久しぶりに晴れて、青空を見ることができました。こういう日は、銀杏の葉が陽を受けて、キラキラ輝いているでしょうね。
『きんのことり』
あまんきみこ 作
荒井良二 絵
先週の金曜日、3年生のクラスでの「開き読み」で、↑の本を読みました。この季節に読むことができて、私的には満足しています。
でも、タイトルと表紙を見ただけでは、なんで「今にふさわしい」本なのか、わかりませんよね?(逆に内容を知っている方は、この時点でニヤッとしていると思いますが。)
赤いフードをかぶった女の子が印象的なので、この女の子が主人公なのかなあと、私も読む前は思っていました。けれど、主人公は右端の木の枝にとまっている「きたかぜのこ」なんです。
この本は「PHPとっておきのどうわ」というシリーズものの1冊で、絵本に比べ、お話もすこし長く、絵も小さいので、ほんとは「開き読み」にはあまり向かないかもしれません。でも、それを補ってもあまりある内容の素敵な本なのです。
ほんとうに、あまんきみこさんは、お話の名手です。
暮れていく秋の日、木枯らし、色づいた銀杏の葉‥
誰でも目にしているにちがいない「季節の端っこ」から、誰にも感じ取れないものを受けて、ひとつのストーリーへとまとめあげ、気持ちの中にすっぽりおさまる「かたち」にして、私たち読み手に届けてくれるのです。
もちろん、もちろん、荒井さんの絵もとても素敵です。
「きたかぜのこ」のかわいらしさ。暮れていく秋の空の微妙な色合い。潔く、深く優しい銀杏の木の、その表情‥。
荒井良二さん、きっと、このおはなしに引き込まれ、心底いいなあ、いい話だなあと思いながら、絵を描いたのだと思うのです。私にはわかります(へへ)。
これ以上、続きを書いていると、ストーリーのことに触れてしまいたくなるので、やめておきます。
もうひとり、重要な登場人物がいるのですが‥あ、裏表紙に居ましたね‥。
教室では、読み終わるのに10分近くかかりましたので、もう1冊は、お話を追わなくてもいいように、『もこもこもこ』を読みました。
最前列の女の子は、私がページをめくるのに手間取っていると、どんどん先を言っちゃうんです。「よく知ってるね」と言葉を挟むと、「だって、幼稚園の時に先生が何度も読んでくれたから」と。
きれいな絵に、谷川さんの意味不明で的確な?ことば。『きんのことり』の世界に集中していた教室の空気が、ふわっと軽くなったようでした。
『もこもこもこ』
谷川俊太郎 文 元永定正 絵
昨日の日曜日、K市のアートギャラリーで行われたワークショップに参加しました。
『親子で作るクリスマス特集』の第1弾、上原光子先生による
「コルクで作るクリスマスエンジェル」です。
このワークショップ、とっても楽しみにしてたんです。
というのは‥先日の銅版画教室に、上原先生も参加されていてーその時はもちろん
「先生」だとは知りませんーたまたま銅版画のプレス機の順番を待っている時に、その絵があまりに
もかわいらしく、これはどう見ても「素人」ではないとピピッときた私は、「あの‥」と話し掛けさせて頂き‥
そして、今回のワークショップで講師をなさることを聞いたのでした。
その後、K市のHPからリンクされていた上原先生のHPを知り、ブログを知って、コメントを残してみたところ、
私たち家族のことも覚えていてくださって‥何度かこのブログにも遊びに来てくれました。
ほんとにブログをやっていてよかった、と思うのはこういう時ですね~。
さて。ワークショップは‥まず顔にする白いボールに色を塗って、コルク胴体に付けるリボン等を選び、
針金を使って、顔と胴体をひもでひとつにして、毛糸の髪の毛に、オーガンジーの羽をつけ、最後に顔を仕上げて、
出来上がりです。2時間半の時間内に、親子でそれぞれひとつづつ仕上げ、家での製作用に、
もう一体づつできる分の材料を頂きました。
出来上がったみんなの作品はこんな感じです。
うちに帰ってきたエンジェルは、こんなふうにしています。
名前は私のが「ベス」で、娘のは「ラン」に決定。
ランちゃんの方が、かわいいですね~。私のは‥ちょっと寂しい顔かな。
上原さんの主宰されている、手作り雑貨「マミンカ」 には、それはそれはかわいらしいものが満載で。
特にこれから赤ちゃんが生まれる方、赤ちゃんと生活を始めたばかりの方に「ああ贈りたい」
「ああ使ってもらいたい」というクマちゃん人形もあったりで‥とってもお薦めのHPです。ぜひ見にいってみてください。
この写真は、昨日の会場に飾られていた作品の一部です。もうすぐ大宮で二人展も開かれます。
12月1日に、日本橋浜町にオープンする工芸ギャラリーショップ ヒナタノオト さんより、ほかほかの案内状が、届きました。
なぜ、「ほかほか」なのかというと‥今朝、ヒナタノオトのblogで「発送しました」の記事を読んで、その後バタバタと仕事&私用を片付けて家に戻ったら、日本橋の記念スタンプ付きの素敵な封筒があったので、なんだか取れたてのホカホカな感じがして。それと、案内状がとても温かみのあるオレンジ色だったので‥それもほかほかな感じ‥。
3通のカードが封筒にあったのは、私と夫と、それに10歳の娘rの分かなあと思いました。rも、ちゃんと「一人前」扱いで“welcome”してくれているのでしょうね。なんだか、ニヤッとしちゃう嬉しさでした。
初めて ヒナタノオト を訪れる日が、とっても楽しみです。
娘のピアノの先生は、(以前も書きましたが)夫の大学時代からの友人で、2年に1度、自作曲のライヴ演奏なんかもする方です。
子どもたちの「発表会」も2年に1度あるのですが、それとは別の「小規模なクリスマス会」を毎年行っていて。10月の終わり頃に、練習曲とはちょっと違うタイプの曲を選んで、1ヶ月半ぐらいかけてクリスマス会で弾くために練習します。習っている子どもたちと先生だけの会なのがちょっぴり残念ですが、ケーキを食べて、持ち寄りのプレゼントを交換して、曲を披露して、最後は、みんなで歌って‥という「こじんまり感」がいいなあと思っています。
娘の、今年の曲は『風の丘』。
2年生の時からのなかよしtちゃんが、9月から同じ教室に通い始めたので、すこし先輩の娘が伴奏のパートで、tちゃんがメロディを担当して、二人で連弾をすることに決りました。
『魔女の宅急便』の音楽というと、『ルージュの伝言』を思い浮かべてしまうのですが、メロディを聴いてみたら、ああこれもそうだった‥とすぐに思い出せました。
娘がピアノを習い始めた2年生の3学期、tちゃんも一緒に「体験レッスン」に行ったのですが、tちゃんの気持ちが固まらず見合わせることになりました。それから時間がたって、tちゃんが「やっぱり習いたい」ということになり、「毎日練習するのなら」とtちゃんのお母さんもOKしたのでした。
毎日、練習。tちゃんのお母さん、とても熱心な方で「それが条件」なんです、エライです。
tちゃんのレッスンの進み具合も自ずと早く‥娘rのtちゃんに対する気持ちは、感心86%、焦り14%ぐらい、といったところでしょうか。
先日、ウチで、初めて2人が合わせたところを聴いたのですが、なかなかよかったです。音が伸びやかというか、素直というか、鍵盤をタタイテ、純粋に出た音‥みたいな感じが。
ピアノ用の椅子がひとつしかなくって、高さが合う他の椅子もなかったようで。私がリビングに入って行った時「ほんとの椅子」はtちゃんに譲り、rは、ちょっと高い所の物を取る時に使う「脚立」に座っているんです。そのデコボコな雰囲気もおかしいやら、かわいいやら‥。
それで、あのメロディライン‥♪ 曲が全部完成したら、母は泣いちゃうなあと思いました‥。
昨日もレッスン日だったので、一緒に行って、先生との「合わせ」を本を読みながら聴いていたんですが、途中からおなじ箇所を何度も目で追うだけになってしまって、本を読むのやめちゃいました。
どの年頃の、どの毎日も、それはそれは貴重な時間の積み重ねなんですが。
もしできるなら、子どもらしい時代の、最後かもしれない10歳のrも、箱に入れてとっておきたいです。二人が弾く『風の丘』のBGM付きで。
ささめやゆきさんブームは、私の中で静かに続いていて‥ここにたどり着きました。
『ガドルフの百合』
宮沢賢治 文
ささめやゆき 絵
百合の花が、すべての花の中で、1,2位をあらそうくらい好きです。
みどりの固い蕾がふくらんできて、薄く白い筋が入ってくるところも、ある朝、ぱっちりと
開くところも。中でも一番好きなのは、居場所を教えてくれているかのような、その香り。
開き始めと、花びらが散る前とでは、その匂いも変わってくることに、つい最近気が
つきました。だから正確に言うと、百合の花の中で一番好きなのは、花のピークがすこし
過ぎた頃からの匂い、ということになります。
ささめやさんが描いた、この表紙の百合を見つめていると、その匂いが喉の奥を通り、
胸の中に満ちてきて、いつまでもいつまでもその匂いの中に居たい、と思っている自分に
気が着きます。それくらい、私にとっては、特別な匂い‥。
ガドルフは、百合の匂いに気がつかなかったのでしょうか。
激しい雷雨に遭い、思わず駆け込んだ家のガラス窓越しに、ガドルフは、
何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいているのを見ました。
「どなたですか。今晩は。どなたですか。今晩は。」
人影かと思い、声をかけた後、稲光によってそれが百合の花だと知らされます。
シャツが濡れるのも覚悟で、窓から外に体を出して、次の光が花の影をはっきりと
映し出すのを待っているガドルフは、その時点で、すっと引き寄せられたにちがい
ありません、「百合のある風景」に。
合計で、4度。稲妻が映し出す百合の美しい姿をガドルフは眺めるのですが、
2回目のピカッの描写がとても感動的です。
間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃いて、庭は幻燈のように青く浮び、
雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、
まっ白にかっといかって立ちました。
(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)
そんなにも惹きつけられた百合の花なのに、ガドルフはその香りには何ひとつ
触れていないのです。
灼熱の花弁は雪よりも厳めしく、ガドルフはその凛と張る音さえ聴いたと思いました。
くっきりとした花の姿はこんなにも伝わってくるというのに、芳香は、ガドルフのところまで
たどり着くことなく、雨粒にかき消されてしまったのでしょうか‥それとも、目と耳に届いた
情景があまりにも強かったため、匂いは記憶の隅に追いやられてしまったのでしょうか。
もしも、後者なら、ある時突然に匂いの記憶は甦ってくるでしょう。その時、ガドルフが
それに何を思うのか聞いてみたい気がします。
雷雨の中に立つ百合の姿はあまりにも鮮烈で、別の「似たような何か」があったことが
気になってしかたありませんでした。
ガドルフ(宮沢賢治)の百合は、まるで梶井基次郎の『檸檬』のようではないですか。
突然の嵐に見舞われて疲れきっている男が、雷雨に打たれても気高く咲き誇る百合に
希望を見出している姿は、重ねた本の上に、爆弾に見たてた檸檬を置いて帰った男と、
とてもよく似ているように思われます。
もしやお二人は、同じ時代を生きたのではと思い調べてみたら、ほんとにそうでした、
驚きました。
宮沢賢治 1896年ー1933年
梶井基次郎 1901年ー1932年
宮沢賢治作品&ささめやゆき では『セロひきのゴーシュ』もあります。昔むかしに
読んだ文庫本の段ボールを開けて、『檸檬』を探してこようと思いました。
なかなか「ちゃんとした公園」に行かれず、紅葉を楽しむことができませんが、街路樹のはっぱが、きれいなまま落ちてきたのを見かけ、すかさず拾っておきました。この本の表紙のような、明るい赤色でした。
『かぼちゃスープ』
ヘレン・クーパー 作
せなあいこ 訳
この絵本の色合いは、今の季節にぴったりですね。3人がおいしそうに飲んでいるかぼちゃスープも、まさに「旬」な感じ。
こうめさんも、はらぺーにょさんも、『かぼちゃスープ』の話を書いていたので、 『こしょうできまり』と合わせて、どうしても読んでみたくなり、図書館に予約しました。
当番の「開き読み」のクラスでは、ほんとは『ごきげんなライオン』を読もうかなあと、思っていたのですが、図書館から届きたてのその2冊を娘と寝る前に読んでいたら、小4の娘がとってもとっても『かぼちゃスープ』をおもしろがるので、小4に受けるのなら、小5はどうかなあの気持ちで、先週の金曜日に読んでみました。
ページいっぱいに描かれた大きな絵と、白いところをたっぷり残して描かれた小さな絵。
開くたびに、次はどんな絵が飛び出してくるのだろうと、とてもワクワクする構成なんですが、クラスでの「開き読み」の場合、小さな絵が、どれくらい「見える」かが心配でした。その「小さな絵」の中に描かれている、ねこやりすやあひるのちょっとしたしぐさや、表情を読み取れるか否かが、お話のおもしろさを倍増させることにも繋がっていくと思ったので、尚更‥。
どうしようかな、やっぱりやめておこうかなあ。
行ったり来たりしましたが、読んでいて、とってもリズムがある文章なので、「口なじみのよさ」で、「小さな絵」の部分をカバーできるのでは、と思えてきて‥GOサインを(自分で)出しました。
とうとう ねこが こごえで いった
「もっと きの あう ともだちが
みつかったのかも しれないね」
「ああ そうかもね きっとだね
いまごろ ゆかいに やってるよ」
とぼとぼあるく かえりみち
ますます しょんぼり もどる みち
ね、わらべうたか、詩みたいですよね?
じっくりと、本を見る時間があるときは、ぜひぜひ、ねこ・りす・あひるの表情に注目してください。
ねことりすの「目配せ」の中に、あひるへの親愛の情がきちんと描かれているのがわかるし、かぼちゃを抱えたあひるの目には、望みを叶えた満足さが表われています。
それにしてもこのあひるくん、誰かに似ているって、子どもが居る方は誰でも思うでしょうね~。
ひとりでは決して上手にできないのに、なんでもやりたがった時代の【うちの子ども】にそっくりですものね。
昨日は「県民の日」で小学校がお休みだったので、私も午後から仕事を休み、
池袋にあるマルプギャラリーというところへ、家族3人+まつかぜさん とで出かけて来ました。
早川純子さんの作品を見るためと、午後3時半頃から行われる「ワークショップ」に
参加させてもらうためです。
『かいじゅうじまのなつやすみ』
風木一人 文 早川純子 絵
『しんじなくてもいいけれど』
内田麟太郎 文 早川純子 絵
『まよなかさん』
早川純子 作
早川さんは、上記3冊をはじめとして、「こどものとも年少版」の絵なども描かれている方なのに、
実は、あまり存じ上げていませんでした。それなのに、お会いして、お話したこともあるのです。
なぜかというと‥
11月のはじめに、ブックギャラリーポポタムで行われたイベントにmiyacoさんが誘ってくださり、
その時miyacoさんのお隣に偶然座っていたのが、早川純子さんだったのです。
(早川さんは、今年の夏にポポタムで、原画展を行ったそうです)
店内に置いてあった、何種類かの案内ハガキの中でも、版画刷りの早川さんのがとても気になっていたので、
それを作ったご本人が来て居るということに、とても驚いたのでした。
後日、マルプギャラリーのHPを見たところ、「フエルトで のぞきみ指人形を作ろう」という
何やら魅力的な文が‥。こういうの、まつかぜさんは絶対好きに違いない!と思いお誘いしました。
で。
トップの写真が、4人の「作品」なのです。(誰がどれを作ったかわかるかな?)
あらかじめ、早川さんが用意してくれた「本体」に、ニードルを使って、思い思いの毛糸を刺していくのですが‥
予想していた以上に楽しい作業でした。
ニードルがフェルトを通過して、台にしたスポンジに刺さるときの軽い「手ごたえ」と「音」が、
なんとも嬉しく体を巡っていくのです。
15分ぐらいで完成、と記してあったにもかかわらず、私たち小1時間は、刺しては抜き、
毛糸を丸めては刺し‥をやっていたと思います。
帰りに、早川さんの絵本を1冊買いました。サイン入りです。
うちに帰って封を開けて、早速サインを探しましたよ。サインと呼ぶにはあまりにかわいい絵が見開きに‥!
とっても満足な午後でした。早川純子さん、ありがとうございました。
追伸 ワークショップは24日(金)にもあるようです。お近くの方はぜひ。
俳句の世界に居た友は、23歳の時に、春夏秋冬をしっかり感じるために、金沢という地を選びました。そこで彼女は「工芸」に出会います。
私が、ひとりのともだちとして知っていたことも、まるで知らなかったことも、この本には書かれていました。
『手しごとを結ぶ庭』
稲垣早苗 文
文章を書くことで、どうにかして自分というものを表現していこうと試みた日々に、とても近くにいた人が、ある日、本を出す事に決ったという知らせ。
それは、幼い頃大切にしていたものが、ひょっこり見つかったのは嬉しいけど、蓋の角が欠けていて、元のようには直せないと知った時の、胸に広がる蒼い影に似ていました。ちくっと刺さるトゲも、感じなかったといえば嘘になります。
しかし、彼女が過してきた年月と、わたし自身が送ったきた日々を、はかりにかけてどちらが重いかなんて比べることはできません‥。
山本祐布子さんが装丁した美しい本を手にとり、種・芽吹き・施肥・切り戻し・花と名づけられた目次を追っていくだけで、その趣向に楽しくなりました。よく知っている友が書いたという意識はしだいに薄らぎ、工芸について、人の手が作ったものについて、もっと知りたいという気持ちが増している自分に気が着きました。そして、残しておきたい文章の書かれたページの端を、そっと折りました。
たとえば、「美しいもの」というタイトルがつけられたページで、漆作家の赤木明登さんの言葉を紹介しています。
「僕は今、心から美しいものを作りたいと思う。人が毎日見ているもの、人が毎日使っているものは、人の心の奥深いところに必ず影響を与える。
美しいものは、人を幸せにできると信じている」
この文は、まっすぐに、いきなり胸を突きました。
美しいものを、美しいといえる心を持ちたいと願いながら、実際の暮らしはどうなんだろう、日々使うものを、安易な理由と安価だけで選んでいなかっただろうか?
美しいものをしっかりと見極め、美しいものと暮らしているにちがいない稲垣さんが、俄かに羨ましくなりました。それは、胸に刺さっていたちっぽけなトゲの痛みなどふっとぶ程のものでした。
また「よきもの」のところでは、弟の棺に何を入れてあげようかの問いから、こんな答えを引き出しています。
どんなに「よきもの」を作っても、それを持って旅立つことは出来ない。どんなによきものを得ても、それは生きている者が使ってこそ存在出来るだけだ。(中略)
人もいずれ土に還る。ならば、共に土に還るもので、よきものに出会いたい。それは永遠に持ってはゆけないものだけれど、よきものと結ばれた時間の幸福は、生きている者の心を確かに照らす。
早苗さんが経験し、早苗さんが想ってきたこと通して、私は今まで気付かなかったこと、見落としていたこと、知らなかったことを、深く感じることができるようになっていきます‥。
二度、出会う。
稲垣早苗さんという人に、私は「また」出会ったのだと思います。
細いけれど、切れずに繋がっていた一度目の出会いを大切にしつつ、心が感じた二度目の出会いも、大切にしていきたいと願っています。
最後に。自分への戒めにしたい言葉をひとつ、いただきます。
作家を紹介する文章を、短くともじっくり書こう。浅い気持ちを深く装わないように。
これまでに、何冊くらい絵本を買ったことでしょう。
今年になって数が増えたものの、それまではそんなに多くはなかったと思います。
そのほとんどが、娘の成長に合わせて彼女のために買ったものでした。そして時折、
どうしても欲しくなった自分のために‥。
娘以外の誰かに贈るために買った絵本は、いつ、何の本を、誰に、とはっきり記憶しています。
それぐらい数が少ないのです。まして、おとなへ贈ったとなると、それはたったの2冊しか
ありません。
1冊目は、コイビト時代の夫に、五味太郎さんの『絵本ことばあそび』(1982年岩崎書店発行)。
私も、もちろん夫も、絵本のエの字も口にしなかった頃。五味太郎さんがどんな方なのかも
知らずに、ただ中味の言葉遊びのおもしろさゆえに、誕生日プレゼントにしたのでした。
そして、もう1冊は、今年の10月22日に、大学時代からの友人にこの本を。
『森の絵本』
長田弘 文
荒井良二 絵
大きくなって。自分で、自分の進む方向を決めなくてはいけない時期がやってきて。
さてどうしたもんだろう、と考えるー。
それは、大きな木の茂る森の入口に立ったときと似ているかもしれません。踏み入って
行くには勇気がいる。けれど入口で立ちすくんでいるわけにもいかない‥。
そんなとき、声が聞こえます。
「いっしょに ゆこう」
すがたの見えない 声が いいました。
「いっしょに さがしにゆこう」
「きみの だいじなものを さがしにゆこう」
すがたの見えない 声は いいました。
「きみの たいせつなものを さがしにゆこう」
声に誘われて進んでいくと、目の前が開けていき、大切なもの、忘れてはいけないものを
教えてくれます。たとえば、
「だいじなものは あの 水のかがやき」 というふうに。
誰の声なんだろう、と思いました。森の中へと誘い、導き、諭し、励まし、ともに歩んで
くれるその声の持ち主はー。森の入口に立った時、そんな人がすぐ近くに居てくれたなら、
とても心強いにちがいない‥。
すこし前の私は、その声が誰の声であったのかわからなかったし、わかろうとして
いなかったのかあと思います。でも、今は、それが「自分の内なる声」だということに、
気がつきました。
そう。励ましてくれたのも、思い出させてくれたのも、忘れちゃだめだと戒めてくれたのも、
自分自身にほかならないのです、きっと。
それは、こう言いかえることもできると思います‥。
自分の内側から響いてくる声に、しっかり耳を澄ませていないと、森が息している
ゆたかな沈黙 や 森が生きている ゆたかな時間 を知ることもなく、ただ森の中を
さまよい続けることになるかもしれない、と。
この本を、喜んで受け取ってくれた彼女は、「内なる声」に、耳を澄ませる努力を惜しまない
人にちがいありません。だからこそ、ゆたかな森を築きつつあるのです。
私を、20年来の友人としてくれていることへの感謝と、『森の絵本』を選んだ、今の私を
知って欲しくって。彼女の誕生日と、本が出版されたことと、ギャラリーショップオープンの、
すべてのおめでとうをこめて、贈りました。
「ほら、この本」と その声は いいました。
その本は 子どものきみが とてもすきだった本。
なんべんも なんべんも くりかえして 読んでもらった本。
「その本のなかには きみの だいじなものが ある。
ぜったいに なくしてはいけない きみの思い出がー」
こんなに大好きな本になったのに、自分のを、まだ持っていません。でも、今度の
クリスマスには買おうと決めています‥。
絵本世界で、「大竹伸朗」といえば、↓の2冊の本を思い浮かべることでしょう。
『ジャリおじさん』
大竹伸朗 作
『んぐまーま』
谷川俊太郎 文 大竹伸朗 絵
私も、「おおたけしんろう=ジャリおじさん」+なんでもかんでもコラージュする人 ぐらいのイメージでいました。
『ジャリおじさん』を、前に図書館で借りてきたことがありましたが、それは何かの雑誌で、「私のいちおし絵本」のような特集があり、そこで『ジャリおじさん』を推している人が何人も居たので、そんなに凄い絵本ならば読んでみたい、と思ったからでした。
『んぐまーま』は、画期的な赤ちゃん絵本!と認識しているのですが、読んであげる人が近くにいないので、ぱらぱらっと見ただけでした。
11月5日日曜日 晴れ 東京都現代美術館にて
抱いていた、私のちっぽけなイメージなど、秋風にそよぐ木の葉よりあっさり、どこかへ飛んでいきました。
大竹伸朗 全景
よくぞ、こう名づけたなあと思います。 ほんとに全部なんです。ぜんぶまるごとのオオタケさんが「そこ」に居て、まるごとのオオタケさんを、見る事ができるのです。
小学校低学年の頃のマンガから、今回の描き下ろし作品まで、2000点余り‥と記してありましたが、その3倍くらいあったように感じています。
展覧会の案内図からして、〈A3のコピー用紙〉×2そのままの大きさなんです。みんな折るに折れず、丸めたり、ポスターのように目の前にかざしたりしながら、見ていましたよ。
「エスカレーターで3階へ行ってください」と、受付で案内され‥最新作のコラージュをそこでまず目にします。圧倒されながらも、気持ちは右側にずらっーと並べられているガラスケースに移っていき‥
なんだろう、なにが入ってるの?
そこには、どのページも、塗られたり、貼られたりしたことによって膨れ上がった、果たしてノートと呼んでいいのだろうかというスクラップブックが、何冊あったことでしょう。
20代の旅の記憶から始まったにちがいないその「ノート」は、作品なのか、ただの習作なのか、日記なのか。そんなことを思いながら、その行為に費やした時間を生み出したエネルギーに、感心するほかありませんでした。
しかし、そのガラスケースは、はじまりのはじまりでしかなかったことを、後から月を見上げながら知ることとなるのですが‥。
見終わった今となってみれば、オオタケシンロウを見るということが、何に似ていたかよくわかります。
「大食い・大盛り」選手権 です。
なかなかおいしいじゃない、これなら結構いけるかも。
ん?ちょっと苦しくなってきた、どうしよう‥
でもここで、辛味を加えれば、また食べられる。
あ~もうちょっと。
ここまできたんだから、最後までいかれるよ。
好きなもの後から食べようと思ってとっておいたんだった‥
最後は気力でいっきにかきこめ~。
ふー。
ごちそうさまでした ‥こんな感じ‥かなあ。
本題にもどって。
オオタケさんは、すごく絵がうまいのです。
一流のアーティストに対してそれはないでしょ、と言われると思いますが、子どもの頃からほんとうに絵がうまいのです。そして、作文もかなり巧かったのでは?と思いました。物事を捉える目とそれを表す力を、10代の初めから持っていたのだなあと思いました。
オオタケさんは、うまいゆえに描くのも、とても早いらしいのです。
旅先でのちょっとしたスケッチさえ、みとれてしまうような色合いで、さささっと仕上げているし、とにかく作品の数がハンパじゃない!のですよ。
最後の最後の方に、やっと「ジャリおじさん」の部屋にたどりつくのですが(さっきの比喩だと、「後から食べよう思ってとっておいた好きなもの」)、「ジャリおじさん」の原画が(原画がですよ!!)、どこに架かっているのかわからないくらい、ジャリおじさんおよび、それにまつわるイメージ画で埋め尽くされているのです。
宙に浮かぶジャリおじさんのオブジェだってあるんです。(ちょっとしたギャラリーなら、このジャリおじさんの部屋だけで、展覧会を設けることができると思います。見応え十分なんですよ、ここだけでも)
しかも、それプラス、部屋への入口には、奥さんやお子さんを描いたスケッチが何点もあって。(あたりまえだけど)その何気ないスケッチだって、もちろんうまいのです。
きっと、大竹伸朗さんという人は、頭の回転のいい人で、切り替えがパパッとできちゃう人だと思うのです。
だから、同時進行的にいくつもの作品を手がけたり、何かに取り組んでいるときも、目にした風景を手元に残して置くことができたりするのじゃないでしょうか。
「いったい何人オオタケシンロウがいるんだろう?」一緒に行った、夫の友人のOさんがこう言っていました。
全部の作品を、仮に、見ることができたとしても、その人のことを、すべてわかるはずはありません。でも、何も知らずに『ジャリおじさん』だけを手にした時よりも、『ジャリおじさん』の「むこう側」や、「下」や、「内側」にある様々なものを知った上での『ジャリおじさん』は、やはり私にとっては意義深いかなあと、思っています。
エッチングの小さい作品や、ビルをモチーフにした絵も、心に残りました。
これからもし見に行こうと思われる方は、元気なときのお出掛けをお薦めします。エネルギーのぶつかり合いですから、見る側にも当然元気が要求されます。
連休中に宇和島に行ったわけではないのです。駅の看板と月の下には、東京都現代美術館があるのです。
予てより、楽しみにしていた「大竹伸朗 全景」に、6日日曜日に行ってきました。「宇和島駅」という光る看板も、大竹伸朗氏の作品なのです。(※)
※作品解説(鑑賞ガイドより) 「宇和島駅」 1997年 42歳
大竹伸朗の住む宇和島の、古い駅舎が取り壊されるときに、
もらい受けたネオンサイン。東京都現代美術館の屋根から、
「全景展」のために赤い狼火(のろし)を上げます。
午後1時に、友人と待ち合わせした時には、展覧会を観た後に木場公園の方にも行ってみようなんて、軽い気持ちでいたのですが、すべてを観て外に出てきたら、もう月が出ていました。
11月の月も、なかなかいいものですね。
すこし前に、こうめさんのブログで知った『ながいよるのおつきさま』には、11月の月は Frosty Moon と書かれていました。11月といっても、ここらあたりはまだ冷え込んできていないので、肌で感じるのは、10月の Acorn Moon かなあと思います。
10がつは どんぐりの おつきさま
ちからづよく
きいろく
1ねんで いちばん
おおきな つき
11がつは しもばしらの おつきさま
こおりついた じめんと
はだかの きぎと
つめたい こがらしを
ひとりぼっちで だきしめて
映画の「ゲド戦記」、ご覧になりましたか。
わたしは、映画が始まってしまわないうちにと、原作を全巻読み終えたのですが、結局映画館には行ってません‥。いつの日か、テレビで見られればそれでいいかなと思って。
同じ作者、ル=グウィンの最新作、ご存知でしょか。
2度続けて、読んでしまいました。
『ギフト』
西のはての年代記Ⅰ
ル=グウィン 作
THE WESTERN SHORE 西のはて の物語3部作のⅠがこの『ギフト』です。
「西のはて」は、高地と低地に分かれていて、高地に暮らす人々は、浅黒い肌を持ち、男は膝までのズボンにすねは剥き出しのまま。「ギフト」と呼ばれる不思議な力を授かっている「ブランター」の元で、それぞれの集落を成して暮らしています。
一方、低地の人たちは町を形成し、「ギフト」を持っている人は誰も居ないけれど、そこには市場があり、本があります。そう、高地の人たちは文字を読み書きすることができず、高地には、本というものが存在していないのです。
主人公のオレックの父はブランター、母は低地から来た人です。
オレックの一族が持つギフトは「もどし」と呼ばれ、恋人のグライの一族のギフトは「呼びかけ」。父のギフトは息子へ受け継がれ、母のギフトは娘へと受け継がれます。
父が持つ強いギフトを、実は自分は受け継いでいないのではないかと思うオレック。オレック以上に、息子の力を心配に思った父が、息子に対して講じた手段はなんだったのか。
文字のない世界、本のない世界。
想像しがたい、そんな毎日の中で、オレックの母は、オレックとグライのために覚えている限りのお話を語って聞かせ、布を束にして端を綴じ、本を作って残してくれました。母の手作りの本は、後のオレックに、生きていくための「ほんとうの力」を与えます。
ファンタジーの世界を楽しむというよりは、オレックの心の動きが繊細に描かれていたことで、私はこの物語に夢中になったのかなあと思っています。
ギフト‥特別な人しか持っていないのか、望んだ人にしか手に入らないのか。それとも、すべての人が等しく賜っているものなのでしょうか‥。
にしのはての年代記Ⅱのタイトルは「Voices 」、Ⅲは「Powers」とすでに決っているそうです。邦訳される日が待ち遠しいです。
ささめやゆき さん。
挿絵はよく描かれているけれど、文ともに ささめやさんの絵本となると、その数は
めっきり減ってしまいます。
『マルスさんとマダムマルス』
ささめやゆき 作
だから、この本はとても貴重な1冊です。しかも、ここで描かれているのは、ささめやさんが、
はる なつ あき ふゆ を、実際に過したノルマンディ半島の先端に位置する海辺の小さな村‥
エッケールドルヴィル。パリ、ニューヨークと暮らしてきた後に、ひとりの知り合いもいない
その村にやってきたのだそうです。
あとがきにはこう記されています。
こんな地図にものっていない村で、誰も怨まず誰にも憎まれず、心はすみずみまで
澄んで、ずっと絵を描いてくらしてきたのだ。もし人にその核となる時間と空間が
あるとするならば、ボクはまちがいなくこの村をさすだろう。
私は、今までに一度も、ひとりで暮らしたことがありません。
自宅から高校へ通い、自宅から大学へ通い、自宅から通勤して‥そして結婚してしまいましたので。
実際的な意味での、孤独も寂しさも経験してこなかったのだろうと、思っています。
でも、この本を開いていると、なにもない海辺のこの村に自分が居て、すぐそばで聞いて
いたかのように、大家のマルスさんの声を感じます。
「サリュー、絵はうまくいってるかい」
そうなると、サリューの淋しさややりきれなさは、私の内なるものでもあることがわかってきます。
どこに居ようと、誰かと暮らしていようがいまいが、コドクはいつもひっそり「内側」に潜んでいますので。
しかし、コドクが悪者であるわけでもありません。純粋な喜びがあるように、純粋な孤独も
あり、そのどちらも欠くことができない大切なものです、きっと。何にとって欠くことが
できないかといえば、サリューにとっては、もちろん絵を描くこと。
では、わたしにとっては‥?
答えは返らぬまま、また最初から本をめくります。
日めくりカレンダーをめくってもめくっても
同じような一日しかやってきません。
でも本当は今日は昨日ではないし、
明日は今日とはちがう一日なのです。