今頃になって編み棒を取り出し、久しぶりに編物をしてました。作っていたのは「空色のマフラー」。
昨年の秋、 『工房からの風』に出かけた際に買った、藍染の綿の糸で、編みました。
きれいな色に惹かれて買ったものの、何にしていいやらずいぶん考え、そしてずいぶん考えたわりには一番最初に頭に浮かんだ、「ただのマフラー」になりました(笑)。
細い糸は、編目が正直に現われてくるので苦手にしていましたが、ぐるぐる巻いてしまえばわからないので、気にせずに、ざくざく編んでいきました。編んでいる最中も、出来上がりを巻いてみた時も、そのさっくりとした肌触りが、とても心地よかったです。
買った時は、こんふうになっていました。
「玉」に巻いていくのが、大変でした。
出来上がりは、こちらです。モデルになってくれたのは、ビルド・ア・ベアのチェリーちゃんです。
小学校生活もちょうど折り返し時点の今頃になって、新しい体育館履き入れが欲しい!と娘が言うのです。今持っているものだと、出し入れがしにくいというのがその理由。あと3年しか使わないのに、新しいのを買うのか、でも、足のサイズが大きくなってきて、入れ物が小さくなってきているのを事実だし。
一応下見を始め、まさかここにはないよね、と思いながらも見てみたら・・・なんと100円+5円で、こんなのが買えるんですね!!! 驚きました。
おそるべし、100円ショップの力。 っていうか、おそるべし、made in CHINA の力でしょうか。
左側が「その商品」。ワッペンは家にあったものをつけました。写真ではわかりませんが、横にはちゃんとファスナーがついています。右側の、くたびれた感じのは、入学時に私が作った「上履き入れ」。こっちは卒業するまで、使ってもらうつもりです。
『空飛び猫』 を読みました。この本はシリーズになっていて、続編の『帰ってきた
空飛び猫』、 『素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち』、 『空を駆けるジェーン』 とあり、
もちろん4冊とも全部読みました。
シリーズものは、時として、1作だけでやめておいたほうがよかったかも、とか、
最初はおもしろかったけど、2作目以降はただの「続編」だった、と思うようなものもありますが、
この『空飛び猫』に関して言うと、読み進めるうちに、加速度的におもしろくなるシリーズだと、
私は思いました。まるでジェット機に乗って、陸地からどんどん離れていくような、そんな感じです。
訳者の村上春樹氏は、ある時親切な読者の方が、「村上さん、こういうのお好きじゃ
ないですか?」と教えてくれたことで、この本の存在を知ったそうです。そして、表紙の絵を
見ただけで、即、翻訳することを決めたとも・・。猫好きでなくたって、アーシェラ・K ル=グウィン
さんの作品で、おまけに翼を持っている猫の話だったら、読んでみたくなる(訳してみたくなる)
にちがいないですよね。
セルマ、ロジャー、ハリエット、ジェームズの4匹は、大都会の横丁のゴミ捨て場
(移動できるコンテナ型の大きなごみ箱のこと)で、生まれ育ちました。4匹のお母さんは、
普通の猫で、背中に翼はついていません。なぜ、4匹の子猫たちにだけ翼がついている
のでしょうか?お母さん猫は、もちろん不思議には思っていましたが、それよりも、毎日の
ことで精一杯(4匹のお腹をいっぱいにしてあげることや4匹を危険から守ること)でした。
でも、ある日、翼を持った猫たちが暮らすには、住み慣れた大都会は危険すぎると
判断し、お母さん猫は4匹と別れることに決め、4匹もお母さんの考えに賛成します。
子猫時代から、旅立ち、旅での苦労を経て、やっと安心できる場所へ辿りつくまでが、
『空飛び猫』のお話です。
『帰ってきた空飛び猫』では、お母さんのことが心配になり、故郷である大都会へ
「帰省」する話が綴られています。4匹ともお母さんに会いたい気持ちにかわりはありませんが、
旅は危険過ぎるという慎重派と、「ちょっと飛んでいけばいいじゃない」という楽天派に
分かれるところが、おもしろいなあと思います。
楽天派の旅も、決して「楽」なものではありませんでしたが、お母さんとも再会することが
できた上に、自分たちに、もう一人妹がいることがわかります。
3作目、4作目は、この妹猫=ジェーン(彼女はお母さんと同じ名です)が、お話の中心となり、
翼を持った風変わりな猫たちのファンタジーという側面に、ジェーンが一人前の猫となっていく
成長ぶりが加わり、作品に厚みが増してくるように思います。
幼い頃の体験によって、一時言葉を失っていたジェーンが、アレキサンダーのおかげで
(3作目に初登場する、普通の猫)言葉を取り戻し、さらには、兄弟姉妹と過ごす田舎での
生活に飽き、自分の意思で別の世界を求めて「飛び出して」行くところまでくると、このお話は、
私やあなたや、あなたのお友達の誰かの話なのではないかと思えてきます。ジェーンは
姿かたちは、翼を持った「特別な」猫ですが、大人になるすこし前の、「普通の」女の子でも
あるのです。
もしも、『空飛び猫』に興味を持たれて、読んでみようとお思いなら、4作目まで全部読むことを
強くお勧めします。そして、いつの日か5作目が上梓され、ジェーンのさらなる活躍が
見られるように、一緒に願いましょう。
『空を駆けるジェーン』
原題は『JANE ON HER OWN』
最後に、訳者村上春樹氏の言葉を『帰ってきた空飛び猫』のあとがきから引用します。
この本はもちろんファンタジーです。そしてファンタジーというものはとても
個人的なものなのです。それはあなた一人に向かって開いたり閉じたりする窓なのです。
このところ、詩の持つ力の大きさを感じています。今まで(大人になってからだって、十分過ぎる時間がたっているというのに)私はいったい何を見てきたのでしょう、とあきれるほど・・・。
前述の詩集 幼い子の詩集パタポン〈2〉 のまえがきを読んでいたら、こんなに私を魅了する詩の力=詩の秘密が、わかったような気がしました。ひとりで知っているのは、なんだかもったいないと思ったので、引用します。
すぐれた詩には、この世界の秘密に気づいた詩人(あるいは訳者)の深い洞察と知恵があります。私たち読者は、詩文の言葉に導かれて、自分の人生が生きるに値する価値のあるものだと知ります。そうした詩を遺してくれた詩人たちに私は心から感謝しつつ、このパタポン〈2〉を編みました。
パタポンの編者、田中和雄さんの言葉です。
やっぱり【詩人】の人たちは、「この世界の」成り立ちの「秘密に」「気づいた人たち」だったのです。
深い洞察から紡ぎ出された言葉の数々を、声に出して、あるいは胸の中でひっそりと、唱えることで、心の深いところに降りていくことができるのは、そんなわけだったのか、と思いました。
そして、【詩人】の言葉は、どこも経由しないで、直接、いきなり、心の中の一番柔らかい部分を刺激してきます。だからすぐに涙が出てしまうのです、きっと。
ひとつの詩を、何度も何度も読み返す行為も、それによって、「自分の人生が」「生きるに値する価値」をもっていることを、確認するためなのかもしれません。
生きるに値する人生・・自分の人生を、いつでもそう思える自信が欲しいし、自分の娘にもそういう自信を与えたいなあと思います。
好きな詩にめぐり合ったら教えてください。「いきなりやられた」詩があったら、また紹介します。
今日はあいにくの空模様ですが、娘の通う小学校や、隣のS市の小学校でも卒業式が行われています。
私の妹の長女も、今日が卒業式。今頃、歌をうたったりしながら、涙ぐんでいるのでしょうか。式に参列している妹は、まちがいなくもう泣いていると思います・・・。
先日、今年度最後の読み聞かせで6年生のクラスに行った時、ちょっとした行き違いがあって、パートナーのAさんが、読み聞かせ開始の時間に間に合いそうもありませんでした。そういう時に限って、私は『ラチとらいおん』1冊きりしか持ってなくって、余ってしまう時間をどうしよう?と慌て始め・・そして、別のクラスに入る方から、急遽、詩の本を借りて読むことにしたのでした。
『ラチとらいおん』を読んだ後に、 幼い子の詩集パタポン〈2〉 の中から、まど・みちおさんの「朝がくると」を読み、谷川俊太郎さんの「ぼく」を読み、そして最後に、同じく谷川さんの「おおきくなる」を読みました。6年生は、どんなことを思って、聞いていてくれたかわかりませんが、そのクラスの担任の先生が、「最後に読んでもらった詩は、今の君たちにぴったりの詩でした。もう一度ありがとうと感謝の気持ちを伝えよう」とおっしゃってくださいました。
ゆうべ、妹の長女(=姪のAちゃん)宛てに書いた手紙にも、その詩をそのまま書きました。
おおきくなる 谷川俊太郎
おおきくなってゆくのは
いいことですか
おおきくなってゆくのは
うれしいことですか
いつかはなはちり
きはかれる
そらだけがいつまでも
ひろがっている
おおきくなるのは
こころがちぢんでゆくことですか
おおきくなるのは
みちがせまくなることですか
いつかまたはなはさき
たまごはかえる
あさだけがいつまでも
まちどおしい
この詩を、姪のAちゃんに贈るなら、次の詩は、私の妹のHちゃんに贈りたいなあと思います。
あかちゃん まど・みちお
あかちゃんが おなら した
ことりが ないたみたいに
あのまま とっておきたかったね
おかあさん
おとうさんが おかえりまで
あかちゃんが いつか
およめさんに なる ひまで
あかちゃんが あくび した
おはなが さいたみたいに
あのまま とっておきたかったね
おかあさん
おとうさんが おかえりまで
あかちゃんが いつか
おばあさんに なる ひまで
ここまで書いている間に、雲がきれ薄日が射してきました。
「Aちゃん、Hちゃん。小学校卒業、ほんとうにほんとうにおめでとう。」
黄色が咲いたといっては喜び、紫につぼみがついたといっては写真は撮り、朝に夕に、
楽しんでいます。球根を植えることがこんなに楽しいことだったなんて、知りませんでした。
もっと間隔を狭くして植えたほうがよかったのかな、いやこんなもんでしょ。などなど
思うところはありますが、だんだん欲も出てきて、今度の秋には、アネモネも植えようかな、
ムスカリも結構いいかも、と思いをめぐらせたりもしています。
紫の斑入りがあんまりにもきれいなので、UPで撮りました。
でも近づくと、プランターの古さが目立ってしまいますね。
クロッカスの花の形は、ろうそくの炎のようにも、だいじなものをそっと包むときの、両手のようにも見えると思いながら眺めていたら、同じく大好きな木蓮の花を思い出しました。木蓮の花の形も「包み込むような」形をしていますから。
毎年、(桜が咲く前の)この時期の楽しみは、木蓮の凛と立った蕾が、ゆっくりとほどけてゆくように咲き揃うのを見ることです。花が開く前の姿も、もちろん開いた時も、茶色く朽ちていくところさえ、木蓮の花に惹かれます。
昔通った高校の、校門近くに植えられた木蓮を、卒業するまでの日々、毎朝眺めていた思い出も同時に甦り、なつかしい人たちのことを心の中で想う時期でもあります。
卒業してもまた会えるよね、と思いながら、そのままになってしまった人のなんと多いこと。若い頃は、あんまり感じなかったけれど、いつか会えるよねの「いつか」も、また会おうねの「また」も、半永久的に、あるいは永久に訪れないかもしれないという、重い事実に脅かされます。
川上弘美さんの『センセイの鞄』という小説の中で、主人公のツキコが、「この夜のどこかにセンセイがいる」と思う場面がありますが、それだって、センセイが生きていることを知った上での言葉だと思うのです。なつかしい誰か、別れたきりの誰か、その誰かが、もしかしたらこの夜どころか、この世界にもう存在していないかもしれない、ということを知ることができないのが、別れるということなんですね。
この先2度と会えないかもしれない人とは、最後に会ったあの時の、最後に交わしたあの言葉で、永遠の別れということになるなんて、「あの時」の自分と、相手は気づくはずもなく。でも、もう一度会う日はやってこないかもしれない、のです。
大人になったあの人にも、気まずい感じのままだったあの人にも、きっぱり別れた(?)あの人にも、できれば会ってみたいなあと思います。
同窓会とか、そんなんじゃなくっていいから、ドラえもんのポケットから出てくる道具みたいなやつで、なつかしい人たちの「今の顔」をちょこっと覗けたら、と思うのですが。
でも、顔を見たら、今度はほんとに会って、言葉を交わしてみたくなっちゃうかもしれません。木蓮見ながら、想いを巡らせているぐらいが、きっとちょうどいいのでしょうね。
「うれしくて、じっとしていられない」気持ちです。
『ぐりとぐらとくるりくら』
なかがわりえこ・文
やまわきゆりこ・絵
数ある、ぐりとぐらシリーズの中で、元祖『ぐりとぐら』をおさえて、私の中での堂々
第1位は、この『ぐりとぐらとくるりくら』なんです。
理由はいくつかありますが、「出会い」がとても印象に残っています。
まだ娘がベビーカーでしか外出できなかった頃、『こどものとも0.1.2』を愛読していました。
毎月の分に加え、図書館や書店でバックナンバーもまめに探したりもして。年月がたってみると、
何も正直に、「赤ちゃん絵本」ばかりでなく、3歳ぐらいからとなっている絵本だって、
読んであげてもよかったと思うのですが、何しろ当時は私も母親に成り立てで、0歳、1歳の
赤ちゃんだったら、それにふさわしい絵本でないと、と思っていましたし、『ぐりとぐら』ぐらいの
長さでも、普段0.1.2にばかり接していると、とても長いお話に思えました。
そんな頃に、書店で初めて『ぐりとぐらとくるりくら』を目にしました。『ぐりとぐら』に
続編があったなんて当時はまるで知らなかったので、とても驚き、そしてその題名にも
驚いたのを、とてもはっきりと覚えています。「くるりくらって、いったい、なんだろう?」
く る り く ら く・る・り・く・ら くーるーりーくーら
口に中で何度かころがしてみましたが、とても馴染めそうもなく、表紙を開くこともなしに、
その場を立ち去りました。
その後、いつ、どのようにして、この本を買ったのかは、ほとんど覚えがありません。
思い出そうとしてみても、初めての時の「くるりくらって何?」と思った気持ちが、鮮明に
よみがえってくるだけです。
絵本によっては、何度も何度も声に出しているうちに、じんわりとそのよさが染み込んでくるものと、
ある時突然に、「あ、いい!」と思うものがあるのですが。くるりくらは、間違いなく後者の方で・・。
ある晩、娘に読んであげているうちにとっても眠くなってしまい、「ぐりとぐらが~」と
読んでいるつもりでも、「ぐうとぐあがぁ~」となったり「ぐううぐああ~」となったり。そして、
娘に揺り起こされては、ハッとなり続きを読むという繰りかえしの中で、突然わかったのでした。
「くるりくら」っていう言葉は、元は「ぐりとぐら」から来ているに違いない、ということが。
(みなさんは、もしかしてもうお気づきでしたか?それとも、ちゃんとした由来をご存知とか・・・)
ぐりとぐら→ぐうとぐあ→ぐういぐあ→くういくあ→くるりくら
そうかそうか、くるりくらって、ぐりとぐらから来ているんだ、そう(勝手に)思ってから、
また読むと、なんか不思議。この絵本が今まで以上におもしろく思えます。
ぐりぐらシリーズの中でも、一番文章のリズムが自分に合ってるなと思って、
好きだったのですが、さらにさらに好きになりました。
きのしたを とおりかかったときです。
ふいに、だれかが ぐりと ぐらのぼうしを
ひっぱりました。
「あっ、なにするんだい、よせよ」と
おさえたときには、もう ありません。
「とりかな」
「かぜかな」
ぐりと ぐらが みあげると、
おや、きのうえに、ぼうしをふたつ あたまにのせた
うさぎがいて、
「あおいぼうし あかいぼうし くるりくら」と、
うでをくんで、すましています。
お話が始まって、3つ目の場面。くるりくらが登場してくるところです。
ここの「とりかな」「かぜかな」のぐりとぐらは、本当にかわいいです。このあと一緒に
朝ごはん食べて、一緒に木登りして、一緒に〇〇にも乗って(未読の方のために、
素敵な乗り物は伏字にしました)。最後はなわとびで、おうちに帰ります。
もちろん大事な籠も忘れません。
文章全体にリズムがあって、お話の運びもテンポがあって、全体に心地よい風が
吹き抜けていて。春本番前の、はやる気持ちをおさえきれない、今の時期にピッタリの
本だと思います。
昨日はとってもあったかかったのに、今日はまた「2歩戻った」寒さです。せっかく一つ咲いたクロッカスも(一番乗りは黄色でした)、今日は花を閉じていました。
写真の、2つのバッグは通称(?)「よみきかせばっぐ」。持ち手の長い方が、2年前に作った夏ヴァージョンで、短い持ち手の横長が、先月出来上がったばかりの冬ヴァージョンです。
夏用の方は、リバティプリントをパッチワークし、それをバッグに仕立てたので、かなり時間がかかりました。・・・というか、最初は、あまり目標もなく、パッチワークのモチーフだけをひたすら作っていて。そのうちに「そうだ、学校に読み聞かせに行く時の、絵本を入れるバッグにしよう」と思ったのでした。反省点はマチの部分が狭かったこと。3cmくらいしかとらなかったので、ファイルと絵本2冊、他手帳などの小物でぱんぱんになってしまいます。
冬用の方は、構想2年(笑)ですが、制作は1ヶ月くらいできました。反省点を生かし、マチはたっぷり。横長のデザインも気に入っています。しかし、いざファイルと絵本を入れてみてびっくり。A4サイズのファイルが横に収まりませんでしたぁ。(まあ縦には入るので、いいんですけど・・)
こちらは、昔、妹が作ってくれたスカートの余り布と、自分のセーター(ボーダーになっている部分)で作ってみました。裏布も、ワゴンセールで見つけた「汚れありのコーデュロイ」なので、新たに買ったのは、茶色の革の持ち手だけ。そんなところも気に入っています。
お手本は、こちらの本です。
『毎日持ちたい手さげバッグ』藤田久美子・著
『ラチとらいおん』
マレーク・ベロニカ 著
ラチという名前の、とっても弱虫な男の子が、あかい らいおん の助けをかりながら、強くなっていくお話です。白地にシンプルな色で描かれた絵はとっても見やすくて、ストーリーも難しいところがありません。なので、幼稚園や保育園の時から、読んでもらっている子がとても多い作品だと、思います。
でも、小学校の1年の間で、どの学年で、読みたい絵本かといえば、やはり、この時期の6年生の教室で読みたいなあと、私は思います。
それは、2つの気持ちから、そう思うのですが。
ひとつは・・、こわい時、心ぼそい時、心配な時、泣きたい時、ラチにとってのらいおんと同じように、誰かが(お母さんだったり、お父さんだったり)いつも側にいてくれて、それはとっても素敵なことだったね、という気持ちの確認。
もうひとつは、これからの新しい世界で、戸惑うことや、不安に思うことに合っても、ポケットの中のらいおんの存在を信じていれば、必ず乗り越えられるよ、という応援の気持ちです。
1月に、6年生のクラスに行った時、 『だいじょうぶ だいじょうぶ』を読みました。
その時も、はじめは『ラチとらいおん』を読むつもりだったのですが、急にそっちを読みたくなって。そうして、両方の本を何度も何度も練習しているうちに、『だいじょうぶ~』のおじいちゃんと、『ラチ~』のらいおんは、主人公のぼく(あるいはラチ)にとって、まったく同じ存在なのだと思うようになりました。
成長していく過程で、何より大切なのは、側にいるということです。恐い犬がやってきた時、友だちの輪に入れそびれてしまった時、暗い部屋に欲しいものがある時、一緒に行ってくれる誰か、後ろに隠れさせてくれる誰かが居てくれたからこそ、いつの日か、犬や友だちと遊べるようになり、暗闇は、ただの、明るくない部屋だと思うことができるようになるのです。
おじいちゃんの存在と、「だいじょうぶ」という言葉。幼い頃の自分自身の記憶と結びつくせいか(私はおばあちゃんでしたが)、とっても日本的な感じがします。それに対して、絵本から現れたらいおんが、ポケットの中で応援してくれていて、気がつけばそれは赤いりんごで、らいおんは手紙を残して去ってしまうなんて、とってもかっこよくて、西欧社会の合理主義を見たような気がちょこっとします。
しかし、表現のしかたはどうであれ、小さい時にしっかりと見守られた人は、大人になってからも、帰りたくなった時に、いつでも帰れる場所があるのだと思います。それは、本当の家や人かもしれないし、お話や絵やいつか見た場所の匂いかもしれないけれど。
来年度も、小学校での読み聞かせは続けていきたいと思っています。
日曜日の夜に放送している「素敵な宇宙船地球号」という番組、ご存知ですか?
3月12日放送予定「大都会ドブ川の奇跡」 (すごいタイトルがついてますねぇ)で、その「問題のドブ川」に取り組んでいるのは、なんと、私が住んでいるこの町の、町内会なのですよ。
どういういきさつで、そうなったのかは、きっとお話ししてはいけないと思うので(番組がどういうふうにできあがっているか見ていないので尚更・・)、お知らせだけすることにしました。
近所のあの人この人はもちろん、夫もその作業に参加したし、私と娘は「応援」に行きました。
テレビ局が撮影に来たのは、よく晴れた秋の日でした。半信半疑でいたけれど、ほんとに放送されるなんて、不思議な気持ち・・です。(まあ、私はただ見ていただけですが)
番組として、どういうふうにまとまっているのか(まとめられているのか)、放送が楽しみです。
念のためのひとことなんですが。このあたりは決して「大都会」ではなく、川もそんなにひどいもんじゃないんですよ~。
クロッカスの伸び具合を入念に観察したり、「みどりいじりたいごころ」が騒ぎます。
特別なことも、素敵な予定がなくっても、こんな日はただそれだけで、いいことがありそうな
気持ちになるから不思議だなあと思っていたら・・・この本のことを思い出しました。
『とってもいいこと』
内田麟太郎・著 荒井良二・絵
「なんかいいこと」どころではなく、題名が『とってもいいこと』です。
そんなタイトルの本が、家にあるだけで、まるでお守り効果(?)のように、
「とってもいいこと」がすぐ近くにあるような、「とってもいいこと」だらけの中心のいるような、
そんな気持ちになってきます。(なってきませんか?)
内田・荒井コンビの絵本に『うそつきのつき』 という、ことばあそびの本があります。
だいぶ前から欲しいなあと思っていながら、その日書店で初めて見たこちらの本を
買ってしまいました。なんでかなあ?と思ったけれど、やはり題名のせいでしょう。
それと、最後の方に、とても魅力的な、お月様が描かれていたせいかもしれません。
ストーリーは、大きくて、漠然としています。捉えどころがないというか、捕まえきれないほど、
大きいというか。そんなふうに私は思いました。
始まりはこんな感じなんですが。
すやゃーん すやゃーん。
タコの 8ちゃんが ひるねをしていると、
どこかのだれかが いいました。
「ひるねばかりしていないで、でかけた、でかけた」
「どうして、でかけなきゃ いけないの?」
8ちゃんは、ねぼけごえで ききました。
「いいことがあるからさ」
「・・・・・いいことが?」
「そう、いいことが」
その声に促されて、はまべへ出かけた8ちゃんは、カニに勧められるまま
「ちからくらべたいかい」に出ることになります。クロネコ、人間の男の子、ゴリラ、クジラ。
どんどん力持ちが登場し、クジラより力持ちは、クジラを浮かべることができるうみ(=海)、
だったりするのです。
それでは、うみより力持ちはなんでしょう? うみに勝ったそれよりも、もっと「力持ち」も
存在します。
たくさんの「力持ち」と、それに比べてわが身の非力さを知っただけで、何にも
いいことなんかなかった、でかけてきた甲斐がない、と8ちゃんは落ち込みます。
でも、最後には・・・
でかけると いいことがあるといった
どこのだれかが わかったのです。
そして そのひとが ほねなんか 1ぽんもないのに、
このよで いちばんのちからもちなのも。
8ちゃんは、気が着きました。不思議な力で、自分を「外へ」誘ったものの正体が。
私も、なんだかわかったような気がしています。だから、あったかくなってきた、
というただそれだけで「なにかいいことがありそう」と思ったり、芽吹きや、花が開くのが
待ち遠しくなったりするのだと思うのです。
きれいに晴れた気持ちのよい日曜日。
逗子にある神奈川県立近代美術館 葉山 を初めて訪れました。
パウラ・モーダーゾーン=ベッカーという女流画家の絵を観るためです。
パウラ・モーダーゾーン=ベッカー(1876年生・1907年没)。
19世紀から20世紀に時代が変わる頃、ちょうど今から100年くらい前の、
ドイツの女性画家の名前を、つい最近までまったく知りませんでした。
偶然開いた「芸術新潮」。そこで紹介されていた彼女の作品と、略歴、その両方に、
私は強く惹きつけられました。
まっすぐに、ただまっすぐにこちらを向いている自画像が、何点かありました。絵の中の人は、
ずっと前を向いています。それは、描いている時に、作家自身がモデルである自分自身を常に
見つめ続けているということで・・絵を描くのだから、その対象を凝視するのはあたりまえの作業とも言えますが・・
でも、絵筆を動かす彼女が「ほんとに見ていたもの」は、自分の顔かたちではなく、自分の内なるもの、
自分の心の底だったにちがいないと、そう私は感じました。
最初の子どもを出産したのち、彼女はわずか3週間で塞栓症のため亡くなっています。31歳の若さでです。
美術館の中で観る作品は、どれも私の期待以上のものでした。始めに思っていたほど、
自画像はそう多くはありませんでしたが、それを忘れるくらい、子どもを描いたもの、静物を描いたもの、
人物画、デッサン、エッチング・・見ごたえがありました。
一通り、観終わった後、今度は彼女自身の顔が描かれているものだけを、ひろって観ていきました。
20歳の頃、20歳半ばの頃、初めてパリを訪れた時のものなど。とても美しく才能溢れた画家が、
正面を見据え、あるいはちょっと上向き加減で、開かれた風景と、深い心の内の両方向を見ていました。
ただ、最後に描かれた自画像だけが、目も鼻も口も、すべてが淡く、「もうそこにないかのように」描かれていることが、
胸を打ちました。1905年頃の作品、『琥珀の首飾りの自画像』(展覧会の扉に使われている絵です)は、
薄く紅い唇と、健康そうな頬の色、それと大きな瞳に、とても意思的なものが感じられただけに、
そのわずか2年後の自画像が、「淡いもの」になっていて・・・人は、もしかしたら自分が旅立つ時が、
その人自身にだけわかるのだろうかと、思わずにはいられません。
美術館の庭に出ると、湘南の穏やかな海が見渡せます。
とんびがくるくる舞っているのを見たり、砂浜へ下りていって、波に洗われた貝のかけらや石を探したり。
波打ち際で娘と遊びながら、海のことと絵のこと、彼女はどっちを「今日」として、覚えているかなあと、思っていました。
ずっと前から読みたいと思っていたこの本を、やっと読むことができました。
『装丁物語』
和田 誠・著
和田誠さんが、ご自分の手がけた、本の装丁について、とても丁寧に語っている本です。
3 谷川俊太郎さんの本
9 シリーズものの装丁
11 紙の話
12 画材について
13 文庫のカヴァー
14 村上春樹さんの本
16 自著の装丁
1~18まである目次をざっと見ただけでも、とっても興味を惹かれます。
本好きの人の中には、本の内容さえよければ、それでいい。という方もいらっしゃると
思いますが、私を含め、絵本好きを自認してる方は、きっと、本の表紙から裏表紙まで
含めての、本好きなのではないでしょうか。(なんたって、絵本は表紙そのものから、
すでにお話が始まっている場合もあるし、裏表紙を見てはじめて、ははぁー、と思うもの
だってありますから)
和田さんの装丁した本。家の本棚にも、探してみたら何冊もありました。
カート・ヴォネガットの文庫本や、ジョン・アーヴィングの『熊を放つ』。あの箱入りの
『レイモンド・カーヴァー全集』もそうだったんですね。買ったときには気づかず、というか、
気にしていなくって。でも、あらためて手にとってみると、どれもその本の内容をよく表わして
いるなあと思いました。まずは中味を全部読んでから仕事にかかる、と書いてあったことに
大きく頷いた次第です。
内容は知らないけれど、本文の中で紹介されている装丁を見ているうちに、読んでみたいと、
思った本も何冊も見つかりました。ちくま文庫「モーム・コレクション」もそのひとつです。
この本を読んでいると、和田誠さんは、本が好きで、本というものをとても大切にしている
方だというのが、読み手の(同じく本好きの)私に、ひしひしと伝わってきます。そのひしひしは、
体中にめぐっていき、本というものがこの世に存在したことの喜び、というような「大きな」
ところへまでいってしまうくらいです。
タイトルの文字、レイアウト、見返しの色や、紙の質、カヴァー、帯にいたるまで、すべてが
いとおしく感じられます。
装丁家が装丁することは、作家が小説を書くこと、音楽家が作曲することと
同じなんです。小説の包み紙じゃなくて、その小説と拮抗する仕事をしようという
意気込みで取り組むんです。
最終章の18 バーコードについて で、和田さんはこのように書いています。
その意気込みが伝わるからこそ、ひしひしが体をめぐるのだなと思いました。
(本の裏表紙につくことが簡単に決ってしまったバーコード。出版業界のいろんな思惑も
あり、とても複雑であることも知りました)
2月の初め頃に、勢いで3冊絵本を買ったうちの1冊が、この『ぽけっとくらべ』という、
絵本です。
2005年12月発行となっていますが、お話が書かれたのはとても古く、
1958年『母の友』初出、とありました。50年近くも前のお話を、今こうして読んでも、
ちっとも「古さ」を感じさせないのは、物語の普遍的なおもしろさと、和田誠さんの絵の力かなと、思います。
『ぽけっとくらべ』
今江祥智・文 和田誠・絵
お話は、とんとん むかし、そうです。まだ いろいろなどうぶつたちが、
いっしょに くらしていた ころ 人間の町をこっそり見てきた山ネコ(表紙に描かれている
ネコですね)が、にんげんの つかっているもので、 ちょっぴり かんしんした ものが
これと、エプロンのポケットを、仲間の動物たちに見せ、その使い方を教えます。
見ていた動物たちは、便利なものだとすっかり感心し、タヌキの発案で、3日後に、
銘々が作ったポケットをくらべようということになります。
ブタ、キツネ、サルたちが、それぞれ「考え抜いた」自分のポケットを披露しますが、
最後に一等賞を獲ったのは、趣向を凝らしたものではなく、「天然の」ポケットでした。
和田誠さんの絵で、ポケットとくれば、どうしても、福音館書店の雑誌「おおきなポケット」を
思い出します。・・・というか、「おおきなポケット」のイメージの<刷り込み>が私の頭の中に
あったので、書店で見かけて、すぐにこの絵本に反応してしまったのかもしれません。
それくらい「おおポケ」の和田さんの表紙が好きだったのです。
「だった」と過去形になっているのは、2年間続いた和田誠さんの表紙が、2006年3月号を
もって終了となってしまったからです。うーん、残念です、とっても。
和田さんの絵は、「おおきなポケット」の名前にふさわしく、表紙の動物が、自分のポケットから、
何かを取り出すところが描かれています。そして、裏に返すと、それが何だったのか
わかるしかけになっているのです。
たとえば、2005年7月号は、クマが青いズボンのポケットから虫めがねを出していて・・
裏には、虫めがねの中で笑っているアリの絵。2005年12月号は、雪が降る中、白衣を着た
フクロウが、顕微鏡を出しています。そして、フクロウの見ているものが、雪の結晶だった
ということが、裏表紙でわかります。
2年間の合計で24冊、ポケットを通しての楽しみを味わうことができました。