毎日のように通る、小学校の横の道。
2年半前まで娘が通い、そしておおむかし、私自身も通った小学校です。
校庭の端っこにあるプールから、今日、メガホンを使う先生の声と、子どもたちの
歓声が聞こえてきました。
そう、もう、プール開きなんです。
そういえば、1週間か10日くらい前? プール掃除をしているらしい
賑やかな声が聞こえてきて‥その時も、自転車漕ぐ足をゆるめて、垣根の隙間から
ちょっとだけ中をのぞいてみましたっけ。
まだrが保育園に通っていた頃、5月の終りにプール掃除しているらしい小学生の声に
驚き(そんなに早くの時期に?!と思ったんです)、彼女が入学してからは、
通学班の班長さんが、プールバッグを持って登校するのを見て、え、6年生はこんな
時期からプールなの?! とまたしても驚き、そうやっているうちに、いつの間にか
rも、プール掃除やら、1年生の面倒を見るやらと思っていたら、もう今年の夏は
中3の夏=義務教育最後の夏 になっているではないですか。
いろんな行事や季節の節目に子どもの成長を感じてきましたが、プール掃除も
そんな節目のひとつに、私自身は思っていたらしいです。
来年の春、rが中学校を卒業して、電車通学するようになって地元の学校とも繋がりが
なくなっても、私は相変わらず、小学校の横の道をとおり、プールから洩れる声を聞き、
桜の花を待ち、葉が色づくのを眺め、もしかして拾いにいって、また落ち葉染めをし、を
繰り返していくのだろうなあと思うと、ちょっと胸がきゅっとなります‥。
***
好きで、毎日のように読んでいる、ほぼ日の〈今日のダーリン〉。
13周年を迎えた今日のところに(も)、とてもいいこと書いてありました。
おなじことを、
いやだいやだと思いながらしている人と、
うれしいなぁと思ってしている人とでは、
まったくちがう場所に行きつきます。
‥こういう出だしで始まり、その後に続く文がとってもよかったです。
糸井さんは、3月11日からあと、自分たちのことを「たいしたことないもの」と
位置づけています。
「たいしたことないもの」としての自分たちに何ができるかーというふうに。
知識とか経験とかを身に付けていくと、それに費やした時間やお金の分だけ
えらく、賢くなっているように思ってしまいがちですが、でも、必ずしも
それは比例していくものではないので、いつまでも「たいしたことないもの」と
自分を思っているのは、どんな場面においても大切なことだと感じています。
家庭内(家族内)での役割でも、母だからえらいわけじゃないし、
母だからって気負わなくてもいいわけだし。
とうの昔に、10代を過ごしてきたものとして、自分の心の持ちようで
まったくちがう場所に行きつく というようなことを、説教っぽくならず、
命令形でもなく、普段着の自分の態度から教えられればいいなあと思ったり。
でもそれは、「ともだちのような親子関係」とも別だと感じていて‥
先週の夕刊に載っていた下記の文章をその日の手帳に書き写しました。
人間は、子どものころの育ちが自分の価値観の原点になり、
青年時代に悩んだことややってみたことがライフワークになる。
幼児期から自負心やその子らしさを教え、あとは右往左往して人生を
選び直す姿を見守ってやる余裕を、親ももたなければいけない。
(教育人間学者 汐見稔幸さんの文章です。)
余裕を、親も持たなければって、結構難しいなあと思います。
一緒に右往左往してあげることならできるんですが(笑)、でも、ちょっと離れた
視点から、右往左往を見ていてあげることができるかどうかが、イコール余裕
なのかなーと思っています。
プール開きの歓声から、いろんなことを想った日です。