尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-「定番CD」の話③

2018年09月02日 21時03分15秒 | アート
 8月が終わり幾分暑さも和らいだら、もっと書きたくなってきたけど、「定番CD」の話をもう少し。僕が若い時からよく聴いているのは、なんといってもモーツァルト。ビートルズやコルトレーンはCDを買い直さなかったけど、モーツァルトはレコードで持ってた名盤もかなりCDで買い直した。レコードも聴けるマルチプレーヤーも持ってるが、やっぱりレコードは面倒くさい。

 ゴダールの「勝手にしやがれ」に、ジャン=ピエール・ベルモンドが部屋でモーツァルトの「クラリネット協奏曲」を聴く場面がある。なんていう美しい音楽だろうと思った。学生時代に山口昌男をよく読んでたが、どこかに「勝手にしやがれ」で「ピアノ協奏曲」が流れると書かれていた。あれ、間違ってると思った記憶があるから、学生時代にモーツァルトを聴いてたのである。

 モーツァルトの音楽をよく「天国的」と評するけど、僕も全くそんな気分だった。若い時分に見たり聴いたり読んだりして、これは人類史上の天才だと思ったのはモーツァルトだけだ。お金の問題で買えるレコードは限られるけど、それでもずいぶん持ってた。割と何でも聴く方だけど、一番好きなのは間違いなくモーツァルトだった。年をとってもずっと聴くもんだと思っていた。まさかあの天国的な澄み渡った明るさより、バッハの方がいいと思う時期が来るとは思わなかった。

 いろいろ聞いた中で、好きなのはコンチェルト(協奏曲)が多い。交響曲が嫌いなわけじゃないけど、長くて聴く方も力がいるからあまり聴かない。オペラも素晴らしいし、新国立劇場に見に行ったこともあるけど、モーツァルトに限らず一枚もCDを持ってない。(レコードやDVDも。)これも長くて高いから。ということで、聴くのはほとんど協奏曲。素晴らしいのはいくつもあるが、中でもクラリネット協奏曲クラリネット五重奏曲が圧倒的に素晴らしいと思っている。

 それもレオポルド・ウラッハ(1902~1956)のもの。オーストリアのクラリネット奏者で、ウィーン国立歌劇場とウィーンフィルの首席奏者を務めた。54歳で亡くなっているが、モノラルで残されたウラッハの音色の素晴らしさは一頭抜けていると思う。全部聴いたわけじゃないけど、ウラッハ盤を聴いたらもうそれでいいという気分になる。クラリネット協奏曲は1791年に書かれたもので、モーツァルト最後の協奏曲。クラリネット五重奏曲は1789年に書かれた。

 甲乙つけがたい名曲だが、若いころは圧倒的にクラリネット協奏曲の方が大好きだった。とにかく美しくて、心が晴れ晴れとする。その開放感が素晴らしい。しかし、だんだんもう少し憂愁の趣が欲しいと思うようになった。五重奏曲の方がいいぞと思うようになった。今じゃ、聴くのはクラリネット五重奏曲ばかりである。年とると変わるのである。クラリネットという楽器はモーツァルト時代には、ようやくオーケストラに入るようになった新しい楽器だった。どっちも友人のアントン・シュタードラーのために作曲されたもので、クラリネットの魅力を見事に引き出している。

 クラリネット以外では、フルート協奏曲フルートとハープのための協奏曲ヴァイオリン協奏曲ファゴット協奏曲ホルン協奏曲など多くの協奏曲を書いている。もちろん、27番まであるピアノ協奏曲を忘れてはいけない。ピアノ協奏曲は明るいもの、暗いものが分かれているから、どれが好きかで心が揺れる。しかし、次第に最後の27番がいいなと思うようになった。モーツァルトには伝説的な話がいっぱいあるが、僕はあまり関心がなく曲だけあれば十分だ。また「レクイエム」も素晴らしい。モーツァルトは僕などがいくら書いても仕方ないのでもう止める。
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カザルス・トリオ「大公トリオ」-「定番CD」の話②

2018年08月29日 22時34分10秒 | アート
 パブロ・カザルスの続き。カザルスに関しては、前に個人的なメールマガジンを書いていた時に取り上げたことがあった。何を書いたのかなあとふと思い出して、読み返してみた。そうしたら、カザルスの素晴らしい言葉を自分で引用していた。これは今も輝いている言葉じゃないだろうか。今こそ多くの子どもたちに読んでもらいたい言葉じゃないだろうか。

 子供たち一人ひとりに言わねばならない。
 君はなんであるか、知っているか?
 君は驚異なのだ。二人といない存在なのだ。
 世界中どこをさがしたって君にそっくりな子はいない。
 過ぎ去った何百万年の昔から君と同じ子供はいたことがないのだ。
 ほら、君のからだを見てごらん。実に不思議ではないか。
 足、腕、器用に動く指、君のからだの動き方!
 君はシェイクスピア、ミケランジェロ、ベートーヴェンのような人物になれるのだ。
 どんな人にもなれるのだ。
 そうだ、君は奇跡なのだ。
 だから、大人になったとき、君と同じように奇跡である他人を傷つけることができるだろうか。
 君たちは互いに大切にし合いなさい。
 君たちは-われわれも皆-この世界を、子供たちが住むにふさわしい場所にするために働かねばならないのだ。

 原文は詩ではなく散文なのだが、中身は詩みたいなので行分けしてみた。出典はアルバート・E・カーン編「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」という本(268頁)。原著は1970年に出て、1973年に新潮社から翻訳が出た。その後朝日選書で再刊された。(カザルスのこの言葉は、下嶋哲朗「沖縄・チビチリガマの“集団自決”」(岩波ブックレット)で知った。)

 事実上の自伝と言えるこの本には、興味深い言葉がいろいろ出ている。
 「過去八十年間、私は、一日を、全く同じやり方で始めてきた。それは無意識な惰性でなく、私の日常生活に不可欠なものだ。ピアノに向かい、バッハの「前奏曲とフーガ」を二曲弾く。ほかのことをすることなど、思いも寄らぬ。それはわが家を潔める祝祷なのだ。だが、それだけではない。バッハを弾くことによってこの世に生を享けた歓びを私はあらたに認識する。人間であるという信じ難い驚きとともに、人生の驚異を知らされて胸がいっぱいになる。」

 「私の記憶の糸をたどっていくと海に行き着く。私がほんの幼児だったときに、もう海を見つけていたと言ってもよい。あのときの海は、私が生まれたベンドレルの町の近くのカタロニアの海岸沿いの地中海だった。」
 
 若きカザルスは、ヨーロッパ各国の王室に招かれて演奏をする。スペインの王家にも庇護をうけるのだが、それでも彼は「共和派」であることを隠さない。スペイン共和制が実現し、カタルーニャに自治が認められた時代に、彼はカタルーニャの音楽文化運動の中心にいた。そして、スペイン内戦で祖国を離れた後、ついに帰国することはなかった。内戦から第二次大戦中(フランス領カタルーニャの寒村にいた)の劇的な話も熟読する価値がある。パブロ・カザルスは、20世紀を代表する音楽家の一人だが、それに止まらず、20世紀を代表する平和と民主主義の闘士だった。

 カザルスの名演はいろいろあるが、何といってもカザルストリオ(カザルス三重奏団)が素晴らしいと思う。これは、ピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーという3人で組んだ室内楽トリオである。クラシックにそれほど詳しくない僕でも、コルトーとかティボーという名はどこかで聞いたような気がする。そんな3人が組んだのだから、音楽史の奇跡と言われるのも当然だろう。1903年頃から、個人的な場で共演を始め、1905年に観客の前で演奏した。皆20代の少壮音楽家で、新しい試みに意気軒昂たる時代である。

 このトリオはその後30年ほど続き、1930年代初めに共演が終わった。もともと皆独自で活躍しつつ、時々室内楽を演奏していたわけで、正式に解散したわけではない。それぞれが大家となり別々の道を歩む時期になったとも言えるし、カザルスがスペイン共和制支援の活動に時間を取られたことも大きい。(コルトーがナチスに宥和的だったことにカザルスが反発したとも言われる。)とにかく、今はこのトリオがレコード録音に間に合うまで活動していたことを喜ぶのみである。

 村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだときに、ベートーヴェンの「大公トリオ」を聞きたくなった。そういう人は多いと思うけど、そんなにクラシックに詳しくない僕は「大公トリオ」と言われても全く知らなかった。カザルスが弾いている廉価版のCDを買ってみたが、あまりピンと来なかった。ピアノがホルショフスキ、ヴァイオリンがヴェーグという人で、全く知らない。カザルスといったらカザルス・トリオだと知るようになって、カザルス・トリオ盤の「大公トリオ」も買ってみた。

 これはすごい。すごくいいではないか。優雅にして、心弾むような抒情。もう、紛れもない名演で、クラシックに詳しくなくても、聞けばすぐ判ると思う。やはり、カザルス・トリオはすごい。「大公トリオ」というのは、ベートーヴェンが1811年に作曲したピアノ三重奏曲。(ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 作品97)ハプスブルク家のルドルフ大公に献呈されたので、「大公トリオ」と通称されている。ルドルフ大公はベートーヴェンのパトロンとして有名だった。

 僕の買ったカザルスのCDセットには、他にシューマンの「ピアノ三重奏曲」、メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲」、ハイドンの「ピアノ三重奏曲」なども入っている。いずれも名演だなと思わせる録音で、大昔のモノラル録音だということを感じさせない奇跡の演奏だと思う。
(パブロ・カザルス)
 カザルスは音楽的には保守的な感性の持ち主で、20世紀の作曲家は認めなかった。シェーンベルクとかエリック・サティならまだしも、ストラヴィンスキーとかラヴェルも認めなかったらしい。何よりバッハ、そしてベートーヴェンという人で、それでいて政治的には熱狂的な共和派。だけどヨーロッパ各国の王室と親しいという人だった。しかし、何十年も立つと、とにかく名盤だけが残る。
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カザルス「無伴奏チェロ組曲」-「定番CD」の話①

2018年08月28日 22時21分55秒 | アート
 レアものに続いて「定番CD」の話を何回か。レコードの時に一番聴いてたのは、多分モーツァルトだと思う。ずいぶん持ってた。フォーク系の歌やポップス、歌謡曲、海外のヒット曲などももちろん聴いてたわけだが、大体ラジオやテレビで聴いてた。LPレコードを買うとなると、クラシックやジャズなどが多かった。モーツァルトのことも後で書くと思うけど、あんなに素晴らしくて天国的だと思っていた音楽だけど、年を取ったらバッハの方がよく聴くようになった。中でも、他のCDを圧して一番よく掛けてるのは間違いなく、パブロ・カザルスの弾く「無伴奏チェロ組曲」だ。

 パブロ・カザルス(1876~1973)は、スペインというよりカタルーニャに生まれ、ほとんど1世紀近くを生きてプエルトリコで死んだ。1936年に起こったスペイン内戦以後、フランコの軍事独裁に抗議して祖国を離れ、1955年からプエルトリコに本拠を置いた。僕は「パブロ・カザルスの芸術」という10巻組CDを持ってるぐらい。すべてすごいと思うけど、バッハの「無伴奏チェロ組曲」は中でも一番。聞けば誰でも「ああ、あの曲か」と思い当たるはずである。

 これほど素晴らしい曲が、カザルスが「発見」するまで数百年間全く埋もれていたのだという。バルセロナの楽譜屋でボロボロの楽譜をカザルスが見つけて、この曲の素晴らしさを皆に認識させた。チェロの弾き方のことなど僕は知らないが、カザルスは「現代チェロ奏法」の創始者であり、チェロ奏法の革命家なんだという。そのカザルスが発見して以来、最も知られたチェロの曲はバッハの「無伴奏」ということになった。永遠の名演奏である。

 カザルスの演奏を聞くと、バッハの祈りのような響きに心が洗われる気がする。世界はなんと崇高なのだろう、というような思いが心を満たす。しかし、ロシアの偉大なチェリストかつ人権活動家だったロストロポーヴィチの演奏を聞くと、同じ曲でもこれほど違うのかと感じるのである。何という華麗で荘厳な世界だろうか。心が洗われると言うより、心が豊かな喜びで満たされる感じ。

 どちらが上ということは言えない。どっちも素晴らしい名演だろう。でもよく聴くのはカザルスである。全部の曲を二人で聴き比べることは出来ないが、ベートーヴェンのチェロ・ソナタの3・4・5番に関しては、ロストロポーヴィチのチェロ、リヒテルのピアノというCDがあって、これだけは完全にロストロポーヴィチ盤の方がいいと思う。リヒテルのピアノが大きいとも思うが。

 カザルスには語るべきことが多いので、もう一回別に書くことにしたい。名盤はいくつもあるけど、「鳥の歌ーホワイトハウス・コンサート」という素晴らしい名盤がある。1961年に、ケネディに招かれてホワイトハウスでコンサートをした時の演奏である。85歳だった。ところが、カザルスにとって、これは初めてのホワイトハウス訪問ではなかった。なんと1901年にアメリカ演奏ツァーを行った時に、ホワイトハウスへ行っていたのである。大統領はセオドア・ルーズヴェルト。それから何と60年。20世紀の二つの世界大戦を経て、再びカザルスはホワイトハウスを訪れたのである。

 このときの演奏が今でもCDで出ている。メンデルスゾーン「ピアノ三重奏曲」から始まり、クープラン「チェロとピアノのための演奏会用小品」、シューマン「アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70」という二つの曲をはさみ、カザルスの「おはこ」であるカタルーニャ民謡「鳥の歌」が収められている。クラシックは判らないなんて思う人もいるかもしれないけど、聞けばすぐに「世紀の名演」だと判る名演だ。ホント素晴らしい人だなあと感嘆する。
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高石ともや「あわてなさんな」-レアCDの話⑤

2018年08月26日 23時11分32秒 | アート
 「レアCDの話」として書いてきたけど、「レア」はこれでオシマイ。音楽の話をそんなにするつもりはなかったんだけど、なんだかまだ話がある気がしてきた。「定番CDの話」を続けようかなと思う。まあ自民党総裁選とかトランプ政権の政策論なんかを、この酷暑の中で考えたくない。オウム真理教や死刑制度に関しては、また書きたいと思っているがもう少し涼しくなってからにする。

 レアCDはいろいろあるけれど、最近よく聴いてるクラシックは「定番」が多い。最後は若いころからずっと聞いてる高石ともやさんにしよう。今回取り上げる「あわてなさんな」は谷川俊太郎の詩に曲を付けた5曲をはじめ「イマジン」や「私のこどもたちへ」なんかが入ってる。アイルランドのバンド、ザ・サファリン・ゲールと組んだもので、自分はよく聴いてるわけだが、世の中的には「レア」だろう。1997年に出たものだが、高石ともや公式ホームページから購入できる。

 世代的に70年代の「フォークソング」系をいっぱい聞いてきた。「フォーク・ポッポス 黄金時代」という11枚組のCDも懐かしいからつい買ってしまったぐらいだ。3枚組の「高田渡BOX」とか加川良のCDもあるから、レアかもしれない。当時はあまり聞いてなかったけど、「五つの赤い風船」が今もなお新しい風に吹かれているような新鮮さを持ってると思う。

 そんな中で個人的に一番思い出があるのが高石ともや(1941~)。1960年代後半に関西フォークで活躍し、「受験生ブルース」や「想い出の赤いヤッケ」などがヒットした。岡林信康と歌った「友よ」も永遠に忘れられない心の灯火だ。だけど、経歴を見れば立教大学文学部卒業で、元は北海道から東京の大学へ入ったわけである。その縁で70年代後半には、立教大学のクリスマス行事で「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」のコンサートを毎年やっていた。

 その頃から聴いているけれど、活動の様子はだんだん変わってきた。70年代初期には渡米してブルーグラスなどに触れ、帰国してからは「ナターシャー・セブン」として活動。名前の由来は福井県名田庄村(現おおい町)に住んだから。アメリカや日本の土着の歌を探し求めて「107ソングブック」(レコード大賞特別賞)を作った。そのCD版も持ってるけど、これはレアものかもしれない。「私のこどもたちへ」「」「私に人生と言えるものがあるなら」「十字架に帰ろう」とか、時々無意識に口ずさんでいる歌は大体その107曲の中にある。

 82年にナターシャー・セブンのマネージャーがホテル・ニュージャパンの火事で死亡し、活動は停止。その後はマラソンやトライアスロンの選手としても活動。100キロマラソンやアメリカ横断などにも挑戦、「君はランナー」「孤独のマラソンランナー」「自分をほめてやろう」などランナーを歌った曲を多く作っている。「自分をほめてやろう」は有森裕子の言葉で有名になった。また三浦雄一郎のクラーク記念国際高校の校歌なども作っている。(通信制だけど北北海道から甲子園に出場したこともあり、甲子園で流れた。)そんなことを書いてるとキリがない。

 「あわてなさんな」には谷川俊太郎の詩が5曲ある。「一人ぼっちの裸の子ども」「ワクワク」はもっと前の作った曲だが、「父の唄」「あわてなさんな」「じゃあね」はこのCDのために作った。その年の年忘れコンサートでは谷川俊太郎がゲストで登場し、それこそワクワクする対談を繰り広げた。「じゃあね」は老いがテーマだけに、これから大切になってくる歌かもしれない。

 それから日本語訳詞の「イマジン」が入っている。これはオノ・ヨーコ公認の唯一の訳詞である。これはどう訳しているか、ぜひ確かめて欲しい曲。そして何度聞いても、こんな美しい歌があるのかと思う笠木透作詞・作曲の「私のこどもたちへ」。毎年年忘れコンサートで聴いてるから、僕にはレア感が全然ないけど、まあ最後はずっと聴いてる人を紹介するということで。個人的な思い出を書き始めると、いろいろあるのでここでは書かないことにする。
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中山千夏「ぼくは12歳」-レアCDの話④

2018年08月25日 23時02分58秒 | アート
 もう少し「レアCD」の話を。先ごろ映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」を見て、たくさん持ってたはずのCDをしばらく聞いてないなあと思った。どこにあるのか探してしまったが、10枚以上持ってたのにはビックリした。90歳を超えて人気者となったコンパイ・セグンドなんか、今ではレアものに入るかもしれない。他にもエストニアのジャズ・ピアニスト、トヌー・ナイソー・トリオのCDを2枚持ってる。これもレアだろうが、ジャズのことは詳しくなくて語ることがない。

 4回目には中山千夏の「ぼくは12歳」について書きたい。CDを持ってる人は少ないと思う。もっともレコードで持ってる人はかなりいるだろう。2回目で書いた高橋アキの兄である高橋悠治が作曲している。作詞は岡真史。名前を覚えている人はどれだけいるだろうか。在日朝鮮人作家の高史明(コ・サミョン、1932~2023)と世界史の教員だった岡百合子との子である。だが、12歳で自ら死を選んだ。彼の遺したノートが「ぼくは12歳」(1976)として出版され、大きな反響を呼んだ。

 高史明と言えば、「生きることの意味 ある少年のおいたち」(1974)を読んだばかりだった。今まで読んだ多くの本の中で最も感動した本の一つだと思う。これはちくま書房から「ちくま少年図書館」という子供向けシリーズの一冊として出た本である。日本児童文学者協会賞も得て大きな評価を得た。よりによってと言ってはなんだけど、どうしてあの感動的な本の著者に、一人息子の自死という悲劇が訪れなくてはならなかったのか。その悲しみをどう理解すればいいのか。

 僕はその辺はよく判らない。背景に何があったのか。今なら「いじめ」かと問題になるかもしれない。しかし、「ぼくは12歳」を読んで感じるのは、ひときわ感受性が鋭かった少年が世界と向き合っている姿だろう。「ひとり ただくずれさるのを まつだけ」といった、ある意味「絶唱」というべき言葉には心揺さぶられた。その詩集(のようなもの)に高橋悠治が曲を付けて、中山千夏が歌ったレコードが1977年に出された。(当時中山千夏と結婚していたジャズ・ピアニストの佐藤允彦もシンセサイザーで参加している。)僕はもちろんそのレコードも持ってる。

 レコードで持ってると、CDは買わないことが多い。だからレコードをいっぱい持ってたビートルズもCDでは持ってない。コルトレーンとかビリー・ホリデイとか、レコードでは時々聴いてたけどCDは買い直さなかった。「ぼくは12歳」のレコードを買ったのは、中山千夏にも高橋悠治にも親近感があったからだが、それ以上に岡真史という少年の言葉に深く魅せられていたからだ。でも聞いたからと言って何かが解決したわけではなかった。当たり前だけど。

 そのレコードが2006年にCD化された。DENONから紙ジャケットで発売されている。これを買ったのは、実は教材化できないかと思ってのことだった。「合唱構成 ぞうれっしゃがやってきた」や、きたがわてつ「日本国憲法前文」のように、授業で使えそうなCDという買い方もある。CDなら教室でも再生できる。実際にはなかなか難しくて、一回ぐらいしか利用しなかった。「ぼくは12歳」を21世紀の若い世代とともに聞くという授業は、誰かが試みて欲しいなと思う。
 
 それにしても、「ぼくはうちゅう人だ」や「ぼくはしなない」という言葉を残した少年に何があったのか。後者の後半では「ぼくだけは ぜったいにしなない なぜならば ぼくは じぶんじしんだから」(「じぶんじしん」には傍点つき。)と書かれていた。高史明氏はそののち、親鸞と浄土真宗に関する本が多くなる。そのことを含めて、僕にはまだどう考えるべきかよく判らない。
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本田路津子「MY PORTRAIT」ーレアCDの話③

2018年08月22日 22時26分23秒 | アート
 本田路津子(ほんだ・るつこ、1949~)が「秋でもないのに」でデビューしたのは、調べてみると1970年9月のことだった。僕は本田路津子のベストアルバムを持っているけど、そこには「天使の歌声」「オリジナル・カレッジ・フォークのすべて」と書かれている。もう知らない人が多いかもしれないが、僕はその澄み渡る歌声にすぐに魅せられた。憂いを秘めた歌詞も好きだった。

 「秋でもないのに」って冒頭に明示されているんだから、秋じゃないに決まってる。でも「淋しくて黙っていると」「沈む夕日に魅せられて」という歌詞は何となく秋っぽい。つい秋になると口ずさんでしまうんだけど、あれ「秋でもないのに」って歌詞だったと気付く。いつの季節の歌なのかなあ? 若いころに聞いた曲は何となく体になじんでいて、時々知らずに口ずさんでいる。この前はハミングしてた曲が何だったっけと考え込んでしまって、数分経って浅田美代子の「赤い風船」だと気づいたときは我ながらビックリした。全然ファンじゃなかったのに、そんなこともあるんだな。

 本田路津子はその後も「風がはこぶもの」とか「一人の手」など素晴らしい曲を歌った。特に「風がはこぶもの」は山上路夫の傑作だ。「翼をください」も「瀬戸の花嫁」も…、70年代のヒット曲をたくさん作った山上だけど、この曲も忘れないで欲しい。そしてNHKの連続テレビ小説(朝ドラ)「藍より青く」(山田太一作)のテーマ曲「耳をすましてごらん」「藍より青く」を歌った。ウィキペディアで見ると、71年(一人の手)と72年(耳をすましてごらん)と2回続けて紅白歌合戦にも出場した。

 そんな本田路津子は、いまどうしているのか? そもそも「路津子」(るつこ)という名前が珍しいが、これは両親がクリスチャンで旧約の「ルツ記」から取ったという。そして桜美林大学聖歌隊で活躍し、「カレッジフォーク」としてプロ活動をした。カレッジフォークというのは、青山学院の森山良子ら大学生でフォークソングを歌った人のこと。アメリカのジョーン・バエズの影響が強かった。そして、本田路津子は75年に結婚して歌手活動を引退して渡米した。

 ウィキペディアでも、それまでのレコードしか書かれていないが、本田路津子はその後も活動している。それは教会を中心にした讃美歌、ゴスペルの歌手としてである。もともと特に信者じゃなかったが、結婚渡米を機にクリスチャンとしての生き方を選択したらしい。讃美歌などのCDも何枚もある。僕はその中の一つ、「MY PORTRAIT」を持ってる。「秋でもないのに」や「風がはこぶもの」も最初の方に入ってるけど、後半は讃美歌。歌声が素晴らしくて、僕のように信者じゃなくても心が清められる感じがする。銀座教文館の上にあるキリスト教用品店「エレンカイム」で見つけたんだけど、エレンカイムのウェブサイトからも買える。まだまだ忘れられていないのである。
 
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高橋アキ「ためらいのタンゴ」-レアCDの話②

2018年08月21日 22時31分17秒 | アート
 ピアニスト高橋アキ(1944~)が20曲のタンゴを収録したのが「ためらいのタンゴ」(2006)というCDだ。どこかで知って買ったら素晴らしかった。人に紹介したら、タンゴも聴くんですか? と誰かに言われた。タンゴは名前しか知らないけれど、高橋アキのCDだから買ったのである。「ためらいのタンゴ」はものすごく気に入って、今もよく聴いている。でもホントに一番聴いてる高橋アキのCDは、「ベスト・オブ・サティ」である。それじゃ、全然レアじゃないから「ためらいのタンゴ」にするけど。

 高橋アキと言っても知らない人もいるだろう。何でも弾いちゃう人だけど、エリック・サティを初めとして現代音楽に取り組んできた印象が強い。兄が現代音楽の作曲家高橋悠治で、夫が音楽評論家秋山邦晴(1929~1996)だった。現代音楽に詳しくはないけど、高橋悠治は80年ころに「水牛楽団」というバンドを作っていた。タイを中心に世界の民衆の抵抗歌を紹介する活動をしていて、僕も何回かコンサートに行っていたからよく知ってる。

 秋山邦晴も70年代に「キネマ旬報」に「日本の映画音楽史」を連載していて、名前はよく知っていた。その秋山邦晴、高橋アキを中心に、フランスの作曲家エリック・サティの連続コンサートを行っていた。今ではCMでも使われるサティだが、70年代にはまだまだ日本でも異端、調子はずれ、美しくないなどと思われていた。音楽に詳しくない僕が知ってるレベルの作曲家じゃないけど、音大に通ういとこに教えられ判ったふりしてサティを聞きに行っていた。

 ルネ・クレール監督の短編「幕間」はエリック・サティが曲を付けていて、上映と実演の試みは楽しかった。(お茶の水にあった旧日仏会館だった。)またサティには「ヴェクサシオン」という1分程度の曲を840回繰り返すことと指定されたピアノ曲がある。多くの人が参加して、渋谷ジァン・ジァンで夜から朝までそれを演奏するコンサートにも行った。高橋兄妹を初め、武満徹、林光、一柳慧など著名な音楽家が代わる代わる登場して、一人10分程度弾いて交代する。そんなコンサートで、豪華というかバカ騒ぎというか、若い時だから夜明けまでのコンサートに付き合ったわけだ。

 だから高橋アキさんはエリック・サティが似合うと思っていて、特にいつか新宿伊勢丹でやった「エリック・サティ展」で買った「The Best of SATIE」は繰り返し聴いてる。僕が一番聴いたCDかもしれない。チッコリーニとか他の人が弾くCDも持ってるけど、もう抜群に高橋アキのサティがいいと思う。僕の感覚に合ってる。その高橋アキが弾く「ためらいのタンゴ」だから、是非聴きたい。高橋アキのCDでも持ってないのはいっぱいあるのに、つい買ってしまったわけである。

 タンゴは全然知らないけど、これはタンゴなんだろうか? 僕もヨーヨー・マが弾いたピアソラは持ってる。アストル・ピアソラはタンゴの革命児らしいが、ヨーヨー・マのCDが話題を呼ぶまで全然名前も知らなかった。そのCDはものすごく素晴らしくて、完全に音に浸ってしまう。しかし、ピアソラはタンゴなのか? 定義はどうでもいいけど、そのようなクラシックやジャズにも影響された独特の現代音楽。それが「ためらいのタンゴ」の世界だ。実際、三宅榛名、近藤譲、西村朗などの曲も入っている。三宅榛名「北緯43度のタンゴ」という曲なんだけど、それもタンゴなんだろう。何度聞いても、どこに魅せられるのか自分でもうまく言葉にできない。そんなCDである。
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テレサ・テン「甜蜜蜜」-レアCDの話①

2018年08月20日 23時15分36秒 | アート
 猛暑は関東ではちょっと落ち着いたけれど、今年は6月に梅雨明けしてしまってからずっと暑かった。大分疲れた気がするので、いつもとちょっと違う記事を書いてみたい。数回続けて、僕の持ってる「レアCD」(というほどでもないか)のことを書きたいと思う。 

 と言っても、僕は今はあまり音楽を聴かない。よく電車でイヤホンして聴いてる人がいるけど、僕はそれができない。ウォークマンiPodも縁がなかった。音楽が嫌いなんじゃなくて、あるいは外界に注意していたいからでもなくて、要するに「身につける」ものがダメなのである。飛行機の無料イヤホンだって、少し聴いてると耳がこそばゆくなってしまう。そんな感じだから、僕に音楽を語るほどの知識も体験もないんだけど、それでも長い間にはいろんなCDを持ってるわけである。

 最初はテレサ・テンの「甜蜜蜜」(テンミミ)。テレサ・テンはもちろん名前は知ってたけど、このCDを買ったのはピーター・チャン監督の傑作メロドラマ「ラヴソング」(1996)を見たからだ。この映画の原題が「甜蜜蜜」で、映画のテーマソングになっている。他にもテレサ・テンの曲がすごく効果的に使われていて、完全に魅せられてしまった。

 映画を見るとテレサ・テンが中華圏の人々に持っていた大きな存在感がよく判る。1953年に台湾で外省人の子として生まれ、小さなころから天才少女歌手と呼ばれ、東南アジア一帯で大人気となった。1974年に日本での歌手活動を始め、日本でもスターとなった。80年代には「改革開放」下の中国本土でも人気に火が付く。映画「ラヴソング」では本土から香港に来た男女(レオン・ライとマギー・チャン)が、テレサ・テンが好きだということで惹かれあう。

 1989年5月27日、天安門広場で民主化運動が続けられていたとき、テレサ・テンは香港で民主化支援コンサートに顔を見せ、「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌った。その後の「6・4」(天安門事件)の悲劇により、テレサ・テンが念願していた、両親が生まれた大陸本土でのコンサートは永遠にかなわぬ夢となってしまった。以後は体調を崩しほとんど活動をしないまま、1995年5月8日、タイのチェンマイで亡くなった。

 僕は「ラヴソング」が大好きなんだけど、書き始めると長くなるから止めておきたい。映画の中でテレサ・テンが出てくるが、映画製作時には亡くなっていたので、もちろん他の人が演じている。映画ではレオン・ライとマギー・チャンが何度も出会いと別れを繰り返す。テレサ・テンが亡くなったというテレビニュースを、二人がお互いに知らずに移住していたニューヨークの街頭で聞いていて運命的な再会をする。涙なくして見られないシーンだが、これを見ると「テレサ・テン」は単なる人気歌手というだけでなく、中華圏の人々の愛と苦難の象徴だったということが判る。

 その訃報シーンで流れるのが、「月亮代表我的心」(私の心は月が知っている)。情感あふれる素晴らしいラヴソングで、聴いているだけで昔のいろんなあれこれを思い出してしまう。僕にとって、そういう曲はタミー・ウィネット「スタンド・バイ・ユア・マン」(アメリカ映画「ファイブ・イージー・ピーセス」に使われた曲)とかジャニス・ジョプリンが歌う「ミー・アンド・ボギー・マギー」とか、いくつかあるけど、とりわけこの曲はアジア人の心に響くという感じ。スローなテンポが、あの頃ああすれば良かった、こうすれば良かったなどの思いを引き出してくるのだ。

 題名の「甜蜜蜜」は元はインドネシアの民謡だという。日本語題名「夢の中の幸せ」から判るように、夢の中で出会った幸福感を歌う。甜菜糖の「甜」と「蜜」二つだから、字面だけで大甘という感じの題名。映画でもうまく使われている。映画では他に「グッバイ・マイ・ラブ」と「長崎は今日も雨だった」も使われている。日本の歌も中国語で歌うと感じが違って、また素晴らしい。テレサ・テンのCDは他にも持ってるが、このCDが一番好き。今でもアマゾンでは昔のものを買えるようだ。有田芳生「私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実」(文春文庫)にも感動した。
 
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「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」を見る

2018年05月02日 21時17分30秒 | アート
 国立新美術館で7日まで開かれている「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」の終わりが近くなってきたから、ちょっと前に見に行った。半数が日本初公開だと言うし、「絵画史上、最強の美少女(センター)。」とか「セザンヌ、奇跡の少年(ギャルソン)。」とか大宣伝してるからやっぱり見ておきたい。前者はルノワール「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」で、後者は「赤いチョッキの少年)」。「美少女」に「センター」なんてルビを振るのはどうなんだと思うが。

 「ビュールレ・コレクション」は、スイスの大実業家エミール・ゲオルク・ビュールレ(1890-1956年)のコレクションで、「主に17世紀のオランダ絵画から20世紀の近代絵画に至る作品、中でも印象派・ポスト印象派の作品は傑作中の傑作が揃い」と解説に出ている。チューリヒの個人美術館で公開していたが、2008年に国際盗賊団の襲撃を受け、セザンヌ、ドガ、モネ、ゴッホの4点(被害額総計175億円)が盗まれた。チラシにある「赤いチョッキの少年」も盗まれ、2014年にセルビアの首都ベオグラードで発見された。個人美術館では警備費の負担が大きいため、コレクションはチューリヒ美術館に移管されることになり、その間に日本公開が実現したわけである。

 そういう事情を考えると奇跡的な展覧会で、印象派を中心とするたくさんの有名画家の素晴らしい絵が並んでいる。だけど、まあセザンヌやゴッホやモネやマネやドガやルノワールや…の印象がガラッと変わってしまうわけではない。僕らが今まで知っている既知の絵画観に沿った美しさで、絵に浸ることはできるけど衝撃を受けるわけではない。ヴェネツィアの風景画なんかを見て、まさしくヨーロッパの美意識に触れているなあと思う喜びをただ感じていればいいのかなあと思って見て回る。混んではいるけど、連休中は夜8時までやってるから夕方に行けばそこそこだった。

 ルノワールの美少女もいいけど、他の絵を先に挙げておくと、アントーニオ・カナール(カナレット)《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》という18世紀前半に書かれた風景画。まるで早く書かれた印象派のような素晴らしさ。カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌの雪道》は普仏戦争で自宅がプロイセン軍に占拠される直前に描かれたパリ郊外。ゴッホは盗難作品も出ているけど、僕は《日没を背に種まく人》が構図的にも面白かった。モネの睡蓮はいろんな絵を見てるわけだが、4メートルにもなる長い絵が出ている。これは写真が撮れるので僕が撮ったもの。
   
 ピエール=オーギュスト・ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」は1880年に描かれた。モデルは当時8歳で、ベルギー出身の銀行家ダンヴェール伯爵の長女イレーヌ。1872年に生まれ、1963年に亡くなったイレーヌの生涯は悲しみの多いものだった。ユダヤ系のイレーヌは、娘と二人の孫をアウシュヴィッツで失った。この絵もナチスに接収されベルリンに移されたが、戦後になってイレーヌに返還された。その後、コレクターのビュールレが競売で入手したが、展覧会の説明では「大実業家」となってるビュールレは、実は武器商人でナチスにも売って儲けたんだという。イレーヌ本人は小さい時からこの絵が好きじゃなかったというが、僕も見ていると何だか世の中の無常を予言しているかのような憂愁の美少女という感じがしてくるのだった。
(「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」)
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「チャペック兄弟と子どもの世界」展を見る

2018年04月21日 21時20分32秒 | アート
 渋谷区立松涛美術館で「チャペック兄弟と子どもの世界」展が開かれている。(5.27まで)。金曜日は夜8時までやってるので、シネマヴェーラ渋谷で見てない映画「完全な遊戯」を見る前に寄って行くことにした。チャペック兄弟というのは、20世紀前半のチェコの作家、画家である。弟のカレル・チャペックの本を最近いっぱい読んで記事にしたから覚えている人もいるだろう。兄のヨゼフ・チャペックは画家で、展覧会は主にヨゼフの作品を展示している。
 
 松涛美術館はあまり大きなところじゃないけど、チャペック兄弟展にはふさわしい。子どもや田舎の生活、児童書の挿画など、並んでいるのヨゼフの絵を見ていると、心がほのぼのとしてくる。初期は明らかにキュビズムの影響を受けているけど、だんだんナイーヴ・アートに近い作品が多くなる。子どもを主なテーマにしていることも理由だろう。ヨゼフは「ファイン・アート」(芸術絵画)とナイーヴ派や複製芸術(本や新聞の挿絵など)は同等の価値を持つと考えていた。

 カレル・チャペックは絵はあまり書いてないけど、写真に興味を持って犬や猫を撮影した。それが「ダーシェンカ」などのステキな本になっている。日本でも何種か本が出ているが、世界中でダーシェンカの本が出ている。いくつかは展示されている。彼が撮った犬や猫の写真も展示されている。まあ、本で見たのと同じだけど。それよりカメラが展示されていたのが貴重。それで愛犬のダーシェンカを撮ったのかと思うと感慨がある。

 また戯曲「ロボット」が日本で「人造人間」として上演されたときのポスターも出ている。(5.8まで。)1924年に築地小劇場で上演されたのである。演出は土方与志で、ドイツにいた時に見たことがあったらしい。このポスターは日本にあるものではなく、誰かがチャペックに送ったものが保存されていたのである。上演日なども全部漢数字で書いてあるので、チャペックは何も読めなかっただろう。しかし数奇なる旅路の末に里帰りしたポスターは、感動的だ。

 松涛美術館では数年前に「カレル・ゼマン展」を見た。チェコのアニメ作家で、夢見る子どもの心を生涯持ち続けた人だった。東急デパート本店のBunkamuraのところをずっと坂を登ってゆく。案内表示が道にあるので、しばらく道沿いに歩いていくと右側に白井晟一設計の建物が出てくる。60歳以上シニア割引があるのも良かった。(渋谷区民は無料というのもすごいが、そういえば僕は渋谷区民を一人も知らない。)2階では舞台美術のデザインの前だけ写真が撮れる。ダーシェンカのクリアファイルを売ってたんで欲しかったけど、グッと我慢して帰ることにした。
  
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「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展を見る

2018年04月05日 21時22分01秒 | アート
 板橋区立美術館で開かれている「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展を見に行った。(15日まで。)板橋区立美術館は興味深い展覧会をよくやってるんだけど、なかなか遠くて今まで行ったことがなかった。何しろ自分で「永遠の穴場」と称しているぐらい、駅からも遠い。東京区部の西北端あたりで、駅で言えば都営地下鉄三田線の終点、西高島平から13分とある。高島平というのは巨大団地があるところだけど、そこ自体初めて行った。
 
 池袋モンパルナスは、昭和の初めごろに若い画家たちが東京の池袋周辺に集まっていたのをそう呼んだものだ。それは知っているけれど、「ニシムイ美術村」って何だ? 沖縄戦の後で首里に画家たちが集まって活動したのが「ニシムイ美術村」である。そして、そこには戦前の東京で池袋周辺に集まっていた画家たちもいた。その両者の絵、さらに関連の絵を広く集めて展示するという画期的な試みである。大体、僕は米軍統治下の沖縄で描かれた美術のことなど何も知らない。多くの人も今回の展覧会で初めて知ったんじゃないだろうか。

 池袋だけじゃなく、目白通りの南側にあたる落合に住んだ画家たちも展示されている。チラシの裏側にある佐伯祐三松本竣介などである。前に落合散歩を書いたことがあるが、そこには佐伯祐三や中村彝(つね)のアトリエが再建されている。そしてそこにニシムイ美術村の中心となった名渡山愛順(などやま・あいじゅん 1906~1970)もいた。1928年、東京美術学校(現・東京芸大)在学中に帝展に入選したという人である。1944年10月10日の那覇大空襲でそれまでの作品を失い、その後大分県に疎開していた。そして戦後に沖縄に戻りニシムイ美術村を作った。

 また日中戦争下、多くの画家たちが沖縄を訪れ絵を描いていた。野見山暁治が1940年に描いた「首里城の高台から望む赤田町」、鳥海青児の「沖縄風景」(1940)など実に興味深い。さらに藤田嗣治も1938年に描いた「孫」という絵が出ている。アメリカ、メキシコで活動し、壁画運動に影響を受けた北川民次も、1936年に帰国後に沖縄を訪れた。1939年に描かれた「海王丸にて」と「沖縄風景」の2点が展示されている。どっちも沖縄県立博物館・美術館の所蔵である。
  (藤田「孫」と北川「沖縄風景」)
 そして、最後に沖縄の画家たちの作品が展示されている。先の名渡山愛順南風原朝光(はえばる・ちょうこう 1904~1961)、安次嶺金正(あじみね・きんせい)、山元恵一(1913~1977)等の絵が展示されている。と言っても誰も名前を知らない。ウィキペディアにも出てない人がある。南風原を検索すると、2月まで沖縄で展覧会が開かれていた。「彷徨の海―旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄」と題されている。すごく興味深いと思うけど、今まで全然知らなかった。
  (南風原「窓」と安次嶺「群像」)
 ニシムイ美術村は、1948年に首里の「西森」(ニシムイ)に作られた。戦前に東京の美校で学んだ画家たちが中心だったが、生きていくために米軍人から家族などの肖像画をまとめて受注する意味もあったんじゃないかと思う。台風で一年もたたずになくなったとも言われるが、関係者が戦後沖縄の文化行政や文化運動にも関わっていく。チラシ表面の下にある、山元恵一《貴方を愛する時と憎む時》(1950)のように、明らかにシュールレアリスムの絵もある。20世紀の様々な潮流の影響を受けつつ、「沖縄」の風土を感じさせる絵が多い。

 米軍統治下の沖縄文化と言えば、大城立裕の芥川賞受賞小説「カクテルパーティ」ぐらいしか思いつかない。認識に大きな穴があったなあと思った。戦後の沖縄と言えば、島ぐるみ闘争や瀬長亀次郎のことは知っていても、どんな芸術運動があったかは知らない。戦後沖縄の大衆文化もほとんど知らないが、知らないことは多いもんだと改めて知ることになった。周辺には史跡などが集まっているが、その歴史散歩は改めて別に書きたい。
  
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写真家田原桂一「光合成with田中泯」

2017年12月19日 20時44分34秒 | アート
 写真家の田原桂一(たはら・けいいち、1951~2017)がヨーロッパや日本で「舞踏家」の田中泯を撮った「光合成 with 田中泯」という展覧会を原美術館でやっている。新聞の紹介で見て、ものすごく印象的な写真だと思った。24日までなので、もう終わってしまうから見に行った。

 田原桂一と言われても、僕は写真のことはほとんど知らない。今年の6月6日に亡くなって、訃報は見たと思うけど印象に残っていない。田原桂一の写真も今回初めて見たと思う。ヨーロッパの「光」に衝撃を受けて写真を始め、「光」にこだわって建築とのコラボを世界中で作った。田中泯とのコラボは、1978年から1980年にかけて行われた「光と身体」についてのフォトセッションだと書いてある。

 チラシを見ると、パリ、ローマ、ニューヨーク、アイスランド、ボルドー、東京、九十九里浜、秋川渓谷などで、「異なった光や大気や季節の中で、ダンサーの身体がどのように反応していくのか、あるいはただ単に人間の皮膚が神経がその触手を光の中にどのようにのばして行くのか。」上の写真の画像が出てきたので載せておきたいけど、これはフランスのボルドーに残された旧ドイツ軍のUボート基地だという。環境もすごいが、そこに立ち尽くす田中泯の身体の力もすごい。

 なぜかその後ずっと忘れられていたけど、2016年に写真集にまとめられた。その後、フォトセッションも再開されたという。展覧会としては、日本初公開となる写真展。田中泯の肉体を大自然の中で撮ったモノクロの迫力が凄まじい。驚くべき写真だと思う。現代日本のもっともすぐれた「表現者」である田中泯の若き日の姿を永遠にとどめたという意味でも絶対に見逃せない。

 田中泯(1945~)はずっと昔から名前は知っていた。八王子に「身体気象研究所」があった時代に訪ねたこともある。様々な公演を見たことはないんだけど、2002年の山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」での圧倒的な存在感に圧倒された。その後は「俳優」としての活動も多いことは知られている。犬童一心監督の「メゾン・ド・ヒミコ」の、ゲイのための老人ホームを作った役がすごかった。

 原美術館は品川の御殿山にあって、駅から遠いから行くのも大変。僕は二度目である。最近は混雑が嫌で、「草間彌生展」も「運慶展」も行かなかった。今日は誰もいないところで見られたから良かった。東ガスや日航の会長を務めた原邦造の邸宅だったというところで、1938年建造の家をそのまま美術館にしている。「御殿山」というのは江戸時代から有名な山で、お台場建造でずいぶん削られたという。1862年の英国公使館焼き討ち事件が起こった場所でもある。行く途中にある「八ツ山」には三菱の「開東閣」(旧岩崎家高輪別邸)があるが、関係者以外立ち入り禁止。
 (原美術館)
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高石ともや年忘れコンサート2017

2017年12月16日 22時22分20秒 | アート
 今年も高石ともや年忘れコンサートの時期になった。書いてない年もあるけれど、僕は毎年夫婦で通っている。もう30年以上。昔は有楽町のよみうりホールだったけど、10年ぐらい前から亀戸カメリアホール。東京での山手線の東だから外れの方になるけど、僕にはかえって便利になった。

 周りを見渡すと、同じように毎年来ているような老夫婦がいっぱい。僕は若い方だろう。60年代末からフォークシンガーとして活躍している高石ともやだけど、もう76歳。いまだにホノルルマラソンを完走してから、年忘れコンサートである。もう41年目になるという。高石ともやは立教大学中退で、70年代後半には毎年立教大学のクリスマス行事でコンサートをやっていた。その頃からよく聞いていたけど、こうして年忘れコンサートに来るのが恒例になるとは想像できなかった。

 今年は大きな変化があったわけじゃない。去年は長年京都の宵々山コンサートを一緒に作って来た永六輔さんが亡くなった。一方、甲子園に高石ともやが校歌を作ったクラーク国際高校が北海道北代表で出場したとか、ホノルルマラソン40年皆走の話など、話題が豊富だった。今年はそこまで大きな話題はないけど、芥川賞作家玄侑宗久さんと語り合った話が面白かった。玄侑宗久師とはなぜか話題があう。それも道理、高田渡の家に泊まり込んだ間柄なんだという。そこで教えられたのが、肩に力が入っている歌はよくない、「鼻歌気分でHappyフォーク」がこれからの歌手活動のテーマ。

 僕が特に今年書こうかと思ったのは、毎年歌っている一年のまとめ。一年を振り返って思ったことを歌に乗せて語る。特にプロテストソングじゃないわけだけど、どうも毎年毎年時代のきな臭さへの風刺が多くなる。今年はどうしても10月に突然行われた選挙の話が出る。小池都知事が「排除します」といって自分が「排除」された。ここで思い出すのは、といって鶴見俊輔さんの思い出。「排除」しないで「思想の科学研究会」を続けてきた、フォークソングも続けるのが大事と励まされた話。

 安倍首相のことは、茨木のり子さんの詩を引用。「言葉が多すぎる というより 言葉らしきものが多すぎる というより 言葉と言えるほどのものが無い」(「賑々しきなかの」という詩の一部。)しかし、「言葉らしきものが多すぎる」とは安倍首相の発言を評するに最もふさわしい表現じゃないか。「女性が輝く社会」「一億総活躍」「人づくり革命」と挙げて、まさにこの表現以外にあり得ない感じ。特に「人づくり」は長い年月をかかるもので、「革命」で突然変えるもんじゃないという言葉に共感した。

 いつも珍しい曲と定番ソングを織り交ぜている。今年の最後は「陽気に行こう」。かつてのナターシャー・セブンの「107ソングブック」の一枚目のLPの題名だった。アメリカの伝統ソング「Keep On The Sunny Side」に日本語訳詞を付けた。「喜びの朝もある 涙の夜もある 長い人生なら さあ陽気に行こう」と歌って終わる。(まあアンコール曲があったけど。)いろいろ絶望的にもなる時代だけど、しぶとくやって行こうと年末に毎年気持ちを切り替える「年忘れコンサート」。高石さんも妻に先立たれて一人暮らし6年目。観客層も含めて、いつまであるのか、行けるのかと思いつつ、まだまだ続けば自分たちも頑張っていきたいなと思う。
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「ベルギー 奇想の系譜」展を見る

2017年08月01日 21時11分58秒 | アート
 渋谷の「Bunkamuraザ・ミュージアム」で「ベルギー 奇想の系譜」という展覧会を見た。大昔に「ベルギー象徴派展」というのを見たことがあり、また見たいと思っていたから「早売り券」というのを買っていた。今回は「ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで」と書いてある。9月24日まで。

 この展覧会は、なんとヒエロニムス・ボスから始まり、ブリューゲルルーベンス(の「奇想」的な作品)などを経て、19世紀末の「象徴派」のクノップフロップス(ボードレールと親交のあった画家)などへ続く。さらにマグリットデルヴォーなど20世紀の画家を経て、ヤン・ファーブル(という人は現代の彫刻家だった)までという長い時間を見せてしまおうという企画。だから一人の画家は割と少ない。

 僕が昔見たという「ベルギー象徴派展」はいつだったのか。その頃はカタログを買っていたから調べてみると、1982年11月12日から1983年1月23日まで、東京国立近代美術館だった。幻想的で憂いに満ちた不思議な魅力にに完全に心奪われてしまった。後に、岩波文庫からローデンバック「死都ブリュージュ」が出たが、まさにそのムード。画家クノップフという人は、父の仕事の関係で幼い時は実際にブリュージュ(ベルギー北西部の都市)に住んでいた。

 若い時にルネ・マグリットポール・デルヴォーを初めて見た時は驚いた。自分の心の中にある幻想をまざまざと見せてくれる人がいたのか。そういう思いである。まだほとんど知られていなかったから、特に初見の驚きと感激が大きかった。今見ると、もうそういう驚きはない。大体、マグリットの「大家族」とかデルヴォーの「海は近い」なんかは日本にある。前者は宇都宮美術館(そこでも見ている)、後者は姫路市立美術館。姫路所蔵の昨品が多いのは、ベルギーの都市と姉妹都市だから。

 そのデルヴォーの「海は近い」という絵は、不思議な魅力をたたえている。画像で見るのと実際に見るのは大違いである。一方、ボスやブリューゲルとなると、小さな画面に実の多くの「奇想」が描かれていて、面白いには面白いけど見るのが疲れてしまう。(だから「バベルの塔)は見なかった。)それじゃ、しょうがないんだけど、やっぱり「大きな絵」を中心にみてしまうのであった。古典から現代まで、奇想の系譜をたどる貴重な機会なので、関心のある人は是非。宇都宮、神戸と回ってきて、ここが最後。
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スケーエン派の展覧会と映画「マリー・クロヤー」

2017年02月17日 21時45分46秒 | アート
 トランプ政権の話も飽きてしまったので、そろそろ別の話。国立西洋美術館で開かれている「スケーエン デンマークの芸術家村」展を見た。世界遺産登録後初めて行ったことになる。スケーエンなんて言っても、ちょっと前まで聞いたこともなかったんだけど、これはとても興味深い展覧会だった。デンマークと日本の外交関係樹立150周年記念の展覧会で、スケーエン美術館が所蔵する59点が紹介されている。あまり大きくない展覧会だけど、だからこそ常設展の料金で見られる。5月28日まで。

 スケーエンというのはデンマーク北端の村で、19世紀末ごろに最初に画家たちが住み着いたときには、荒々しい自然と貧しい漁民の村だった。チラシの言葉を引用すると、「潮風が舞う荒野、白い砂浜、どこまでも広がる空と海」が画家たちを魅了したのである。特に、働く漁民たちが漁や遭難などに向き合うさまをリアリズムで描いたミカエル・アンカーという人の絵が非常に迫力があった。そのうち近辺はリゾート地として開発されていき、都会の女たちも訪れるようになる。アンカーの「海辺の散歩」はそういう変化を確かな技量で写し取った傑作である。

 そういえば日本でも初めて近代絵画が描かれたころには、海を主題にした絵がいっぱいあった。この絵をみていると、そこにどういう事情があったのか判らないけど、「一瞬の幸福」が永遠に画面の中に封じ込められている感じを受ける。1896年の絵だから、もうモデルになった女性は誰も生きていないに決まってる。でも、第二次世界大戦のドイツ侵略時にはまだ存命だった人も多いだろう。一体どのような人生をこの女性たちは歩んだのだろうなどとつい考え込んでしまう。

 実はユーロスペースで開かれていた「ノーザンライツフェスティバル」という北欧映画祭で、まさにスケーエン芸術家村の映画を見た。「マリー・クロヤー 愛と芸術に生きて」という映画で、展覧会の招待券もくれたのである。その映画に出てきたペーター・セヴェリン・クロヤーの絵もいっぱい出ている。夫人のマリー・クロヤーをモデルにした絵もいっぱいあり、映画に出ていた女優と驚くほど似ていた。
  (1枚目は肖像画、2枚目は映画の場面)
 マリーも画家だったが、夫から才能がないと言われ諦めてしまう。でも才能がないのではなく、夫のP・S・クロヤーがデンマークを代表する大画家だったのである。映画を見ると、夫のクロヤーはだんだん精神的に不安定になり精神病院への入退院を繰り返す。危険を感じたマリーは娘を置いて家を出るが、その後も波瀾万丈の愛情人生を送っていく大メロドラマになる。「智恵子抄」の逆の物語。

 映画はデンマークの巨匠、ビレ・アウグスト監督の2013年作品。とても重厚な歴史、芸術映画で、美しい風景の中に人生の真実を求める様に感銘を受けた。ぜひ正式に公開されて欲しい。ビレ・アウグストはデンマークを舞台にした「ペレ」(1987)とベルイマンの子ども時代を描く「愛の風景」で2度のカンヌ映画祭パルムドールを取った。(それは今村昌平、クストリッツァ、ダルデンヌ兄弟、ミヒャエル・ハネケ、ケン・ローチと並ぶ記録である。)その後、世界的に活躍し、イザベル・アジェンデ原作の「愛と精霊の家」や「マンデラの名もなき看守」などを撮っている。「マリー・クロヤー」はデンマークの監督らしい題材で、安定した技量で映画をまとめ上げて感銘深い映画になっている。

 ところで、映画を見ていると、当時は女性画家が活躍するには早すぎた時代だったかと思ってしまうのだが、展覧会にはミカエル・アンカーの妻だったアンナ・アンカーの絵がたくさん展示されていた。本人の才能も大事だが、「夫の協力」があれば女性画家がこれほど活躍できたのである。そして、題材には村の女性たちの「家事労働」を多く描いている。女性画家の歴史という意味でも、非常に興味深い。

 また、最後のデッサンがまとまって展示されている。それを見ると、展覧会のために描きなおされた大作と違って、デッサンに批評的な力がみなぎっているように思った。アンカー夫妻の場合、デッサンの方が村人たちを鋭くとらえていると思う。それを絵に仕上げるときに、漁民は多少英雄的に描かれたように思う。そも意味でデッサンも大事に見る必要がある。それも興味深い。

 スケーエンなんて全然知らなかったわけだけど、グーグルで「スケーエン」で画像検索してみると、驚くほど美しい写真がズラッと出てくる。こんな気持ちのいい町があったのかという感じである。まあ冬は厳しいんだろうけど、夏の間の短い輝きはきっと素晴らしいんだろうと思う。今も小さな町らしいが、美術館もあって知られているという。一度は行ってみたいと思う町がまた一つ。
 
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