音楽の喜び フルートとともに

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ボーンズレッスン

2012-10-31 22:23:24 | レクチャー、マスタークラス

今朝はボーンズレッスン。

まず、ピアノのSさんとフルートを演奏しました。
カルメンのミカエラの一フレーズ。
悪くはない。
すると、講師のDさんが、Sさんの座っているピアノ椅子の上にタオルを、無造作に丸めて、「この上に座って弾いて。」

もう一度演奏。
Sさんの音がさっきと全然違う。
「あなたは、変わらないね。」と今度は、私の左の靴下の中にティッシュを丸めたものを入れて「さっきと同じように靴を履いて演奏して。」
やってみると、今度は私の音が違います。

「でも、これで、毎回やっても意味がないからね。」

脳、自分の体に任せること。自分の足の裏、大地に接触している面をみること。

素人は指や、手だと思うけれど、名人は物事の本を見ています。
書をやっていて、一生懸命練習した弟子は、先生と同じように書ける。形は先生と変わらない。ところが、裏側を見たら、先生と、生徒の書いた書はまったく違います。

違和感がある時、脳や体はそれを意識するので、ティッシュや、タオルを入れたら一時は、足と床の接触面を意識することができますが、それが常態化すると、また、以前の状態に戻ってしまいます。

それを、タオルや、ティッシュだと思ってしまい、以前にできたという成功体験を目的に、再現しようとすると、行為は同じでも、観るという基本姿勢がもう、以前とは違ってきてしまうので、効果は得られなくなってしまいます。

ただ「観る」こと。解釈したり、展開させると今までの自分のやり方や、見方で見てしまうので、ずれて行ってしまいます。

いい音がでることを目的に見れば、いい音から外れていく。なぜなら、いい音というのは、固定化した一つのものではなく、有機的なものだから。
有機的な体や脳から出てくるものだから、ある一瞬の到達点を決めてそこを目指そうとすることとは違います。

体を水の入った皮袋のようにすることと、骨の軸通すことの両方が、どういうことであるのかを体で知ること。

考えると、どちらがいいとか悪いとか、上とか下とか考えだします。私たちは、レッテルを貼らないと落ち着かなくなります。そして、判断したい。

しかし音楽のような、有機的な表現はそれとは馴染まない。
レッスンの後、もう一度吹くと、またまったく違う演奏になりました。

フルートのレッスン0。
フルートだけれど、フルートではない。音楽だけれど、音楽ではない。
もっと、人、根本をやりたい。