今日は、ピアノ講師のSさんとアンサンブルを楽しみました。
ゴーベール(1879~1941年)のソナチネを演奏でするので、ゴーベールの楽譜を4曲持って行き、年代順に演奏していきました。
1914年 duex esquisses 二つの素描
1921年 Suite 組曲
1925年 deuxieme sonata 第2ソナタ
1938年 Sonatine ソナチネ
はじめの3曲はエキゾチック、異国情緒たっぷりの前3曲。オリエンタルと言う表題がはいっています。duesieme Sonataの2楽章は、14年からはじまったオリエンタル趣味の集大成と言う感じがします。
1855年にはじまったパリ万博の影響か、1867年に日本が参加して一挙にオリエンタルブーム。89年、00年、25年、37年をゴーベールはパリで経ていて、25年第2ソナタを書いた年の万博は、オリエンタル趣味の結実アールデコ万博でした。そう思うと、彼も東洋趣味の流行り風邪にかかっていたような気がします。
ソナチネはその後、1927年のBalladeバラードや、troisiem Sonata第3ソナタなど、初期の作風への回帰、本来のゴーベールにもどったのかな?1907年に書いたnocturune et allegro scherzandノクターンとアレグロスケルツァンドなどの作風の方が近いような気がします。
今度、また演奏して確かめようっと。今日は無策意に持っていったのだけれど、こうやって並べて演奏してみるとバラバラに演奏していたときよりも、いろんなことに気づけておもしろいです。ピアノがあるとまた違います。より全体が見渡せると言う感じ。
Sさんに感謝です
土曜日にロフトで買ってきた。フルートの練習にいいもの。
パソコンにくっつける紙バサミ。自在に曲がって、3センチ幅まではさめます。チューナーを譜面の上に置いて、いつも楽譜をめくる度に、移動させたり、落としたり。これなら、目線を下に向けずに、楽譜を見ながら、チューナーをチラミできて、首も曲がらないので肩こりもだいぶまし。メトロノームもはさめます。使ってみると、時間が経つほど、楽さを実感。…道具や、物って普段あんまり意識しないけれど、私達の日常の生活を劇的に変えてしまうことがありますね。
昨日書き忘れた大切なこと思い出しました。
トスカニーニは、若いころ、ヴェルディのオペラを指揮していて、どうしても、楽譜の中で、わからないところがあって、確かめてみたくて、とうとう面識も無いのに、ヴェルディの所へ押しかけていったそうです。「どうしてもわからないところがあって。」と言うと、ピアノでその曲を演奏し始めたそうです。問題の箇所も引き終わり、全てが終わったころ、ヴェルディが「ブラボー!」というので、トスカニーニはがっかりしたそうです。
「私は、この何もあなたが書いていないところを、ディミヌエンドで演奏しましたが、これでよかったのでしょうか?」とトスカニーニが問うと、ヴェルディは「真の音楽家ならば必ずわかるから、楽譜に何も書いていないのだ、楽譜に書いていなければ何も読み取れないというのならば、音楽家とは言えないのだ。」と答えたそうです。
なるほどとトスカニーニが思ったかどうかは、触れていなかったので、わからなかったけれど、トスカニーニは楽しそうだった。楽譜にあまりにも忠実と言われたトスカニーニだけれど、勝手なことをいいますが、この考えには賛同していたような気がします。
もちろん楽譜を無視すると言うことではなく、真逆、たくさんの音楽に接し、楽譜を読み込み、読み込んだ末、楽譜の裏にある作家の意図を類推する事ができるようになる、そんな意味ではないかと思います。
この読み込んだ末…というのが、大切ですが、どこで、ピリオドを打つか。そこがいつも迷うところです。これで行こう!と決める。いやいや、まだまだ違うやり方があるのではないか?私も、ぎりぎりまでまようところです。そして、表現する時にはどうかな?ではなく、こう思う。と自信をもって出さなくてはならない。偉大なトスカニーニでさえ、思い悩み、なかなか自信が持てなかったと言うことがよくわかるエピソードで、聴けてとってもよかったです。
彼は、名指揮者、好色、激怒癖、反ナチス、反ムッソリーニ。いろんなエピソードがありますが、それは伝記を読むとして。
ヒトラーから何度も、演奏するように依頼をされたけれど、演奏しなかった。ムッソリーニの死に方をふさわしい。と言っていたこと。
ナチスのために演奏をしているとフルトヴェングラーと大喧嘩をしたこと。
ベートーベンは特別な作曲家だと言っていました。耳が聞こえなくなるという作曲家にとって最悪の困難を乗り越えて音楽を作り続けたこと。「なかなか、良い音楽だったよ。」といった友人を「考えられない!」と言っていたこと。
ミラノスカラ座を長く指揮して、「市民を育てた」と言われたことに対して「聴衆はおろかだった。僕が教育なんて全くできなかった。」「音程が取れて、美しければ、市民は拍手喝さいするものさ」とカラスを酷評したこと。
練習のたびに激怒する彼に楽団員から抗議の手紙が来たこと。それに対して激怒するかと思えば、「良く本当のことを書いてくれた。名前を書く勇気が無かったらしいけれど、書いてあったら心から感謝して抱きしめた。」と
老いで、記憶力が悪くなった時、自ら指揮棒を置いた。
時代が、彼に立場をはっきりさせることを要求したような気がします。明確にしたからこそ、イタリアを捨てて、アメリカに去らなければならなかった。
爆撃でぼろぼろになったスカラ座に戻り、また指揮をし。
音楽をする意味が常に問いかけられ、リアルな現実として彼は、考えざるを得なかった。その事が、より集中力を高め、素晴らしい演奏に繋がり、また人々に必要とされた。安全な位置にいて批判ばかりしているのは、アーティストではない。常に表現を通して、自分の言動を世間に問い、批判を受ける、そういう強い生き方そのものが、偉大なアーティストというものなのかな?と思いました。
今日は、昨日に続き、暖かかったですね。
夫は韓国、長男は補習授業。二人には悪いけれど、次男と私は陽気に誘われて、ふらふらとドライブ。樟葉モール街でロフトでフルート練習用の良いものを見つけました。
それから、ブックオフへ、目当ては無かったですが、時々チェックしておかなくっちゃ、何時でものがでるかわからない。
そこで近所の友達に会いました。彼女は手作り、子育て友達ですが、実は、超がつく漫画好き。インデックス付のノートを持っていて、出版社ごとに欲しい漫画をチェックしていきます。
「〇○の何巻から、これは100円になったら買う分。これは古本で出物があればとにかく買う。新品で買う分。」などと、細かく分類していて、普段からこうやってチェックして買うだけでなく、1年に4回くらい、一日をかけて古本屋めぐりをします。私も空いているときは一緒に連れて行ってもらいます。
車で、今日は京都方面とか、今度は大阪守口方面など、5軒くらい。
すごく、楽しいです。出るはずの無い新刊人気のベストセラーが3割引であったり。廃刊の一冊が100円であったり。私は漫画はごく限られた作家の連作だけを集めています。「のだめカンタービレ」とか「百鬼夜行抄」「天才柳沢教授」新刊で買うのは「のだめ」だけ
ずさんな私に変って、「何月何日、「のだめ」の発売日だよ。」とか、「〇巻は、買ってなかったっけ?」などと情報を流してもらったり、管理してもらったりしています。それから、大事なこと、私が絶対出会えないような本を貸してくれたり。今市子さんは、そうやって借りた本の中から見つけました。
本当にありがたい友達です。
世間話で彼女の本探しのお邪魔をした後、「やっぱり、梅を見ながらお餅を食べたい。」と次男の声におされて、2時半位から、京田辺方面へ。
モール街で買った桜餅を抱いて、「どっかいいとこないかなぁ?」
見つけました。写真の京田辺公園。市役所のそばにあって、珍しいローラボード競技の施設があって、思わず見とれてしまいました。公園の定番、池と東屋、それから、アスレチック、子どものための遊戯施設。そんなに広くない敷地をうまく活用していました。そうそうそれから、念願の梅も咲いていました。植えたばかりみたいで、まだ、小さな木ばかりですが、「〇〇と〇○結婚記念植樹」とか「〇○小学校入学記念植樹」なんて書いてあって、とってもほほえましいです。桜餅も食べて、大満足。
帰りはスーパーセンターイズミヤで夕食の食材を買って、帰りました。あ~ゆっくりした。
「雪、風、こたつ、なべ、みかん、氷、さざんか、焚き火、梅、シチュー…。」たくさんの言葉が黒板に並びました。
それから、冬の雪景色をイメージする曲として、イベールの「Juex」の2楽章のさわりを少し聴いてもらいました。気に入ったのか、途中でメロディベルを曲に合わせて叩いてくれました。
それから、チェコスロバキア民謡の「雪のおどり」をメロディベルで合わせたり、後は、音楽室の好きな楽器を使って、合奏しました。ピアノ、ピアニカ、マリンバ、鉄琴、トライアングル、鈴、オルガン、キーボード、ウッドブロック、タンバリン。短い時間で、いろんな楽器を持ち替えて演奏しました。
「また、きてね。」片づけまで一緒に来てくれて、こんな言葉をかけてくれました。
ここは、選んで来れるので、興味のある子どもだけが来てくれるのがうれしいです。
夜、次男が夕食を作ってくれました。以前に紹介した次男の友人達との共同考案の、里芋もち。里芋とお餅としょうゆを混ぜただけだったのが、進化して、パン粉を混ぜます。こうすると、中はモチモチだけれど、外はパリパリ。焼きたてがおいしいですが、このお餅は時間がたっても、柔らかくおいしく食べられます。
以前作ったときは、里芋もちで精一杯だったのが、今夜は豚肉野菜いためがついていました
ありがとう
ジョコンダの時の踊りの、パート譜、やっと今完成しました。スコアメーカーで作っても、情報量が多いのでなかなか完成しませんでした。懐かしい手書き譜を作って送ってくさだったのですが、やたらと装飾音符がついていて、手書きだと、どの音から始まっているのかわかりにくい。結局作り直すことにしました。342小節10分少し。細かい動きで16分音符に装飾音がついていて一段に2小節しかはいらないところなんかがあって、パート譜にもかかわらずA46ページ。作れてほっとしました。
メロディックな歌うようなところはフルートにはほとんど無く、足のつま先をあげて小さく細かい字を書いているような、爪で引っかくような、繊細な技巧的な力が要求される曲です。
それにしてもラスト20小節から高音の16分音符、AG#F#G# AG#F#G# AG#F#G# AG#F#G#って言う所、超いやらしい運指です。しかも早い軽く引き受けてしまいましたが、特訓が必要です。
楽譜も作って俄然、やる気が沸いてきました。
ヒラリーのなぜ山を登るのか?そこに山があるからだ。
と言う心境よくわかります。山を登りきり克服する。そのことが快感。やっぱり音楽病
枚方では、今、梅が7分咲きで咲いています。梅を見ると、春が来たなという気分が盛り上がります。
ルール違反をして、暴言を吐き、蹴ろうとする3年と1年5人の男の子達に、
「私は、誰であろうと、どんな場合でも、どんな理由があろうと、暴力は使ったらいけないと思うわ。」
と言うと、「殺されそうになってもあかんか?」
「そういう時は、何をしても逃げたらいいけれど、それ以外はあかんと思う。今はそういう時?」
「けんかもあかんのか?」
「けんかは、対等の相手となら、良いけど、子ども同士でも2才違ったら、虐待だと思う。」
「そんないうてもな、僕のお父さんは殴るで。」
「お父さんは、君のことを愛していると思うけれど、間違っていると思う。先生は子どもを殴ったりしたくない。」
「そんなん、大甘や、甘すぎるわ。苦いのは良いけど、甘いのはあかんわ。」
と言って、また、蹴ろうとするので、「みんなは、残念だけれど、私と意見がちがうみたいだね。違ってもいいんだよ。先生はそう思うだけ。」
「この先生、甘いわ。きっしょいわぁ。きっしょい。きっしょい。」
言いながら、それでも蹴らずに、行ってしまった。
荒れているのには、理由があると思います。暴力を容認し、子ども達に使う大人が多すぎると思います。
しつけ、将来のため、ルールを守らせるため。叩くのは効果がある。と考える人は多いですが、それは、理由があれば暴力を使っても良いと子どもに教えることになると思います。
さて、どうやって子どもにルールを守ったり、将来自分にとって役立つ勉強をするように教えたらいいのでしょう?暴力以外の方法を使って。
人類の叡智を全て総動員。ルールとは何か?お互いの安全は無視しても良いのか?大人にもわからないことがあります。子ども達に質問し、一緒に考える。今日あの子達に私の考えを知ってもらえた。
口は悪いけれど、初めて聴いた考えに、子どもの脳がぐるぐる回っているのが見えたような気がします。
この種を踏み潰さないように、次は何を使おうか?
今日は梅田でレッスン。日銀大江橋図書館いつも橋の横で立っているビッグイシューのおっちゃんがいない。11月も2ヶ月会わなかったら、病気で調子悪かったらしい。心配していたら、帰りはいらした。「朝、いなかったからしんぱいしたわ。」「朝がつらくてなぁ。10時からたってたわ。」「朝は寒くてつらいね。私もいややわ。」笑顔で売ってくれました。安心しました。
今回はエンヤさんが巻頭ページでした。「音楽が自由に息をして、行きたい方向に進める言語を選ぶ事が何より大切だと思う」と言っていました。母語のゲール語、英語などいろんな言語を選ぶそうです。菫草は日本語で歌われているそうです。フルートには言葉は無いけれど、音楽が自由に息をして行きたい方向に進める。と言う言葉はわかるような気がします。こちらが必死になってがんばってこう吹いてやろうなんて、思っているとなんだか自分もしんどくて、聴いているほうも大変じゃないかと思います。行きたい方向に自由に…今日は、S先生のレッスンでも同じようなことを言われました。
「型にはまることは大切だし、まず型や基準を覚えること、でも、型どうりや枠の中だけで演奏していても、うまくいかないんだよなぁ。〇○さんもきっと聞いてるとわかると思うけれど、そんな演奏家が山ほどいるよ。今年は、ヤゴが、とんぼに変るように、あれ〇〇さんってあんなにうまかったかな?って言われるくらい、変ろうよ。ヤゴって長いあごをもっていて、ずんぐりした形なのに、とんぼになったら丸いあごで無視を食べるんだよ。体は長くなるし羽根で飛ぶんだよ。びっくりするよねぇ。〇○さんも、きっとできるよ。批判されると、とたんにキュッと堅くなって、自信が無くなって、自分の中にはいってしまうけれど、考えるのは後で良いのよ、まずなんでも、食べてみること。食べた後でそれを使わないでいることも、使うこともそれは自由なんだよ。そういう自分を変えることだよ。」
そうなんです、ぎゅっと堅くなって、途端に「これでいいのかな?」と言う演奏になっちゃうんですよ。
「みんな、誰でもそうなんだけどね。先生の中には一回のレッスンで一つしか言わないという人もいるけれど、僕はそうかな?と思う。様子を見てね、受け取れると思うよ。」
先生の話を聴いていると、変れるような気がしてくるから、不思議です。
「一生懸命がんばっていても、自分の音を聴きながら演奏してもだめなんだよ。まわりの力を借りて、それにふっと乗れば良い演奏できるのになぁ」
この辺はまだ、私にはわからない境地です。でも、エンヤさんが言うように、音楽の行きたい方向を感じるというような意味かもしれない、そのためには、楽譜や、前人の演奏、作者の気持ち、聴き手の気持ちなどを意識して自分一人で演奏している気にならないっていうことかもしれないと思ったのでした。
ますます深みにはまっている感じがします。でも、先生と話すと元気とやる気が出てきます。私もなかなか捨てたもんじゃないって。
カキツバタの一種だと思いますが、杜若は5月…大きさも小さいような気が。いずれあやめかカキツバタ、これに花菖蒲が入って、良くわかりません。花の少ない時期、貴重な青い花です。
今日は、子育てサロンコンサートでした。
直前、メヌエットのスコアが無い!パート譜に変更部分を音名で書いて乗り切りましたが、ドキドキさせて、ごめんなさい。それにしても、聴音ができるメンバーがいてよかった。ありがとう。
はじめの3曲は静かに聴いてくれましたが、なかなか後は難しかった。
それでも、「カヴァレリア、すごく、よかった。私大好き」とか「大きな良いホールで聴きたかったわ。」
「3歳児は、前で3人正座で聞いてたよ。」「騒いでた子もいたけど、大半は聴いてくれてたよ。」
「途中で、泣き出した子がいて、おかあさんが、『じゃあ、帰る?』というと、『いやあ、いとく~。』と言っている子がいたよ。」
「初めて来たお母さんが緊張して、子どもを静かにさせなきゃと思って、抑えてたから、抑えられたら子どもはいやだから、暴れた子がいたみたい。常連さんはお母さんがリラックスしてたから、子どももゆったりと聴いていたよ。」
「はじめに、お母さんが注目している方向を子どもは見るので、こどもが多少、ごそごそしても気にしないで、動いていても耳は聴いています。どうしてもうるさくてたいへんになったら、スタッフのみなさん、よろしくお願いします。お母さんたちはどうぞ今日くらいは、音楽をゆっくりした気持ちで楽しんでください。」と言えばよかったかな?
プログラムは、知っている曲として選んだふるさとや、あかとんぼは知らないか、イマイチ乗れなかったみたい。クラッシック3曲は受けていましたがはじめにしたからかも。子ども達は知っている曲は小さすぎて無いので、若いお母さん向けの曲をレパートリーにいれられば、よかったかな。
それか、piyoさんが言っていた、もう知らない曲で通す。確かに、どんな曲でも聞いてもらえる演奏をすれば、いいよね。まず、どんな状況でも、自分の音楽に、まず自分が本当に集中すれば、みんなも聞いてくれる。と言うのは経験したことがあります。
とにかく、良い経験しました。また、これを機に、演奏者と聴き手と作り上げるコンサートを考えたいね。自分と、星のパレットにお疲れ様でした。
私は実は、土曜の練習の後、のどが痛くなって、日曜、必死で寝て薬飲んで治しました。本番、無事演奏できてほっとしました。風邪をうつしてもいけないものね。
明日、子育てサロン、フルートとヘルマンハープ「星のパレット」の本番です。
土曜日まで、楽譜をいじり続け、完成校を合わせられなかった曲が2曲。
明日の朝、本番前に合わせます。
でも、きっと大丈夫。頼りになる仲間と一緒です。
子ども達の顔を見るのが楽しみです。
いつものサロンのスタッフ、顔なじみのサロンのお母さんと子ども達、そしてもちろん「星のパレット」のメンバー。
こんな形で、演奏させていただけるなんて本当に幸せです。フルートとハープの音色は人を癒す効果があると私は思います。小さな柔らかな心に必ず届くと思います。お母さん達も普段のサロンとは、また違う形でくつろいでくれると良いなと思います。
準備はOK。がんばりましょう