尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

林芙美子を読む①戦争を生きた女たち

2024年01月21日 22時28分03秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子(1903~1951)の小説を読んでいる。前からちゃんと読んでみたいと思っていた。成瀬巳喜男監督による林芙美子原作の映画は好きだけど、実はほとんど読んでなかったのである。『放浪記』を読んだことはある。最初は面白いんだけど、同じような繰り返しが延々と続いて飽きてしまった。作家の柚木麻子が『放浪記』を「魔改造日記」と呼んでいて、なるほどと納得した。建て増しを重ねた温泉旅館みたいになってしまった作品なのである。そう書いてあるのは、2023年5月に出た『柚木麻子と読む 林芙美子』(中公文庫)で、その本を読んだことをきっかけにこの機会に他も読んでみようと思った。

 林芙美子は昭和前期に活躍した多くの女性作家たちの中では、今も一番知名度があって読まれている人だろう。だけどやっぱり、名前は聞いたことがあるけど、読んだことはない人が多いと思う。文章は非常に読みやすく、今でも全然古びてない。しかし、何となく敬遠している人はいると思う。一つは男女のもつれた関係を主に描いた「風俗作家」という思い込み。もう一つは戦時下に報道班員として中国や東南アジアに赴いた「従軍作家」、もっと言えば「戦犯作家」という評価である。そして、特に戦後は大人気作家として数多くの雑誌、新聞に書き散らして推敲の時間も取れなかった「早書き作家」という決めつけである。

 しかし、読んでみると「早すぎる晩年」にいっぱい書いた多くの短編も完成されている。変にあれこれ推敲するより、勢いに乗って書いてるエネルギーが感じられる。今回読んでみて、代表作とされる『放浪記』『浮雲』から入ると大変なので、「ちくま日本文学」(文庫版の文学全集)の『林芙美子』を最初に読むのが良いんじゃないかと思った。これには中短編しか収録されてないので、簡単に読める。前に読んでいて大好きな初期作品『風琴と魚の町』(1931)が小説の最初に入っている。母と(母より大分年下の)養父とともに行商で訪れた尾道の描写である。今じゃ大林宣彦映画で知られる尾道だが、それ以前は林芙美子で知られていた。
(ちくま日本文学)
 それで判ることは林芙美子が天性の詩人だったことである。尾道に居付いて学校に通えるようになり、女学校に進学する。その頃から地元新聞に詩や短歌を発表していた。(当時は柿沼陽子というペンネームを使っていた。)そこから散文に移行するのは苦労したらしい。初期の『風琴と魚の町』や『魚の序文』『清貧の書』などは冷徹なリアリズム描写を身に付ける前のメルヘン的な作風になっている。それが欠点とならず、詩情と郷愁が巧みに織りなされている。『風琴と魚の町』は近代短編小説のベスト級ではないかと思う。尾道の小学校や女学校の教師もよく芙美子の才能を見逃さず援助し続けたものだ。
(若い頃の林芙美子)
 母の姉妹に転々と預けられる子どもを描く『泣虫小僧』(1934)も名品で、1938年に豊田四郎監督によって映画になった。「ちくま日本文学」に入っている作品の後ろ半分は、皆「戦争」が登場人物の人生を大きく変えている。『下町』(ダウン・タウン)はシベリア抑留から帰らぬ夫を待って行商をしている女が、ふと親切な男に巡り会うが…。この作品は千葉泰樹監督の中編映画『下町』(1957)の原作だが、映画は全く同じ筋だった。原作で主人公の男は山田五十鈴の写真を貼っているが、映画で行商女を山田五十鈴が演じているのが面白い。(男は三船敏郎。)

 『魚介』は日中戦争下、伊豆天城の温泉場の酌婦たちが仕事がなくなって「満州」まで稼ぎに行く。『河沙魚』(かわはぜ)は夫が召集されている銃後の女の悲劇。さらに講談社文芸文庫にある『晩菊 水仙 白鷺』に収録された戦後に書かれた短編集はもっと直接に「戦争」を描く。というか、戦争時代を生きていたから、戦争で変貌する女の姿を描くしかなかったのである。『晩菊』を読むと、映画で主人公を演じた杉村春子がいかに凄いかがよく判る。数年前までは軍需産業などで羽振りがよかった男も、戦争に敗れると皆没落した。戦前は玄人女を「世話」出来た男たちが、戦後は昔なじみの女を頼るしかなくなっている。

 時代の変遷と悲哀をこれほど鋭く描いた作品は少ないだろう。もはや「詩情」は裏に隠れて、冷徹なリアリズムに徹している。子どもを抱えて、時には体を売ったり、子を捨てたりしてまで生きていかざるを得ない女たち。「敗戦を抱きしめ」ることが出来ない女たちのリアルがここにある。民衆の中から出て来た林芙美子の作品には、様々な民衆像が描かれる。女も男も等身大で描かれ、特に偉くもないが何とか生きている。それでも男はダメになっていっても、女は生き抜くのである。

 今までどちらかと言えば、やはり「女と男」を描いた作家と思われてきた林芙美子を、むしろシスターフッド(女同士の連帯)の作家として読み直すのが、一番最初に紹介した柚月麻子である。今まで他の作品集に収録されてこなかった作品の中に、そういう作風の小説があるという。そこで見られる「ふてぶてしさ」こそが魅力なのだと言う。確かに『寿司』など実に興味深い。『市立女学校』は名前こそ変えてあるが、尾道の女学校時代を形象化した作品でとても貴重だ。「貧困」と「食」と「性」があからさまに語られ、同時代の男性作家からは低く見られたのかもしれない。だけど、新しい「貧困」と「戦争」の世紀を生き抜くために、女も男も林芙美子を再発見する価値がある。

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