巨椋池は、昔琵琶湖と大阪城の間にあった大きな湖でした。
秀吉が干拓し、明治政府によっても干拓が進み
そこがなかなか見事な花見のスポットになっています。
川ではなく池だった所に地下水が湧いてくるのでそれを貯めて調整するための水路です。
流れがなく、水面が静かなのでお天気は悪かったですがきれいに映っています。
秀吉が干拓し、明治政府によっても干拓が進み
東一口(ひがしいもあらい)の水路が残っています。
干拓時にできた水路を踏み固めるために周辺に桜の並木が植えられました。
そこがなかなか見事な花見のスポットになっています。
川ではなく池だった所に地下水が湧いてくるのでそれを貯めて調整するための水路です。
なので、
流れがなく、水面が静かなのでお天気は悪かったですがきれいに映っています。
あまり知られていないので人も少なくてゆったり見られます。
宮城道雄(1894-1956年)
兵庫県神戸市三ノ宮外国人居留地生まれ、愛知県刈谷市没。
菅国治郎、アサの長男として生まれました。4歳で母と離別。
生後200日に目の病気にかかり、徐々に視力が失われ7歳で全盲になります。
しかしそのことで、菊仲検校、中島検校、二代目中島検校に箏曲を学ぶことになります。
11歳で免許皆伝となり、13歳で父の赴任地朝鮮の仁川に渡り、箏曲と尺八を教えて家計を助けました。
14歳で「水の変態」を作曲。伊藤博文に評価され上京して学ぶように言われましたが、伊藤が暗殺されたため実現しませんでした。
1913年京城に移りここで喜多仲子と結婚します。
仲子の入婿になり宮城姓を引き継ぎます。
研鑽を積み、大検校の称号を得ます。
1917年仲子が死没。
貧窮します。
帰国し、東京で1918年吉村貞子と再婚。
注目され、洋楽の作曲家や評論家に評価されるようになります。
1920年内田百閒が入門、生涯付き合います。
本居長世と演奏会を共催するなど活躍します。
1929年尺八と琴の「春の海」を作曲するとフランス人ヴァイオリニスト ルネ シュメーがヴァイオリンに編曲し宮城道雄と合奏。
世界的に評価されレコード化されます。
1930年東京音楽学校で教職につきます。琴譜面を五線紙に移して教えるなど西洋音楽を取り入れた教え方をしたそうです。
映画音楽などにも手を広げます。
1945年疎開中に牛込中町の家が爆撃で焼失。
1953年バルセロナ、ロンドン放送協会で演奏。好評を、はくします。
1956年、大阪公演に向かう列車「銀河」から刈谷駅前で転落。
その後亡くなります。
「さくら変奏曲」は
1923年琴三重奏として作曲されました。
西洋音楽は、店頭で耳コピだったそうですが、それまで日本ではなかったような変奏曲の形態。
ワルツなどを取り入れています。
音は悪いですが、宮城道雄の演奏が残っています。
ナイロン弦では無く、今はもうほとんど使われていない絹糸の弦による演奏です。