尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「内ゲバ」があった「冬の時代」ー大塚茂樹『「日本左翼史』に挑む」を読む③

2023年04月15日 22時32分51秒 | 〃 (さまざまな本)
 「内ゲバ」について書いておきたい。池上彰・佐藤優氏の本にも、大塚氏の本にも「内ゲバ」の話が出て来る。どっちの本も(特に大塚氏の本は)、「内ゲバ」問題が中心的なテーマではない。ただ70年代~80年代に学生時代を過ごした世代には、この問題を避けて通れない。もっとも僕の人生は、自分や知人に関係者はいないので「内ゲバ」に触れなくても語ることが出来る。それにしても戦後左翼運動史を考える時に、一度は触れないわけにいかないテーマだろう。(「内ゲバ」に関する重要な本には、立花隆中核vs革マル』や樋田毅彼は早稲田で死んだ』などがある。)

 ところで「内ゲバ」と言っても、今じゃ説明が必要だろう。ある意味普通名詞になったとも言えるけど、もともとは新左翼党派間の暴力事件に使われた用語である。「ゲバルト」(Gewalt)はドイツ語で「暴力」のことで、当時は「ゲバ」と略して「ゲバ棒」などと使われていた。僕は直接知らないけど、マスコミではよく使ってたから理解出来る世代である。「中核派」と「革マル派」は、もともと同じ「革命的共産主義者同盟」(革共同)から分裂した組織だから、外部の者から見れば「内輪もめ」に見える。だから「内ゲバ」と呼ばれたということだろう。
(警視庁ホームページの「革マル派」の問題)
 池上氏は1950年生まれで、慶応大学日吉キャンパスで中核派にも革マル派にもオルグされたと語っている。慶応は中核派が押さえていたのだが、知人を通して革マル派からも話を聞いてくれと言われたという。革マル派は内ゲバで人を殺しているから嫌だと言ったら、「革命の理想のために人を殺すのは許される」と言われたという。後にNHK記者になり社会部の警察庁を担当していた時に、凄惨な内ゲバ殺人の現場を取材している。それが1980年10月に大田区洗足池図書館前で、革マル派5人が中核派に襲撃され殺害された事件である。Wikipediaで「内ゲバ」を調べると年表が出ているが、一件5名の死者は最多とある。
(大田区事件を報じる新聞の画像)
 一方、大塚氏は1976年に早稲田大学第一文学部に入学した。「筆者の世代では、もう学生運動の時代は終わったとみなす人が大半だった」。しかし大塚氏は「まともな学生運動なら参加したい」との思いから入学直後に民青に入った。「唯一の懸念は、筆者の学んだ大学と学部である。」早稲田で革マル派の影響力が強いのは周知のことで、72年末には「川口大三郎事件」が起きている。中核派と誤認された学生を革マル派がリンチして殺害した事件である。

 大塚氏は「革マル派の暴力支配に抗して、無党派の学生として敢然と闘い続けた「ヒダさん」の名前は入学直後に耳にしていた」という。(そのヒダさんが、先に紹介した『彼は早稲田で死んだ』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した樋田毅氏である。卒業後に朝日新聞記者になり、退職後にその本を書いた。)この事件は学内に非常に大きな影響を与えたが、社会に与えたショックも大きかった。大塚氏は学部入学式の後で「革マルと民青の二人の活動家が激しい論争をしていた」のを見た。「多人数で拉致されないかと不安とともに見つめていた」。幸いにも76年以降は状況が変わりつつあったという。
(当時の革マル派機関誌「解放」。見出しにある「ブクロ派」とは革マルが中核を呼ぶときの蔑称)
 自分のことをちょっと書いておくと、一年間の浪人を経て、1975年に立教大学に入学した。その時点ではもはや学生運動などどこにもない。だけど、学内にも社会一般にも「内ゲバ」の暗い影が覆っていた時代だった。僕も池袋周辺で内ゲバがあったとかで、大学近辺を歩いている「学生風」通行人を警官が軒並み職質している場面に何回か遭遇した。学生証の提示を求められたが、拒否出来る雰囲気ではなかった。学内には特に騒然たる場面はなかったが、革マル派が活動していたのは覚えている。だが大学当局は自治会を認めず、その結果なのだろうが在学中に一度も大学祭を経験しなかった。

 当時の大学の多くでは、「自治会」を特定セクト(党派)が握っていた。最近では「全学連」と「全共闘」を知らないと言われる。「全学連」は「全日本学生自治会総連合」のことで、全学生加盟の「学生自治会」があったのである。戦後ずっと共産党系が主導権を握っていたが、60年安保を前にした1959年6月に「ブント」(共産主義者同盟)が主導権を握ることに成功した。60年安保後にブントが分裂し、以後「全学連」は四分五裂していく。その詳しい歴史に今僕は関心ないが、例えば「早稲田は革マル派」というのは、この学生自治会のヘゲモニーを革マル派が握っているということである。
(当時の中核派機関誌「前進」)
 何で大学がセクト間で争奪戦の対象となって、どこどこ大学は○○派、どこどこ大学は××派などとなったのか。それは「自治会費」を大学が代理徴収していて、執行部を握ると自治会費を自派で使えたからだ。いま思うと、これはとんでもないことだろう。今はPTAも全員参加じゃないとされる時代である。個々人の加盟意思の確認なしで自治会費を一括徴収するなど、あり得ないことだろう。自派で自治会費を押えるとは、つまりそこには「横領」や「背任」に問われるべき事案があったはずである。当時はそんなものかと思っていたし、保守派や企業も含めていい加減な会計処理は珍しくなかった。「総会屋」が存在した時代である。

 この時代には他国でも過激な左翼党派が存在した。イタリアの「赤い旅団」はモロ元首相を誘拐して殺害、ドイツの「バーダー・マインホフ」グループはドイツ経営者連盟会長シュライヒャーを誘拐して殺害した。そんなことをしても社会は変わらないし、逆に厳しい弾圧をもたらしただけだった。これらの事件はその後映画化され、僕も見たことがある。日本でも若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』などがある。ここでも「日独伊」かと思いつつ、これらの暗く、痛ましく、重苦しい映画を頑張って見た。しかし、よく考えてみればドイツ、イタリアは「支配者側」の人物に対する事件である。それを肯定するわけではなけど、日本で起こったのが「仲間殺し」だったのは何故だろう。

 これは新左翼党派以外の日本人も考えてみるべき問題ではないのか。もしかしたらダシール・ハメット血の収穫』というか、むしろ黒澤明用心棒』に影響された警察当局の策謀なのかもしれない。新左翼党派内に警察のスパイがいたとしてもおかしくはない。それはともかく、対立党派どうしが殺しあいに熱中して急激に影響力を無くしていったのである。佐藤優氏の表現によれば、60年代末には新左翼党派に加盟するのは「暴走族に入る程度」だったが、70年代半ば以降は「暴力団の盃を受ける=完全に市民社会から外れる」レベルになったと言っている。いや、その通りだったと思う。

 僕は「内ゲバ」の暴力性だけを考えても答えは出て来ないと思う。朝日新聞(4月9日付)には「スポーツ指導者の暴力」という大きな特集記事がある。あれだけ問題化し、中には刑事事件になって人生を棒に振った人までいるというのに、今でも暴力や罵声がたくさん報道されている。「胸ぐらつかみ殴打」「周囲の教員も見て見ぬふり」「罵声浴び続け吐き気」などと見出しにある。職場でのパワハラも数多い。日本社会の底の方にはずっと激しい暴力が潜んで来たと言うべきではないか。
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