尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ザ・バイクライダーズ』、青春のゆくえ、自由と愛と組織

2024年12月17日 22時16分07秒 |  〃  (新作外国映画)

 最近見た映画で一番面白かったのが、ジェフ・ニコルズ監督の『ザ・バイクライダーズ』だった。他にもいろいろ見ているけど、完成度と別に好みの問題もある。日本映画でも『正体』のようにすごく面白いんだけど、書くと「ネタバレ」&「司法制度の描写批判」になっちゃうから書いてない映画もある。(一言だけ書くと、この映画では「死刑囚」が脱獄するんだけど、「自殺を図ったフリ」をして外部医療施設に搬送されるという設定である。その反対に重病で死期が迫っているのに外部医療が受けられず見殺しにされたというならリアリティがあるが、拘置所にも医官がいるのにあの程度のケガじゃ移送しないでしょ。)

 『ザ・バイクライダーズ』だけど、これは簡単に言えば60年代アメリカのバイク野郎たちの物語である。そんなものが面白いかと言えば、語り口が絶妙なのと「青春の本質」に迫る物語が胸を打つのである。だからバイクに何の関心もない僕も興味深く見られたわけで、要するにバイクじゃなくても音楽とか演劇、あるいは政治やギャング映画なんかによくあるような「若い時のムチャ」が「成功の苦い報酬」になっていく様が上のチラシにあるような見事な構図で捉えられて心をとらえるのだ。

(ベニー)

 映画紹介からコピーすると「1965年アメリカシカゴ。不良とは無縁の生活を送っていたキャシーが、出会いから5週間で結婚を決めた男は、喧嘩っ早くて無口なバイク乗りベニーだった。地元の荒くれ者たちを仕切るジョニーの側近でありながら、群れを嫌い、狂気的な一面を持つベニーの存在は異彩を放っていた。バイカ―が集まるジョニーの一味は、やがて“ヴァンダルズ”という名のモーターサイクルクラブへと発展するが、クラブの噂は瞬く間に広がり、各所に支部が立ち上がるほど急激な拡大を遂げていく。その結果、クラブ内は治安悪化に陥り、敵対クラブとの抗争が勃発。ジョニーは、自分が立ち上げたクラブがコントロール不能な状態であることに苦悩していた。」ただバイクが好きでつるんでいた若者たちが「組織」になって変質していくのである。

(ベニーとキャシー)

 名前は違うが実際にあったモータークラブの写真集(ダニー・ライオン「The Bikeriders」1968)にインスパイアされて、ジェフ・ニコルズ監督が脚本を書いたという。映画はカメラマンが「当時の記憶やその後の事情」をキャシーに聞きに来て、彼女が思い出を物語るという趣向で進行する。そのため時間が前後することで、「あの頃」が客観化されるとともにノスタルジックな味わいが生じている。1965年から70年代に掛けては、ヴェトナム戦争の激化でアメリカそのものが大きく変わる時期だった。その社会的変動は否応なく彼らにも及んでいく。その痛みが全編を覆っていて、見る者の心が揺さぶられる。

(ベニーとジョニー)

 ベニーを演じるのは『エルヴィス』でアカデミー賞にノミネートされたオースティン・バトラー。「何とも魅力的なクズ男」をこれ以上ないほどの存在感で演じている。キャシーは『最後の決闘裁判』のジョディ・カマー。女友だちに頼まれて、普段は近寄らないバイカーたちのクラブにお金を届けに行った。そこでキャシーはベニーに一目惚れしてしまったのである。すぐに結婚したというのに、ベニーは妻を顧みずにバイクで暴走を繰り返し、警察に追われたり大ケガをしたり…。キャシーはそんな彼に変わって欲しいのだが、何より「自由」を求めるベニーは言うことを聞かず「出て行く」と言うのだった。

 ジョニートム・ハーディ)の統率力で、ヴァンダルズは大きな組織になっていく。他の町のバイカーも受け容れたジョニーだったが、やがて若い世代との確執が生じてくる。自分の後継にはベニーがなってくれと言うと、それを断ったベニーは妻も残して他の町に去って行った。ヴェトナム帰りの若い世代が牛耳るようになって、組織は大きく変わってゆく。こういう展開は、実録映画のヤクザ組織でもよくあった。あるいは音楽映画でも、若者たちがバンドを組み成功を夢みて活動するが、人気が出たらそれぞれの「方向性の違い」が出て来てバラバラになる。そんな物語と同じだけど、青春は一回だから心に沁みるのである。

(ジェフ・ニコルズ監督)

 ジェフ・ニコルズ監督(1978~)は名前を記憶してなかったが、デビュー作『テイク・シェルター』(2011)でカンヌ映画祭批評家週間グランプリ、『ラビング 愛という名のふたり』(2016)でアカデミー賞主演女優賞ノミネートという人だった。なかなか見事な演出で、すっかり魅せられてしまった。バイクや服装、音楽など60年代を再現していて、シカゴの60年代なんて知らないわけだけど、なんか懐かしい。ヴェトナム反戦や公民権運動なんて全然出て来ず、人種も白人ばかり。ヴェトナムに行きたかったと語る登場人物もいて、バイカーたちの社会的位置が「都市知識層」とは全く違うことが判る。

 僕はバイクそのものには全く興味がない。(それどころか一度も乗ったことがない。)同じようにスポーツカーや蒸気機関車、戦闘機、戦車…少年の好きなアイテムらしいが、全然関心がなかった。まあバイクが「カッコいい」という感覚は理解出来るが、むしろこの映画は「青春の栄光と悲惨」、「自由と愛の神話」なのである。自由を求めてさすらう「漂泊の人生」に憧れる人、芭蕉や山頭火が好きな人にこそ通じるような映画かもしれないと思う。ラストをどう解釈するべきかは見る人次第だろう。

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防災省設置に賛成するー2026年4月に「防災庁」スタートが現実的

2024年12月16日 22時19分12秒 | 政治

 石破政権がいつまで持つか判らないけど、少数与党のうえ党内基盤も弱く厳しい現実が続いている。僕も「厳しい現実」を書くことが多いと思うが、唯一「石破政権の遺産」になりそうなことがある。それが「防災庁」の設置で、内閣官房に「防災庁設置準備室」が発足し、赤澤経済再生大臣が担当になった。首相と側近だけが関わっていて、石破政権がつぶれたら雲散霧消しそうだが、それではもったいない。日本にとって絶対に必要なことだと思うので、党派を超えて実現に向け動き出して欲しい。

 発足時の石破首相訓示では、「わが国は世界有数の災害発生国で、近年では風水害の頻発化や激甚化がみられるほか、近い将来には首都直下地震や南海トラフ巨大地震などの発生も懸念される。人命最優先の防災立国を早急に構築することが求められている」と述べた。まさにその通りというしかない現状認識である。「待ったなし」の政策は他にも多いだろうが、それはすでに対応する行政官庁がある。それに対して、現状では「防災担当大臣」が置かれているが、内閣府特命担当大臣に過ぎない。きちんとした部署になっているとは到底言えないのである。ちなみに防災担当大臣は2001年の省庁改編後に置かれているが存在感は薄いだろう。

(防災省の必要性を語る石破茂氏)

 アメリカにはカーター政権時に発足した「アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁」(Federal Emergency Management Agency、略称FEMA)という組織がある。洪水、ハリケーン、原子力災害など幅広く対応するという。2003年にブッシュ政権により国土安全保障省に組み込まれて機動性が薄れてしまったというが、それでも重要な役所だと思う。アメリカは各州の連邦制だが、災害は州を越えて襲ってくる。連邦政府による調整、指揮が必要になってくるのである。

 日本は連邦制ではないけれど、各地方ごとの地形的、歴史的な差異が大きい。南北に長く四方を海に囲まれているという特徴から、災害救援がなかなか難しい。それに今も経済成長が続くアメリカと違って、少子高齢化が著しい日本ではインフラの劣化が進みながら更新も難しい状態が起きている。今後も地震や豪雨災害で鉄道、道路、空港、港などに被害が生じて救援が遅れることが想定される。また避難所態勢も先進諸国に比べて劣悪なまま放置されている。(「TKB48」を知ってますか?」参照。)

(総裁選に出た小林鷹之議員)

 石破首相が自民党総裁選で「防災省設置」を唱えたところ、これに真っ向から反対したのが小林鷹之議員だった。小林氏は「屋上屋を架す」と言ったが、自衛隊があるから災害時に指揮権が混乱するという趣旨だと思う。しかし、自衛隊は「防災行政」を主管しない。それどころか「災害出動」でさえ、本体任務には位置づけられていない。災害が発生したときには、確かに「実力組織」である自衛隊の出動が必要になるだろう。しかし、「平時」には防災に関する業務を行っていない。「屋上屋」というけど、日本の現状はまだ屋根もない、小さな部屋があるだけの段階である。きちんとした大きな部屋と屋根が必須である。

 ところで、ではいつ作るべきか。一気に「防災省」は難しい。まずは「防災庁」からで、それは東日本大震災15年を経た2026年がふさわしいと思う。復興は切りがないけれど、その後も地震災害は各地に起きてしまった。「復興庁」を防災庁に衣替えして、今後も東北復興を担いながら、他の災害対応も出来るように人員を大幅に増強するべきだろう。2026年4月1日から防災庁として発足し、やがては防災省に格上げして気象庁も国土交通省から移管してはどうかと思う。

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「103万円の壁」問題私論ー引き上げには賛成だけど…

2024年12月15日 21時42分31秒 | 政治

 臨時国会の焦点になってる「103万円の壁」という問題。これをどう考えれば良いのだろうか。103万円だけじゃなく、106万円とか130万円とかいろんな「」もあるらしい。いや、壁じゃないという人もいるようだし、税制は複雑でなかなか判らない。年金や健康保険など社会保険になると、もっと複雑かつ利害が入り乱れて、ここで論じるだけの知識もエネルギーもない。「103万」というのは、本人に所得税が発生するだけでなく、扶養控除が認められなくなる基準になっている。「扶養」は子どもだけでなく、主婦(または主夫)、障害者、高齢者などいろいろあるわけだが、今は主に「学生」を取り上げて少し考えてみたい。

(103万円の壁)

 もともと国民民主党の玉木代表が「若者」に焦点を絞っていたためである。テレビでは「もっと働きたいのに、103万円を意識してセーブしている」という若者の声が出ていた。また飲食店経営者から「年末繁忙期に学生が抜けられて困る」という声も出ていた。しかし、他の飲食店オーナーからは、12月に働いた分は来年1月に支払うので「年末繁忙期に抜ける」ことはないという声もあった。もっともアルバイトの場合は月末清算のケースも多いだろうと思うが。

 僕はこの若者の声を聞いたときから、ちょっと違和感があった。「学生の本分は学業」である。もっと働いたら勉強はいつするのか。本来は逆であって、「もっと勉強に集中できるように、アルバイトしなくても大丈夫にして欲しい」というのが学生の要求であるべきじゃないのか。つまり、貸与型奨学金の充実とか、奨学金返済の免除などである。本当に困っている学生は、親の扶養など関係なく働くしかないだろう。特に下宿生の場合、何とか学費は出して貰えても、生活費は十分じゃない場合も多いはず。そういう困窮学生は今回の「103万円の壁」には関係ない。親が扶養できる学生の場合だけの話なのである。

(引き上げをめぐる3党合意)

 この「103万円」という基準は、1995年から変わっていないという。もっとも内容には変化があって、「基礎控除」は2020年まで38万円だった。2021年から48万円である。(2400万円以下の所得の場合。)つまりほぼすべての人の場合、まず収入から48万円が控除される。そして「給与所得控除」が55万円となる。これは2020年以前は65万円だった。結局控除額の合計は変わっていないわけだ。基礎控除は本人の最低限の生活を維持するための金額は所得とは考えないということである。給与所得控除は所得を得るための「必要経費」を(確定申告せずに)ざっくりと算定した金額である。

 この控除額に関しては、「最低賃金の伸び」「物価水準」などを基準にして増額させるべきだと言われている。国民民主党は最低賃金を主張しているが、最低賃金は都道府県ごとに違うので合理性が少ない。最低賃金額の伸び率を基準にするなら、控除額も各地で異なるようにするのか。まあ、それはともかく「交渉用の数字」なんだろう。それより、90年代と現在は何が一番違うだろうか。それは「情報通信費」、まあスマホ代である。95年当時は携帯電話(通話機能だけ)がようやく出始めた頃だった。

 その後、どんどんヴァージョンアップしていって、今は学生にスマホは必需品だろう。それだけでなく、勉強をしっかりするためにはパソコンプリンターも必須である。これは自宅学生の場合は家で共用できるかもしれないが、下宿生の場合学校にあるものを利用するだけじゃ不足で下宿でも使いたいだろう。どっちにせよインターネットの通信代が高額なのである。だけど、今はそれがなくては仕事を探すのも不可能、就職にも勉強にも不可欠である。まさに生きるための「必要経費」である。

 僕が思うには、まずこのネット環境という「客観情勢の変化」が基礎控除、給与所得控除増額の理由になるべきだと思う。これは今や高齢者にも言えることで、スマホやパソコンなくして映画も見に行けない。(人気映画は事前に予約しないと入れない。)マイナ保険証なんて政府は言っているんだから、スマホ代を補助して欲しいぐらいだ。ゲームなどをしてる場合もあるだろうが、とにかくスマホなくしてバイトは不可能だろう。まさに必要経費というしかない。

(様々な壁)

 ところで、勤労学生の場合「勤労学生控除」というのもある。アルバイトの場合、年末調整されることはほとんどないと思うが、確定申告すれば「27万円」の控除がさらに認められる。(所得金額が75万円以下の場合。)この確定申告を学生はきちんとしているだろうか。学生アルバイトの場合、個人経営の飲食店とか知り合いに頼まれた家庭教師なんかも多いと思うけど、コンビニなんかの方が多いだろう。その場合、銀行口座に所得税を抜いた額が振り込まれることが多いはず。ちゃんと「還付申告」するように、大学や専門学校がきちんと呼びかける必要がある。「手取りを増やす」ためにまずやるべきことだ。

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やはり野に置け、石破茂?ー石破首相の「政治献金禁止は違憲」説批判

2024年12月14日 22時33分38秒 | 政治

 2024年10月1日に成立した第1次石破茂政権。取り急ぎ衆議院を解散して、大きく与党議員を減らしながら、辛くも11月13日に第2次石破茂政権が発足した。選挙翌日に『しばらくは石破「少数与党内閣」で、2025衆参同日選挙か?』で書いた通りだが、予想外のこともあった。それは共産党が決選投票で「野田佳彦」と書いたことだが、まあ事細かく論じる必要もないだろう。なお、その他の野党が決選投票でも1回目と同じく自党党首の名を書いたとされるのも不思議。「決選投票」とは1位か2位の名を書く約束だから、どっちも支持しないなら白票を投じるか、棄権するべきだろう。

 その後、政治のあれこれを書いてないから、ここで幾つか書いておきたい。臨時国会が11月28日に開会し、何とか補正予算が衆議院を通過した。まあ「補正予算」というのは、災害対応の臨時費も入っているので通さざるを得ない性格のものだ。ただ近年は景気刺激を強調して「過去最大」などとうたって、結果的に予算を余らせたりしている。立憲民主党が削減を主張したのは理屈にあっている。結果的に国民民主党日本維新の会を賛成に引き込めて、石破政権として思った以上の成果だろう。

(補正予算通過)

 この間、石破首相にはやはり準備不足か、それとも荷が重いのかと思わせるもたつきぶりだった。党内非主流派だった時には歯切れが良かった石破氏も、結局権力の座に座って見れば「ただの自民党首相」だったのか。「手に取るなやはり野に置け蓮華草」という句があるが、石破茂もやはり「野に置け」だったのか。総裁当選から総選挙までは「石破氏を叩いてぶれる」感が強かった。「健康不安」説もあり、いつまで持つのかという不安(心配または期待?)もあったと思う。

 石破内閣は今日(12月14日)現在75日続いていて、取りあえず羽田孜(64日)、石橋湛山(65日)、宇野宗佑(69日)の短命内閣をいつの間にか越えていた。(なお、帝国憲法時代を含めると、敗戦直後の東久邇宮稔彦王内閣の54日が最短になっている。)「政治改革」法案の行方は見通せないが、何とか来年度予算案をまとめて越年はしそうである。通常国会が1月末には始まるが、本予算は果たして通せるのだろうか。国民民主党や日本維新の会の主張を丸呑みすれば、本予算にも賛成してくれるのかもしれない。だが、今度はそんなに譲歩するなという声が自民党内に挙って、倒閣運動になりかねない。

(企業献金禁止は憲法違反と述べる石破首相)

 そこら辺はまだ見通せないが、最近の石破首相は少し「らしさ」を取り戻して、自分なりの丁寧な説明をし始めたという話である。だがそうなると、今度は「企業献金全面禁止は憲法21条違反」などと言い過ぎ的な答弁を行った。言い過ぎたと思ったか、参議院の質疑で「違反するとまでは申しません。そこは言い方が足りなかった」と修正したものの、やはり憲法論議が必要という認識らしい。これはかつて最高裁で行われた「八幡製鉄所政治献金判決」が頭のあると思われる。

 この訴訟は1960年に八幡製鉄所(現・日本製鉄)の株主だった弁護士が「政治献金は定款を逸脱した商法違反」として損害賠償を求めた株主代表訴訟である。1審は原告勝訴(政治献金は違法)だったが、高裁で原告敗訴に変更され、1970年の最高裁大法廷判決で原告敗訴が確定した。この判決からすでに半世紀以上経っていて、また誰か新たな訴訟を起こす価値があると思っているけど、取りあえずはこの判決が「企業献金は合憲」というお墨付きになっている。

 論点はいろいろあるが、憲法関係に限ってみてみると、「1 会社は自然人同様、納税者たる立場において政治的意見を表明することを禁止する理由はない。」「2 憲法第三章「国民の権利及び義務」は性質上可能な限り内国の法人にも適用すべきであり、政治的行為の自由もまた同様である。」というものらしい。これはWikipediaに出ているものだが、法人たる株式会社が「自然人」と同様に「政治的意見を表明する自由」があるという認定は、まあその通りではあるだろう。

 だけど、70年段階と現代の会社は全く様相を異にしている。大会社はすべて諸外国にも進出して「多国籍企業」になっている。日本の株式市場でも外国人株主による取引の方が多いぐらいである。外国人が政治献金を出来ないのと同様に、外国人持ち株が半数以上を占める企業は政治献金が出来ない。だが国内企業でも経営者は外国人が務める大企業は多いだろう。「自然人」としては参政権を持っていない外国人が、トップとして政治献金を行うのは果たして合憲、合法なのか?

 1970年時点とは日本の会社の実情が全く変わっている。そのことを前提にすれば、企業という法人にも「自然人」と同じように参政権があって、政治献金を認めるべきというのは時代錯誤ではないか。株主にも、従業員にも、消費者にも、日本国民以外の人がいっぱいいる。そういう時代の企業は日本の政治に献金出来なくても当然じゃないか。日本人経営者という「自然人」なら、当然日本国民としての参政権があるから、個人で政治献金すれば良いだけのことじゃないか。

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荻外(てきがい)荘と大田黒公園ー近衛文麿旧居と杉並の名園

2024年12月13日 21時32分02秒 | 東京関東散歩

 昭和戦中期の首相近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891~1945)の旧居「荻外荘」(てきがいそう)の修復が終わり、今週から一般公開された。ここは国の史跡に指定されているが、近現代の指定は非常に珍しい。特に政治家関連の史跡は非常に貴重だ。荻窪駅(JR中央線、地下鉄丸ノ内線)から徒歩15分ほどで、途中に大田黒公園角川庭園があるので、格好の散歩道。荻外荘は隣接する荻外荘公園から眺めるのは無料だが、中を見るなら300円。水曜休。喫茶室もある。

   

 荻窪駅南口から歩き出す。方向の案内板は充実しているが、道が複雑なのでスマホのナビを使う方がいいかもしれない。駅から一番近い太田黒公園に行き着けば、そこにパンフが置いてある。荻外荘そのものはどこから入るのか迷ったけれど、まずは隣の公園に行って家を見てみる。平屋建ての和風建築で、もとは1927年に建てられた。築地本願寺で有名な建築家伊東忠太の設計である。大正天皇の侍医頭だった入澤達吉の別荘として建てられたもので、1937年に近衛が入手したという。

   

 荻外荘入口には今も「近衛」という表札が掛かっている。近くから見ると、上のような感じ。荻外荘の名前は元老西園寺公望の命名である。玄関には西園寺が書いた額が掛かっていた。近衛は目白に本邸があったが、富士山も望める荻窪が気に入って、入手後はほとんどここにいたという。1932年の東京市拡大(35区)によって荻窪はすでに東京市内だったけれど、実感としては郊外の別荘だろう。しかし甲州街道に近く、車で行動出来る近衛には案外便利な場所だったんだろうと思う。

 (玄関)(中国風応接間)

 中に入ると、玄関の方から見ることになる。中国風とされる椅子の応接間もあるが、もう一つ和風の応接間が「荻窪会談」が行われた部屋である。1940年7月19日、次期首相に決定していた近衛が自邸に陸海外の大臣候補を呼んで行った会談である。下の写真左から近衛松岡洋右吉田善吾東条英機。第2次政権発足(7月22日)直前で、吉田は現職の海軍大臣。松岡、東条は時期外相、陸相に予定されていた。ドイツ「電撃戦」を受け、会談では日独伊枢軸強化、日ソ不可侵協定などの方針を決めた。

(応接間)(荻窪会談)

 どうも「杉並に偉人が住んでいて、日本政治の重要な会談が行われた」的な紹介をしている気がするが、今書いたように「日本の歴史を誤らせた」場なのである。「負の歴史遺産」であることを忘れてはいけない。日中戦争拡大の直接的責任者であり、政治的責任は大きい。また敗戦後に戦犯指定を受けて、1945年12月16日に服毒自殺したのも荻外荘。しかし、そのことはほとんど触れられていない。戦後は一時吉田茂が住んでいたこともあるが、その後応接室などは巣鴨の天理教東京教務支庁に移転されていた。今回天理教当局と交渉して、改めて戻した上で「荻窪会談」当時の再現を目標に修復を進めたという。

   

 廊下から外の公園の方を見ると、なかなか良い感じ。南側(公園)が低くなっていて、建物は高台にあるから見晴らしが良いのである。荻外荘から「角川庭園」へ案内に沿って5分ぐらい歩く。角川書店創業者で、歌人・国文学者でもあった角川源義(かどかわ・げんよし、1917~1975)の家だった場所である。庭園的にはあまり大きくなく、時間が少なければ省いてもいいかな。角川関係の資料が展示されているわけでもないが、集会所としてよく利用されているらしい。

   

 そこからまた5分ちょっと歩くと大田黒公園。首都圏では紅葉のライトアップがテレビでよく紹介される所だが、初めて。音楽評論家大田黒元雄(1893~1979)の旧居をもとに作られた回遊式庭園である。大田黒と言われても誰それという感じだが、日本の音楽評論の草分けで文化功労者に選ばれた人。それにしてもこんな立派な庭がよく持てたなと思うと、実は死後に周囲の土地を併せて杉並区が整備した庭園だった。大田黒の父は芝浦製作所を再建した後、全国の水力発電所を経営した大田黒重五郎という戦前の経済人だった。元雄は父の財力で好きな音楽の道に進み、特にドビュッシーを日本に紹介したという。

   

 門を入ると、イチョウ並木が今まさに黄葉していて素晴らしい。グループで来た人は皆「オオッ」と声を発して、スマホを取り出す。人も多くてなかなか撮りにくいのと、もうすでにかなり落葉していて落葉がいっぱい。そっちを撮ると。

  

 紅葉も見頃で素晴らしい。池をめぐる散歩道が紅葉の中心で、ここが無料で見られるのは素晴らしい。

   

 大田黒元雄が住んでいた洋館も公開されている。中にはスタインウェイのピアノが置いてあった。

   

 その後荻窪駅に戻って、丸ノ内線で新宿で下車してSONPO美術館で『カナレットとヴェネツィアの輝き』を見た。一度は見なくて良いかなと思ったんだけど、やはり見に行くことにしたけど、それは別の話。

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劇団民藝『囲われた空』を見る、映画『ジョジョ・ラビット』原作の戯曲化

2024年12月12日 21時53分15秒 | 演劇

 劇団民藝囲われた空』を見た(12.7~12.15、紀伊國屋サザンシアター)。この題名を見ても何だか判らないけど、これは映画『ジョジョ・ラビット』(2019)の原作戯曲の日本初演だという。その映画については、かつて公開時に『「ドン・キホーテ」と「ジョジョ・ラビット」』(2020)を書いた。アカデミー賞にいくつもノミネートされ、監督のタイカ・ワイティティが脚色賞を受賞した。第二次大戦下のドイツを少年目線で描いた佳作で、特に少年が困ったときに脳内に監督自身が演じるアドルフ・ヒトラーが登場してアドバイスするという趣向がコミカルで面白かった。

 しかし、それは大胆な脚色というべきもので、本来の原作はもう少し年上の設定だったのである。舞台はオーストリアの首都ウイーン。空襲で顔に大ケガを負った17歳の少年ヨハネスは、母と祖母と暮らしている。ある日謎の物音を聞きつけ、どうもこの家はおかしいと思うようになる。ヨハネスは大のヒトラーびいきで、ドイツが勝つと信じていて部屋には総統の写真を飾っている。しかし、どうも母にはそれが不満で、秘かに反ナチスらしいのである。そして、実は家で姉の友人エルサという25歳のユダヤ女性を匿っていると気付いてしまう。人々はかつてヒトラーによる併合を喜んでいたが、最近は空襲が相次ぎ敗色が漂っている。

(ヨハネスとエルサ)

 冒頭シーンはヨハネスが大ケガをして寝ている部屋。それがグルッと回って居間になると、少し元気になったヨハネスが食べにくる。しかし、書斎に向かう扉にはいつも鍵が掛かっている。さらに舞台が回ると書斎で、そこの壁の裏にエルサが隠れている。つまり舞台は3分割されて回るのである。完全に120°ずつではなく、居間は広いが書斎はもう少し狭い。それはエルサが隠れている隠れ場所を作るためで、観客からはそれが見えるのである。回り舞台はよくあるけど、こういう風に3分割は珍しい。この舞台装置は見ごたえがある。ヨハネスとエルサという対照的な二人の位置を可視化する優れた舞台だろう。

(出演者一同)

 映画と同じく、母親は途中で消えてしまう。(父も最初から行方不明で、それは逮捕され収容所に送られたと推測出来る。)その後はヨハネスが病気の祖母(日色ともゑ)の面倒を見ることになる。いつしかエルサを愛してしまったヨハネスは、自分の信条との葛藤に苦しむが、次第にエルサを守らなくてはと思うようになる。ついに戦争はドイツ敗北で終わるが、そうなるとエルサは自由になって家を出ていってしまう。つい「ドイツが勝った」と言ってしまったのである。エルサとの暮らしを失いたくないために、嘘に嘘を重ねていくヨハネス。一方それを見守りながら弱っていく祖母はどこまで知っているのか。

(クリスティン・ルーネンズの原作)

 原作はクリスティン・ルーネンズというアメリカの作家で、原作『Caging Skies(2004)は小鳥遊書房から囲われた空として刊行されている。それを戯曲化したのはデジレ・ゲーゼンツヴィ。翻訳河野哲子、上演台本丹野郁弓、演出小笠原響。ヨハネスとエルサはダブルキャストで、僕が見たのは一之瀬朝登、神保有輝美。映画ではスカーレット・ヨハンソンが演じた母親は石巻美香。終わり頃はさすがベテラン日色ともゑの存在感が舞台を支配する。ヨハネスの「幼さ」が際立つのも日色あってのことだ。「解放」とは何なのか。人間は幾重もの壁に囲われている。「愛」もまた枷なのかもしれない。

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シリア内戦、アサド政権崩壊をどう見るか

2024年12月10日 22時24分34秒 |  〃  (国際問題)

 2011年から続いてきたシリア内戦重大局面を迎えている。11月27日に反体制派勢力が大規模攻撃を開始し、重要都市のアレッポやハマが陥落したと伝えられた。12月8日には首都ダマスカスに侵攻を開始し、アサド大統領は権力を放棄して体制が崩壊した。大統領を乗せた飛行機で国外に脱出したと伝えられ、結局ロシアへの亡命が認められたと発表された。

(アサド政権崩壊を喜ぶダマスカス市民)

 いま「重大局面」と書いたが、これは「シリア内戦終結」ではないのかと思う人も多いだろう。僕もそうなれば良いとは思うけど、簡単には楽観できないと考えている。今回あっという間にアサド政権が崩壊した状況にはまだ謎が多い。確かに1975年の「南ベトナム」崩壊、2021年のアフガニスタンのガニ政権崩壊などを思いおこせば、一度崩れ始めた体制は思った以上に早く倒れるという法則性が見られる。「政権を支える軍隊」が負ける戦いに嫌気がさし機能しなくなるからだ。

(ロシアに亡命したアサド大統領)

 シリア内戦に関しては今まで何度か書いているが、それもずっと前。ここ数年は「一部を反体制派勢力が支配するものの、国土の相当部分はアサド政権が支配」という状態で膠着していた。2015年3月に書いた『シリアはどうなるか-IS問題⑥』では、「(2012、13年段階の)情勢分析としては、アサド政権はしばらく崩壊しないだろうという予測を書いた。その当時にはアサド政権が今にも崩壊するという予測が多かった」と書いている。アメリカのオバマ政権がアサド退陣を求め、日本の安倍首相も同調していたので、日本国内にもアサド政権の命運は尽きたと思った人がいたのである。

 国際政治のリアルな現実からすれば、「ロシアとイランが支持するアサド政権」がそんな簡単に崩壊するはずもないことは現実的には自明のことだった。実際にその後10年以上アサド政権が持続したわけだが、では今回なぜ簡単に崩壊したのか。それは「国際政治のリアルな現実」の方が激変したのである。ロシアはウクライナ戦争に集中するためにシリア駐留兵力を減らしたという。イランもレバノンのシーア派組織ヒズボラがイスラエルの集中攻撃を受けて壊滅に近く、シリアを支えることは出来なかった。それにしてもロシアが何もせずに政権を見限ったのは、反体制派がロシアの軍事利権を今後も「保証」した可能性もある。

(シリアをめぐる国際関係) 

 もちろん客観的状況を見極めて、大攻勢を掛けた「ハヤト・タハリール・シャム」(HTS=シャーム解放機構)の力量を評価しないといけない。この組織はアル・カイダ系の「ヌスラ戦線」が前身で、アメリカはテロ組織に指定している。しかし、近年はアル・カイダとは絶縁し、より広範な勢力を集合してアサド政権打倒を目指すと言ってきたようだ。実際に政権を担うとどうなるかは不明というしかない。反体制派と言っても四分五裂状態で、反アサド一点で結びついてきた感じが強い。

 反体制派の中には西欧的な市民社会を目指す勢力もあるけれど、大部分は「イスラム主義者」に近いと思っていた方が良い。イランのシーア派とは違い、シリアで多数を占めるスンナ派が多い。アサド政権を支えてきたのは少数派の(シーア派に教義上近い)アラウィ派なので、今後アラウィ派への迫害が始まり、宗派対立が起きる可能性も否定できない。「内戦内内戦」、あるいは「第二次シリア内戦」の始まりということになる可能性も考えておくべきだ。

(シリアの位置)

 シリアは第一次大戦の敗北でオスマン帝国が崩壊した時に作られた人工的国家である。というか、独立を認められず「フランス委任統治領」となった地域で、独立したのは第二次大戦後の1946年。東にあるイラクはイギリスが支配したのち、1932年にハシム家によるイラク王国として独立した。第二次大戦後は欧米が支援するイスラエルが建国されたので、米ソ冷戦時代にはソ連がアラブ諸国を支援することが多かった。1950年代にはイスラム教と社会主義は両立するという勢力が強い影響力を持っていた。

 その時代を象徴するのが、イラクとシリアで政権を担ったバアス党アラブ社会主義復興党)である。イラクのフセイン政権(米英のイラク戦争で崩壊)とシリアのアサド政権は、そのバアス党から出て来た独裁政権だった。一方で反アサド政権の主流となってきたのは、スンナ派イスラム主義者の「ムスリム同胞団」だった。今後、長い目で見ればイスラム勢力が強力になると見ている。それはイランやイスラエルなどにも影響を与えざるを得ない。どうなるのか予断を許さない。

 アメリカのバイデン政権は事実上「政権移行期の暫定政権」化している。歴史的に関わりが深いフランスのマクロン政権も内閣が不信任を受けて外交に力を注げる状況ではない。ドイツのショルツ政権も2月の総選挙で敗北が決定的で「選挙管理内閣」の状況。本来ならシリアの今後に大きな影響を与える主要国が軒並み影響力を発揮出来る状況ではない。そんな「世界的権力空白期」になっていると認識する必要がある。そうなると、アフリカなど他国でも思わぬような事態が起きるかも知れない。(中国は経済不振が続くとはいえ、習近平政権自体は当面揺るがず、従ってアジア情勢は当面大変動はないと考えられる。)

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谷川俊太郎はかがやく宇宙の微塵となった、「じゃあね」ー2024年11月の訃報③

2024年12月09日 20時23分53秒 | 追悼

 詩人谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)が2024年11月12日に死去、92歳。読み方は「たにかわ」で濁らない。「たにがわ」と濁る名前もあるので、僕も今まで間違って読んでいた。Wikipediaには「詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家」と出ているが、別の仕事も詩人の延長である。何しろ詩集だけでも100冊以上、絵本も同じく100冊以上ある。年平均2冊以上出してきたのである。大学教授にも小説家にもならず、一貫して詩人として生きたのだが、そんな人は他に思い浮かばない。中国人の谷川研究者である田原(ティアン・ユアン)によれば、世界的に読まれている日本の詩人は松尾芭蕉と谷川俊太郎だけということだ。

 僕は今まであまり谷川俊太郎を読んで来なかった。今回読んでみようと思ったのだが、何を読めばいいか。岩波文庫に『自選谷川俊太郎詩集』があるが、本屋になかった。他に何かあるかなと思ったら、集英社文庫に先の中国人研究者田原の編で『谷川俊太郎詩選集』が4冊あることに気付いた。2005年に3冊出て、その後書いた分を2016年にまとめた。集英社文庫にはその他『二十億光年の孤独』他詩集がいくつも入っている。今まで気付かなかったが、ちゃんと読むならまず集英社文庫を探してみるべきだろう。そういうことをしているとお金もヒマもかかるんだけど、読んだだけの収穫は得られたと思う。

(『谷川俊太郎詩選集1』)

 谷川俊太郎は父谷川徹三と母多喜子の一人っ子として生まれた。谷川徹三は1963年から65年にかけて法政大学総長を務めた哲学者で、芸術院会員にもなった人物である。生前は非常に有名な人だったが、今では数多い著作を読む人も少ないだろう。母親は衆議院議員長田桃蔵という人の娘で、この母方の祖父が孫を見たいと強く望んだため俊太郎が生まれたという。谷川徹三夫妻は特に子どもが欲しくなかったらしく、戦前には珍しく一人っ子として育った。そして父親は北軽井沢の大学村に別荘を所有していた。

 それは草軽電鉄が所有していた土地を法政大学関連人物に売った別荘地である。野上豊一郎・弥生子夫妻を中心に、法政以外でも気に入った岩波茂雄安倍能成田辺元岸田国士など当時のそうそうたる文化人が購入していた。谷川俊太郎は東京生まれだが、浅間山麓の雄大な大自然に親しんで育った。このことが俊太郎少年を「詩人」にした最大の要因だろう。後に最初の妻となる岸田衿子(詩人)は劇作家岸田国士の長女なので、実は幼なじみだったのである。

(若い頃)

 1944年に豊多摩中学に入学したが、もう戦時下。直接の被害にはあわなかったが、空襲を体験し死体を見ている。一端母の実家淀に疎開して終戦を迎え、元の豊多摩中学(1948年に新制都立第十三高校、1950年に豊多摩高校)に復学した。しかし、勉強の意味を見出せず、不登校になり教師とも衝突した。大学進学の意欲もなくなり、定時制に転学して1950年にようやく卒業した。しかし、ほとんど「引きこもり」である。家で模型飛行機やラジオを作るかたわら、詩作に熱中した。

 父親も心配したため、俊太郎は詩作のノートを見せた。どうせ子どもの遊び程度と考えていた父は、そのノートを見て才能を感じ、友人の三好達治に見せた。三好は大いに興奮して、三好の序文付きで6編が『文學界』に掲載されるという幸運なデビューとなった。そのノートは刊行の予定だったが、版元が倒産。父親が原版を買い取って自費出版的に出版されたのが『二十億年の孤独』である。1952年のことで、これは石原慎太郎や大江健三郎より数年早かった。この詩集は今読んでも「若書きの懐かしさ」にあふれた作品が多く、才能が感じられる。しかし、父なくして幸運なデビューはなかったのである。

(「二十億光年の孤独」初版)

 50年代に一時誌誌『』(かい)に参加したが、生涯のほとんどはどの流派にも参加せず、一人で詩作を続けた。それも平明な言葉でつづられ「人生」を考えるような詩が多かった。およそあらゆる方法、形式の現代詩を書いたが、「天成の詩人」と呼ぶしかなく、言葉が自在に操られている。長編小説は書けないと自分で言っていて、詩もそんなに長くないものが多い。そういうタイプの詩人だったのである。そこで僕が何で谷川俊太郎をあまり読んでこなかったかも判明する。僕は若い頃に結構日本の現代詩人を読んでいたが、同じ「櫂」同人の大岡信茨木のり子吉野弘川崎洋などの方が手法的にも内容的にも興味深かったのだ。

 谷川俊太郎が一番輝いていたのは、70年代から80年代頃だと思う。向かうところ敵なしの感じで、詩作や翻訳を多数出版した。1975年に対照的な『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』と『定義』を刊行して大評判となり、僕も珍しく現代詩集を買って読んだ。同じ年から「マザーグース」の翻訳もしている。その2年前には絵本『ことばあそびうた』が大評判になっていた。「かっぱかっぱらった かっぱらっぱかっぱらった」で始まる詩は有名だろう。このように「ナンセンス」を積極的に再評価したのも時代風潮にあっていた。意味のあるもの、ないものにこだわらず、日本語表現の幅を大きく広げた詩人だ。

(北軽井沢で)

 こうして書いていると終わらない。僕が特に初期のことを書いたのは、「詩人」の出発地を確認したかったからだ。デビュー作に「孤独」とあるが、これは社会的な孤立、差別などではなく、夢想好きな少年の「宇宙的規模」の観念的孤独である。それを自分でも認めているが、社会が大きく変わってもコスモロジカル(宇宙的)な孤独感は今も生き生きと通じるのだ。「社会派」的作風の詩を書けない谷川俊太郎だからこそ、「言葉遊び」などが現代の若者にも受けるのと同様である。

 代表作を挙げるとさらに長くなるので控える。好き嫌いもあるだろうが、僕は冒頭に書いた「詩選集」では第2巻(1975~88)あたりが一番輝いていたのではないかと思う。もっともそれは僕の「青春」と同時代だからこそ、そう感じてしまうのかもしれない。長男の谷川賢作は「父は『かがやく宇宙の微塵(みじん)』になったのではないか」と述べている(朝日新聞)。この言葉は宮澤賢治の『農民芸術概論綱要』にあるものだが、本人も21世紀に書いた「」という詩の中で「私も「私」も〈かがやく宇宙の微塵〉となった」と書いている。なお、「私は母によって生まれた私/「私」は言語によって生まれた私」と書いている。

 2024年はフォークシンガー高石ともやも亡くなった年になった。高石ともやが谷川俊太郎の詩に曲を付けた『あわてなさんな』というCDがあって、かつて高石ともや年忘れコンサートのゲストに谷川俊太郎が登場したことがあった。谷川俊太郎本人を見たただ一回の体験。そのCDにある谷川俊太郎の詩『じゃあね』を一部紹介したい。

「忘れちゃっておくれ/あの日のこと/くやしかったあの日のこと/けれどもそれももう過ぎ去って/じゃあね/じゃあね/

 年をとるのはこわいけど/ぼくにはぼくの日々がある/いつか夜明けの夢のはざまで/また会うこともあるかもしれない/じゃあね /もうふり返らなくてもいいんだよ/さよならよりもきっぱりと/じゃあね」

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北の富士、Q・ジョーンズ、火野正平、上村淳之、吉田蓑助他ー2024年11月の訃報②

2024年12月08日 20時25分13秒 | 追悼

 大相撲の第52代横綱、北の富士(本名竹澤勝昭)が11月12日に死去、82歳。1966年9月場所で大関昇進、1970年3月場所に横綱に昇進して1974年7月場所まで27場所務めた。優勝10回、三賞6回(殊勲2、敢闘1、技能3)などを記録している。この時代は僕の小学生から高校生の期間にあたり、僕は北の富士の相撲をよく覚えている。その頃は白黒テレビの野球、相撲中継を男子の多くが見ていた時代だ。もう解説者としてしか知らない人が圧倒的だろうが、僕はやはり現役時代が懐かしい。

 「現代っ子横綱」などと呼ばれ、現役時代から歌のレコードを出したり、地元旭川にちゃんこ料理屋「北の富士」を出すなど、ある意味やりたい放題。良い時代だったというべきか。飲み歩いて「夜の帝王」「プレイボーイ横綱」と言われていた。近年は有名人がなくなると、夕方のテレビ朝日のニュースを見るようにしている。「徹子の部屋」に出た時の映像が見られるのである。今回も無敵の徹子さんから「夜の帝王と言われていたんですって?」なんて突っ込まれていて面白かった。

(北の富士勝昭、「徹子の部屋」で)

 遊び好き、稽古嫌いもあって大関昇進後は一時低迷したが、1969年から3場所続けて13勝2敗(うち2回優勝)で横綱に昇進した。この時は玉の海(大関時代は玉乃島)と同時昇進だった。玉の海は6回優勝しているが、北の富士とは毎場所のように優勝争いを繰り広げた。大横綱大鵬に衰えが見える中、この二人が「北玉時代」と呼ばれたのである。幕内通算で玉の海22勝、北の富士21勝とまさに好敵手で実力は伯仲していた。ところが、なんということか1971年10月11日に、虫垂炎で入院中の玉の海は27歳で急死したのである。術後の肺血栓だった。僕は北の富士より玉の海がひいきだったので、非常に大きなショックを受けたのをありありと覚えている。北の富士は人前もはばからず号泣したという。後にテレビ解説でも玉の海の思い出をよく語っていた。

 (玉の海と)

 弟子として千代の富士北勝海の二人の横綱を育てたのは有名。1998年の理事選で髙砂一門の候補から外れたため、相撲協会を退職してNHKの専属解説者になった。テレビで見ていた人も多いだろうが、最近はお休みの場所が続いていた。2023年3月場所から休んでいたが、2024年7月場所に一度ビデオ出演した。かなり元気には見えたが、いろいろと病気を抱えていると伝えられていたし、僕はもうこれが最後かなと思って見ていた。自分の現役時代を思えば言えないような辛口批評が面白く、舞の海との掛け合いも楽しかった。横綱は初代若乃花、栃ノ海も82歳で亡くなっていて、「82歳の壁」があるようだ。

 北の富士で長くなりすぎたので、簡潔に。アメリカのジャズミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家のクインシー・ジョーンズが11月3日死去。91歳。音楽プロデューサーとしてマイケル・ジャクソンスリラー』などを製作し、売上高世界一のギネス記録を持っている。そのことばかり報道されたが、僕は60年代末から70年代に担当した多くの映画音楽で名前を覚えた。『夜の大捜査線』『冷血』『ジョンとメリー』『カラーパープル』などである。アカデミー賞にも何回かノミネートされたが受賞できず、94年にジーン・ハーショルト友愛賞を受けた。グラミー賞は28回受賞している。生涯に4回結婚している。4人目が女優のナスターシャ・キンスキーで、娘のケーニャ・キンスキー・ジョーンズはモデル。久石譲の名前の由来になったことで知られる。

 (クインシー・ジョーンズ)

 日本画家の上村淳之(うえむら・あつし)が11月1日死去、91歳。「清らかな花鳥画で知られる」というので検索してみたら、下のような絵がたくさん出てきた。祖母が上村松園、父が上村松(うえむら・しょうこう)と3代続く日本画家で、そろって文化勲章を受章したことで知られる。京都市立芸術大で長く教え、副学長も務めた。

 (上村淳之『憩』)

 文楽の人形遣いで人間国宝にしていされた吉田蓑助(よしだ・みのすけ)が11月7日死去、91歳。人形遣いの桐竹紋太郎の子として生まれ、1940年に6歳で入門。1961年に3代目吉田蓑助を襲名した。94年に人間国宝、09年に文化功労者。多分見てるんじゃないかと思うけど、文楽の人名にはうとく人形遣いまで覚えてない。

(吉田蓑助)

 俳優の火野正平が11月14日に死去、75歳。1973年の大河ドラマ『国盗り物語』に秀吉役で起用され人気を集めた。その後もテレビ、映画で幅広く活躍した。近年はずいぶん渋い味を出していたと思う。宮崎駿『君たちはどう生きるか』では大伯父役の声優をやっていた。歌手としても活躍したが、それ以上に「元祖プレイボーイ」として名を馳せたことで知られる。

(火野正平)

 落語家の桂雀々(かつら・じゃくじゃく)が11月20日死去、64歳。1977年に桂枝雀に入門し、上方落語で活躍した。2011年に東京に本拠を移して活動していた。2023年には東京23区すべてで独演会を開くという企画を行い、これは僕も行かなくちゃと思いながら結局行きそびれた。なんかまだまだ20年ぐらい活躍すると思い込んでいたので、見てないことを後悔。

(桂雀々)

 アルゼンチン出身の歌手グラシェラ・スサーナが17日死去、71歳。この人の名前を覚えているのは、相当の高齢者だけだろう。アルゼンチンで行われたタンゴフェスティヴァルで優勝し、菅原洋一に見出されて日本で歌手活動を行った。1973年に出たアルバム『アドロ・サバの女王』は100万枚を突破した。シングルレコードも20枚以上出しているが、その作詞家はなかにし礼、寺山修司、山上路夫、阿久悠、小椋佳、岩谷時子らという豪華さ。高く評価されていたことが判る。21世紀になっても日本でコンサートをしていたが、もう忘れられたのか訃報はマスコミでは報じられなかったと思う。

(グラシェラ・スサーナ)

・アメリカ憲法の研究者で駐米公使を務めた阿川尚之が12日死去、73歳。慶大教授だったが、民間人登用として02年~05年に務めた。父は阿川弘之、阿川佐和子は妹。元駐中国大使の阿南惟茂(あなみ・これしげ)が13日死去、83歳。父は終戦時の陸相阿南惟幾。元駐ペルー大使の青木盛久が9日死去、85歳。日本大使公邸占拠事件時の大使で、4ヶ月間自らも人質となった。

・歌舞伎俳優市川団蔵が19日死去、73歳。尾上菊五郎劇団の重鎮として活躍した。

・元最高検検事、筑波大名誉教授の土本武司(つちもと・たけし)が5月8日に死去していた。この人は検察的な立場の法学者だったが、独自の考えを持つ人だった。そのため死刑廃止集会などにも死刑存置の立場で出席したりする人だった。死刑は認めているが、絞首刑は憲法が禁じる残酷な刑にあたると法廷で証言したこともあった。

・桃山学院大学名誉教授の経営学者、徐龍達(ソ・ヨンダル)が25日死去、91歳。韓国出身で1942年に日本に来て学んだ。しかし、外国籍では国公立大学教授になれなかったため市民運動を起こし、それが1982年の「外国人教員任用法」成立につながった。また外国籍を理由に奨学金を受けられなかったため「在日韓国奨学会」を設立した。

・アメリカの化学者、杜祖健(アンソニー・トゥー)が1日死去、94歳。台湾で生まれ、アメリカに渡ってユタ州立大学教授となった。2004年に千葉科学大学教授を務めた。専門は毒性学、化学兵器で、オウム真理教事件の時に日本の警察当局にサリンの分析法を教えたことで知られる。教団幹部の中川智正死刑囚は自分の論文を読んでVXガスを作ったことを知り、獄中の中川と面会を重ねた。『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(2018)の著書がある。

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鈴木道彦、山際永三、木谷明、西尾幹二、猪口孝他ー2024年11月の訃報①

2024年12月07日 20時05分09秒 | 追悼

 恒例の訃報特集。2024年11月は3回になる。谷川俊太郎の訃報が一番大きく報道されたが、今まさに読んでいるので3回目に回す。まず、「社会」「思想」的な関わりを中心に。次に芸術、芸能、スポーツ関係など内外まとめて。

 フランス文学者の鈴木道彦が11月11日に死去、95歳。フランス文学者の鈴木信太郎の次男で、生まれ育った豊島区東池袋の家は記念館になっている。訪れた時に記録は『鈴木信太郎記念館に行く』(2019.4.9)に書いた。新聞の小さな訃報ではプルースト失われた時を求めて』を個人で全訳したことしか出てなかった。確かに日本人2人目の業績で、読売文学賞などを受けて高く評価されたのは間違いない。しかし、60年代にはサルトルに傾倒して「アンガージュマン」(社会参加)していた。特に金嬉老事件の救援運動に関わったことで知られる。事件内容を書いていると長くなるので省略するが、その「熱い日々」は『越境の時 1960年代と在日』(集英社文庫、2007)に生き生きと回想されていて必読。アルジェリア戦争やフランツ・ファノンなどの翻訳もあり、50~60年代の思想界に大きな影響を持った人である。晩年に再びサルトルを読み直して、2010年に『嘔吐』を翻訳した。獨協大学で行われた講演を聞いたことがあり、『鈴木道彦講演会「サルトルと現代」』(2017.3.4)にまとめた。 

(鈴木道彦)(『越境の時』)

 映画監督で救援運動家の山際永三が11月28日死去、92歳。僕が若い頃に冤罪救援運動に関わっていたとき、一人年長の温厚そうな男性がビラまきなどに参加していて、「監督」と呼ばれていた。その当時は「警視総監公舎爆破未遂事件」や「土田・日石・ピース缶爆弾事件」など新左翼系の冤罪事件が問題化していた。どちらも裁判所で無罪が確定し長い再審運動にならなかったので、結果的に忘れられている。警察幹部を直接狙った事件は、警察が強引な捜査を繰り広げ冤罪になってしまったのである。(その後、どちらの事件でも「真犯人」とみなされる人が現れた。)山際さんは特に「総監公舎」に関わっていた記憶があるが、実際の経緯などは知らない。その後も救援運動に関わり続け、死刑廃止やオウム裁判などにも関わったとWikipediaに出ている。

(山際永三)

 本業の映画監督の方だが、元々は新東宝に入社したものの61年に倒産。その流れで出来た「大宝映画」の第1回公開作品『狂熱の果て』で監督に昇進したものの、大宝も6作品のみで倒産した。その後はテレビを中心に活動し、「ウルトラマン」シリーズを数多く手掛けたことで知られている。またテレビ版『日本沈没』や西田敏行主演の小学校版金八先生と言われた『サンキュー先生』など多数の作品がある。一方、大宝映画は大島渚『飼育』を除き、長く行方不明とされ見ることが出来なかった。しかし、ただ一本の劇場映画『狂熱の果て』は山際監督の追跡により発見され、フィルムも修復されて国立フィルムセンター(当時)で2018年2月2日、20日に上映された。この時に僕も見に行って、監督のトークも聞いたのが山際監督の最後の思い出。

 どんな映画かというと、「ジャズと車と痴戯に明け暮れる「六本木族」の若者たちを待ちうける虚無と退廃を、過剰な演出で描破したもう一つのヌーヴェル・ヴァーグ。倒産後の新東宝作品を配給した大宝の第1回配給作品となったが、同社も1年後には解散。本作がデビューとなった山際永三監督による入念な調査により、原版の受贈とプリント作製が可能になった」と国立映画アーカイブのホームページに出ている。出演は星輝美、松原緑郎、藤木孝、奈良あけみなど。傑作とは言わないが、まあ面白かった。

 元裁判官で弁護士の木谷明が11月21日死去、86歳。囲碁の木谷實九段の次男として生まれた。1961年に裁判官任官後は、最高裁調査官、東京高裁総括判事などを務め、2000年に退官。2004年から2012年まで法政大学法科大学院教授を務めた。この人のすごいところはこのような経歴に関わらず、任官中に30件以上の無罪判決を書いたことである。裁判官が「検察の言いなり」と批判されることに対し、マスコミの場で裁判官のあり方を論じた。集会で話を聞いたこともあるような気がする。新聞などのインタビューにもよく登場していて心強い発言をしていた。年齢的にやむを得ないとはいえ、今こそ大切な人だった。

(木谷明)

 ドイツ文学者、評論家の西尾幹二が11月1日に死去、89歳。 ニーチェ(西尾の表現では「ニイチェ)を論じて、60年代に三島由紀夫などに注目され、論壇にデビューした。その後、独自の保守的言論活動で注目され、数多くの著書がある。テレビでも活躍し、20世紀末には保守派言論人の代表格とみなされた。1996年に「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、初代会長となった。1999年には分厚い『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス)を刊行、ベストセラーとなった。もっともこの本は「勝手に贈呈本」として売れた面もあって、送りつけられて迷惑した人も多いんじゃないか。分厚すぎてちゃんと読んだ人がどれだけいるのか疑問。僕もとても買う気にはなれず読んでない。ニーチェ関係も読んでない。最近まで著書があったようだが。

(西尾幹二)

 11月27日に文京区でマンション火災が発生中と報道された。深夜になって、それが猪口邦子参議院議員(自民)の自宅で、議員の無事は確認されたが2名と連絡が取れないと報道された。数日して、夫の猪口孝の死亡が確認された。80歳。東大名誉教授の国際政治学者で、夫婦ともに政治学者として知られた。1982年に『国際政治経済の構図』でサントリー学芸賞。その他一般向け著書も多く、知的関心の高い人には知られた人だった。新潟県出身で、東大退官後は中央大学を経て、2009年から2017年まで新潟県立大学学長を務めた。国際政治の実証的研究家だと思っていて、特に保守的論壇人ではなかったと判断していたので、2005年の郵政解散で妻の猪口邦子が自民党から擁立されて出馬した時は驚いた。有名な学者なのに訃報は「邦子議員の夫」扱いだった。

(猪口孝)

 元検察官で、「さわやか福祉財団」会長の堀田力(ほった・つとむ)が11月24日死去、90歳。検事としては1976年に東京地検特捜部に配属され、アメリカ大使館勤務経験があったためアメリカでの嘱託尋問を担当した。またロッキード事件の公判検事となり、田中角栄に論告求刑を行った。その後も順調に昇進し、1990年に法務大臣官房長となったが、1991年に定年数年前に退官した。「やめ検」は大企業や汚職政治家の弁護士になったりすることが多いが、この人は福祉事業家に転身し「さわやか福祉財団」を創設したことで知られた。非常に有名な検事だったのに、まだ「福祉」に目を向ける人が少なかった時代に「介護の社会化」を主張したことは注目され、大きな影響を与えたと思う。もっともこの人が政治や社会問題を語る時には、なんだか同意出来ないことが多かった。著書や講演会なども多かったが、一度も接してはいない。

(堀田力)

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劇団タルオルム『島のおっちゃん』を見るー長島愛生園入園者との交流

2024年12月06日 21時44分11秒 |  〃 (ハンセン病)

 劇団タルオルムの『島のおっちゃん』という劇を見に行ってきた。劇団タルオルムというのは、ホームページを見ると、「2005年に大阪を拠点に、在日コリアンと、日本人の有志達が集まり結成しました。夜道を照らす月の明かりになりたいと、タル(月)、オルム(昇り)と命名、年に1度の自主公演を行いながらも、依頼があればどこへでも行く、バイリンガル劇団です」と出ている。『島のおっちゃん』は岡山県のハンセン病療養所長島愛生園にいた「秋やん」を描いた物語である。1時間30分ほどの短い劇だが、いろいろと特徴があって見ごたえがある時間だった。

 

 上演場所は「東京朝鮮第四幼初中級学校体育館」だというので、調べてみると自分の家から近いので今日の昼に行くことにした。と言っても歩いて行くと40分ぐらいかかりそうなので、途中のアリオ西新井に車を停めて、少し買い物をして駐車代を無料にしようという作戦。そこからだと迷わず行けば10~15分ぐらい。まあ迷ったんだけど。距離的には近いが、ここに朝鮮学校があるとも知らなかった。そして朝鮮学校の生徒も鑑賞していて、一緒に見るというのも面白い体験だった。

 上演形式は「マダン劇」ということで、マダン劇を調べてみると「芝居のための舞台や装置がない、観客が周囲を取り囲んだ直径10メートルほどの円形空間の中で、楽士・演者・観客とが即興も交えてつくり上げる芝居」ということである。今回は体育館の前半分に椅子などを並べて四方を取り囲み、その真ん中で演じるという趣向。渡されたチラシを丸めて玉にして、心動いたシーンに投げるというやり方が面白かった。生徒たちも面白い場面、感動的シーンで投げていた。

(出演メンバー=HPから)

 「愛生園」に訪れた学生メンバーが「秋やん」と知り合う。お酒が好きで、バイクを乗り回し、鳥を育てて大阪に売りに行くという秋やん。時には温かく、時には厳しく、メンバーたちに接する。島の花を持ってきた女性メンバーには、罪深いと責め立てる。そんなきつさに音を上げて来なくなる人もいるらしい。作・演出の金民樹は赤ちゃんの時から何度となく、島を訪れていたという。最初は母に連れられていたが、小学生高学年になったら一人で行くようになった。母が行かなくなってしまったので。

 学生の中には通ううちにカップルも出来る。東京の結婚式に秋やんを招くと、予約した宿で「宿泊拒否」が起きる。岡山県長島は本土から近いのに、船で行くしかない孤島だった。だからこそ「隔離」にふさわしいとして療養所が出来たわけである。長い隔離政策で、偏見を持つ人が多くいた。だからこそ、入園者たちは長く橋を待ち望んでいた。そしてついに、1988に「人間回復の橋」が出来た。皆も駆けつけて「人間回復」を祝う日、秋やんは酔い潰れてしまうのだった。

(2023年に建造35年を迎えた邑久長島大橋)

 ハンセン病患者には朝鮮人の比率が高かった。秋やんも朝鮮人だったが、園内では通名を使っていた。ある時、「民」はそのことを追求したこともあった。園内では長く同じ民族でも南北に分かれて会が作られていた。そんな問題にも触れられているが、それ以上に「秋やん」の豪快な、あるいはちょっと傍迷惑な生き方が印象的。島で行き、島で死ぬことを運命づけられていた時代を浮かび上がらせている。1996年に「らい予防法」が廃止され、2001年に国賠訴訟で勝訴するが、そのちょっと前の物語である。

 僕がこの公演を知ったのは、FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会の柳川義雄さんから連絡を貰ったからだ。この「秋やん」の造形には、FIWCの人々の体験と記憶が大きく貢献しているらしい。チラシの「スペシャルサンクス」に名が挙っていることでも判る。1980年に日韓合同ワークキャンプに参加して、翌81年冬に韓国メンバーが初来日した。その時長島愛生園を訪ねて泊まった思い出は今も鮮烈。それしか行ってないから、むろん「秋やん」のことは知らない。(僕が複数回行っているのは東京にある多摩全生園だけ。)柳川さんも来てたから聞いてみると、あんな感じでソックリと言っていた。

 7日18時にもう一回公演が予定されている。場所は北区十条台の東京朝鮮中高級学校 東京朝鮮文化会館。詳しくは劇団タルオルムのホームページで確認してください。

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八王子城を見に行くー日本百名城の廃城

2024年12月04日 22時40分07秒 | 東京関東散歩

 関東地方は比較的暖かな小春日和が続いている。そういう日にまだ行ってない日本百名城に行こうと思って、八王子城に行ってみた。国指定の史跡としては「八王子城跡」となる。戦国時代末期、北条氏にとって小田原を守るための重要な軍事拠点だった山城で、1590年に豊臣秀吉軍に攻め落とされて廃城となった。現在は発掘、整備が続き、2012年には「ガイダンス施設」が出来た。

 結構大変な山城で、安土城ほどじゃないけど山歩きは久しぶりなので大丈夫かな。主に「御主殿」(ごしゅでん)エリアと山登りが必要な本丸エリアに分かれている。何かすぐに山に登る人もいるようだが、城としては「御主殿」の方を見ないといけない。八王子城は北条氏政(4代目)の弟北条氏照の本拠地だった城で、氏照の館があったとされるのが御主殿である。管理棟から左へ下って、山道を歩いていく。なかなか着かないなと思った頃、城山川にかかる曳橋を渡れば虎口の石垣が見えてくる。

   

 その前に出発地点に戻すと、管理棟前に「史跡八王子城跡」とあり、そこから「御主殿方面」と書かれた道がある。そこを進むと気持ち良い山道が続いている。山登りの後では御主殿に行くエネルギーがないと思って先に行ったが、結果的にはこっちだけでもよいかも。城というのは戦闘のために作られるわけだが、実際に戦争になった城は少ない。江戸時代に作られた城は、権力を誇示するかのような巨大な建造物になった。大坂城のように「冬の陣」「夏の陣」で実際に戦闘に巻き込まれ焼け落ちた城もあるが、後に再建された。その点、八王子城のように実際に戦闘が起こって、そのまま廃城になった城は全国でも少ない。

   

 進んで行って虎口(こぐち)に着くと石垣があるが、これは残っていたものではなく史跡指定後の整備事業で再建されたものである。虎口とは曲輪(くるわ)の出入り口だが、敵と最初にぶつかる地点だから曲がったりして突撃しにくいようにしている。なるべく当時の石垣・石畳を使って「できるだけ史実に忠実に復元」とパンフに書いてある。虎口を登り切ると御主殿跡で、ここは調査・整備の途中なので今はただの空き地。もっとも建物の礎石が判るような整備をしている。

   

 その先に「御主殿の滝」があって、そこで北条方の婦女子が自刃して身を投じたという。見に行かなかったんだけど、正直言えば、存在に気付かなかった。そこから戻って、今度は本丸への山登り。山自体は標高445mだが、ほとんどが直登で標準タイム40分。とてももはや標準では登れず、休み休み登る。40分というのは、ちょっとした低山ハイクで、しかも登りにくい石だらけ。本格的な登山靴までは要らないだろうが、ただの城めぐりじゃなく山登りの覚悟は必要。

   

 まあ休み休み行くうちに次第に高度を稼ぎ、7合目、8合目、9合目の標石が出て来る。途中で八王子から都心方面を一望出来る展望がよい場所があった。登り切ると八王子神社がある。さらにその上に本丸があるというので、行こうと思ったが道が大変なので途中で止めてしまった。多分霜が解けたんだと思うが、山道がかなり滑りやすく、細い道だと危ないなと思った。特に何もないところで、もともと天守閣などはなかった城である。豊臣軍の攻撃に備えて、急ごしらえで整備された城で、最後まで完成していなかったとされる。展望的には低山ながら眺望を楽しめるが、史跡というよりは低山だった。

   

 北条氏照は兄である北条氏政を助けて、軍事・外交を担って活躍した武将である。もともとはもう少し北にあった滝山城が本拠地だった。八王子城は1571年に建造が始まった(他の説もあるらしい)が、氏照の本拠となったのは1587年である。滝山城も「続日本百名城」に指定されていて、武田信玄や上杉謙信に攻められたこともある。しかし、山城としては低いため、統一権力の豊臣軍との本格的交戦を予想して本拠地を移したと考えられている。そして、実際に3年後に大軍が押し寄せてきた。

 1590年7月24日、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの1万5千人ほどの大軍に攻められ、一日も持たず落城した。城主の氏照は小田原に行っていたため、城代など3千名ほどが籠城していたと言われる。城攻めの基本は「衆寡敵せず」である。これほどの兵力差があれば勝ち目はなかった。しかし、八王子城である程度時間が稼げると踏んでいた北条氏としては痛恨の敗戦となり、そのまま小田原は開城に追い込まれることになった。氏照と前当主(4代目)氏政は秀吉から切腹を命じられた。

 そういう場所だからか、ネットで「八王子城」と検索すると、「危険です」とか「心霊スポット」などと表示されるほどである。まさかそんなことがあるわけもない。そんなことを言い出したら、広島、長崎、沖縄本島はもちろん、東京や大阪だって行けなくなってしまう。ここの場所は東京西部の中心地八王子市の中でも西の方、大まかに言えば高尾山の北の方である。圏央道八王子西インターから10分ぐらい。土日はバスがあるとのことだが、平日はタクシーかマイカーになる。

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「資格確認書」があれば、「マイナ保険証」は不要

2024年12月03日 22時32分04秒 | 政治

 2024年12月2日以後をもって、「紙の保険証」が発行されなくなった。政府はいわゆる「マイナ保険証」に統一したいという意向だが、その問題に対する反対意見はこれまで何度も書いてきた。(例えば、『衆院選、マイナ保険証を争点に!ー各党の公約を見る』を10月21日に書いたばかりである。またこの問題を書くのも恐縮だが、やはり書くべきだと思う。テレビニュースで今頃取り上げて、「知ってますか?」と聞くと、知らないという人がいるのである。信じられるか? そしてインタビュアーは「マイナ保険証は持ってますか?」と誘導的質問をする。これだけ騒がれても知らない人がいるのもすごいが、それは若い人だった。

 なるほど、確かに。ちょっと前まで、保険証は家族単位だった。若い頃はほとんど病院に行かないから、全然関心がなかった。まあ若い時も歯医者に定期的に行くべきなんだけど、やはりホントに痛くなるまで行きたくなかった。若くても病気やケガが多い人もいるだろうが、ありがたいことに自分はそうじゃなかった。数年に一度ぐらいインフルエンザになったりしたが、その程度。学生時代は親の扶養で、親の会社の健保組合に入っている人が多いから、当事者意識も湧かないだろう。 

(資格確認書=見本)

 ところでマスコミでは「資格確認書」について、触れてはいるけど不十分。「紙の保険証廃止」というと、そりゃ大変だと思う人が出て来るが、現在の保険証は有効期限まで従来通り使用できて、「その後も資格確認書が自動的に送られてくる」のである。マイナカードなんかなくても大丈夫なのである。マイナカードを持ってても、マイナ保険証の登録をしなくて大丈夫。資格確認書は従来の保険証とほぼ同一で、名前を変えただけである。今までの保険証で特に困ってなかった人は、今後は資格確認書で受診すれば問題ないのである。まあ一部の医療機関、薬局、行政機関などが「マイナ保険証はありますか」などと誘導的に聞いてくるかもしれないけど、「資格確認書でお願いします」と言えばよいだけである。

(マイナ保険証と資格確認書の違い)

 まあ両者には多少の違い(上記)があるわけだが、本質的な不便はない。マイナ保険証は医療費の削減になるなどと言ってるが、それは政府がそう設定して嫌がらせしているから。どんな薬を飲んでいるか医者が判るようになるとか言うが、そもそもそれは薬局で薬剤師がお薬手帳をを見て行うことである。そうじゃないと「医薬分業」の趣旨に反する。今はまだマイナ保険証にしたばかりの人が多いだろうからいいけれど、今後「5年の期限」が来れば大混乱になると思う。5年も経てば、その間に認知症、身体障害などになる人が増えてくるし、配偶者が死んだり子どもが独立して一人暮らしになる高齢者が多くなるはずだ。

(廃業医療機関が増えている)

 ところで、廃業する医療機関が上記のように増えている。開業医の方も高齢化していくので、後継者がいなくて廃業するところが出て来るのはやむを得ない。だが最近増えているのは、マイナ保険証対応の経済的負担に耐えきれず、(一応政府の補助はあるらしいが、それでは到底まかなえず)、もっとやるつもりだったのに廃業に追い込まれた病院があるらしい。少なくともテレビニュースで見た歯科医はそう言っていた。そこにも利用者はたくさん付いていた。罪深いやり口じゃないか。

 今回一番驚いて憤慨したのが、「年寄りをバカにするな」という意見だ。「暗証番号を忘れてしまって病院で混乱する」事態を心配する声に対して、「そんなことを言ったら銀行のカードも使えないじゃないか」、そして「年寄りをバカにするな」と言うのである。自分で何を言ってるか判ってないんだと思うが、つまりマイナ保険証を作る高齢者は「暗証番号を忘れちゃ困る」と思って「銀行のカードと同じにしよう」と思うだろう。そして、中にはそれを紙に書いてマイナカードに貼ったりする。そして、それをいずれの日か、病院や施設の職員が見るのである。銀行のカードと同じ暗証番号を書いたカードを。

 テレビニュースで見たら、マイナ保険証の利用法が判らない高齢者のために、看護師が一人付いていた。スーパーのセルフレジなんかも、人件費を省くために導入したんだろうが、最初は誰かがずっと付いていたもんだ。今度は病人相手なんだから、ずっと誰かが必要なんじゃないだろうか。(セルフレジは勝手に出来るので僕は愛用しているが、病院の場合は弱ったときに行くわけだから、高齢者が一人で対応出来るようになるとは考えにくい。)本末転倒で、政府が考えることは最終的に「現場」にしわ寄せが行くことになっている。今までの保険証で何の不便もなかったのだから、恐らく「他の目的がある」と考えるべきだろう。

 自分の場合は、マイナンバーカード自体を作る気がないから、保険証にも出来るはずがない。マイナカードは便利だという人がいるが、そういう人は利用すれば良い。だけど、普通はコンビニで住民票を取るなんて、一年に一回もないだろう。僕は遺産相続のため、去年はいろんな書類を取ったけど、今年は一回もない。それに「自分の住民票」は取れるけど、「死んだ親の戸籍」なんかマイナカードでは取れないに決まってる。大体どこにあるかも判らない場合だってあるんだから。

 お上がポイントいっぱいあげるからマイナカード作ろうねと言った時点で、僕はどうにもうさんくさくて嫌な気分になった。それでもなかなか増えないから、今度は紙の保険証はなくなりますよと来た。利益誘導の次は脅迫である。じゃあしょうがないねと皆が作ったら、政府のドレイではないか。誰か「利口」な人が何事かの目的を秘めて作ったんだろう。仕方ないねと「ドレイ」が従う。しかし、世の中には利口とドレイ以外に、そんなことは知りませんという「バカ」もいないと困るじゃないか。

 「教員免許更新制」という愚策を「教育がよくなる」と言って導入した結果どうなったか。それをきっかけに教員不足が深刻化し、ついに政府自らが廃止したではないか。こういう愚策には従えないと思った自分にとって、マイナカードを作らないぐらい全然どうってことない。「間違った国策には従わない」というのは、近現代史を学んだ自分にとって譲れない信条である。権利であるとともに、国民の義務でもあると思う。ま、そういうのが少しはいないと。特に誰にもお勧めはしませんが。

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『すべての、白いものたちの』、死のイメージに覆われてーハン・ガンを読む②

2024年12月02日 22時00分46秒 | 〃 (外国文学)

 ハン・ガンを読むシリーズ2回目は、『すべての、白いものたちの』(河出文庫)。原著は2016年に刊行され、日本では斎藤真理子訳で2018年に単行本が出た。2023年2月に文庫化され、僕が買った2024年10月発行のものは6刷になっている。けっこう売れているわけだ。税別850円の文庫だから、まずこの本を手に取る人も多いと思う。中は60いくつかの短い文章が集まり、中には写真も入っている。一編の文章は2~3頁程度のものが多い。ある意味「散文詩集」みたいな印象を受けるし、案外スラスラ読んじゃうんだけど、「作家の言葉」や解説を読むと、これはなかなか手強い「小説」なんだと判る。

 「私」はいま外国にいて、「白いもの」に関して書いていこうとしている。「おくるみ」「うぶぎ」「しお」「ゆき」「こおり」「つき」「こめ」…まだまだ続くが、冒頭にまず白いものが列挙される。それぞれについての追憶、イメージを書き留めていくという趣向である。「私」はどこにいるのか。地球の反対側で、寒いところだというから、ヨーロッパのどこかだなと察しがつく。そしてヒトラーに抵抗して瓦礫となった街という説明も出てくる。判る人にはそこで想定可能になるが、初版では明示されていなかったという。その後「作家の言葉」が付けられ、ポーランドの首都ワルシャワだと明記された。

 事情を書くと、光州事件を扱った『少年が来る』を完成させた後、疲弊した作者はポーランドの翻訳者に招かれて、子どもを連れて半年ほどワルシャワに住んだということである。そして、最初の方の「産着」の章で、「母が産んだ初めての赤ん坊は、生まれて二時間で死んだと聞いた」と出て来る。当時母親の夫は山の小学校の教師をしていて、人里離れた官舎に住んでいた。突然の早産に誰の助けを求める余裕もないまま、長女は生まれてすぐに死んだ。これは作者の自伝的設定というわけじゃないんだろう。この作品はその「亡くなった姉」のイメージが全編を覆っている。特別に痛切な言葉に読むものも粛然とする。

 2022年のノーベル文学賞受賞者アニー・エルノーは「オートフィクション」(自伝的小説)で知られ、映画化もされた『事件』はその当時フランスでは違法だった妊娠中絶を受けるまでの壮絶な小説である。題材からして、読むものも覚悟を求められる小説だが、そのような「事実」そのものから来る「粛然」と、ハン・ガンの小説は違う。どっちが上とかはないけれど、ハン・ガンの世界は「想像力」によって構成されたもので、その分読むものの「想像力」との協同作業が求められる。そして、一端その世界に入り込むと何か抜けられないような、ともに重みを背負うような感じがしてしまう。

(ノーベル賞受賞を報じる韓国紙)

 この『すべての、白いものたちの』(原題『白い』)は二部「彼女」の設定が最初はよく判らなかった。解説で初めて理解できたのだが、ここでは書かないことにする。もし読む人がいたら、後ろの解説は先に読んではいけない。まっさらな状態で読む方がいい。もっとも場所はワルシャワだと僕も書いてしまったが、これは多分途中で推定出来るだろう。2時間しか生きられなかった「姉」とナチスドイツに抵抗して蜂起しヒトラーによって灰燼に帰したワルシャワ。両者の運命がシンクロするような想いが満ちてきて、ウクライナやパレスティナにも連想が飛んでいくのである。

 全編が「白」のイメージに覆われているが、冬のワルシャワで書かれていることもあり、とても寒々しい世界だ。韓国と「白」と言えば、李朝(朝鮮王朝)の白磁などが思い出され、柳宗悦が「悲哀の美」と呼んだことも想起される。それに対して、70年代以降批判もなされてきた。朝鮮の美意識を「悲哀」と見るのは、植民地主義的な「上から目線」だという指摘だった。ところで、このハン・ガンの「白」はどのような意味があるのだろうか。僕にはよく判定できないのだが、ワルシャワの悲劇とも重なり「世界史的イメージ」へと拡がっていく。「白」のイメージにこそ無限の彼方があり、それは「死」へも通じている。

 ハン・ガンはノーベル賞受賞を受けた会見を開かなかった。世界で戦争が続いている今、そのような晴れがましいことは出来ないというようなことだった。ハン・ガンという人は多分非常に繊細な感受性を持っているんだと思う。戦前フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユを思わせるような。あるいは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書いた宮澤賢治のような。これほど死のイメージに覆われた小説もあまり記憶にないが、自伝的なものでも民族的なものでもなく、というかもちろん背景にはそれもあるが、独自の感性で紡がれた小説世界なんだろう。

 「文学」にはこのような役割があると示すのがハン・ガンの作品だ。もっと面白く読める本はいくらでもあるが、読んで読者につまずきを与えるような、ヒリヒリした世界。そんなものは読みたくないという人もいるだろう。でも一度触れたらとりこになってしまう魅力が間違いなくある。ハン・ガンの受賞は最初早いように思ったけれど、2作読んでみると今の世界に対するメッセージでもあると思った。ただハン・ガンの世界、韓国の歴史性に止まらず、世界の痛苦に通い合う世界だった。

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『菜食主義者』、手強い強烈なイメージーハン・ガンを読む①

2024年12月01日 22時03分45秒 | 〃 (外国文学)

 韓国の作家、ハン・ガン(韓江)の小説を2つ読んだので、感想を書いておきたい。いわずと知れた2024年のノーベル文学賞受賞者である。この授賞は多くの人に意外感をもって受け取られた。賞に値しないというのではなく、1970年生まれの54歳という年齢が近年に珍しく若いからである。(初の70年代生まれ受賞者。まあ、アルベール・カミュ(1957年)の44歳という例もあったけれど。)日本では相変わらず「村上春樹の受賞ならず」とかトンチンカン報道があった。2018年以降は男女交互の受賞で、今年は女性の年だから、村上春樹が受賞するはずがない。それよりも多和田葉子小川洋子の受賞は難しくなったのかなと思う。

 最近のノーベル文学賞は「こんな人いるんだけど、知ってますか?」的な選考が多い。昨年から遡ると、ヨン・フォッセ、アニー・エルノー、A・グルナ、ルイーズ・ブリュック、ペーター・ハントケ、オルガ・トカルチュク、カズオ・イシグロ…である。よほど海外文学を読んでる人でも、知らない名前が多いだろう。ハン・ガンは隣国なので、日本ではある程度紹介されてきた。日本の文学ファンに読まれている作家の受賞はカズオ・イシグロ以来だろう。

 最近多くの韓国文学が翻訳されているが、全部買ってるわけにもいかない。しかし、ハン・ガンの『菜食主義者』(きむ ふな訳)は持っていた。今年『別れを告げない』が翻訳され、朝日新聞ではインタビューして一頁の特集記事を掲載した。それを読んでこの作家を読まなくちゃと思って、まず最初に翻訳された『菜食主義者』を買ったわけである。「クオン」という出版社から2011年に「新しい韓国の文学01」として刊行された。僕が買ったのは2021年に出た第2版第6刷。本国では2007年に出版された。2005年には連作の一編「蒙古斑」で李箱文学賞を受け、また2016年にイギリスの国際ブッカー賞を受賞した。

(ハン・ガン)

 授賞式前には読んでおこうと思って、ようやく取り掛かったのだが…。「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」という中編が3つ合わさった連作小説になっているが、それぞれかなり手強いのに驚いた。いや、難しいというのではない。構成は見事だし、訳文も判りやすい。そういうことじゃなく、展開がぶっ飛んでいるというか、相当に読むものに応えるのである。小説を読み慣れてない人が無理にチャレンジすると悪酔いするかも。ホラーじゃないのに、読むのが怖い。人間存在の本質に迫っていく設定が重いのである。僕もあまりの描写に悪夢を見てしまった。それだけの強さがある。

 この小説はキム・ヨンヘという女性を3つの視点から見つめている。夫、姉の夫、姉という3人の家族である。「菜食主義者」の語り手(夫)の妻ヨンヘがある日、肉を食べなくなる。理由がよく判らない。夢を見て以来食べられないという。その夢の中身は是非本書で読んで欲しいが、肉・魚・卵等一切受け付けなくなったのである。夫の上司に招待された会食でも、まったく食べなくて不審がられる。世界にヴェジタリアンはいっぱいいるわけだが、主義や嗜好で食べないのではなく肉体が受け付けないのである。その意味では「菜食主義者」という題名はちょっと的外れで、むしろ肉類の摂食障害というべきか。

 夫がヨンヘの様子をおかしいと思い、ヨンヘの一族が姉の新居祝いに集まった時に無理やり肉を食べさせようとする。父親は暴力的に食べさせようとして、カタストロフィーが起きる。その時ヨンヘを背負って病院に運ぼうとした義兄(ヨンヘの姉の夫)は、病院でヨンヘのお尻に今も「蒙古斑」が残っているのを見た。スランプ状態のビデオアーティストだった義兄は、その蒙古斑に性的な欲望をかき立てられ、義妹の身体に花の絵を書き付けてビデオ撮影したいと提案してみる。オイオイ、オイオイ…という怒濤の展開にちょっと休みを入れないと読み進められないのが2作目の「蒙古斑」。

 最後の「木の花火」では、ヨンへはもう精神病院に収容されているが、全く生への執着を見せない。むしろ植物になりたいと思うようになり、自由時間に庭でずっと逆立ちしている。樹木は実は根っこの方が頭で、枝の方が足になるのだと言い張って植物のマネをしているのだ。このイメージも鮮烈というか強烈。全く食事(肉だけでなく)を受け付けなくなり、精神病院では対応出来ず一般病院に移すしかない段階で終わる。常識的に考えると、ヨンへには人間としては「死」しか残されていないだろう。

 このヨンへの物語は一体何を語っているのだろうか。ただ単に「摂食障害」や「精神疾患」を描いているとは受け取れない。父親の暴力にさらされて育ったらしいヨンへ。父はヴェトナム戦争に従軍した過去があり、その時の「活躍」を折に触れて自慢してきたらしい。韓国では植民地時代、朝鮮戦争、軍政と長く暴力にさらされてきた。ヨンへ自身に直接は関係ないのだが、そのような民族的な暴力の歴史を思わざるを得ないのである。「肉食」とは「他の生物の命を暴力的に奪い取る」ことで、ヨンへの肉食拒否は象徴的に「歴史の中で殺されてきたもの」へ答える行為と深読みすることも出来る。

 ハン・ガンの父親はハン・スンウォン(韓勝源)という有名な作家で、幾つもの文学賞を受けている。李箱文学賞を親子で受賞したただ一組になっている。だから、特に家庭的に恵まれないとか、文学に親しめないという環境じゃなかったはずだ。しかし、1970年に光州で生まれているから、1980年の光州事件を幼い日に見聞きしたのかもしれない。僕にはそこら辺は判らないが、濃厚な死のイメージに深く心を揺さぶられた。アメリカのシルヴィア・プラスの『自殺志願』という本を思い出したぐらいである。

 なお、「精神分裂症」という訳語が出て来るが、これは「統合失調症」にするべきだろう。また「蒙古斑」もどうかと思う。これは日本でも未だ使われているようだからやむを得ないとも言えるが、「モンゴル斑」か「モンゴリアン・スポット」に(日本全体で)するべきだと思う。昔大学で自然人類学の香原志勢氏の講義を受けたとき、「蒙古」という言葉は中国が周囲の民族を蔑視して良くないイメージの漢字を当てたので、使うべきではないと言われた思い出がある。

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