アイネクライネナハトムジークGdur K525 は、1787年8月10日モーツアルトにより作曲されました。
小夜曲という意味で、モーツアルト自身がノートにつけていた名前だそうです。
アレグロ、メヌエットとトリオ、ロマンス、メヌエットとトリオ、およびフィナーレから成ると、自分で記録していますが、1827年初版の頃から4楽章しかなく、初めから完全版ではありませんでした。
誰に頼まれたのか?なぜ作曲されたのかはわかりません。
1787年という年はモーツアルトにとってどんな年だったのか?
1月には妻のコンスタンツェとプラハに旅行し、交響曲プラハをここで初演、フィガロを指揮し、K509 6つのドイツ舞曲を作曲しています。
興行師ボンディーニから、歌劇ドン・ジョバンニの作曲依頼を受けて、プラハを離れ、ウィーンに帰りました。
プラハではフィガロが流行っていて上機嫌で友達に手紙を書送ったりしていますが、ウィーンではそれほどでもなく、作曲に適切な対価を払わないと怒りの手紙をかいたりしています。
3月にはウィーンでピアノ曲、歌曲をかいています。
4月には病床の父に「神様が私に、死が真の幸福の鍵だと知る機会を幸いにも恵んで下さったことに感謝しています。 私はまだこんなに若いのですが、もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。」と不吉な手紙を書いています。
この頃、ベートーベンが訪ねてきたそうです。
K515弦楽五重奏曲第二番を作曲。これは、楽譜を予約販売しようとしたところ、全く売れず、販売の2年で出版する期日をどんどん伸ばして、14年後にこの曲をだしたそうです。
5月は弦楽曲を二曲、歌曲を少し。
28日父が死にます。死にも立ち会わず、埋葬にも立ち会わなかった。
父の死の知らせを姉が送ってくれなかったと姉に書いています。
6月2日には「僕もいくらか選択できるように、前もって目録を見たいものです。 しかしディッポルトさんが言うようにお父さんの遺言があるのなら、僕はこの先の処置ができるように、その配分を知る必要があります。 いや、その正確な写しがあればと思うだけです。」と姉に送っています。
14日 K522 冗談の音楽を書いています。これは当時の規範を破った音楽の作り方をしています。
7月にはカノンを一曲。
8月にアイネクライネナハトムジークを作曲。
9月に父の遺品の競売をして、1000フローリン得ました。
10月歌劇「ドンジョバンニ」を作曲。初演。
11月にはプラハに行きます。ここでは成功しているのにウィーンに戻ります。
ウィーンではドンジョバンニは成功せず、お金は入ってこない。
12月は宮廷音楽師になりますが、安月給、アリアを書いて、27日女の子が誕生します。
プラハに二回も行き、フィガロとドンジョバンニを初演し、音楽的な黄金期。
父を亡くしたショックで、書いた混乱した音楽の冗談を、立て直し、ショックを立て直したかのような定型的な音楽がアイネクライネナハトムジークではないか?ということも思われます。
少し丹精に過ぎる気もします。
立ち直ろうと一生懸命していたのかもしれないです。
ドンジョバンニではもう少しこなれて、感情を形にしてぶつけたような・・・。
さて、多くの資料は残されていませんが、どう感じるかは音楽を聞いた人の自由です。