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西行の影響

2022-04-01 21:40:28 | 日本
願わくば 花の下にて 春死なむ
 そのきさらぎの 望月のころ
             西行

京都の桜は特別と言われます。
そんなはずないやろ。大阪人としては言いたいところですが、こんな古いものが一緒にあったり、

鴨川と遠景の橋にかすむ桜だったり

いかにもの古木を見ると、やっぱり違うと悔しながらも言わずにはいられないのです。

西行(1118-1190年)は、

俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)と言って藤原魚名を祖とし母は源経清の娘、武門の家柄でおそらく京都で生まれたと言う説と
佐藤氏の知行地 紀伊の国 田中荘という説があります。

出家の理由も諸説ありますが、一般に言われているのは、高貴な女性に恋をしてなんとか一度だけ会いましたが、

「あこぎ」…阿漕=漁が禁じられている三重県の阿漕が浦で漁をして捕まったことから、【欲深く、しつこく、図々しい、悪質な、無慈悲な】という意味

と言われて失恋したことで出家したそうです。
相手は

鳥羽天皇の皇后 崇徳天皇、後白河天皇の母 待賢門院藤原璋子(1101-1145年)とも

鳥羽天皇の皇后 近衛天皇の母 美福門院 藤原得子(1117-1160年)とも言われています。

出家していくつかの草庵をいとなみ、30歳くらいの時に陸奥の国に旅し、高野山にも訪れています。
四国に崇徳院の白峰陵を訪ね、上田秋成の「雨月物語」の、白峰の元になっています。

その後2回目の陸奥行きで、藤原秀衡と会い帰りに鎌倉で源頼朝と会っています。
伊勢国で庵を営んだあと、南河内郡の弘川寺で亡くなりました。

西行は、歌人として生前より有名でしたが、亡くなった後は、その生き方が尊敬され、中世、近世以降の文学や、舞台に大きな影響を与えました。

松尾芭蕉(1644-1694年)

の「奥の細道」は、西行の500回忌に西行の辿った足跡を訪ねるのが1番の目的です。

また、西行桜は、室町時代世阿弥によって作られた能で、桜の和歌を詠んだ西行と桜を結びつけた創作です。