クリスマスツリーを買ってきました。ワイヤーに銀のモールを巻いて、小さなライトがついていて、暗いところでも、光ってよく見えます。
うちではなくて、会社の倉庫に飾ります。クリスマス前に棚卸、力仕事をするので、働く人が気分だけでも明るく作業できるようにと、考えました。
クリスマスツリーは8世紀頃のドイツで生まれた風習だそうです。
キリスト教の原罪の始まり、アダムとイブが食べたりんごの木を、キリストが生まれた日に飾ったことからクリスマスツリーを飾るようになったという説もあります。
冬場にはりんごの木は葉が無いので、モミの木に、りんごを飾ったそうです。
ゲルマンのオーディンという神に、樫の木に生贄を捧げる風習があり、そのことが人々を苦しめていたところ、キリスト教の伝道者が樫の木を切り倒して人々を生贄の恐怖から救いました。
樫の木の後に生えてきたのがモミの木だったから、モミの木を飾ったという説もあるそうです。
オーナメントのボールはりんごの実=知識の実の象徴です。
時代下がって、ボールはドイツの工場でガラスで作られるようになりました。
赤い色はキリストの流した赤い血、白は純潔、銀は永遠、金と銀はキリストの気高さを表すそうです。
ツリーの上に飾る星は、トップスター、ベツレヘムの星と言われていて、3人の賢者をキリストの生まれたベツレヘムに導いた星を意味しているそうです。
シュピッチェ=希望の星とも呼ばれるそうです。
それから、サンタクロース。
聖ニクラウスは8世紀のローマ時代の聖人で、無実の罪に問われた死刑囚を救ったそうです。
貧乏な3人の娘達を金貨を窓から投げ入れて救ったという伝説から、子どもにプレゼントをする今のサンタクロースが生まれたようです。
金貨は薪ストーブの前に吊るされた靴下の中に入った事から、靴下にプレゼントに入れるようになったそうです。
世界中で少しずつ違うサンタクロースがいるそうでうす。
日本に入ってきたのは1914年頃、雑誌「子供之友」にサンタクロースが描かれていて、1923年頃には、子どもたちへのプレゼントは盛んになるばかりだと、記述があるそうです。
1926年12月25日に大正天皇が亡くなり、その日を休日にして翌年から先帝祭として祝うようになったことから、クリスマスが普及したそうです。1928年には、クリスマスは日本中の子どものモノになったという記述が朝日新聞にあるそうです。
大正時代は、子どもを大切にし、子どもたちを喜ばせる行事を西洋から取り入れた時代でもあったのですね。
クリスマスコンサートで、文部省唱歌の「冬景色」を演奏します。
この曲は、1913年大正2年の尋常小学校第5学年の唱歌です。
2007年に日本の歌100選に選ばれた他に、昭和7年NHK合唱コンクール第一回の課題曲にもなったそうです。
こんなに有名で、たくさんの人に歌われてきた曲ですが、作曲者も作詞者もわかりません。
さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家
烏(からす)啼(な)きて 木に高く
人は畑(はた)に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや
かへり咲(ざき)の 花も見ゆ
嵐吹きて 雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
若(も)し灯火(ともしび)の 漏れ来(こ)ずば
それと分かじ 野辺(のべ)の里
冬景色なのに、定番の雪は出てきません。
しかも、一番ごとに違う景色を歌い、七五調ではなく、六五調が基本。日本の歌としては珍しい4分の3拍子になっています。
この歌が唱歌に入った大正7年、鈴木三重吉が「子どもに向けて作られた芸術的香りの高い歌」「子ども芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、雑誌「赤い鳥」が刊行されました。
それに続き「金の船」、「童話」などが発刊し、児童文学、童謡普及の機運が盛り上がった時代。
その時代の先頭を走る空気を伝える一曲だと思います。
一部の士族や貴族の子どもをのぞいて、児童労働が当たり前だった江戸時代、近代化にむけて手探りだった明治時代を経て、全国の子どもの教育への体制が整い、さて、何を教えるべきか?という時に、高い芸術性を理想に、官民ともに子どもに手探りながら伝えようとした時代があったということを伺い知る作品だと思います。