尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ハチ公生誕百年展ー渋谷区郷土博物館と國學院大學博物館

2023年10月01日 21時54分45秒 | 東京関東散歩
 散歩というほどじゃないんだけど、「渋谷区立郷土博物館」でやってる「ハチ公 生誕100年記念展」を見てきた。(10月9日まで。)教育映画として作られた「ハチ公物語」(1958年、50分)の上映が午後にあるのは今日が最後だから行っておこうかなと思ったのである。場所がよく判らないが、地図を見ると國學院大學の近くである。そう言ってもよく知らないが、簡単に言えば青山学院大学の裏の辺りの地域になる。渋谷駅から歩いて15~20分ぐらいだが、土地勘がないのでバスで行った。行きは渋谷区のハチ公バス、帰りは國學院大學前から渋谷行きの都バスに乗った。

 ハチ公バス「郷土館・文学館前」で下りると、真ん前に「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」がある。白根って誰だと思うと、白根全忠という元渋谷区議会議員。「そんな人しらねえ」と皆言うだろうけど、この博物館の土地を提供した人だという。1階に入ってすぐにハチ公像があり、その奥でハチ公展をやっている。2階が郷土博物館、地下2階が文学館になっている。郷土博物館はどこも似ているが、ここは前近代が少なく、現代(戦後)の渋谷の発展が詳しい。
(ハチ公像)
 ハチ公展は写真を撮れず、カタログもないけど、ハチ公及び飼い主の上野英三郎(1872~1925)博士、上野夫人に関しては非常に充実した展示になっている。特に夫人に関しては僕もほとんど知らなかったので、いろんな事情があったのことを知った。ハチ公は周知のように秋田県大館市で生まれた「秋田犬」で、1923年11月10日に生まれた。(日付には異説あり。)そこで今年が生誕百年ということになるわけだが、上野博士は1925年に亡くなっている。具体的には5月21日である。そうすると上野博士のもとで飼われたのは、1年半もなかったのである。その後ハチ公は1935年3月8日に死ぬまで、10年近く生きた。

 ところで今になって思うのだが、上野博士は毎日渋谷駅からどこへ行っていたのか。それは東大教授なんだから東大に決まってるわけだが、当時は東大農学部は駒場にあった。一高と土地を交換して本郷に移ったのは1935年のことである。駒場だったら京王井の頭線かと思うと、その開通は1933年。それとも上野博士担当の「農業工学」は当時から本郷だったのか。それにしても渋谷からではルートが判らない。秋葉原・神田間がつながって山手線が環状運転を開始するのは、1925年11月で上野博士の没後である。いや、こんな疑問はきっと解決済みなんだろう。僕は今初めて疑問に思ったので、事前に気付いてたら博物館で聞いたのに。
(郷土博物館) 
 それはさておき、午後2時からの映画上映の整理券を1時から配布するという。博物館を見てたら結構並んでて33番になった。上映まで1時間あるので、國學院大學博物館に行ってみた。歩いて1分ぐらいである。非常に広くて、今までに見た大学博物館でトップ級なのに驚いた。神社の歴史や考古資料の展示が充実していて、郷土博物館とはレベルが違う感じ。まあ神社、神道、国学には関心が薄いので通り過ぎる程度だったが、関心と時間がある人には非常に充実した場所だろう。関東大震災時の折口信夫に関する展示があり、朝鮮人虐殺に激しく怒っているのが印象的だった。
(國學院大學博物館)
 郷土館に戻って、映画の上映。「ハチ公物語」は1958年に作られた教育用の映画と思われ、近年になって再発見された。監督は中川順夫(なかがわ・のりお、1909~2004)という人で、劇映画も手がけたが主に脚本家や記録映画で活躍した人らしい。僕は初めて聞いた名前で、「中川信夫」かと思ったぐらいである。ハチ公像の前で教師がハチ公の伝記を語り始めるという劇映画。戦後のシーンはロケが興味深いが、戦前の駅などはセットだろう。まあ大した映画じゃないが、「ハチ公伝説形成史」的な意味で興味深い。それに幼犬期、成犬期、老犬期と秋田犬を3頭用意していて、特に子犬の時期がカワイイのである。子犬は何でもカワイイとは思うが、秋田犬の中でもとりわけ美犬を選んでいるだろう。

 そこから渋谷駅に戻って、やはり最後にハチ公の銅像を見ていこうか。自分の家の場所から遠く、僕はハチ公前で待ち合わせをしたことがない。通りすがりに見てはいるけど、ちゃんと見たことがないのである。まあ東京人は大体そんなものだろう。今はもう写真を撮るために外国人観光客が列を作っていて、ここで写真を撮ろうとしている日本人などいない感じだった。そういう話は聞いていたけど、今は「世界のハチ公」なのである。
 (写真を撮る人々)
 ところで國學院大學の近くに実践女子大もある。そこにも香雪記念資料館があるが、日曜休みなので見られない。そこは下田歌子が創立した学校がもとになり、香雪は下田歌子の号だという。また向田邦子文庫もある。渋谷からほんのちょっと離れたところに大学が集中しているとは知らなかった。ハチ公の映画上映は、8、9、10の午前10時にも予定されている。
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永青文庫と肥後細川庭園を見る

2023年04月22日 19時53分41秒 | 東京関東散歩
 「永青文庫」でやってる「揃い踏み 細川の名刀たち ―永青文庫の国宝登場―」(5.7まで)を見てきた。熊本藩細川家下屋敷だったところにある美術館である。細川家に伝わる美術品や書物などを収蔵し、国宝が8点もあるところ。行くのは初めて。直線距離ではそんなに遠くないけど、東京は東西方向の交通網が少ないので、案外行きにくいのである。近くにある椿山荘鳩山会館東京カテドラル大聖堂なども一度も行ったことがない。地下鉄有楽町線江戸川橋駅徒歩15分と駅からちょっとある。

 この駅は「江戸川橋」の名前から江戸川区にあるように思っている人が案外いるけど、実は文京区である。ここで言う「江戸川」とは神田川のことである。神田川沿いの江戸川公園をしばらく歩いて行く。4月なのに夏の陽射しのような一日で、もう疲れたなあと思う頃に、その名も恐ろしげな「胸突坂」という急坂があり、登り切った所に永青文庫がひょっと出て来る。
 
 今は「事前予約制」だというので時間指定で予約して行ったが、何だ当日券も売ってるじゃないか。だだ最近は「刀剣女子」が増えているから、休日は予約しないとマズいかも。その日は空いてたけれど、それでも若い女性が結構多かった。「永青文庫」の「」は細川家の菩提寺である永源庵から、「」は細川藤孝(幽斎)の居城・青龍寺城から採られた。1950年に16代当主細川護立(1883~1970)によって設立され、命名も護立による。趣のある洋館建築で、4階から見る。中は写真不可。
(生駒光忠)(古今伝授の太刀)(展示室)
 そこで検索して画像を探してみた。国宝指定4刀の内、短刀が2つなので大きいのは上掲の2つ。僕は細川家伝来の刀だと思い込んでいたが、実は細川護立の収集品だった。若い頃に病気をして、療養中に日本刀に目覚めたらしい。「生駒光忠」は鎌倉時代の名工、備前長船光忠作で江戸時代初期の大名生駒家に伝来した。「古今伝授の太刀」は鎌倉時代初期に豊後の行平(ゆきひら)によって作られたもの。1600年の関ヶ原合戦時に、細川幽斎が籠る田辺城を西軍が攻撃したが、幽斎が唯一の「古今伝授」(こきんでんじゅ=古今和歌集の奥義を伝えること)継承者だったため、断絶を恐れた朝廷が介入して講和が成立した。その御礼に幽斎が勅使烏丸光広に贈ったもので、明治以後烏丸家から中山家へ移って競売になり、その後護立が買い取ったという。

 他にも重要文化財、重要美術品の逸品が多数展示されている。しかし、短刀になると僕はよく判らない。ましてや「」(つば)とか「」(こうがい)になると、モノが小さくなって判別も難しい。それを言えば、長い刀は判るのかというと、確かに国宝級になると何となく判る気がする。昔、熱田神宮宝物館で見た信長の刀は素晴らしかった。(熱田神宮所蔵じゃないから何か特別展をやってたんだろう。)特に刀に関心はないけれど、国立博物館などで何回も見ている。もともと「人殺しの道具」として作られたわけだが、金属工芸品としての機能美は紛れもない。優れた刀は何となく感じるものがある。

 永青文庫から直接「肥後細川庭園」に下りていけるようになっていた。この辺りは「目白台」の一角になり、昔田中角栄宅があった近くでもある。2017年まで「新江戸川公園」と呼ばれていたが、改修工事に伴い名称を公募して「肥後細川庭園」となった。細川家の下屋敷になったのは幕末時代で、明治以後に本邸が置かれた。従って江戸時代にさかのぼる大名庭園ではなく、近代に整備された庭園である。しかし、非常に立派な池泉回遊式庭園なので驚いた。
    
 永青文庫が高台にあり、庭園は神田川沿いにある。だからどんどん坂道を下りることになるが、最初は樹木の中で次第に全景が見えてくる。池が大きくて、なかなかの絶景だ。結婚写真を撮影している人がいたぐらい。
   
 江戸川橋公園から永青文庫に胸突坂を上る途中に、「関口芭蕉庵」がある。松尾芭蕉は江戸に来た時に、まず神田川分水工事の現場監督のような仕事に就いた。伊賀を支配する藤堂家に工事が命じられたのである。このことは嵐山光三郎の芭蕉本によく取り上げられている。その時芭蕉が住んでいたのが「関口芭蕉庵」だというが、もちろん当時のものではない。中は碑がいくつも立っているが、説明板やチラシが何もないのに驚いた。そんな施設は見たことがない。隣に水神神社があった。
(関口芭蕉庵) (胸突坂登り口)(胸突坂)
 永青文庫に行く前の江戸川公園神田川の写真を少し。僕はこの辺は初めてで、なかなかムードが良い緑が広がっていた。でも案外神田川が悪臭なので驚いた。都心のど真ん中で、こんな感じなんだ。行ったのは夏を思わせる暑い日で新緑がまぶしかった。
   
 神田川は井の頭公園に発して、両国橋脇で隅田川に合流する。江戸時代には上流が神田上水と呼ばれ、中流が江戸川と呼ばれていた。江戸時代に何度も改修が行われ、江戸城の外濠にもなっていた。御茶ノ水駅真ん前では急峻な渓谷風になっているが、新宿区から文京区辺りは大きなドブ川という感じ。かぐや姫の「神田川」の映画化(出目昌伸監督)よりも、黒沢清監督の『神田川淫乱戦争』を思い出してしまうのだった。
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古河歴史散歩ー「雪の殿様」と永井路子

2023年02月19日 22時23分55秒 | 東京関東散歩
 19日は4月並みに気温が上昇するという予報で、散歩日和だなと思った。そこで、茨城県古河(こが)市の歴史散歩に行ってきた。この前読んだ新書『大塩平八郎の乱』に、鎮圧の最高責任者は当時大坂城代だった古河藩主土井利位(どい・としつら)だと出ていた。この人は「雪の殿様」として知られ、26日まで古河歴史博物館で「雪の殿様 土井利位」という展示が行われている。また最近、作家の永井路子氏の訃報が報道された。古河市の出身で、旧宅が保存されている。今が行くべき機会かなと思った。

 自分の家からは東武線に乗って、埼玉県の久喜まで行ってJRに乗り換え。案外早い。古河駅構内に観光案内所があって案内地図が置いてある。実は数年前の地域紙に載ってた古河散歩の地図を持っていたのだが、それが間違いだらけ。迷ううちにパラパラ降ってきた。城下町の風情なら去年秋に行った岩槻(埼玉県)の方が残っていたかも。

 いつも書くけど、関東人は関東の歴史を知らない。多くの地方ではお城が残って、町のシンボルになっているところが多い。関東には現存天守閣は一つもなく、本格的な復元も小田原城ぐらい。そもそも関東は徳川幕府の天領が多い上、天守のない御殿が多かった。維新期に取り壊された城が多く、なかなか知られた城が少ない。古河も城下町のはずなのに、どんな城だか全然知らない。今回調べたら、渡良瀬川の改修で城跡はほとんどなくなってしまったのだという。それじゃ知らないはずだ。

 さて、駅を降りて西口へ。まっすぐ行くと県道261号に出る。これが旧日光街道で、古河は9番目の宿場町だった。道には「古河宿」の標しがあった。北上して迷走したが、普通は「古河歴史博物館」直行がいいのではないか。
 (古河宿)
 町並みを歩けば、歴史的なムードが確かに感じられる。途中で曲がったり行き止まりの道にお寺が多い。また、うなぎ屋が多いのは、川沿いの町だからだろう。大回りして古河歴史博物館に行った。ここは立派な展示があって、この種の歴史博物館の中でも優れている。1992年建築で、建築学会賞を得たという。古河城の諏訪曲輪(すわくるわ=出城)の跡地に建てられている。
  (歴史的な町並み)(古河歴史博物館)
 原始から近代まで展示するが、やはり土井利位と家老鷹見泉石のものが充実している。土井利位(1789~1948)は、分家筋の愛知県刈谷藩の土井家の4男に生まれて、本家の養子に迎えられた。老中になり、水野忠邦の政敵だった人である。フィクションだが、映画『十三人の刺客』で暗殺指令を出す殿様。日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察し、『雪華図説』『続雪華図説』にまとめた。そもそも雪の結晶を「雪華」と名付けたのも、この殿様。なんかお殿様趣味みたいなものかと思っていたら、その本の影響で当時「雪華」デザインの着物が大流行し、その様子が当時の浮世絵に残されているのである。
(土井利位)(「雪華図説」)(雪華模様の着物)
 今でも古河市の小学校の校章は雪華文様になっているという。また近隣の古河第一小の付近には雪華の石畳がある。その小学校の体育館裏あたりが、家老鷹見泉石の生誕地。碑があるとのことだったが、日曜日で閉まっていたので見れなかった。
(雪華の石畳)(古河第一小学校)
 歴史博物館の真ん前に「鷹見泉石記念館」がある。鷹見泉石(1785~1858)が死去したのはこの屋敷だという。もとは藩士用の武家屋敷で、本来はもっと大きな屋敷だった。一時は天狗党投降の水戸藩士の仮収容所になったこともある。明治後になって鷹見家の所有となって、鷹見泉石関係資料はここで保管されていた。資料一切が近年歴史博物館に寄贈され、2004年に重要文化財に指定された。今まで「渡辺崋山の肖像画に描かれた蘭学者」ぐらいしか知らなかったが、博物館に展示された史料を見ると、なかなか奥が深い人だ。殿様の雪の研究を支えた人でもあり、膨大な地図のコレクターでもある。古河藩関係の絵地図だけでもいっぱいあった。オランダ由来の品々もたくさん残されている。「記念館」自体は、無料で中にも上がれない。建物を外から見るだけの場所。
   (鷹見泉石記念館)
 鷹見泉石記念館の庭から奥に続いて、奥原晴湖画室がある。奥原晴湖(1837~191)って誰よという感じだが、明治時代を代表する女性南画家だそうである。「南画」もよく知らないけど、中国南宋時代の様式に影響された文人画。古河出身で、鷹見泉石の姪にあたる。木戸孝允や山内容堂に庇護されて多くの文人と交流したとウィキペディアにある。明治3年に東京に画塾を開き大繁盛したが、明治24年に熊谷に転居した。この屋敷は昭和4年に熊谷から移築し、さらに歴史博物館前に移した。博物館に説明があって、初めて名前を知った画家。ウィキペディアを見ると、代表作が掲載されている。
 (奥原晴湖画室)
 そこから5分ほど歩くと、古河文学館がある。永井路子の追悼コーナーもあった。永井路子の他は、佐江衆一小林久三粒来哲蔵(詩人)とか。小林久三は『暗黒告知』で乱歩賞を取ったミステリー作家(それ以前は松竹のシナリオライター)だが、同作の主人公は鉱毒事件で有名な田中正造だった。佐江衆一も田中正造を描いているが、渡良瀬川に接し谷中村にも近い古河の風土によるものだった。文学館からさらに5分ほどに永井路子旧居がある。中に入れるけど、何となく通り過ぎてしまった。
(古河文学館)(永井路子旧宅)
 永井路子旧宅に行く前に、文学館から大きな道に出たところに「篆刻美術館」がある。別にそんなに関心はないんだけど、歴史博物館、文学館と3館共通券を買ったので行かないと。篆刻(てんこく)とは、「印章を作ること」で、主に篆書を印文に彫るから篆刻だそうである。「篆書」は字体の一つで、見れば何となく判ると思う。1991年に開館したもので、国登録の有形文化財の蔵を利用している。この蔵に風情があるので、篆刻には特に興味ないけど見た価値はあった。
  (篆刻美術館)
 永井路子旧宅から少し行くと、正定寺(しょうじょうじ)がある。藩主土井家の菩提寺だという割りに小さいなと思ったら、もう一つ東の方に大きな正定寺があるんだそうだ。下の画像真ん中は土井利勝像で、土井家藩祖になる。この寺を「利勝山」と呼ぶぐらいである。いろいろと文化財もあるらしいが、この頃雨が降ってきたから退散することにした。
  (正定寺)
 渡良瀬川を渡って、東武線新古河駅から帰ろうかと思っていたんだけど、雨のためJR古河駅へ戻る。駅ビルで鮒の甘露煮がいっぱい売っていた。小さいとき、よく家にあって結構好きだったけど、まあ買わずに帰ることにした。
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カレル・チャペックの家を見るー平塚花菜ガーデン

2022年11月04日 22時28分52秒 | 東京関東散歩
 カレル・チャペックの家を見に行こうと思った。ちょっとプラハまでひとっ飛び、というわけじゃない。日本に作られているのである。チャペックの本を数年前にまとめて読んだとき、いろいろ検索していたら見つけた。場所は神奈川県平塚市。平塚駅からバスで約20分の「神奈川県立花と緑のふれあいセンター 花菜(かな)ガーデン」というところである。平塚ってどこだ? いや、湘南の町だということは知っている。この前行った開高健記念館がある茅ヶ崎の次で、家から乗り換え一回で行ける。行きは上野始発の熱海行き、帰りは平塚始発の宇都宮行きとどっちも始発電車が待っていたのに驚いた。
   
 何でチャペックの家があるかというと、『園芸家12ヶ月』の著者だからである。園芸家としてのチャペックを評価して、その家と庭を再現しようということである。ガーデンはかなり広くて、入ると子どもたちが大きな芝生で遊び回っていた。チャペックの家は地図で見ると、ずいぶん奥の方にある。近場のバラガーデンなどから順に歩いて行くと、突如という感じで出て来た。庭がチャペックの家と同じように設計されているのかは判らない。気候が違うから、多分庭も違っているだろう。中も再現されているのかなと思ったら、そうではなかった。休憩室に利用されていて、机と椅子が並んでる。壁にはチャペックの説明。一応並べてみる。
   
 庭を中心に、こんな感じ。なお、下の最後にホンモノのチャペックの家を載せておく。
   (チャペックの家) 
 平塚は相模湾に面した町だが、駅は海から少し離れている。バスは内陸の秦野駅行きだから、市街地を抜けると次第に畑地が増えてくる。遠くには丹沢山地が見えているが、案外平坦な地域にある。広いように思ったが、案外小さいとも言える。ここしばらく毎週金曜日に出掛けているが、珍しいぐらい気持ちよい小春日和。今日は暑いぐらいだった。
    
 駅から離れていてバスを利用するしかないから、案外歩かない。すぐに駅に戻ってしまったので、もう少し歩こうと思う。駅から少しで平塚八幡宮八幡山公園の洋館がある。八幡宮は大きくて立派な神社で、七五三で賑わっていた。
(歩道橋から)  (神馬)
 神社の裏の方に八幡山の洋館がある。旧横浜ゴム平塚製造所記念館で、国の登録有形文化財になっている。もともとは1905年に海軍がイギリスの会社と合弁で火薬工場を建設し、その時に食堂、ホールとして建てられたという。それは火事で焼失したが、1912年に再建された。そして海軍火薬廠に引き渡され、関東大震災でも倒壊しなかった。1950年に横浜ゴムに払い下げられ、2004年に平塚市が譲り受け、2009年から一般公開されている。庭にバラが整備され、美しい。中も見ることが出来る。
   
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人形とお城の町ー岩槻(さいたま市)散歩

2022年10月30日 23時03分31秒 | 東京関東散歩
 岩槻(いわつき)を散歩した。2005年に合併して、埼玉県さいたま市岩槻区になっている。しかし、江戸時代を通して岩槻藩があり、今も城下町の面影が色濃い町だった。また昔から「人形作り」で知られ、全国的に「人形のまち」として知られている。町のあちこちに、今も多数の人形製作会社があって看板を上げている。2020年2月には「岩槻人形博物館」が開館したのだが、すぐにコロナで休館になってしまった。その時以来、2年半ぶりにようやく散歩に出掛けられた。

 鉄道利用の場合、東武鉄道野田線(アーバンパークライン)しかない。大宮と春日部の間である。春日部から快速で5分ほどで着いたので驚いた。史跡があるのは東口の方である。改札を出た真ん前に観光案内所があって、ガイドマップが置いてある。まずこれを確保するべき。最初にどこへ行こうかなと思って、駅から東方向の城跡公園は遠いので、そっちに行った後では南の郷土資料館へ行く気が失せそうに感じた。そこで郷土資料館の方へ行く時に、ちょっと裏道を歩いていたら大きなお寺が見えた。芳林寺というが、何と戦国時代の太田氏ゆかりの寺で太田道灌の銅像があるじゃないか。案内やガイドに全然出てないんですけど。
  (太田道灌像)(芳林寺)
 何でも戦国時代創建の寺で、太田道灌の孫に当たる太田資高が母の供養のため、名前を芳林寺と改め現在地に移転したという。そのゆかりで太田家の墓所がある。また岩槻藩初代の高力(こうりき)家2代目高力正長の墓所もある。関ヶ原以前に死去した人である。なお最初の埼玉県庁が一時ここに置かれたという碑もあった。ウェブ情報では確認出来ないのだが、とにかく碑はあった。太田道灌の銅像はあちこちにあるようだが、駅に近いし、ここも知られて良いところだ。
(太田家墓所)(高力墓所)(最初の県庁碑)(芳林寺由来)
 芳林寺から少し歩いて大きな通り(市宿通り、日光御成道)に出て、少し南へ歩くと「岩槻郷土資料館」がある。ここは1930年建造の岩槻警察署で、国の登録文化財。無料施設だから入ってもいいし、まあ外観だけ写真を撮れば良いとも言えるかな。この通りには、所々古そうなお店がある。道は現代的で車が引っ切りなしなので、宿場町というほどの風情はないけれど。(岩槻は中山道と日光街道を結ぶ日光御成道の宿場で、将軍一行が宿泊する宿場だった。)
(郷土資料館)  
 市宿通りを北へ向かい、駅前から直進してきた大通りを渡る。少し裏へ入って裏小路へ入ると、大分昔の城下町っぽくなる。道の名も広小路、江戸小路、天神小路など「小路」という名前になっている。そんな中に「岩槻藩遷喬(せんきょう)館」がある。岩槻藩に使えていた儒者・児玉南柯(こだま・なんか)が1799年に開いた私塾だが、後に藩校となった。藩校になったのは文化2年から8年の間(1805~11年)頃だという。明治以後住宅になって、一部改築されたらしいが、建物の基本は残っていた。1956年に岩槻市に寄贈され、修復が行われて公開された。中へ上がれて、修復の様子が写真展示されている。無料。
   
 儒者児玉南柯とともに「岩槻に過ぎたるもの」と言われたという「時の鐘」が次の目標。人形博物館は帰りに寄ることにして、遷喬館から裏小路を歩いて行く。1671年に最初に置かれて、その後1720年に改鋳された。鐘はそれがずっと使われているようで、今も朝と正午に鳴らしているという。鐘楼は江戸時代後期(天保年間)に焼失し、その後再建された。中は見られない。
  
 そこから歩いて行くと実はもう昔の城の中で、今は案内板しか残っていない。下の1枚目は大手門跡とある。網の向こうは何だろうと思うと、大回りしたあげく霊友会の敷地だった。近くの信号を右折すると「岩槻城跡公園」、左折すると「久伊豆神社」。「クイズ神社」と読んで人気があるが今回はパス。城にはもともと石垣や天守閣はなく、関東には多い土塁の城。
(大手門跡)(堀跡)
 今も残っているのは、黒門(下1枚目)と裏門(下2枚目)。その間に「人形塚」が立っている。岩槻城は江戸近くだから、比較的小さい譜代大名の居城だった。転封が多く、歴代で9家もある。中では3代阿部家が11万5千石だった時が最高。1756年に大岡忠光が城主となってからは、幕末まで大岡家が治めた。大岡忠光は9代将軍家重に仕えて、言語不明瞭だった家重の言葉をただ一人聞き取れたという人物である。その「功績」で旗本から大名に出世したわけである。しかし、幕末まで安定して支配出来たんだから、まあ悪くはなかったんだろう。公園はかなり広いが、今は市民の憩いの場となっている。
   
 一番奥に池があり、途中で何回も曲がっている赤い橋が架かっていた。そこから少し行くと、東武鉄道の昔の特急(ロマンスカーと呼んでいた)「きぬ」が保存されていた。休日は中を見られると書いてあった。
   
 そこから戻って、人形博物館へ。人形に特に関心があるわけではないから、作り方の展示などを通り過ぎるように見てオシマイ。疲れてきたから、修学旅行の生徒みたいである。岩槻はひな人形、五月人形などを今も作っている会社がいっぱいあった。いちいち写真は撮らなかったけど、その風情が面白いなと思う。でも個人で買うという感じの店ではない。
 (人形博物館)
 それから駅へ戻る途中で、駅近くの大工町通りに入り、愛宕神社を見る。神社が目的ではなく、そこがお城の土塁の上にあるんだという。その様子が残されているのが珍しいんだそうだ。
   
 その他、町のあちこちに登録文化財があるんだけど、まあ全部載せてもという感じ。藩校の近くに「鈴木酒造」というのがあって、資料館があると出ていた。帰りに寄ろうかと思ったが、行きそびれた。他にも人形を見せるところもあるし、本当は春に来た方がいいのではないかと思う。案外コンパクトにまとまっていて、半日ほどの歴史散歩には向いた町だった。
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山本有三と太宰治ー三鷹散歩

2022年10月21日 22時56分41秒 | 東京関東散歩
 関東はようやく「秋晴れ」っぽくなった。10月の初めの頃はまだ暑かった。その後急激に気温が下がって雨が続いた。結局、日本の一年はほとんどが暑いか寒いかになった。暑くもなく、寒くもなく、自分の用事も入ってない日は、一年に数少ない。今日はそういう一日だったから、散歩に行こうと決めていた。行きたいところは幾つもあるが、まずは東京都三鷹市に行こう。JR中央線で23区から多摩地区に向かって、2つ目が三鷹駅である。下りたのは約45年ぶり、2度目。昔「三鷹オスカー」という映画館があって、『若者たち三部作』一挙上映を学生時代に見に行った時以来。

 行った順番とは違うのだが、まず山本有三記念館から。1996年開館だから、もう26年も前のことになる。出来た年から行きたいと思っていて、もう四半世紀以上経っていたとは驚き。すごく見映えがする洋館として、こんなところがあったんだと思った記憶がある。三鷹駅南口から左の方に斜め(南東方向)の道があり、玉川用水に沿って「風の散歩道」と呼ばれている。この道は井の頭公園に続き、ジブリ美術館をめぐるバスが通っている。その通りの真ん中あたりに瀟洒な洋館が建っている。
    
 もっとも上に載せた画像は庭側から見たもので、道からは見えない。というか、家も道からかなり奥にある。真ん前に案外広い駐車場がある。そこから庭があり、建物の反対側にも大きな庭園がある。休日はまた違うのかもしれないが、今日は人が少なくて実にノンビリ出来る。表から見ると、何だかとても不思議な形をしている。
   (記念館前の駐車場)
 そもそも今では山本有三(1887~1974)と言われても、誰だという人も多いだろう。戦前から戦後にかけて、とても有名な作家だった。今でも新潮文庫に『路傍の石』や『真実一路』なんかが生き残っているようだ。代表作は幾つも映画化され、僕も『路傍の石』の田坂具隆監督版(1938)と久松静児監督版(1960)を見ている。賢いが貧しい少年が苦労しながらも真面目に生きて行くみたいな作風で、ある時代までは文学全集に必ず入っていた。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』も、山本有三編「日本少国民文庫」の一冊として刊行され、最初は山本・吉野の共著となっていた。記念館は中を映せたので。
   (『路傍の石』を執筆した和室) 
 山本有三はここに1936年から1946年まで住んでいた。自分で建てた家ではない。清田龍之助という実業家が建て、1926年に登記された。設計者は未だに判明していない。山本有三は隣の吉祥寺に住んでいたが、家族が多く手狭になったので、ここを買い取って、妻、4人の子、母親と自分の7人家族で引っ越してきた。この家は敗戦後に占領軍に接収されてしまい、一家は大田区に引っ越すことになる。戦後は貴族院議員、参議院議員として言語政策、文化財保護などに奔走したが、返還後もここに住むことはなかった。そんなに広くはないけれど、素晴らしい庭も見応えがある。3月5日まで、明治大学文芸科長の時期を扱った企画展を開催中。
  (入口の扉)(愛用のスーツ)
 三鷹と文学と言えば、山本有三より太宰治を思い出す人の方が多いだろう。山本有三記念館は洋館の魅力で行くところで、今でも読まれているのは圧倒的に太宰である。しかし、大きな記念館などはない。太宰はもちろん津軽の出身であって、三鷹は「自殺した場所」(最後の住所)である。自殺未遂、薬物中毒、不倫、愛人と自殺とくれば、誇るべき大作家として顕彰しにくい。でも、読めば圧倒的に面白く、単なる「破滅型私小説」の枠を飛び越した才能に舌を巻くしかない。大きなお屋敷に住んでいたわけじゃないから、当時の建物はほとんど消えている。ようやく近年になって、2008年に「太宰治文学サロン」、2020年に「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」が開設された。
   
 前2枚は「小さい家」で、三鷹駅南口の「三鷹市美術ギャラリー」に当時の家が再現されている。特別展は撮影出来ないが、入口と書斎だけ撮影可。後2枚の「サロン」は駅からちょっと離れた場所にある。太宰が通った酒屋「伊勢元」の跡地にあって、太宰の本を手に取って読んだり出来る。しかし、まあ大ファン向けかなと思う。
   
 むしろ太宰ファンならずとも、まあ一度行ってみたいと思うのは禅林寺のお墓の方だろう。何しろ森鴎外もあるのだ。どんなお寺かと思ったら、駅からまっすぐ南に10分ほど行ったあたりの大きな寺である。珍しく黄檗宗(おうばくしゅう)。しかし、二人の墓は全く普通の感じ。2枚目が森鴎外。3枚目が太宰治というか、津島家の墓。一般のお墓の中に混じっているので探しにくいかも。一応案内板があるけれど、そこには出ていない三鷹事件遭難犠牲者追悼碑(4枚目)も忘れずに。
   
 太宰の時代から残る数少ないものが、陸橋・三鷹跨線人道橋である。線路沿いにずっと西へ歩けば出て来る。車庫を一望できる跨線橋は太宰も愛したという。近々撤去されるとされ、早く見に行く必要がある。多分晴れた日の夕暮れが一番素晴らしいだろう。当然橋上は鉄網で囲まれていて、高いところから写真を撮るという点では不満な場所。ただ人が歩いていると、絵になるのである。まあ他人だから撮らなかったけど、何人かで行くと良い構図になるかなと思った。1929年に出来たもので、撤去時期は不明。三鷹市とJRの間で「一部保存」が合意されたという。
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懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)に行く

2022年10月15日 22時41分40秒 | 東京関東散歩
 10月第3土曜日は毎年東京大学のホームカミングデーである。まあ、僕は東大が「ホーム」じゃないけれど、2年間コロナで開催されなかったこの日を実は待っていたのである。それは東大本郷キャンパス内にある「懐徳館庭園」が公開されるからである。東京には幾つも素晴らしい庭園があって、国の名勝に指定されている。その中で普段は非公開なのが、浅草寺の伝法院庭園とここ懐徳館庭園である。伝法院は時々公開されるので、前に見ている。しかし、懐徳館は1年に1日だけの公開なのである。
    
 「懐徳館庭園」は「旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園」である。よく知られているように、東大本郷キャンパスは江戸時代に加賀藩上屋敷だった。有名な「赤門」(現在、構造調査のため閉門中)は1827年に将軍家斉の娘が前田家に輿入れするときに建てられた門である。明治になって、前田家は本郷邸を本邸とした。その後改築を行い、1905年に日本館、1907年に西洋館が竣工し、明治天皇も訪れた。へえ、本郷の地に壮麗な洋館があったんだ。その後1926年に前田邸敷地と農学部、代々木演習林を交換することになり、前田家は駒場に今に残る大規模な洋館を建てたわけである。(本郷の洋館は空襲で焼失。)
(本郷にあったかつての洋館懐徳館) 
 懐徳館庭園は本郷キャンパスの一番東側にある。今日は自宅から行きやすい地下鉄千代田線湯島駅から歩いて、龍岡門の方から入った。結構坂道だったのを忘れていて、本富士警察署まで結構疲れたが、東大構内に入れば案外近い。突然出て来る感じである。日本館が見えるが、それが先の写真。玄関近くに机があってちょっとした資料が置いてあった。玄関は空いてるけど、中は公開してない。館に入れなければ、さっさと庭の方に向かうしかない。そうすると案外狭くて、池に水がないから「枯山水」そのもの。どこか兼六園を思わせるけど、あそこをぐっと小さくした感じか。
   
 庭の方から邸宅を見ると、こんな感じ。この邸宅は戦後になって、1951年に総長宿舎(大学迎賓館)として再建されたものだという。その時庭園はなるべく在来のもので修復したと書かれている。庭側はガラス窓で廊下が見える。昔風の日本の家である。
   
 「懐徳」とは論語から取られているという。「君子懐徳、小人懐土、君子懐刑、小人懐恵」だそうである。「君子は徳を重んじるが、小人は土地を重んじる。君子は法を重んじるが、小人は自らの利益を重んじる」という意。前田家はさすがに百万石で、今の東京にも幾つもの足跡を残している。ただし、この本郷邸やその後の駒場邸も江戸時代のものではない。震災、戦災があったからではなく、大名家は華族として明治に続き、皇族の訪問に備えて洋館を建設したのである。島津邸(現・清泉女子大)も同様。近代遺産なのである。帰りがけに振り返って屋敷を写した。
  
 後はブラブラ歩きながら本郷三丁目駅に急ぐ。東大構内は内田ゴシックと呼ばれるような壮麗な建築がたくさん残っている。こういう建物を見ると、どんな青春のドラマがかつて繰り広げられたのかと想像の翼がふくらんでいく。東京の大学には近代の美が残されている。また無料の博物館なども多い。以前も書いたが、「大学を観光に生かす」ということをきちんと考えて欲しいと思う。東京と京都では大きな財産になると思う。
 (安田講堂)(赤門)
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旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設を見る

2022年05月03日 22時50分16秒 | 東京関東散歩
 東京にも歴史的に貴重な近代遺産が数多く残されている。一度は行きたいなと思いつつも、なかなか行ってない施設がいっぱいあるが、その一つが「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」だ。「喞筒」なんて漢字があるのか。後ろの方は「筒」(つつ)だが、前の方は見当も付かない。ここは日本の下水道の始まりの施設で、何と重要文化財に指定されている。東京駅のような赤レンガ建築だが、建築美というよりは社会史的な意義の大きな施設というべきだろう。

 場所は東京都荒川区にあって、今は「三河島水再生センター」の一部となっている。都電荒川線の荒川二丁目停留所で下りると真ん前に見えている。入口はちょっと歩いて道を曲がったところになる。もともと火曜、金曜を除き見学者を受け入れているが、予約が必要になる。(インターネットで予約可能。)ただし、春のつつじの季節には予約不要の「通り抜け」をやっていて、一度花の季節に行こうと思っていた。3年前にちょうど都合の良い土曜日につつじ鑑賞会があったので行く気満々だったのだが、当日に突然原因不明の体調不良になってしまった。その後2年間コロナ禍だったので、今年ようやく行くことが出来た。
  
 全景写真を最初に載せたが、入口から入ったところは高くなっている。そこから見ると、大きな建物としては奥の方に大きな施設がある。それが「喞筒室」で、ホームページを見ると「下水を地下のポンプ井から吸い上げるポンプが10台設置されています」と書かれている。施設の中には入れなくて、パンフレットもない。案内版はあるけど、まあ忘れてしまうから、書く時に確認がいるわけである。そこに行く前に幾つかの施設がある。最初にあるのが「入口阻水扉室上屋」(下の最初の写真)で、「メンテナンス等のために下水の流れを一時的に止める扉」が地下にあって、その上屋になる。
   
 上の写真の2枚目が「土運車引揚(どうんしゃひきあげ)装置(インクライン)用電動機室」で、「下水から取り除いた土砂やゴミを積んだ土運車(トロッコ)を坂の上まで引き上げる機械」があった。中は見られない。どうも建物の名前が古風で難解なので、なじみにくい。そもそも下水道の歴史など全く知らないのだが、あちこちに案内板があって説明している。3枚目は重文指定の案内板。ところで今回はつつじが見どころということだった。ここは桜も名所なんだというが、つつじも立派なものだった。
 
 そもそも何年に出来たのかというと1922年(大正11年)のことで、1999年まで使われたという。ちょうど100年前である。出来るまでは長い時間があった。都市化ととも伝染病なども多く発生し、家庭下水をそのまま川に流して良いのか大きな問題になっていた。御雇外国人のバートンという人が三河島に処理場を作る計画を立てたが、財政上の問題で頓挫。その後1907年に中島鋭治によって計画が練り直され、1914年に着工された。中島は世田谷区にある駒沢給水塔を設計した人である。現在の台東区や千代田区を対象にしたが、「下水道」というものがあったわけではなく、糞尿を自動車で搬入し、処理した汚泥は品川沖に投棄したという。
  
 坂道を下に下りていくと、「沈砂池」と「濾(ろ)格室上屋」がある。場所としてはここが一番大きく、中庭に当たる部分の大部分を占める。「東・西に各1池あり、下水を池の中でゆっくり流して、下水中の土砂類を沈殿させて、取り除きます」ということになる。下水処理の中心だったところだろう。二つあるうち、片方は当時の施設のまま見えるようにされている。それが2枚目の写真である。そういう場所なので、ここには「日本の下水道発祥の地」という碑が立っている。(字は鈴木俊一元都知事)
  
 そして一番奥に「ポンプ室」があるわけである。ここが一番大きな施設で、花とともに写された写真ではなかなか美しい感じだが、近くに寄ってみると、やはり実用的な建築だなという感じがした。下水処理施設が「美しさ」を目指して建設されたはずもなく、歴史的価値によって重文に指定されたものだ。こういう施設が遺され公開されていることは、日本近代の都市発展史を振り返る意味でも大きな意義がある。一度は見ておくべきところかなあと思った。もっとも今回は電車事故のため時間が少なくなってしまい、駆け足的に見た感じだったんだけど。
 
 都電を降りた道も、今はバラが咲いていて気持ちよい。そこから見える壁の向こうが、もう下水処理場である。その隣には「荒川自然公園」というのがあるが、今回は行かなかった。家から近い割には行ったことがないところが多い地域である。
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首都圏外郭放水路の「地下神殿」を見に行く

2022年01月24日 20時57分39秒 | 東京関東散歩
 近年「地下神殿」と言われて有名になっている「首都圏外郭放水路」に行ってきた。前々から一度行きたいと思っていたが、1月末まで東武線の春日部(かすかべ)駅から無料バスが出ている。もっとも突然行っても入れない。事前にホームページから予約が必要である。いろんなコースがあって、時間を掛けて奥の方まで見せてくれるコースもあるが、長靴、ヘルメット着用で4千円。まあ、そこまではいいでしょうと千円で1時間の地下神殿コース
 
 上記画像のような写真を見たことがある人も多いだろう。最近は特撮ドラマなどによく利用されているというし。だけど、これを見ると真ん丸の円柱が立ち並んでいると思ってしまう。僕もそう思ってきたのだが、行ってみると実は細長い長円形なのである。かまぼこ板の四隅を丸く切ったような形の柱になっていてビックリ。地下80メートルの空間にいるので、高さ80メートルである。2枚目のタテの画像の柱に上下二つの印がある。上まで水が来るとポンプで排水して江戸川に流す。下の印を下回るとポンプが空回りする。残った水は元の川にポンプで戻すということだった。
   
 先に地下の写真を載せてしまったが、ここは庄和排水機場(上1枚目の画像)である。そこに「地底探検ミュージアム 龍Q館」という博物館が作られている。(月曜定休のため未見。)2枚目はそこに掛かっていた説明パネル。3枚目は建物を横から見た写真。この建物の中で受付をするが、実は地下に降りるのはここではない。4枚目のように建物の隣がサッカー場2面分の広大な空き地になっている。そこの下が「地下神殿」なのである。そして4枚目写真の左奥に見える小さな地下鉄駅(への降り口)みたいなところが、神殿入口なのである。200メートルぐらい歩いて行って、そこから110段ほど降りていく。階段は写真禁止になっている。
  
 上の画像は「第1立坑」で、地下神殿になってるところの反対側である。僕も勘違いしていたのだが、ここは利根川や荒川などの洪水用ではない。そういう大きくて有名な川の間にある中小河川が対象なのである。大きな川に囲まれて、この地域は「お皿」状になっていて水が集まりやすい。具体的には大落古利根川、幸松川、倉松川、中川といった川である。これら中小河川の水が増水すると、第1から第5までの立坑から取り込まれる。その水を溜めておくのが「調圧水槽」で、それが地下神殿の正式な名前なのである。第1立坑は「地下神殿」に水を流し込む一番近い立坑になる。ところで、そこから何かゴウゴウという音がする。何だろうと思ったら、立坑の上にスケートボード場があるという。出たら確かにスケボーやってた。まさかその音があんなに響くとは。
   
 ということで、大体説明が終わって後は自由時間で写真を撮る。いくら撮っても同じようなものだが、人間が小さく映り込んでいる方が柱の高さが感じられて面白い。(見学は階段に近い一角だけ。)この「神殿」に集まった水を排水機場のポンプで江戸川に流すという。関東地方は冬に晴れが多く、今は見学日和である。施設は年平均7回程度は使われていて、この地域の洪水を減らしている。この水槽区域には池袋のサンシャインビルほどの水を溜められるという。何でこんなに大きな柱が幾つも必要なのかというと、この地域は地下水が多くて浮力で浮き上がってしまうのを防ぐための重しなんだという。
 
 下りたものは上らなければならない。この階段上りがキツいわけで、足が弱い人は参加できない。しかし、まあ大体の人は何とかなるだろう。階段を上って出たところで受付の建物(龍Q館)を見ると、上の画像のような感じ。最近盛んになりつつある産業ツーリズム。ここは「産業」ではないが、インフラ観光という意味で似ている。実際に機能している構造物を見られるというのも貴重な体験だった。帰りのバスは近くの道の駅庄和に寄るので、そこを少し見て帰ってきた。
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土方歳三生家から高幡不動、百草園へ

2021年12月06日 22時13分39秒 | 東京関東散歩
 しばらく散歩をしてなかった。マスクをしてると大変なのである。ようやく冬めいてきて、関東は冬だと晴れるから、少し寒さを我慢すれば散歩シーズンでもある。僕は神社仏閣に関心が薄く、行ってないところが東京近辺でも数多くある。そういうところを一つ一つ訪ね歩けば、行き先に困らない。前から一度行ってみたいと思っていたところに、高幡不動(たかはたふどう)がある。高尾山目指して京王線に乗れば、途中の大きな駅として昔から名前を知ってる。でも、本当は金剛寺というなんてのも初めて知った。ちょうど紅葉の最後の頃で五重塔も美しい。もっともどう見ても最近の建立で「平安初期の様式を模した」とある。
  (高幡不動五重塔)
 ところで今回まず行ったのは、そこではない。「土方歳三資料館」に行きたかったのである。映画「燃えよ剣」も公開され、人気も高まる新選組副長・土方歳三(ひじかた・としぞう)だが、生まれたのは現在の地名で言えば東京都日野市になる。多摩動物公園も日野だが、僕は今までそこしか行ったことがない。僕からすれば東京の西の隅のように思えるが、地図で確認すると東西で言えば東京の真ん中あたりで。(伊豆・小笠原諸島を除く。)まず京王線高幡不動駅から、多摩モノレールで一駅、万願寺駅へ。
 (多摩モノレール万願寺駅)
 多摩モノレールというのも名前は聞いたことがあるが、どこからどこへ行くのか初めて知った。たった一駅だから歩いてもいいんだけど、土地勘がないのとモノレールにも乗ってみたかったので試乗気分。高いところから多摩丘陵を望める(ジブリ映画「耳をすませば」の舞台にも近いあたり)が、駅からは写真が撮りにくい。そして万願寺えきすぐに、土方歳三の生家跡に土方歳三資料館がある。ところがここは日曜日に月2回だけ開館というところなのである。
   (土方歳三資料館)
 生家は建て直されていて、庭に入るとすぐに土方の銅像がある。内部は写真禁止なので撮影出来ない。「愛刀 和泉守兼定」や多くの手紙などが展示されている。しかし、まあ特に土方歳三の熱烈なファンでもない限り、わざわざ行ってみる必要もない感じがする。展示物だけでは、500円の価値があるかは微妙だが、全体合せてムード料というところだろう。
  (土方歳三資料館)
 上の写真のトップは歳三手植えの矢竹とある。2枚目の写真は、裏から受付を撮った感じだが実はそこに当時使っていたという木刀が飾ってある。最後は庭の写真。高幡不動に戻るにはモノレールを目当てにたどればいいと思って、歩き始めたら案外近かった。途中で浅川を渡る。多摩川の支流の一つである。下の2枚目の写真をよく見ると、真ん中に鷺がいる。遠くに山、川には鷺という風景は、やっぱりちょっと遠くに来た気がする。 
 (浅川)
 川を渡ってしばらく行くと駅が見えてくる。駅を迂回していくと地下通路があった。「不動尊は3分 不動産は3階」というビルの広告が面白い。駅前から参道が見えるから、高幡不動へは迷わない。結構立派な参道に見えたが、行ってみれば案外短かった。国宝はないが、重要文化財指定の建造物は幾つかある。下の3枚目の仁王門は参道の向こうに雰囲気を出している。ここにも土方歳三の銅像があって、「ひの新選組まつり」をやっている。日野全体で「新選組のふるさと」を宣伝しているが、今はもちろん「燃えよ剣」に出て来るような農村ではない。単に郊外都市というだけで、幕末ムードを偲ぶのは難しい。
  (仁王門)(土方歳三像)
 境内を歩いて行くと、不動堂がある。1342年建立で、重文指定。さらに奥に進むと大日堂があって、そこでは天井に「鳴り龍」の絵があるというけど、もう何だか面倒になってしまって見なかった。そのさらに奥に墓所もあって、そこにも興味深いところがあるらしいんだけどパスしてしまった。ここは紫陽花の名所なので、またいつか初夏の頃に訪れてみたい。
(不動堂) (大日堂)
 何だか土方歳三資料館も高幡不動もおざなりに見た感じだが、それはこの後「百草園」(もぐさえん)まで歩きたかったのである。高幡不動の隣駅が「百草園前」で、京王電鉄が所有する「京王百草園」という庭園がある。名前は知っていたが、場所は今回初めて認識した。12月5日まで「紅葉まつり」だというから、行ってみようかと思った。シーズン一回ぐらい紅葉を見たい。一駅だから高幡不動から歩けば、大分歩数も稼げるはず。地図を見る限り、道は一本道で判りやすい。行けども行けどもたどり着かないから、段々疲れてきたが、まあ歩くしかない。ホントにこの道でいいの? とその段階になってスマホで検索すると合っていた。やっとここで曲がれば百草園という道を行き、後130メートルと書いてあるところから、とんでもない急坂の連続で参った。
   (京王百草園)
 写真で判るように、紅葉は残っていた。最後に疲れてしまって、入ったらまたも坂なので、あまり頑張れない。なんとなく名前から「向島百花園」みたいなところかと思っていたら、全然違って山ではないか。いやあ、驚いた。
   (京王百草園) 
 上の写真の1枚目は池の風景。3枚目の展望は、本当なら筑波山も見えるというのだが、とても見える感じじゃなかった。最後の写真は若山牧水の歌碑と説明で、かつて牧水はここへよく来ていた。ある年は女性と泊まりがけで来たが、悲恋で終わったというようなことが書いてあった。芭蕉の句碑もあるというが、もっと上まで行く元気がなかった。まあ高幡不動は別の季節に来てもいいなと思ったが、百草園はもういいか。JR日野駅近くに、「新選組のふるさと歴史館」などがあるので、いずれそっちも行ってみたいと思っている。新選組ファンじゃないんだけど、幕末史の有名人には違いないから。
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東大生が教えてくれない勉強になる東京名所

2021年10月28日 22時28分12秒 | 東京関東散歩
 大体夜はブログを書いてるけれど、BGMが欲しいからテレビを付けてる。CDを掛けてると聞き入ってしまうから、テレビの方がいい。ずっと見てないと筋が判らなくなるドラマではなく、クイズとかヴァラエティ番組が多い。火曜日には林修先生の「今でしょ!講座」で「現役東大生が選ぶ東京の勉強になる名所ベスト25」というのをやってた。なんで東大生なのかというのは置いといて、結構なるほどなと思う場所が選ばれている。でも当然落ちているところもあるわけで、東京散歩の番外編として幾つか紹介してみたいなと思う。

 まず番組で紹介された名所を。下から発表したので、25位から。
神保町国立天文台台場飛鳥山公園浅草 
哲学堂公園アドミュージアム東京等々力渓谷大森貝塚中銀カプセルタワービル
日本科学未来館上野動物園東京タワー目黒寄生虫館国立西洋美術館
明治神宮神田川東京国立博物館江戸城跡国会議事堂
東京スカイツリー江戸東京博物館東京駅国立科学博物館東京大学

 いやいや一応全部知ってます。国立天文台と寄生虫館は行ってない。中銀カプセルタワービルも知ってるけど、見たことはない。哲学堂とか飛鳥山は昔散歩記をブログに書いた。中でお薦めはアドミュージアムかな。科学未来館も面白い。僕は歴史系だから、科博ではなく東博の方が好きで、学生時代はヒマなときによく行っていた。今は高くなってしまったし、コロナで予約制だからずいぶん行ってないな。

 それぞれ面白いところだと思うけど、見学できる場所としては国会議事堂よりも日本銀行の方が面白いと思う。(なお、コロナ禍で見学が制限されているところが多いので、それぞれ最新情報を確認する必要がある。)美術館としては国立近代美術館も素晴らしい。工芸館に使われていた近くの旧近衛師団司令部はどうなるんだろうか。街では神保町と浅草が入っているが、河童橋新大久保、あるいは谷中なども面白い。東大直下の本郷もとても面白い。案外古い町並みが残っていて、ぶらぶら歩きに最適。東大は駒場にもあるが、旧前田邸日本民芸館も一度は行っておきたいところだろう。

 しかし「勉強になる」という意味では、東大に限らず全大学生に見て欲しいのが、東村山市にある国立ハンセン病療養所多磨全生園ハンセン病資料館である。何でも医学部生は寄生虫館に行ってレポートを書く必要があるらしいが、本当はこっちにも行って欲しい。同じ東京でもちょっと遠いかと思うが、医学部だけでなくあらゆる学部で行ってみて欲しい。人権ミュージアムが東京には少ないが、ここは必須の場所である。
(ハンセン病資料館)
 また日本最大のモスクである東京ジャーーミイも一度は見て欲しい。お寺は行ったことがあるだろうが、キリスト教の教会は入ったこともない人がいると思う。お茶の水のニコライ堂などは見学できる。ロシアの正教だから珍しいと思う。もちろんどこの教会も寺院も自由に入れるけど、なんかイスラム教のモスクだと入りにくいと思う人がいるだろう。だから皆で見学する方がいいかなと思う。代々木上原(小田急、地下鉄千代田線)から5分程度。非常に美しい建物で、イスラム教のイメージが変わると思う。
(東京ジャーミイの内部)
 東京は日本の政治経済の中心というイメージばかりが強く、震災、戦災があって古い物が残ってないと皆思ってしまいがち。でも日本の古い大学は東京に集中している。戦災を越えて残っている建物も多いので、大学は格好の散歩道だ。1位が東大になっているのは、東大生だから当然か。三四郎池もあるし古い建物が多い。前に東大散歩を書いたことがあるが、これから銀杏並木の黄葉が素晴らしい季節になる。東大博物館もあるが、現在は東大生のみ公開になっている。しかし、もっと面白いのは私立大学に多い。

 慶應義塾大学三田キャンパスにある三田演説館は福沢諭吉が演説という日本語を作って実践した場所である。重要文化財だが、いずれ国宝になると思っている。ただし、通常は外観しか見られない。時々講演会や見学会で公開されるのだが、コロナ禍で今は難しいかもしれない。他にも図書館旧館も重文。早稲田大学演劇博物館も外観が独特で素晴らしい。こっちは坪内逍遙の作ったものである。演劇に関して様々な資料を展示している。他にも会津八一記念館など興味深いし、最近村上春樹ライブラリーも出来た。
(三田演説館) (演劇博物館)
 キリスト教系の大学には趣のある建物が多い。立教大学、明治学院大学はここでも書いたが、他にもいっぱいある。学習院大学にも古い建物が多いらしいが行ったことはない。大学博物館としてはお茶の水の明大博物館だろう。東京は近代日本の文化、学術の中心だったので、探していけばいろいろな物が残っている。特に大学は一般に無料公開している資料館なども多いし、学食も一般に開放しているところがある。今は警備が厳しいし、コロナ禍で立ち入れないところが多いと思うが、一度は行って見たいところが多い。東京以外でも京都の大学にも見どころが多いらしい。「観光資源としての大学キャンパス」という観点で町を見るのも面白いと思う。
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開高健記念館(茅ヶ崎市)を見に行く

2021年02月26日 22時21分40秒 | 東京関東散歩
 神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市にある開高健記念館に行って来た。開高健は1974年に茅ヶ崎に終生の住まいを作った。2003年にそこが記念館になって公開されたが、知らない人が多いと思う。僕も割合最近(と言っても数年前だが)に知った。何しろ金土日しか開館してないから、なかなか行きにくい。今日も雨の予想だったが、何とか持ちそうな予報に変わったので行くことにした。最近開高健を読んだから、こういう時期じゃないとなかなか行きにくい。

 茅ヶ崎と言えば、一般にはまずサザンオールスターズ(桑田佳祐の出身地)で、続いて加山雄三だろう。(父親の上原謙が邸宅を構えた。)有名人の出身者、居住者が多い町で、松坂桃李や今宇宙に行っている野口聡一さんの出身地とも出ている。映画監督の森田芳光の出身地で、小津安二郎の定宿だった茅ヶ崎館もある。大岡越前一族の墓があって大岡越前祭もやっている。茅ヶ崎で開高健を思い出す人はほとんどいないだろう。

 そんな茅ヶ崎だが行くのは初めて。遠いけれど乗り換え一回で行ける。上野駅で上野東京ラインの熱海行に乗って、ウトウトしてる間に着いてしまう。スマホでバスを調べたが、時間が全然違ってる。改札を出て南口寄りに観光案内所があり、ガイドマップが置いてある。初めて行く人には必須だ。コミュニティバスに開高健記念館というバス停があるが、時間が合わないので歩くことにした。徒歩20分とあるから何とかなるだろうと思ったが、まあ近くまでは問題なく行ける。問題は近くに案内が少ないことで大回りしてしまった。
   
 2枚目の写真にあるように、今も「開高健 牧羊子」と刻まれた表札のままである。入ると玄関前に碑がある。「入ってきて人生と叫び 出ていって死と叫ぶ」。館内では写真を撮らなかったが、戦場のヘルメットや釣り道具や酒、本が集まっている。「パニック」のアイディアの基となった新聞記事、開高が携わったサントリーの新聞広告、人生折々の写真など貴重な資料がいっぱいだった。主のいない書斎がそのまま保存され外から見られる。
  
 庭を歩けるが、開高は「哲学の小途」と名付けていた。開高家の本籍は福井県で、中野重治と同じ村だった。そのゆかりで庭には越前スイセンが植えられて今見頃だった。記念館には開高健の流通している本も集められて購買できる。全然知らない人には意味が無いところだと思うけど、そういう人はもともと来ないだろう。現代史の貴重な資料が残されていて僕は面白かった。
  
 記念館のそばに「茅ヶ崎ゆかりの人物館」というのがあって、共通券もあったから行ってみたが、ここは入る必要はないと思う。記念館の所在地は「東海岸南」だが、開高邸から海は見えない。砂防林があるからだ。5分ぐらい歩いて国道を越えると海が見えてくる。堤防まで行くと下が砂浜である。遠くに江ノ島が見えた。松林の中は散歩道が整備されている。歩きながらサザンビーチを目指す。途中に野球場があり、そこに国木田独歩の文学碑がある。
  
 明治の文学者国木田独歩は結核のため36歳で亡くなった。亡くなる前は茅ヶ崎にあった有名な結核病院、南湖院に入っていた。ここは当時非常に有名だった病院で、名前の「南湖院」はいかにも湘南っぽいけれど、実は所在地の地名である。(ただし「なんご」と読むらしいが、病院は「なんこいん」である。)平塚雷鳥の愛人だった奥村博史や詩人の八木重吉なども入っていた。近代文学史、思想史に大きな意味を持った場所だが、戦後進駐軍に接収され、現在は滞在型有料老人ホーム「太陽の郷」になっている。第一病棟などが現存していて公園として公開されている。ここも行きたかったのだが、雨がパラパラしてきたから今回は止めることにした。
 (茅ヶ崎館)
 そこでサザンビーチ前で曲がって「茅ヶ崎館」を探すことにした。まあここは現役の旅館だから外から写真を撮って帰ることにした。ビーチ沿いには夏ならばオシャレそうな店が並んでいたが、緊急事態下の冬の曇天(時には雨がパラパラ)だから、特にビーチリゾート感はなかった。でも町全体に何となく夏っぽいムードがある町だ。僕は一度も湘南ビーチに行ったことがない。千葉や伊豆はあるが、混んでそうなところは行きたくない。だから鎌倉と小田原の中間地帯は全然知らないが、そこにも興味深い史跡はあるので今後また行きたいと思った。
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菅谷館と嵐山渓谷ー武蔵嵐山散歩

2020年11月26日 22時58分02秒 | 東京関東散歩
 埼玉県に嵐山(らんざん)町というところがある。なんで嵐山かというと、昭和初期に「京都の嵐山に似ている」と言った人がいて、1967年の町制施行に際して町名にしてしまった。日本各地の観光地に名前を付けたと言えば、明治の大町桂月が思い浮かぶが、こっちは本多静六という人である。誰だよ、知らないよと思ったが、調べてみると「公園の父」と呼ばれた東大教授で、すごい大人物だった。そのことはまた後述する。

 嵐山町になる前は菅谷村で鎌倉時代の武将・畠山重忠ゆかりとされる「菅谷館」(すがややかた)がある。国指定史跡で、続日本百名城に選定されている。ここには一度行きたいと思っていたので、紅葉の季節に合わせて訪ねてみた。どこら辺にあるかと言えば、東武東上線の池袋駅から1時間に一本出ている「川越特急」小川町行きに乗って54分。東松山市の北にあたる。比企丘陵が広がり、中世・戦国の城が集まっている地帯だ。

 駅に情報センターがあって、パンフや地図が入手できる。バスもあるが、史跡めぐりには不便。駅から国道を越えて15分歩くしかない。案内はあちこちにあって、迷うことはない。館跡に「県立嵐山史跡の博物館」が設置されている。館跡は相当に広くて、歩きがいがある。史跡公園になっていて、散策は自由。関東の戦国時代のことは以前に書いたけれど、扇ガ谷上杉山内上杉、さらには小田原の後北条氏をめぐる争いの最前線になった地帯だ。だから鎌倉時代のまま残っているわけじゃなくて、戦国期に補修されている。
   
 上の2枚目は拡大しないと判りづらいが、館跡の高台に作られた畠山重忠像である。重忠像は「嵐山史跡の博物館」にもある。ここは思ったより小ぶりな博物館で、歴史ファン以外は無理して見なくてもいいかなと思った。僕もきちんと見なかったけど、館内で写真が撮れた。
   
 畠山重忠は秩父氏の一族で、源頼朝の信頼が篤い有力御家人だった。後世「武士の鑑」とうたわれた。宇治川合戦や一の谷の戦いでの活躍が「平家物語」に描かれている。1204年に「畠山重忠の乱」で滅ぼされたが、北条氏の陰謀と言われる。生まれは今の深谷市といわれ、そちらに「畠山重忠公史跡公園」があって墓所もあるという。もう少し「菅谷館」の散策を紹介。
   
 ところで、嵐山町にはもう一人、重要な歴史的人物の足跡がある。それは木曽義仲である。「木曽」と言うから長野県出身かと思うと、実は武蔵の生まれである。父は源義賢で、為義の次男にあたる。つまり、源義朝の弟である。義賢は義朝と対立し、義朝の子・義平に討たれた。2歳の義仲は木曽に逃れて大人になって、北陸から京都に攻め上ったわけである。父義賢の墓は大蔵館跡にあるが、ちょっと離れていて今回は行けなかった。菅谷館から南へ都幾川(ときがわ)沿いにずっと歩くと義仲の史跡がある。川沿いに桜並木が続き、満開時は素晴らしいだろう。
   
 最初の写真は木曽義仲公顕彰碑である。歴史書の中では悪役か、そうじゃないとしても脇役程度の義仲だけど、関係する地元では顕彰されている。これがあるのは「班渓寺」で、結構場所が探しにくかった。3枚目は「木曽義仲生誕地の碑」で、4枚目は義仲の妻、山吹姫の墓とされる。
 
 その手前に鎌形大蔵神社があって、それが上の写真。ここに「義仲産湯の清水」があるというが、見なかった。もともとは坂上田村麻呂が宇佐八幡から勧請したという。この地の源氏勢力に信仰されたのだろう。
   
 そろそろ疲れてきたのだが、せっかくだから紅葉の季節に嵐山渓谷に行こう。これがまたずいぶん遠く、30分か40分歩くことになる。県道を歩き続けて、裏側から渓谷に近づくと案内版があった。あまり詳しく調べていかなかったので、行き方がよく判らない。渓谷に着いても最奥に与謝野晶子歌碑があると出ているが、もういいやという感じ。一面紅葉みたいな絶景を期待していたら、そうじゃなかったので、少しガッカリしたのである。
   
 上の1枚目の写真は「展望台」。2枚目はそこからの風景。最後の碑は「嵐山町名発祥の地」である。まあ「嵐山」は言い過ぎだと思ったが、昔はちゃんとした道や橋も出来ていなくて、もっと風情があったのだという。またいずれ別の季節に訪ねてみたいなと思った。最初に挙げた本多静六博士だが、埼玉県久喜市の出身で全国の多くの公園の設計、改良に携わった。日比谷公園や明治神宮、北海道の大沼公園、日光、箱根から軽井沢、小諸、大阪の箕面公園、奈良公園、湯布院温泉など「近代日本の風景美」に大きな貢献をした人だった。ところで、歩くのは距離があり、車で行くほど遠くもない。武蔵嵐山にはレンタサイクルの整備を是非望みたい。
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鎌倉文学館の小津安二郎展から鎌倉大仏へ

2020年09月23日 22時01分11秒 | 東京関東散歩
 9月19日に鎌倉文学館小津安二郎展を見に行った。もう終わっているんだけど、一応写真を載せておきたいと思って。小津はきっかけで、もともと国登録有形文化財の鎌倉文学館に行ってみたかった。旧前田侯爵の別邸だそうで、三島由紀夫の「春の雪」に出てくるという。明治期に火事で焼失していたものを、1936年に洋館として再建したもの。前田邸と言えば駒場に本邸が残っているが、どっちも前田利為陸軍中将(戦死で大将)が建てた。さすが百万石の大名家の壮麗さだが、当主戦死のため相続税が免除されたという。
   
 鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて2駅、由比ヶ浜で降りる。バスや歩きでも行けそうだが初めて行くところは案内通りに行く方がいい。鎌倉も鶴岡八幡宮や北鎌倉の建長寺、円覚寺なんかは行ってるけど、鎌倉駅より西の方は実は一度も行ったことがない。若い頃に千葉県の市川に住んでいた時は、総武線(横須賀線)で一本だった。今は乗り換えも面倒で鎌倉もあまり行かない。江ノ電も一時は外国人客が多くて乗るのも大変という話だったが、今はもちろんそんなに混んではいない。駅からは案内通りに進んで約7分程度。
 
 山の方にゆるゆると登っていくと緑豊かな地区に入っていく。鎌倉文学館の門を入ると、トンネルがあるので驚いた。文学館内部は一切写真を撮れないので、庭から建物を撮るしかない。春はバラが咲くことで有名だというが、建物がピクチャレスクで見応えがある。中にはいると「鎌倉文士」の紹介がある。作家たちがこんなに鎌倉にいたのか。高見順の戦時期の日記に鎌倉に住む作家たちの様子が記録されているが、最近の作家も結構多い。
(小津安二郎展)
 小津安二郎展では幼児期から戦後に至るまで、日記や手紙などの実物資料がいっぱいあった。まあきちんと読むまでの気は起こらなかったけど。それにしても没後60年近いというのに、ずいぶん残されている。映画界初の芸術院会員だっただけのことはある。初のカラー作品「彼岸花」では赤いヤカンが出てきて印象的だったが、小津が特注させたのかと思っていた。そうしたらスウェーデンのコクムス社製という。もうすでに廃業している会社らしいが。

 最近神保町シアターの原節子特集で、「晩春」「麦秋」「小早川家の秋」を見直した。「麦秋」は3度目だが、他の2本は若い時に見て以来何十年ぶり。「小早川家の秋」は宝塚映画で作った映画で伏見の酒造家の話だが、「晩春」「麦秋」は鎌倉が舞台になっている。北鎌倉駅も画面に出てくるし、電車内のシーンもある。両者とも原節子演じる「紀子」の結婚をめぐる話だが、今から見るとずいぶん「変」である。紀子はすでに「適齢期」を過ぎつつあるが、その背景には「戦争」がある。戦後4年目、6年目の映画なんだから、戦争の影があるのは当然だ。「晩春」では戦争中に病気をしていたが、ようやく回復したのである。

 鎌倉文学館から大仏までは徒歩15分程度。一度も行ったことがないので、寄ってみた。長谷寺も途中にあるが時間の関係で省く。大仏があるお寺は正式には高徳院という。大仏がいつ作られたか正確には判っていない。鎌倉初期には出来ていたらしく大仏殿もあった。何回か地震や津波の被害を受けているが、鎌倉期の貴重な仏像として国宝に指定されている。お土産屋も並んでいて、栄えている感じがする。観光客も多かったが、あまり見ないでバスで帰ってきた。本当は大仏の中にも入れるということだが。
  
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白旗塚古墳と伊興寺町散歩

2020年05月02日 17時37分07秒 | 東京関東散歩
 だんだん暑くなってきて、陽射しも厳しくなってきた。マスクをしてると熱中症になりかねない。そうじゃなくても、マスク型に日焼けしそうで嫌だ。4月下旬は雨も多かったが、気持ちよく晴れ渡る日もけっこう多かった。そんな好天に家にいるのも鬱屈するが、今年はやむを得ない。しかし、誰とも会わない地元散歩ならいいだろうと、何十年ぶりに地元の史跡を歩いてみた。数日前の曇天の日のこと。

 僕の住んでるのは東京・足立区の北部で、もう少しで埼玉県である。もっとも江戸時代までは同じ武蔵国になる。埼玉と東京の境目には毛長川が流れている。「けなががわ」が正式なんだろうが、地元では「けながわ」と呼んでいた。毛長川の自然堤防や後背湿地が広がる地域には、弥生時代から人が住んでいた。僕の小さい頃はまだ田園地帯だったけれど、農家の同級生は畑を掘ると土器が出るんだよと言っていた。古墳群もあったが、「白旗塚古墳」だけが残されている。
   
 今は「白旗塚史跡公園」として整備されている。公園が出来たのは1987年のことで、公園が出来てからちゃんと行ったのは初めてかも知れない。「白旗塚」という名称は、前九年合戦の時に奥州へ向かう源義家がここを通りかかって源氏の白旗を立てたという伝説から来ている。古墳自体は6世紀前半のものというが調査はされていない。江戸時代の絵図には8基の古墳が描かれているというが、他の古墳は取り壊されてしまった。公園には埴輪のレプリカが置かれていた。

 場所は東武伊勢崎線竹ノ塚駅西口から徒歩15分ぐらい。西口から少し行って尾竹橋通りを北上する。(詳しい行き方は省略)。今は「西竹の塚」なんて無粋な地名に変えられたが、元は「伊興」(いこう)という地名だった。白旗塚付近の信号は「伊興白旗」である。その周辺には多くの寺が集合していて「伊興寺町」と呼ばれる。関東大震災で浅草などにあった寺院が焼失して、この周辺に集団移転したのである。「伊興白旗」信号を左折すると、10以上の寺が伊興遺跡公園まで集合している。皆が由緒あるわけでもなく、何の案内板も立ってない寺の方が多い。だから数もカウントしなかった。
   (法受寺)
 まず最初の「法受寺」だが、ここは「牡丹灯籠」由緒の寺で、「三遊亭圓朝の怪談を読む」で触れた。「牡丹灯籠」の碑がある。(上の2枚目)このお寺は「新幡随院」と呼ばれる歴史ある名刹で、怪談噺の中では、美女の幽霊に見込まれた若侍が法力の高い新幡随院の和尚に頼るという筋になっている。922年に下尾久で創建され、その後下谷に移転した。徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の墓(上の3枚目)があるぐらい格式高い寺だったが、震災後の1935年に現地に移った。
  (浄光寺)
 隣が浄光寺で、特に史跡もないようだが、ここは父親の葬儀を行ったお寺である。菩提寺は館林の曹洞宗のお寺だが、ここは浄土真宗。地元でやる必要からホールだけ借りたわけである。境内には親鸞聖人の像(上の2枚目)、蓮如上人の像(上の3枚目)があった。
 (伊興遺跡公園)
 幾つかの寺が続き、氷川神社を右手に見ながら歩いて行くと「伊興遺跡公園」に出る。ここも以前1回来ただけ。縄文末期から古墳時代にかけての遺跡が出ている。展示施設があるが、今は公園内にも入れなかった。竪穴式住居も復元されている。そこから裏の道をたどって元の尾竹橋通りに向かう。
   (易行院)
 門構えだけ載せても意味ないから、史跡があるところだけ。「易行院」には「助六の墓」(上の2枚目)がある。と言われても助六って誰? 歌舞伎に出てくる「花川戸助六」という人がいて、実は曾我五郎という設定だそうだが、侠客として人気が出て独自の芝居がたくさん作られた。実在の人物ではないが、モデルと言われた人がいて、7代目市川團十郎が1812年に助六とその愛人揚巻の墓を建てたんだという。ところで易行院の奥に「5代目三遊亭円楽の墓」(上の4枚目)がある。吉河家の墓で、1972年の日航機ニューデリー事故で亡くなったCAだった妹さんの墓もある。
  (東陽寺)
 次は東陽寺。ここは史跡が多い寺で、やはり震災後に八丁堀から移っている。塩原太助の墓があるというので、探し回ってしまった。寺の門前に置かれた墓石がそうなんだろう。塩原太助も誰?って感じだろうが、これも圓朝の落語になっていて、桂歌丸で聴いたことがある。上州水上から裸一貫で江戸に上って、炭問屋で大成功した人物である。成功後も質素な暮らしをして、社会事業に尽力して戦前は修身の教科書に載っていたという。「炭団」(たどん)を発明したという。
  (東陽寺)
 東陽寺には他にも、河村瑞賢(かわむら・ずいけん)の追悼碑(1枚目)や戸田茂睡(とだ・もすい)の歌碑(2枚目)もある。河村瑞賢は江戸時代初期に東廻り航路西廻り航路を開いたり、大坂の治水事業などを行った人物。戸田茂睡は江戸初期の歌人、歌学者で、国学の先駆けの一人とされる。名前ぐらいしか知らないけど。お堂の脇にある「十六羅漢」が面白かった。
  (東岳寺)
 尾竹橋通りに戻って駅方向に戻る。その頃から天気が崩れかかってきたので急がないと。前沼交差点に近づくと、東岳寺がある。ここは小さいけど、緑豊かである。安藤広重の墓(2枚目)があることで知られている。今ではそれは誰? って思う人もいるか。昔の教科書には「安藤」って載っていたけど、今は「歌川広重」である。「東海道五十三次」の浮世絵で有名だが、安藤は俗名(本名の姓)であって、絵師としては「歌川広重」が正しい。雨がかなり降ってきたので急いで帰る。都心部にあったお寺が移ってきただけあって、江戸時代の有名人の墓がけっこう集まっている地域なのである。
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