my favorite things

絵本の話を中心に、好きなもの、想うことなど。

2009年・ありがとう

2009-12-30 19:23:15 | 想うこと
夕方、東の空にとてもきれいな月が出ました。
今度の満月は、1月1日。
なんだか縁起がよさそうな気がしています・笑

あと1日で、2009年が終わっていく実感はまるでないのですが、
今年の初めは、娘はまだ小学生で、私は、卒準委員の長で、と
考えていくと、それなりに時間は経っていたのだとちょっとしみじみしてきます。
春からの生活は、去年の今頃には思ってもみなかったし、今年も、新たな
出会いがあり、とても楽しい時間をたくさん過ごすことができました。

同じような毎日を過ごしているだけと思っていても、そんなことはないのだと
いうことに、少し経ってから気づかされます。



     

この写真は、20日の日曜日に初めて参加したワークショップ
私が作ったリースです。

出来上がって、ほかの参加者の方のを、見せていただいてから、
そうか、リースだから、ちゃんと丸くしたほうがよかったんだ、
ということに気がついたのでした。
(作っているときは、夢中になってしまって本来の目的を忘れてました‥)

でも、言い訳じゃあなくって、私はこのリース(もどき)が気に入っていて、
すごく自分らしいらしいと思いながら、この10日間眺めてきました。

どの辺りが私らしいのかというと‥まるくなりきらず(なりきれず?)に
左上と、右下に飛び出している枝のあたりなんですが‥
どんどんまだまだ伸びていきたいという、気持ちの表れということにしておきます。




(こんな私ですが)今年も1年間、どうもありがとうございました。

どうぞよいお年をお迎えください。
元日の夜には、一緒に満月を仰ぎましょう。

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あな・マドレーヌのクリスマス

2009-12-28 17:01:02 | ひらきよみ(読み聞かせ)
中学校の2学期の終業式は、先週の木曜日でしたが、やっと今日
ほんとの終業式を迎えたような、安堵を感じています。
そう、やっと2学期の部活が終了したのです!
(明日から、寝過したらどうしよう、と思わなくてもいいだけ、気持ちが楽です)

ところで、すっかり安心して、今年が終わってしまわないうちに、12月に
一度だけ行った、小学校の読み聞かせの記録を書いておきます。


12月11日(金) 6年生のクラス

ペアさんが、急遽都合が悪くなったので、ひとりで2冊読みました。

最初の本は、『のうさぎのおはなしえほん あな

  片山令子 文   片山健 絵


大好きな話ですが、小学校で読むのは初めてでした。

6年生の教室で読む本を選ぶときには、すこしひねりがきいたものを、と
いつも思うのです。

「からっぽのきもち」というのを、6年生はわかったかなーとか、
のうさぎさんが、空想しているシーンが、挿絵になって描かれているので、
そのあたりは、低学年では混乱してしまうかもしれないけど、6年生だったら
大丈夫だったよね、とか、思いながら読みました。

(私の過去ログはこちらにあります


もう1冊は、クリスマスの前だったので、この本にしました。
同じく、小学校では初めて読みました。
マドレーヌのクリスマス

もっとクリスマスっぽいのがいいかなー(サンタクロースとか出てくる‥)
とも思ったのですが、そのあたり微妙な年齢にさしかかっているかも、と思いなおし、
「まじゅつし」だったらいいのでは、と、選びました。

(この本も、過去ログがあります



2学期は、インフルエンザの影響で、どの学年も1度づつくらいしか
読み聞かせに入ることができませんでしたので、その少ない機会を
有効に、という気持ちがありました。
幸い、6年生も、とても熱心に聴いてくれていたのがわかったし、担任の、
学年主任の先生も、一番後ろの真ん中に座って聴いてくださったあと、
だれかに本を読んでもらうことは、大人になってもすごく楽しい、ということを
おしまいに言ってくださいました。

その楽しさを、私自身は、十分承知していますが、それでもやはり先生に
そう言ってもらえると、すごく嬉しいし、すこし誇らしい気持ちにもなりました。




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メリークリスマス♪

2009-12-25 12:08:26 | 思い出の絵本
13歳で、中学1年生の子のところに、サンタさんはもう来てくれないのかな。
サンタさんにやっぱり来てほしい。

ゆうべ、寝る1時間くらい前になってから、突然、rが言いだしました。

昨年のクリスマス終了後、ヒミツの一端を知ってしまったことが
悔しくてたまらないというか、残念でしかたがなく‥
「何年か前に、たしかにベルの音が聞こえたのに」と言い、まるで、
私が悪いような(?)感じさえ漂ったりしていました。なんか恨みがましい
目で見るんです。

でもね、今朝。
めでたく今年も、rの元にサンタさんは来てくれていました。
去年までと違っていたのは、本がきちんと包まれていたこと。
rもよく知っていて、一目でそこだとわかる、梅丘の本屋さんのリボンが
ついていました。
(そろそろサンタさんが、どこを経由して来るかくらいは、知っておかなければ
ならない年齢ですから・笑)
そして、絵本は、(なんと偶然にも)私がずっと欲しかったこの本でしたよ。

クリスマス人形のねがい

rが保育園に通っているころに、図書館で借りてきたことがあるのですが、
お話はかなり長くて、とても読み聞かせできないと早々にあきらめ、
自分ひとりで堪能して返却してしまったところ、自分だって読みたかった、
ママが読んだお話を、自分が知らないのはおかしい、と後から泣かれた
思い出つきなのです。
もっと大きくなったら一緒に読もうねと、言ったきりそのままになっていたことが
私自身は気になっていました。(当の本人はもちろんまるで覚えていませんが)
やっとこれで、「もやっ」がひとつ解決しました。


話は今朝に戻りますが‥
サブバッグをごそごそやっていたrは、そこでもまたプレゼントを見つけました。
クリスマスのてんし

この絵本が入っていたのですって。それと一緒に、数日前に探していた
おもちゃの小さな食器を入れたポーチ(ガチャガチャで出した、ドレミちゃんの
陶器?の食器なんです)もあったのです。

ねえ、どこにあったの??とシツコク訊かれましたが、私がどこを探しても
本当に見つけられなかったのです。(っていうか、なんで今頃それを探して、
それで遊ぶわけ?!って感じなのですが‥なんでも勝手に捨てちゃうんだから
と、いつになくなじられました‥)


    *       *      *


来年の今頃は、どんなふうに、彼女が変わってきているかわかりませんが、
まだまだ欲しいクリスマスの絵本があるので、たとえ、ふーんとされても
全然めげずに続けるつもりです。


ちなみに、早々、堂々と、自分のために買った今年の本はこれでした。
クリスマスのまえのばん
ツヴェルガーの絵のが、欲しかったのです。







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あこがれの雪子ちゃん

2009-12-21 15:03:48 | 好きな本
各地でたくさん雪が降り始めていますね。

生まれも育ちも川口市なので、雪が降る日は、いつだって「特別」で、
それは大人になってからも変わりません。
雪が、日常的にたくさん降るところのご苦労を思うと、簡単に「雪っていいなあ」と
言えないことは百も承知ですが、それでもこんな本を読んだ後は、雪いっぱいの
毎日が羨ましくなって困ります。

雪だるまの雪子ちゃん
    江國香織 作  山本容子 銅版画


この本が発売されたときに、表紙の画像と、挿絵が山本容子さんの
銅版画だということを知り、もっと薄い本だと勝手に思っていました。
(『ぼくの小鳥ちゃん』みたいな体裁かなと‥)
図書館の予約がまわってきて、受け取りにいったら、しっかりとした
厚みを持った本だったことに、ちょっとびっくりしました。


さて、肝心の雪子ちゃんですが、こんな具合です。

  雪子ちゃんは雪だるまですから、雪でできています。
  でもみなさんがよくご存知の、ふつうの雪だるまとはちがいます。
  というのも、雪子ちゃんは正真正銘、野生の雪だるまだからです。
  そして、そのことをたいへん誇りに思っています。

野生の雪だるま?
そう、「野生」です。居るところには、居るのですねー

山のふもとの、小さなしずかな村のはずれに、郵便も新聞の配達も
とまり、停電してしまった豪雪の日、雪子ちゃんは、風にのって空からまいおちてきて、
百合子さんの家のカシの木の枝にひっかかりました。

ひとりで家を見つけ、人に会ったらきちんと挨拶をし、学校にだって、時折
気が向いたら行く雪子ちゃん。
好きな食べ物は、バターと生のさかなの雪子ちゃん。
トランプ遊びだって、なわとびだってできる雪子ちゃん。
夏っていうものがどういうものか、一生知ることがない雪子ちゃん。

本が終わるころには、すっかり雪子ちゃんに魅了された私がいました。
ひとりで生活している、雪子ちゃんの懸命さが、かわいらしく、
雪子ちゃんの隣に住んでいる百合子さんや、その友達のたるさんとの関係の
描き方が清々しくて。
そして、村にひとつだけの小学校へ通う、りゅうや、友花(ともか)ちゃんが、
雪子ちゃんのことを思う気持ちに、じんわりと涙が出ました。
そう。雪子ちゃんと、雪子ちゃんを取り巻く世界が、とっても好きになったのです。


そこに居る時は、そこがどれだけしあわせな場所であり、しあわせな時で
あったのかちっとも気がつかなくて、でも、後から振り返ったときにとてもいとおしくなる‥
それが「普通の毎日」の、普通だからこその、かけがえのないしあわせです。

「今」を過ぎた、すこし先の私は、どんな「今」をかけがえのない普通の毎日だったと
思うのだろうなあと考えてみました。
そうしたら、きーんと冷えた空気の中、登校する娘を外で見送った今朝の私が、
白く残った息のかたまりと一緒に、思い浮かんできました。
道路に出て左へ曲がるrに、私はいつもバイバイと手を振るのだけれど、
rははにかんだ笑顔をむけて、ちょっと手をあげるだけ。

繰り返しの毎日も、そこだけを切り取って、額に入れて外から眺めると、
なんだか鼻の奥がつーんとしてきます。






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もりのにわからのおくりもの

2009-12-19 18:57:14 | 日々のこと
まだ届いていなくて、とってもわくわくしながら待っている方も
いると思うので、さらっとだけですが‥
↑の写真は、もりのにわさんの「12月のパンセット」です。

12月ならではの贈り物も添えられていて、すごく嬉しい♪


今まで何度かもりのにわさんのパンを頼み、いろんな種類を食べることが
できましたが、シュトーレンは、今回が初めてなんです。

3種類のレーズンの他、干しいちじく、くるみ、アーモンド、夏みかんのピールが入り
それに、シナモン、ナツメグ、クローブといったスパイスが入っていて、
食べる前に少しトースターで温めると、とってもよい匂いが広がります。

さて、うちの中1の娘は、吹奏楽部なんですが。
13日(日)の休みのあとは、28日の部活納めの日までもうお休みはなしの、ノンストップです。
しかも給食は、先週金曜で終了したので、あさってからは朝練+お弁当の1週間。
毎朝、空が明るくなってくるのを見ることができる楽しみはありますが、
昨年は、ほんのすこしも、想像しなかった毎日がやってきています。


そんな12月後半は、シュトーレンで乗り切ろうと思っています。
rが帰宅したら、薄く切って、温めて食べるのです。
(あと1週間持たせるためには、慎重に切らなくてはなりません)


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陶板かざり

2009-12-14 16:26:57 | 日々のこと
今年の「工房からの風」の最後のひと吹きが、
どこにも辿りつけずに、小さく舞っていましたが、やっと
落ち着く場所を見つけました。



「陶板の飾りを作る」のワークショップ。

家族3人で二日にわたって参加して(初日に私、二日目に夫と娘)、
11月の3人展@らふと のときに、できあがった陶板を手渡していただき、
やっと壁に飾ることができました。金子先生のアドバイス通り、
後に端材をつけてから壁に取り付けたので、ちょっといい感じです。


夫は、クラウン・カルーセルTシャツのラフスケッチ。

私は、ワークショップの日が偶然にも22回目の結婚記念日でしたので、
日付入りで。

rが、椅子の横に描いたトリ(家ではばさみ鳥=通称バサミンと呼ばれています)を
金子先生は気に入ってくださって、rもとっても嬉しそうでした。

そうそう、金子佐知恵さんのブログでは、参加者すべての方の
陶板ギャラリーができていました。→





陶板の前後はこんな感じになっています。


一番上は、友だちからもらった誕生日プレゼント。タイの古い布が
入っている額。

下の絵は、rが保育園に行っているときに描いた絵。
セーラームーンとか、おじゃ魔女ドレミのハナちゃん(だったかな?)とか‥
そういえば、左の方の青いスカートをはいているのは、私、だったような‥?
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【アメリカの61の風景】 おまけ

2009-12-11 11:24:35 | 好きなもの・Tシャツ
序からはじまって、1~3まで書いたのに、まだしつこく「おまけ」まで書いています。

偶然が偶然を呼んでいるのか、それともそれは偶然のふりを装っている
必然だったのか‥ということが時々ありますが。

アメリカの61の風景』の39に「メリー・メリー・ゴー・ラウンド」という題を見つけました。

   メリー・ゴー・ラウンド(回転木馬)が、好きだ。メリー・ゴー・ラウンドの
   ある風景が、と言ったほうがいいかもしれない。


そうなんだ、長田さんもメリー・ゴー・ラウンド好きなんだ、と嬉々として
読み進めました。
だって、BOOTS&STICKS の新作Tシャツの柄は、クラウン・カルーセルという
名前で、カルーセル=メリー・ゴー・ラウンドのことだからです。

不思議なめぐりあわせだな、と思いました。



ただ、長田さんは、こうも書いているのですが。

   アメリカを旅して、人びとの賑わいのなかに、木馬の列に子どもたちが
   跨って回ってゆくメリー・ゴー・ラウンドを見いだすたびに、たとえ
   その街が初めての街であっても覚える感情は、心のぬくもりを伝える
   ような音楽のなかを回ってゆくのが木馬、すなわち木でできた
   馬であるためなのだ。それは、馬、でなければならないのである。   



あーそうですか‥

クラウン・カルーセルTシャツに描かれている移動遊園地のメリー・ゴー・ラウンドは
「馬」でななくって「ライオン」なんです。

でも、アメリカ国内だけでなく、ワールド・ツアーを行う「移動遊園地」なので、
だったらいいかな、と長田さんもおっしゃってくれるのでは、と思っています。




どんなふうに、このTシャツができてきたのかは、こちらに書いています。

CROWN CAROUSEL・1
CROWN CAROUSEL・2
CROWN CAROUSEL・3
CROWN CAROUSEL・4
CROWN CAROUSEL・5




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【アメリカの61の風景】にさそわれて・3

2009-12-10 15:17:04 | 好きな絵本
オクラホマ州の西端にパンハンドルというところがあります。
(オクラホマ州は、地図で見ると、テキサス州の上に、ちょうど大きな
鍋がのっかっているように見え、その鍋の持ち手のようだから、
パン・ハンドルという名前なんですねーおもしろい)

そこは、ノー・マンズ・ランド(誰のものでもない土地)と
ずっとよばれてきたところで、長田さんが、いつかどうしても訪ねたかった
場所の一つ、だったそうです。


  何もない。何もなかった。どこまでも広い空があり、
  その空の下に、どこまでも広がってゆく大草原があり、
  どこまでもつづく草の上を、風が遠くまで渡っていった。



風が遠くまで渡っていった、で思いだした絵本は、『ジルベルトとかぜ』でした。
 『ジルベルトとかぜ
 マリー・ホール・エッツ作  たなべいすず訳


表紙で、帽子をおさえているのがジルベルト。
見開きも、中のページも、カーキ色の紙で、そこに〈風〉が
白い線で描かれています。


家の中に居たジルベルトは、かぜが とぐちで よんでいる のを聞き、
風船を持って遊びに飛び出します。

どのページでも、〈風〉はジルベルトをからかってばかり。
風船を木のてっぺんに持っていったり、せんたくばさみをふっとばして
干してある服を着ようとしたり‥。

中ほどで、ジルベルトと〈風〉がかけっこをする場面があって。
そこを読むと、長田さんの、何もない。何もなかった、から始まる文章を
思いだします。

   のはらのくさが のびていると、かぜと ぼくとは かけっこだ。
   かぜは さっさと ひとはしり。もどって、ぼくを おいかける。
   でも いっつも かぜが かつんだ。

   なぜって、かぜは くさのうえを はしっていけるのに、ぼくは
   じめんをふんで くさをかきわけて いくんだもの。





アメリカの61の風景


この書名は、ヘンリー・ジェイムスの紀行『アメリカの風景(The American Scene)と、
ボブ・ディランのアルバム『ハイウェイ61再び(Highway 61 Revisited)』に
由っていると、あとがきに書いてありました。

  ヘンリー・ジェイムスは旅について、「じぶん自身の感覚の掟にしたがうことだ」と言った。
  「どんな感じだい。じぶん自身だけということは」と、
ボブ・ディランはうたった。



ボブ・ディランは、また、こうも歌っています。

   ♪ The answer, my friend, is blowin' in the wind,
      The answer is blowin' in the wind.  

                 Blowin' In The Wind より





風が知ってるだけさ。



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【アメリカの61の風景】にさそわれて・2

2009-12-09 11:14:50 | 好きな絵本
アメリカの61の風景』は、東から西へとつながっていきますが、前半で語られた
東海岸の街や、ニューヨークに関する章は、やはり心が躍ります。

「ストリート、リヴィングネス」というタイトルがついている章でも、ニューヨークのことが
こんな風に書かれていました。

  ニューヨークはとりわけ、そんなふうに平凡な言葉がふいに
  粒だってくる、そういう印象を残す街だと思う。街である以上に
  街が辞書であるような街。この言葉のこういう意味を、このとき
  この街で、こういうふうに感じとったという記憶が際立ってのこる街。




この同じ章に、とても惹かれた箇所がありました。
「ストリート」というごく平凡な言葉が、どれほどの深さを持つ言葉かについて、
黒人の女性作家、ヴァージニア・ハミルトンが書いていたことが、
ニューヨークの古書店に居たときに、長田さんの心に浮かんできた、というくだりです。

  通り。界隈。道。地域。街。ストリートというアメリカの言葉は、
  何ともいえないような独特のニュアンスをもつけれども、とりわけ
  北米の黒人たちにとっては、ストリートは特別の意味のある
  言葉だった。ハミルトンによれば、長い奴隷時代に、街も通りも
  ない農園の奴隷小屋にすまねばならなかった黒人たちは、
  その奴隷小屋の並びをストリートとよんでいた。ストリートでは
  日が暮れると、どんどん火を焚いて、でっかい鍋で料理をつくり、
  みんながその鍋から食事をし、静かに話をした。ストリートというのは
  共同生活のことで、北米の黒人たちは、みんなストリート育ちだったのだ、と。



この文を読んだあとで、私の心に浮かんだのは、長田弘さんが訳した
この絵本でした。


 なぜ戦争はよくないか
 アリス・ウォーカー文 ステファーノ・ヴィタール絵 長田弘 訳


たまたま同じ時に図書館から借りてきたせいと、作者のアリス・ウォーカーが
アメリカに住む、黒人の女性作家だから、(私の中では)繋がったのでしょう。


『なぜ戦争はよくないか』  原題は、Why War Is Never a Good Idea

2001年9月11日のテロ攻撃に対して、アメリカがおこなった報復の現実を知り、
衝撃を受けたウォーカーが書いた本に、「タイム」や「ニューヨーカー」のイラストや
本の装丁などで、幅広い活躍しているヴィタールが、力強い絵をつけた、と説明されていました。


話は、こんなふうに始まります。

  戦争はなんでもできる
  どんな国の言葉も話すことができる
  でもカエルたちに
  何をどう話せばいいか
  戦争はなんにもわかっていないのよ


〈戦争〉を擬人化して、やさしい言葉で語られる分、ページを繰っていくたびに
ヒタヒタと何かが近づき、じわじわとその何かが気持ちに中に満ちてきます。

絵は、アジアのどこかの、長閑な農村の風景、大写しになる田んぼのカエル。
そして、カエルを押しつぶそうと、古い大きなタイヤが、開かれたページの
右上から、圧倒的な強さでやってきます。

タイヤは描かれた絵ではなく、本物の写真‥錆びついた釘や、嫌な匂いを放ちながら
固まってしまったにちがいないオイルや、何かざらざらしたものの写真が、
鮮やかな絵にコラージュされて、どのページでも、〈戦争〉の不気味さを表しています。

アジアの農村風景からヨーロッパの田園風景、そしてそこはアフリカに違いないと
思わせる衣装を身に付けた女のひと‥そう世界中のどこにでも
〈戦争〉はやってくるのです。


アリス・ウォーカーは、警告しています。
〈戦争〉がすべてを食べつくしてしまったあとに、この大地に何が残り、
いったん〈戦争〉を受け入れてしまったら、その残ったものをより好みすることなど
私たちにはできやしないのだということを。


もしかして。

〈戦争〉は、〈差別〉や、その他、心の弱いところにするすると入りこんでくる
何かに、置き換えることができるのではないかなと、思いました。

人の気持ちや心は、とてもナイーブだけれど、一度何かに取りつかれてしまうと
その殻をはずすことは難しく、柔軟だったはずの、一番深いところにしまって
あった愛や勇気も、固まったまま、取り出すことが難しくなってしまうのです。
それが自分自身のものであったとしても。

ヒタヒタとじわじわと、近づいてくる〈何か〉には、心の目を大きく見開いて
いなければなりません。





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【アメリカの61の風景】にさそわれて・1

2009-12-08 11:12:12 | 好きな絵本
長田弘さんの旅した『アメリカの61の風景』。
その最初は、ミシシッピ川の源流からはじまります。

そして、こんな文章。

  人生はこんがらかったものではなく、もっとずっと
  単純であっていいと思う。決まった時間の外に、
  じぶんをもってでる。
  決まった時間の外にもう一つの時間があり、その
  もうひとつの時間のなかに、忘れられた人生の
  単純さがある。旅に目的はない。ただどこかへゆく。
  どこかー時間が無でみたされていて、神々がほほえんで
  いると感じられるような、どこか。


読み返していると、またトリハダがたってくるようです。

特に、決まった時間の外に、じぶんをもってでる、というところ‥

ここを何度も噛みしめてしていたら、この絵本のことを思い出したんです。

 ラストリゾート
 パトリック・ルイス文 ロベルト・インノチェンティ絵 青山南 訳



ラスト・リゾートは、入口に「迷いびとのかた!宿帳にお名前を!」
叫ぶ鳥がいる、こころにぽっかりあながあいてしまったひとたちの
ホテルです。

主人公の男は、想像力をなくしてしまった絵描き。
彼は失った「こころの目」を求めて、愛車のルノーに乗り、出かけます。
ドコダカダレニモワカラナイトコロへ

そのホテルに泊まっている人たちは変わった人ばかりですが、とても
有名な物語に出てくる、あの男や、あの女性では、と思いながら読むと、
2倍、いや3倍くらい楽しむことができる、おとなの絵本です。



想像力を失った絵描きも、このホテルに滞在し、「決まった時間の外へ持ってでた」
自分と、「無でみたされた」時間を過ごすことで、新しい自分を見出したのではないでしょうか。



アメリカの61の風景』の、別のページには、こんな言葉もありました。

   旅は到着することとはちがう。
   旅は、旅をしているという感覚のよろこびなのだ。



そうなのですねー旅は、感覚のよろこび=感覚をよろこばせることなのですね。
もうずいぶん長い間、旅をしていない気がします。
そもそも、私は、旅をしたことがあったのでしょうか。



ここではないどこかへ。
Anywhere,but not here.

本を、読んでいる間は、いつでも〈旅〉している、と言えるのですが‥



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12月のこびと

2009-12-07 15:15:42 | 日々のこと
やっと、昨日の日曜日、クリスマスの飾りつけをしました。

今年から、仲間に入ったのは、クルミトリさん作、月の形の
サンキャッチャー付ガーラント。
クルミトリちゃんも、ちゃんといます。



こんな、うっとりの箱入りでしたよ。






そして、もうひとつというか、もうひとり、やってきてくれたのは、このこびとさん。
 水色屋根のおうちの
隣は、まつぼっくりで作ったツリーです。

こちらのブログを読んでくださった方は、もうおわかりの通り、
12月5日(土)に、ことり文庫さんで行われた「こびとのお人形」つくりのワークで、
たくさんの仲間とともに、こびとの国からやってきました。

うちの雪ちゃんは、ゆきだるまの国からやってきた、雪の妖精こびとなんですが、
ほかにも、農場に住んでいたおじいさんこびととか、ジャック・スパローみたいな
こびととか、愉快な仲間がたくさんいました。
こびとオールスターズ記念撮影会の様子がクルミトリ先生のサイトにあります)



ガーラントと雪ちゃんは、今こんな感じ。(ここちっともクリスマスっぽくないですねー)
月のすぐ横(マグカップの上)に光っている
黄色の丸が見えますでしょうか?

今朝、最初にサンキャッチャーが捉えた〈ひかり〉です。


サンキャッチャーとは、太陽の光をお部屋に、たくさんの小さな虹のように
運びこむお部屋の光のアクセサリーのこと、だそうです。


ことり文庫さんの、奥のお部屋の上に飾ってある、フェルトモビールにも
サンキャッチャーがついていて、それがとても美しく、とても羨ましかったので
うちにも、やってきてくれて、とても嬉しいです。

 

     *        *       *



雪ちゃんは、最初の晩は本棚の上でしたが、翌日にはクマのチェリーちゃんの
ベッドの中へ移動し、その後、サンキャッチャーがよく見える場所へ移っていました。
今日の夜はどこで寝て、明日の朝はどこで雪ちゃんを発見できるか、も
とても楽しみです♪







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【アメリカの61の風景】にさそわれて・序

2009-12-03 19:45:41 | 好きな本
先月10日ぐらいからずっと、長田弘さんの『アメリカの61の風景』という本を読んでいます。

    


ひとりで車を運転して、心に留めてあったアメリカの街や町、時にはお店を、
長田さんが訪ね、そのときの想いをまとめた、とても興味深いエッセイ集です。

旅は、東海岸から始まり、西へ西へ。


3ページで終わってしまう場所もあれば、6ページにわたるエピソードもあったり、
猫の居る本屋の話があったかと思えば、WARという、名前が気になって
小さなその町へ車を走らせた、という話があったり。

目次をみて最初に、「クーニーの三冊の絵本」というタイトルも見つけ、いの一番に読みました。

(書きたいことからはずれてしまいますが、)「クー二-の三冊の絵本」として
あげていたのは『エマおばあちゃん』 『おもいでのクリスマスツリー
満月をまって』の3冊です。

結びの文章はとてもステキでした。

  むかし、ニューヨーク州ハドソン川上流の山間に
  トネリコや
オークの木で編み籠をつくって暮らす
  人びとがいた。
いまでは世界でもっともうつくしい籠
  といわれる
その籠のように、クーニーがわたしたちに
  のこしたのも、
誰もが日々の思いをしまえるような、
  しっかりと編まれた
心の籠としての絵本だったと思うのだ。

    




残り3分の2くらいのところまで読んで、ふと気がついたのですが。

長田さんが訪れたアメリカの各地を「旅しながら」、私の気持ちは、ちょっと
別の場所へも行っているなあということ。
それは、本の内容に集中できないのではなく、本文とはどこも繋がりがないのに
私自身が(私だけが)ひっかかっているというか、長田さんの文章にインスパイアされて
別の絵本が思い出されてきたのです。

1冊は2カ月くらい前に買ったもの、1冊は、つい最近図書館で借りたもの。
もう1冊は、夏の終わりに、わらべうたを唄いながら、ぐるぐるまわって
私の元へ届いた絵本です。

気持ちが運ばれていった先のそれらの絵本、どんな文章から繋がっていったのか
たしかめてみたいと思います。



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