西宮ギター練習会主催のミニコンサートが原田の森 王子美術館でありました。
に献呈されました《幻想的小品集》の第2曲として出版されました。
川原久美子さんと、イベールの「間奏曲」、ピアソラの「オブリビオン」、「リベルタンゴ」を演奏しました。
梅田で新開地行き特急に乗った途端、六甲で転落事故のため、遅延しています。ということでした。
座れたので待っていると定時に出発してホッとしました。
発生はずっと前で処理が終わったところだったみたいです。
13:00〜ですが、合わせていないので12:30の約束でした。
ここは、美術室です。以前は四階の音楽室でやっていましたが、美術室の方がなぜか音響が良いことを発見して、以来こちらでやっています。
音響が良いといい演奏も出やすく。
私も気持ちよく吹かせて頂きました。
阪南ギター練習会で一緒にだったKさんも参加されていて、5月にコンクールに出られるそうで、熱意あふれる演奏をされていました。
自己紹介で、大学のギター部でソロを弾いて以来、30年のブランクがあるそうです。
阪南の打上で「どうしたらギターうまくなれますか?」と私に聞かれたので「先生につくこと。」と答えたら、本当に先生につかれてもう3回通われたそうです。
私、ギターじゃないのに…少し嬉しい。
彼は本気です。
そしてもう一つは
「人前で演奏すること。」
ということで、この演奏会にも参加されていました。
他にも4月にいくつか出る予定だそうです。
本当に頑張っておられます。
うまくいきますように🙏
セルゲイ ラフマニノフ(1873-1943年)ロシア帝国ノヴゥゴロド州セミョノヴァ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ没
「前奏曲 嬰ハ短調」作品3-2は、全部で5曲からなるピアノ曲集《幻想的小品集》作品3に収録されています。
1892年10月8日19歳の時に、モスクワ電気博覧会の祝賀会において作曲者自身によって初演されました。
この初演の後で、演奏会全体の中からこの曲のみを取り上げて、「熱狂を捲き起こした」との批評が掲載されました。
1892年5月29日にモスクワ音楽院
1901年モスクワ音楽院
を卒業してから、ラフマニノフが自由な芸術家として書き上げた最初の作品の一つです。
を卒業してから、ラフマニノフが自由な芸術家として書き上げた最初の作品の一つです。
翌1893年に、恩師アントン・アレンスキー(1861-1906年)
に献呈されました《幻想的小品集》の第2曲として出版されました。
当時のロシア帝国は、1886年のベルン条約(1886年スイスベルンで発布された文学的及び美術的著作物の保護に関するベルン条約、現在の世界的な著作権保護条約のもととなりました。)を批准していなかったため、ラフマニノフは出版社から、40ルーブル(現在で約1.64ドル≒250円)の報酬を得ただけでした。
ラフマニノフの従兄アレクサンドル・ジロティは1898年秋に西欧と米国で演奏旅行を行なった際、そのプログラムにこの曲を取り上げました。
そのため、まもなくロンドンの複数の出版社によって、「モスクワの大火」「最後の審判」「モスクワのワルツ」という名前で出版譜が出回りました。
アメリカでは、「モスクワの鐘」という名前で出版譜が出版されました。
この作品の人気ぶりは、「ラフマニノフの(例の)前奏曲」と呼ばれたり、ラフマニノフの演奏会で聴衆から、アンコールとして「Cシャープ!」との呼び声がかかったりするほどでした。
ラフマニノフは、この曲のあまりの評判によって、自分のそのほかのピアノ曲がかすんでしまうことを毛嫌いするようになりました。
それでもラフマニノフは、電気吹き込みとアンピコ社製ピアノロールを通じて、後世に本作品の自作自演を遺しています。
この曲をギター編曲して練習会で弾いている人がいました。おもしろかったので動画探してみました。
この曲をギター編曲して練習会で弾いている人がいました。おもしろかったので動画探してみました。
ラフマニノフの曲は短調の曲が多いような気がします。演奏される機会が多い、ピアノ協奏曲第2番、第3番が短調、交響曲 第2番と第3番も短調ですからね。
超有名曲のヴォカリーズも嬰ハ短調ですものね!