連休最終日は、枚方市文化芸術センターのリハーサル室でAPAの弾き合い(散らし会)でした。
1889年
に迎えられたフォーレは、同年9月にポール・ヴェルレーヌの詩に基づく『5つのヴェネツィアの歌』(作品58)を完成します。
の音楽批評を担当し、4月にはレジオンドヌール勲章(勲四等)を授与されました。
の後任として、フォーレはパリ音楽院
の院長に就任します。またこのためにマドレーヌ寺院の主席オルガニストと音楽学校視学官を辞任しています。
チェロの有馬善一さんから誘われて
金重さんとほぼ一発合わせの室内楽会に行ってきました。
私はモーツァルトのフルート四重奏のDdurを演奏しました。
他にもモーツァルト弦楽五重奏やチャイコフスキーセレナーデ、フォーレピアノ五重奏曲、ドヴォルザークピアノ五重奏曲、 モーツァルトピアノ五重奏、ブラームス弦楽六重奏などなど、名曲揃い。
ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没
1889年
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89の
作曲期間は、およそ1890年から1894年にかけての5年間と1903年から1905年にかけての3年間に分かれています。
ピアノ四重奏曲第2番の初演後まもない1887年9月、友人のマルグリート・ボニーに宛てたフォーレの手紙によれば、フォーレはピアノと弦楽器のための新たな作品を構想し始めました。
1887年夏のスケッチ帳の中に、この作品の第3楽章で用いられることになる主題がヘ長調で記されています。
当初はピアノ四重奏曲としてスケッチされたこの曲は、やがて第2ヴァイオリンをつけ加えたピアノ五重奏曲に編成が拡大されました。
これについて、ベルギーのヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)
曲の初演者となったウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年、1913年ごろ)
が自身のソロ活動とともに弦楽四重奏団(en:Ysaÿe Quartet (1886))を率いていて、1888年及び1889年にブリュッセルでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番と2曲のピアノ四重奏曲を四重奏団とピアノのフォーレと共演していたからと言われています。
が自身のソロ活動とともに弦楽四重奏団(en:Ysaÿe Quartet (1886))を率いていて、1888年及び1889年にブリュッセルでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番と2曲のピアノ四重奏曲を四重奏団とピアノのフォーレと共演していたからと言われています。
五重奏曲の草稿は1890年の終わりごろにはかなり書き進められており、フォーレの次男フィリップによれば、アレグロとアンダンテの楽章がほぼ同時期に書かれていたといそうです。
このころイザイは彼の弦楽四重奏団のメンバーとともにパリのフォーレ宅
フォーレの自宅
を訪れ、書き上げられた部分を試演したました。このときの様子をフィリップは次のように述べています。
を訪れ、書き上げられた部分を試演したました。このときの様子をフィリップは次のように述べています。
「アレグロの提示部は書き改められた。なぜならピアノのアルペジオに軽快さを欠いていたからだ。イザイが彼の四重奏団のメンバーとともにパリを訪れ、マルゼルブ大通りのサロンで書き上げられた部分を試演した。このときイザイは感激を表した。そして『五重奏曲』は彼に捧げられることが約束された。しかし、ガブリエル・フォーレは満足していなかった。気にかかっていた展開部がやはりよくなかったからだ。」— フィリップ・フォーレ=フレミエ
五重奏曲の作曲は一時中断され、フォーレは1891年5月から初めてヴェネツィアに滞在します。
現地で後のポリニャック公爵夫人(フランス革命のもととなったポリニャック夫人の孫)ウィナレッタ・シンガー(1865年 - 1943年)
に迎えられたフォーレは、同年9月にポール・ヴェルレーヌの詩に基づく『5つのヴェネツィアの歌』(作品58)を完成します。
また、エンマ・バルダック
エンマ バルダック後のドビュッシーの妻
との交際から、1892年から1894年にかけて連作歌曲『優しい歌』(作品61)を作曲し、このことでフォーレ夫妻の間には気まずい雰囲気が流れ始めました。
との交際から、1892年から1894年にかけて連作歌曲『優しい歌』(作品61)を作曲し、このことでフォーレ夫妻の間には気まずい雰囲気が流れ始めました。
1894年6月、フォーレはポリニャック公爵夫人に宛てた手紙に「(五重奏曲が)完成するまでは決してこの曲から離れない」という固い決意で臨み、出版社のアメル社は1896年の春にこの曲が作品番号60として目下印刷中であると公表しました。
この間、1894年の7月には夜想曲第6番、同年9月には舟歌第5番と、フォーレの「第二期」を代表するピアノ曲が完成されています。 しかし、ピアノ五重奏曲の筆は進まず、フォーレはまたしても作曲を中断、長らく放置されることになりました。
ピアノ五重奏曲第1番の作曲が再開されたのは1903年で、フォーレ58歳のときです。
前年の1902年秋からフォーレはスランプに陥っていました。 フォーレの友人エミリ・ジレットの日記では、フォーレの疲れ果てた状態について「ひどい偏頭痛に苦しみ、黄ばんだ顔で、光のない眼、……とにかく驚くような」と記しています。
1903年3月からフォーレは「フィガロ」紙
の音楽批評を担当し、4月にはレジオンドヌール勲章(勲四等)を授与されました。
一方で、晩年のフォーレを悩ませた聴覚障害の兆候が同じ年の夏から始まっています。
この年からフォーレは夏の休暇をスイスで過ごすようになり、これは1914年まで続くことになります。
1903年8月、スイス滞在が始まると、フォーレは新しい作品を書き始めました。当初はヴァイオリンソナタが念頭にありましたが、その後これはピアノ五重奏曲第1番の緩徐楽章となっていき、この年から3年間の夏を通じてこの曲は完全に書き改められ、さらに新しい部分がつけ加えられました。
1905年の夏、チューリヒのシュテルンヴァルテ荘でフォーレはピアノ五重奏曲第1番をついに完成させました。
1905年
同年10月、「ラヴェル事件」(1905年ローマ賞の選考で実績のあるラヴェルを予選で落としたことにより責めを負いました)によって辞任したテオドール・デュボワ
の後任として、フォーレはパリ音楽院
の院長に就任します。またこのためにマドレーヌ寺院の主席オルガニストと音楽学校視学官を辞任しています。
フォーレの手紙から
スイス滞在中にフォーレは妻マリーに宛てて頻繁に手紙を書き、ピアノ五重奏曲第1番の進捗状況を伝えています。このうち1903年にローザンヌから出された手紙には、フォーレの音楽や室内楽ジャンルに対する姿勢が表明されています。
「この新しい室内楽作品についての君の助言に感謝します。君が言うとおり、このジャンルはたしかに重要なものです。真の音楽、一人の人格のもっとも真摯な自己表現というものは、管弦楽か、あるいは室内楽を通じてのみ実現できると思っています。」
— 1903年8月27日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
1889年のフォーレとマリー
「私にとって芸術、とりわけ音楽はわれわれ人間をこの世に存在するものよりはるかに上の最も遠いところに高めることに存在している。」
— 1903年、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
翌1904年、チューリヒからの手紙では、作曲が難航し呻吟している様子が伝えられています。
「第1楽章のとても微妙な書き直しには、大変神経を使いました。今こうやって見直してみると、見違えるほど自然な曲になりました。」
— 1904年8月31日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
「曲を作ると言うことはなんと大変なことなのか……。そして、自分を天才だと思い込んで、つまらない作品にも満足できるような人々はどれほど幸せなことだろう! 私はそういった人たちを羨ましく思います。」
— 1904年9月1日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
「へとへとになるまで仕事をしたというのに(……)全く、何もできなかった! 厚い壁が立ちふさがっている。」
— 1904年9月2日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
1906年3月23日、ブリュッセルのセルクル・アルティスティク(Cercle artistique)にて初演。パリ初演は1906年4月30日、サル・プレイエルにて。
サル プレイエル
いずれもフォーレのピアノとイザイ四重奏団(ウジェーヌ・イザイ、エドゥアル・ドリュ、レオン・ヴァン・ホウト、ヨゼフ・ヤコブ)の演奏によります。
いずれもフォーレのピアノとイザイ四重奏団(ウジェーヌ・イザイ、エドゥアル・ドリュ、レオン・ヴァン・ホウト、ヨゼフ・ヤコブ)の演奏によります。
ブリュッセルでの初演当日、フォーレは妻に宛てた手紙に次のように記しています。
「イザイが、この五重奏曲の作風は私の二つの四重奏曲のものより優れており、格調が高く、それにどのような作品にも見いだし得ない純粋な絶対音楽の響きが備わっていると指摘してくれました。
私は、彼がこんな印象を持ってくれたことを、とても嬉しく思っています。
目下のところ私は、音楽という媒体を通じて、すべてを指向しようとするものだと考えているので、なおさら嬉しく思えるのです。
ロジェ=デュカスは、この作品が格調の高さと純粋さだけで後世に残るということに対しては、恐らく不満を感じることでしょう。
でもそんなことは私にとっては全くどうでもよいことなのです。
なぜなら、私は自らの音楽表現が万人に理解してもらえるなどとは、心底期待していないのですから。」
— ピアノ五重奏曲第1番の初演当日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
曲は試演時の約束どおり、イザイに献呈されました。
1907年、ニューヨークのシャーマー社から出版されました。
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