「一級文物」というらしいけど、もう「一級文物」だらけと言う感じ。はっきり言って「書」は全然わからない。貴重だなと思ったのは、ほとんど日本に伝わらなかったという「元代文人画」の素晴らしさ。最初のコーナーの見所はそれでした。

 そして「清明上河図」が大々的に展示され、第二展示室になると清朝の文物が展示されています。そこでは絵もあるけど、工芸品が多数出ています。また、乾隆帝の肖像画がいくつか出ていて、それがすごい。イタリアの宣教師、ジュゼッペ・カスティリオーネの描いたものです。だからヨーロッパの技法で描かれたものですが、中国では18世紀に皇帝の肖像画をヨーロッパ人が描いていたのか。それ以外にも、乾隆時代の工芸コレクションの素晴らしさに驚くばかり。

 僕は日本史が専門なので、世界史を教えたこともあるけど、中国文化史の知識は少ない。そのことを思い知らされました。大体、古い時代の文化では、日本以外ではヨーロッパのことしか知らないのが日本人の大分でしょう。ルネサンス時代の画家の名前は知っていても、中国の画家の名前は一人も知りません。小説や詩人を知ってるだけで、美術の分野は弱いな。なお、英語で「china」と言えば「陶磁器」、「japan」と言えば「漆器」ですが、中国でも日本の漆器が喜ばれ、模倣品も作られたと出ていました。日本美術では、工芸品は中国文明に伍していると思うけど、絵画の分野ではもとになる社会のスケールの違いを反映しているのかなと思った次第。

 混んでいるような展覧会は実は敬遠したくて、これも前売と買ってなかったんですが、観られて大変勉強になりました。2月19日まで。「清明上河図」は1月24日まで。その後は複製展示だそうです。
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フランスが特別だった頃-絵を見に行く④

2012年01月09日 18時03分55秒 | アート
 ブリジストン美術館「パリへ渡った「石橋コレクション」1962年、春」という展覧会をやっています。昨日が開館記念日で無料でした。適度の混み具合。1951年に開館したブリジストン美術館の名品が、1962年にパリで公開され大好評を博したといいます。その様子は映画に残されていて、中で上映されているから必見です。その時パリへ渡った作品を集めて展示するというのが今回の企画ですが、なんと2つほど所在不明作品があります。つまり50年前には、西洋美術館の松方コレクションや他の個人コレクションが少し含まれていて、50年間に行方がわからなくなってしまったというわけです。クールベとセザンヌの絵ですね。それを含めて今回は借りられなかった作品はパネルで展示されています。

 パリへ行ったのは「コローからブラックまで」と題されて、コロー、ドラクロワ、ドーミエ、クールベ、ピサロ、マネ、ドガ、シスレー、セザンヌ、モネ、ルノワール、アンリ・ルソー、ゴーガン、ボナール、マティス、ルオー、ヴラマンク、デュフィ、ドラン、ピカソ、ブラック、ユトリロ、シャガール等々の作品が並んでいます。いやあ、そうそうたる顔ぶれですね。しかも、いかにも「らしい」作品が選ばれています。マティスが5つ、セザンヌ、モネ、ボナールが4つで、特にセザンヌやマティスの絵は素晴らしかった。ピサロやシスレーなども良かったです。日本で印象派以後をどのように受容し、紹介していったのかが判る気がします。マティスが多いのに対し、ピカソやブラックは「らしくない」作品になっているのも興味深い感じです。

 こうしてみると、フランスが近代の文化に持った特別な位置の凄さを感じます。文学、思想、映画、ファッションなども含め、ある時期まで日本ではフランスを読む、見る、論じることがとても大きな意味を持っていました。明治以後、日本ではドイツやイギリスに軍事や経済で大きな影響を受けるけれど、文化ではフランスが大きかった。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」(萩原朔太郎)という時代ですね。それは「革命を起こした国」ということでもあったんでしょう。「自由と平等の国」というイメージですね。カミュ「異邦人」を学生なら皆読んでいたけど、「アルジェリア問題」を読み取ることができなかった時代でした。でも、今になると、フランスの作家とか画家とか、現存の人で誰か知ってますか?という感じですね。ノーベル賞を取った作家ル=クレジオくらいかな。イヴ・サン=ローランが亡くなってデザイナーも知らない。画家は誰も知らない。

 そういうフランスが特別な意味を持っていた時代には、多くの画学生がパリを目指しました。1927年(昭和2年)に美校(現在の芸大)を出て25歳で渡仏、戦時下を除きずっとパリへ住んだ画家が、荻須高徳(おぎす・たかのり)でした。戦後も許可が出てすぐに渡仏、結局パリで客死しました。その生誕110年記念で、三越日本橋本店新館で「荻須高徳展」が開かれています。(16日まで)。パリの街角を描き続けた画家ですね。文化勲章。今回はヴェネツィアを描いた絵もたくさん出ています。ほとんど「二都物語」という展覧会ですね。パリやヴェネツィアの街角風景はすごくいいです。家に飾っておきたい。でも、どうなんだろう。今の僕たちにとって、ヨーロッパがそんなに特別な存在ではないと思う。見るならアジアの街角が見たいという感じも。そうなると、すごくうまいタッチで、紛れもない荻須自身の絵なんだけど、ユトリロや佐伯祐三でいいじゃないかという気がしないでもない。ということを感じてしまったのでした。 
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「石子順造的世界」ー絵を見に行く③

2012年01月08日 01時27分41秒 | アート
 さて、「ベン・シャーン展」を見た後、葉山から東京都府中市に足を伸ばし、府中市立美術館へ。東京の東北に住んでる僕からすると、東京の西の方で同じ方向に見えるけど、これが遠い。ここも車じゃないと行きにくい感じ。家から葉山までと、府中から家までに比べ、ずいぶんかかった。小島慶子「キラ☆キラ」を聴きながら。

 そこでやってるのは、「石子順造的世界 ―美術発・マンガ経由・キッチュ行」という展覧会。2月26日まで。


 石子順造?Who? と言う人がほとんどでしょう。1928年~1977年。もう早世して大分立ちます。僕は石子さんの「戦後マンガ史ノート」(紀伊國屋新書)を愛読しました。

 チラシにある説明を引用すると、「高度成長まっ盛り、テレビにマンガにビートルズ、学生運動アングラポップ、反芸術にハプニング、うねりにうねった喧噪の昭和40年代を一身に引き受けた評論家がありました。美術とあわせてマンガを論じ、そうかと思えばキッチュを語る。10年ほどの活躍を残しこの世を去った個性あふれるこの男、石子順造とは何者であったのか。」

 第1部、美術編。68年の「トリック・アンド・ビジョン展」を復元しながら、赤瀬川原平、高松次郎、横尾忠則らの作品を展示しています。次に、マンガ編。ここの目玉は、つげ義春「ねじ式」の原画公開です。最後が「キッチュ編」。「ゆ」ののれんをくぐって入ると、大漁旗やらモナリザのパロディ、招き猫、銭湯の背景画などなど、通俗的な雑貨物があふれています。ここだけ撮影可。

 「ぼくはキッチュといわれる諸現象の底に隠されているはずの、民衆の生活様式を発見したい。きっと、それはある。ないなら、歴史は、民衆にとってついに季節の交代でしかないだろうから。」

 ということで、面白いような、もうありふれているような。「ねじ式」は僕にとって、ゴダールの「気狂いピエロ」と同じくらい大きな影響を受けた作品です。でも基本的に、マンガは複製芸術なので、原画を見ても貴重だとは思うものの新しい発見がいっぱいあるわけではない。僕にとっては。まあ、数百年たてば国宝になるものかとは思いますが。

 キッチュ編も、今では「民衆芸術の宝庫」という問題意識は薄れてしまった感じがする。今では、商品として、あるいはマニアのコレクションとして存在することが許されてしまって、そこに既成の芸術観念を壊す起爆剤を見つけることができなくなってしまったというべきでしょうか。

 そういう意味では、一番面白いのが「美術編」だったけど、それも美術の意味を壊す「反芸術」が刺激的なのではなく、「あの反抗の季節」が懐かしいというような感じ。ほんと皆一生懸命「面白いこと」を考えて、時代のイメージを広げていました。アングラ演劇、アングラ映画が、この真横にあった。ちなみに、アングラとは、「アンダーグラウンド」の略ですね。

 僕は赤瀬川原平さんがすごく好きで、昔(旅の途中でもあったので)名古屋で開かれた大回顧展にも行っています。本も大体読んでいて、20年くらい前だけど「課内クラブ」なんてものが学校にあった頃に「路上観察クラブ」を作った年があるほど。赤瀬川さんは、お札のパロディで刑事裁判になったりした。でも年をとっていろいろと変わっていった。その変わり具合に関心があります。石子順造さんは70年代に亡くなってしまったけど、その後80年代以後の30年以上がありました。そこがすっぱりと抜け落ちて、突然60年代、70年代にタイムスリップしたような展覧会で、若い人が見て感想を聞かせて欲しいなあ。
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