音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

クーラウ、フルートのベートーヴェン

2022-09-20 20:14:00 | 古典
京都今出川大宮の富久田先生のレッスンに行ってきました。
私の唇を見て驚いていらっしゃいましたが、音を聞いて
「大丈夫。23日までには確実に治ります。」と、太鼓判を押してくださいました。

実感は時々思っていたのとは違う音が出る感じですが…。

まだハイドロコロイド❌貼っているので外せば大丈夫な感じがします。

帰りに先月気になっていたお菓子屋さん

玉寿軒に寄ってみました。

中もゆかしい感じと、撮らせて頂いていて天井を見てびっくり


和風かと思ったら洋風の天井。
「素晴らしい建物ですね。」と店の方に声をかけたら
「大正時代のですわ。」
「へー!」
「そこの暖簾の上の電話番号。大正時代に西陣の3019で全部押さえてあるんです。」
天井かと思ったら電話番号。
珍しいらしく、

写真を撮りに来られるそう。
「天井は…。」というと
「天井は、ここへ移ってきたときにヨーロッパから取り寄せて作ってもらったんですわ。」
「作った人もびっくりされたでしょうね。」
「そうなんですわ。青銅のパネルなんです。」
「青銅!もう向こうでも作ってないんじゃないですか?」

「たぶん、そうかもしれません。
でエアコンを入れるようになってから、色が落ちて、塗り替えても落ちるようになって…。
仕方ないからほうってるんですわ。」

「京都に古いものはたくさんあるけれど、大正時代に新しいものを取り入れるなんてすごいですね。よいものを見せてくださってありがとうございます。」

「いえいえ、どういたしまして。」

可愛いお饅頭も買わせて頂きましたよ。
鴨川に

本物の鷺さんもいました。


レッスン曲はフリードリヒ クーラウ(1786-1932年)神聖ローマ帝国ユルツェン生まれ、デーマーク コペンハーゲン没


の「序奏とロンドop98a」1830年作曲

フルートのベートーヴェンと言われていたクーラウらしい曲。
子どものときに瓶を持っていて、転倒。そのときに怪我をして片目が見えませんでした。

ピアノの練習曲集ソナチネでも知られています。

1810年デンマークのコペンハーゲンに移住します。
1825年ベートーヴェンに会いにウィーンを訪ねます。

序奏とロンドのロンドはフランスの作曲家ジョルジュ オンスロー(1784-1853年)フランス王国クレルモン・フェラン生まれ、フランス帝国クレルモン・フェラン没


のオペラ コンポルトゥオールの合唱曲を主題にしています。
彼はイギリス貴族の父を持っていますが、父は同性愛を疑われフランスに亡命中で彼をフランスで育てました。
パリ音楽院でベートーヴェンと同じ年に生まれたアントニーン レイハに学んでいます。




オーボエの前身アウロスの悲劇

2022-09-19 20:31:00 | 楽器
一昨日の西宮ギター練習会。
ギター川原久美子さんと久米素子フルートで
ブラームス ハンガリー舞曲第5番
ドビュッシー 夢
エルガー 愛の挨拶 
ピアソラ リベルタンゴ
を演奏しました。

唇はもう少しですが、音は出ました。
一部の人にはわかったみたい。
やっぱり足元注意ですね。
ごめんなさい。

オーボエ協奏曲の名曲というと、モーツァルト、シュトラウス、マルチェッロがあがってきます。

今日はリヒャルト・シュトラウス(1864-1949年)バイエルン王国ミュンヘン生まれ、バイエルン王国ガルミッシュ・パルテンキルヒェン没

のオーボエ協奏曲。
1945年、バイエルンのガルミッシュ・パルテンキルヒェンの山荘に滞在中、アメリカ軍に従軍していたオーボエ奏者のジョン デ ランシー(1921-2002年)がシュトラウスを訪ねてきました。

ランシーは「あなたの作品にはオーボエの素晴らしいソロが多く出てきますが、オーボエのための協奏曲を書くつもりはないのですか?」と言いました。

シュトラウスは「特にありません。」と答えました。

しかし、ランシーが引き上げ、しばらくたったある日、スイスでオーボエ協奏曲を書き始めました。

1946年2月チューリヒ・トーンハレ管弦楽団、オーボエ奏者マルセル サイエによって初演されました。

シュトラウスはランシーを独奏者に希望しましたが、彼はすでに除隊し帰国していて曲の完成すら知りませんでした。

その後、アメリカ初演でも演奏できませんでした。ピッツバーグ管弦楽団からフィラデルフィア管弦楽団に移籍したばかりで、第二奏者だったので、演奏家ユニオンの決まりで演奏できなかったのです。

結局1964年、第一奏者が引退した後になって、ようやく演奏することができました。

ギリシャ時代、マルシュアス(サテュロスとも言われる、アポロと音楽を競い敗北したと言われています)
彼はアウロスを吹いていました。

アウロスを持つエウテルペー(ムーサ芸術を司る女神)
ダブルリードで共鳴管が根本から二本に分かれそれぞれ左右の手で操作します。

マルシュアスはアポロに負け、生きたまま身体の皮を剥がれるという罰を受けます。
マルシュアスの血とムーサの涙が小アジアを流れるマルシュアス河になったと神話で伝えられています。
 
その後屋外で使われていたショーム

13-17世紀ルネサンスの木管楽器でダブルリードがついていました。十字軍の兵士が吹いていたと言われています。

オーボエというのは、弦楽器だけだったオーケストラにはじめて入った管楽器です。
キーが2個〜3個というものでした。
その後改造され、国ごと、地方ごとに独特のキーシステムが使われるようになりました。
大きくはジャーマン式、ウィーン式(ヤマハ製作も)

がありましたが、現在ではコンセルヴァトワール式が主流になっています。

ヤマハホームページより

それは1890年ドイツからパリ音楽院に留学し、ベルリン国立歌劇場オーケストラで長く活躍したオーボエ奏者フリッツ フレミングと
リヒャルト・シュトラウスが姻戚関係にあり、強くコンセルヴァトワール式を奨励したことにあります。




フランクのソナタ

2022-09-18 21:49:03 | ロマン派
今日はギターの川原久美子さんと合わせました。

10月2日(日)2時~5時 浄土宗光明寺(京阪交野線村野駅徒歩7分)
枚方市村野元町23-21
第20回チャリティコンサート
往生極楽ライブ
お問合せ090-8161-9372(光明寺住職)

住職はパパ友で、ご縁を頂いて協力させて頂いています。

セザール フランク(1822-1890年)ネーデルランド連合王国リェージユ生まれ、フランス共和国パリ没

ネーデルランド連合王国の
リエージュ王立音楽院

で弟ジョゼフとピアノの英才教育を受けます。
1834年卒業するとパリに移りパリ音楽院に入学し、アントニン レイハ、ピエール ジンメルマンに作曲、ピアノ、オルガンを学びました。

ピアノは一等賞を、対位法も成績を伸ばし、即興演奏も2等を獲得、作曲ローマ大賞を目指していましたが、1842年自主退学します。

父親ニコラ=ジョゼフが個人指導や演奏会を行い商業的に売出していて、その希望にセザールは逆らうことができませんでした。

しかし、父は行いが荒くパリの音楽評論家の反感を買うようになり、ピアノの腕とは別にベルギーに帰国しなくてはいけなくなりました。

2年後、ベルギーでも不評でパリに戻り、父によって復学が赦され、
結局、音楽指導と伴奏という日の当たらない生活を行います。

1851年ウジェニー フェリシテ カロリーヌ セイヨ(1824-1918年)
と恋人関係になり結婚を求めます。

しかし、コメディ フランセーズの一員であった彼女の家族を嫌い、父親は結婚を許しませんでした。

息子が彼女のために書いた楽譜を目の前で破り捨てたりしました。

度重なる強迫に、セザールは荷物をまとめてデムソー家に出向き二度と実家には帰りませんでした。

1874年フェリシテと結婚しました。

オルガニストとしての仕事は安定した収入を約束され、サン ジャン サン フランソワゾー マレ教会のオルガニストになります。

1872年フランクはパリ音楽院のオルガン科の教授になります。

安定した職を得て、フランクは作曲を初めます。

しかし、評価が定まらない中、1886年ヴァイオリンソナタが作曲されます。
ヴァイオリン奏者ウージェヌ イザイ


の結婚祝いとして作曲されました。
フランスのヴァイオリンソナタの中では最高傑作になりました。

フルート、チェロにも編曲されよく演奏されています。





元医師の作曲家

2022-09-17 21:37:11 | ロマン派
今日は今津公民館で本番。
西宮ギター練習会でした。
阪神電車で行ってみました。

唇のリハビリって感じで音が裏返らないか心配でしたが、なんとか音は出ました。

音色については、不満がありますし、フレーズがあと一息というところで切れてしまいます。

外側からは見えにくくなりましたが、内側がやはりまだ腫れてるみたい、今までより空気を出す穴が狭まっているみたいです。
完治まで後、もう少し!

アントニオ カーノ(1811-1897年)スペイン ムルシア州ロルカ生まれ、スペインマドリード没



外科医の父のもと、医学の勉強をしながら教会で音楽を学びました。

卒業後、医師をしていた1847年マドリードでディオニシア アグアドの演奏を聴き、彼に激励されたことでギタリストとしてスペイン各地を演奏して周り、名声を博します。

1850年マドリードに居を定め、ギター曲を生み出しました。

ギター教本は美しい旋律のために愛好され、


第二集では和声の論文として出版されました。

1853年〜1858年の5年に渡ってフランスとポルトガルに演奏旅行に出ました。

帰国後、スペイン女王イザベル2世

に招かれ王宮





で演奏。贈り物を送られます。

1857年スペイン国立盲聾唖学校の教授になります。
1897年マドリードで亡くなりました。

息子フェデリーゴはギタリストになりタレガの師となりました。

エル デリリオはスペイン語で妄想、熱情、夢中になっているという意味です。




素晴らしいスポーツカーに乗ったら…。

2022-09-16 20:57:00 | 近代
車の定期点検に来ています。

今月の押しはNOAHでした。
うちはもうこんなに大きな車は要りません…。
狭い道をちょこちょこ走るので燃費の良いコンパクトカーがいいです。
燃費のメモリーが出るので、次男と「今日はリッター40kmいった。」「56km!」とか言って競い合っています。

夫は「いい車を乗っている人はそもそも燃費なんか気にしないんだ。」と言って燃費なんか気にしない派を気取っています。

が実は走りは荒いですが、高速代をケチって地路をよく走っています。

そろそろ燃費の悪い車を売る算段もしています。中古だけど夢も叶えたし、もういいみたい。

私は車は安くて燃費が良くて、乗り心地がそこそこ良ければ何でも良いです。

ジョン・クーリッジ・アダムズ(1945年~)アメリカ合衆国ウースター生まれ、存命中

現代のクラシック音楽の作曲家って何をしているんだろう?って人は多いと思います。
私もそんなによく知りません。
そもそも取り上げるメディアが少ないので、コンクールとかお祭りとか、特殊な音楽雑誌を見なくてはなかなかわかりません。

You Tubeのおかげでようやく世間的に知られる人も多く…それでも流行りの歌の一桁も二桁も水を開けられている始末。

そんなの気にしないわ。という音楽家が多いのですが、さすがにこの世界がまるまる消滅してしまっては困るというか嫌です。

そんなわけで、音楽を好きな人、興味を持つ人を少しでも増やしたいとブログをはじめました。

でも現代の作曲家を取り上げるとPVがグーッと落ちます。
気にしないと思っても、そもそも、そんなに読者も多くもないブログ。
誰も読まなくなったら本末転倒。とあまり近現代は続けないようにはしています。
でも、ごめんなさい。
今回の人はご存命です。

1960年代からクラシック世界で流行ったのは「ミニマルミュージック」音の動きを、最小限に抑えて、パターン化した音形を何度も繰りかえす。
というムープメントの中に生まれた作曲家です。

絵画で言えば、あまり難しい技法を使わず、具体的な対象を書き写さない、非対象、無対象、絶対象絵画、抽象絵画の動き「ミニマリズム」を音楽評論家が用いたことから、音楽にも「ミニマルミュージック」という言葉が使われるようになりました。

ワシリー・カンディンスキーの横線


ピート モンドリアンの大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション

アダムズは「ミニマルミュージック」の作曲家として知られていましたが、ポピュラー音楽、バッハ、ストラヴィンスキー、オネゲルなどを取り入れ、後半は新ロマン主義(ロマン主義の再生、復活、擁護)「ポスト ミニマル」と言われています。

『ショート・ライド・イン・ア・ファスト・マシーン』は1986年作曲、「ポストミニマル」の初めと言われる作品です。

管弦楽のために作曲されました。

アダムスは曲の解説で「誰かが素晴らしいスポーツカーに乗るように頼んだのに、乗らなければよかったと思うのはどういうことか知っていますか?」と尋ねています。

どうもこの曲は、素晴らしいスポーツカーだと思って、友だちの車に乗ったら、すごいスピードで走り出し、気持ち悪くなってしまったという体験を描いているようです。

2008年に過去25年間によく演奏された10番目の曲でした。

プロムスでも何度か演奏され、ローレンス オドムが吹奏楽に編曲し、それもよく演奏されています。



パリ管初のフルート奏者

2022-09-15 20:48:00 | 古典
葛の葉の 吹きしずまりて 葛の花
 正岡子規



里山の葛は花盛り。葉を裏返さないとみえませんが…。

葛は日本発の侵略的外来種だそうです。
1876年、アメリカ合衆国独立100年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会日本館で園芸植物、肥料として紹介されました。

一時は政府により使用が促進されましたが、繁殖力がすごく今では駆逐対象です。

葛の蔓は籠になり、根は漢方薬、葛粉としても使えます。

なんとか利用できないのかな?

副反応の熱も下がって、唇の腫れも治まって、フルートを吹くのも楽になってきました。
怪我をして10日、こんなにフルートが吹けなかったことはありません。

17日にはギターの川原さんと本番!
2日で取り戻さないといけません。
ヒェ~!

こういうときこそ、基礎練習。
ソノリテのロングトーンの練習。
タファネル&ゴーベールの4番は、必須。
後は、手近の楽譜を片端から…。

ジョセフ アンリ アルテ(1826-1895年)フランス王国ルーアン生まれ、フランス共和国パリ勃発


兵士の息子として生まれ、弟ヴージェーヌ アルテス

はヴァイオリン奏者で指揮者です。

アンリ アルテは10歳でフルートを初め、1840年パリ音楽院に入学します。
彼の師ジャン=ルイ トゥルーの影響で初めは古い形のフルートを吹いていましたが、卒業後はベーム式のフルートを吹いています。
1842年コンペティションで優勝。
1848年パリ国立管弦楽団の初めのフルート奏者になり、1872年まで務めます。
その間にパリ音楽院のフルート科の教授になり1893年まで務めます。

アルテは「フルート奏法」1880年の著者で、パリ音楽院の入学コンペティションのための6つのソロ曲や、オペラの主題による編曲や幻想曲を含む、約40曲の作品を残しています。

彼はエドガー ドガの友人で、オルセー美術館に収蔵されているオペラ座のオーケストラという絵の中に描かれています。

前列2番目のファゴット奏者の右奥がアルテ
現在も使われているアルテフルート教則本の第一巻から



ドニゼッティのフルートソナタ

2022-09-14 20:18:00 | 古典
月曜日は、渡辺橋サロン ド プリンシパルで、フルートアンサンブルレッスンでした。

メルカダンテのフルートトリオ、「セレナーデ」を合わせました。初見。

実は9月4日、花火を見に行って歩道の縁石に足を取られてアスファルトに直撃。
指先、両膝、左肩、左頬、上唇を打って、擦れて…。

上唇が2倍に腫れて、フルートを吹いて見ようとしたら、音が出ない!

ラップとワセリンで、自分の滲出液で治す。とやっていて、これはすごい効果があって、指先の怪我はきれいになかったように…。

しかし、母を病院に連れて行ったときに、妹に見つかってしまい。
「お姉ちゃん、顔だけはハイドロコロイド貼っときなさい。」と、言われて、帰りにイオンで買いました。 

看護師は民間療法を見すごせない。

貼ったままが辛い。気持ち悪い。
けど、月曜日には音が出るまで回復。
時々、コントロールができなくて、高音が難しく、低音が混じったりします。

吹いてみたら、まぁまぁ…。
榎田先生、基礎練習のコピーを持って来られて、ガンガンやるつもりが、私のこの状態で諦めたみたい。

それでもベートーヴェンの悲愴、フルートトリオ版も吹いて、だいぶマシになった実感を得ました。


元に戻るのは 後、2日くらいかな?

ここに来て、昨日はワクチン4回目。
キャンセルしてオミクロン対応ワクチンという手もあったけれど、臨床試験あまりできてないということなので、もう打つことにしました。

「熱って8度5分位?」
「はい。嫌なんですが」
「ごめんね~。今回モデルナやけど、これの方が熱出るのよ〜。」
「そやけどね。抗体はその方が確実につくから。」

先生が謝る必要はないんだけれど、そう言われると勇気出して受けようって気になります。
熱への備えと熱が出ると、抗体ができるといういいこともあるらしいし。

と、言うわけで昨日の午後に受けて、夜から具合が悪くなっって今朝は38度。

しんどいです。
今日休んだら明日は、熱も下がって、唇も完治してフルートが吹けるので、
心配しないでね。

今日は私の好みでマクサンス・ラリューのドニゼッティのフルートソナタ



子どものための音楽

2022-09-13 20:54:00 | ロマン派
久しぶりの子育てサロン。


こぶたぬきつねこをパネルシアターでやりました。
壁面飾りや、パネルシアターを集まって製作したのも今は昔。

大きな空気清浄機を2台入れてもらって、消毒マスクでできることをやっています。

今日は1歳までの子どもが多かったのでお母さんに手伝ってもらってふれあい遊び。

やっぱり、子どもの笑い声は気持ちいいですね。

ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ヅヴィッカー生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没

の、子どものための作品というと「子どもの情景」です。
1837年38年頃から作曲されて

1839年に完成。
1839年プライトコプフ ヘルテル社から出版されています。

クララ ヴィークとの結婚をクララの父親に反対されていましたが、なんとか結婚しようとしていた頃です。

クララが「ときどきあなたはこどものように見えますね。」と手紙に書いていて、その言葉からインスピレーションを得て書きました。

最も有名な曲は「トロイメライ」ですが、全部で13曲あります。
難易度は高く、子ども向けと言いながら演奏するのは大人でないと難しいようです。



第1曲 見知らぬ国/見知らぬ国と人々について/Von fremden Ländern und Menschen

第2曲 不思議なお話/Kuriose Geschichte

第3曲 鬼ごっこ/Hasche-Mann

第4曲 ねだる子供/おねだり/Bittendes Kind

第5曲 満足/十分に幸せ/Glückes genug

第6曲 重大な出来事/Wichtige Begebenheit

第7曲 トロイメライ/夢/Träumerei

第8曲 炉端で/炉端のそばで/Am Kamin

第9曲 木馬の騎士/Ritter vom Steckenpferd

第10曲 むきになって/Fast zu ernst 

第11曲 こわがらせ/怖がらせ/Fürchtenmachen

第12曲 眠っている子供/眠りに入る子供/Kind im Einschlummern

第13曲 詩人のお話/詩人は語る/Der Dichter spricht

この曲集はフランツ・リストを感動させました。

彼は「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた」とシューマンへの手紙に書き、週に2、3回は娘のために弾いていると明かしています。

「この曲は娘を夢中にさせますし、またそれ以上に私もこの曲に夢中なのです。というわけで私は、しばしば第1曲を20回も弾かされて、ちっとも先に進みません。」
ってこの娘って、後にワーグナーの妻になったコジマのこと?

姉ブランディーヌ

がいたのでどちらのことかはわかりません。ちなみにダニエルという息子も…。

少なくとも当時から、第1曲は一人の子どもに人気があったのは確かなようです。


雲を征服する太陽

2022-09-12 20:50:00 | バロック
田んぼの中の水路を亀を探してごそごそ

こんなに水の多いときに捕まるような間抜けな亀はいません。




雲が映ってきれいでした。

ルイ=ニコラ クレランボー(1676-1749年)
フランス王国 パリ生没

父も作曲家で幼いうちからヴァイオリンとクラヴサンを学びます。
グラン=ソギュスタン教会のオルガニストを努め、

マントノン夫人ルイ14世の妻

に仕えます。

サン= シール王室で貧しい貴族の女子に音楽とオルガンを教え、合唱と聖歌の指揮をします。この仕事はマントノン夫人亡き後も続けました。

ルイ14世の崩御でサン・シュルピス教会オルガニストに就任します。

1719年からはグランジャコバン教会に奉職します。

「フランス語カンタータ」というジャンルを発案し、この分野で並ぶもののいない巨匠になりました。


「雲を征服する太陽」はフランスの管弦楽カンタータ(楽器の伴奏を伴う声楽曲)の紛れもない傑作の一つです。

1721 年に国王ルイ 15 世の健康回復のために演奏されたこの曲は、王立音楽院によって娯楽として取り上げられ、同年に縮小版として出版されました。

一般の室内楽は 1726 年にこの曲を入手し、翌年のラ レーヌ コンサートで定期的に演奏され、スピリチュエル コンサートとして定期的に演奏されています。

雲を征服する太陽




稲穂の実る季節に

2022-09-11 20:35:52 | ロマン派
夏の間、おさまっていた里山通いが復活。
しかし、今日は最高気温34度…車載温度計では一時35度。
9月11日頃ってこんなに暑かったかな?
稲は実り


曼珠沙華は

咲きだしています。
どんぐりは

まだ緑。

ジョン トーマス(1826-1913年)
ウェールズ ブリジェンド生まれ、



アマチュアクラリネット奏者で仕立て屋の息子で7人兄弟の長男として生まれました。
演奏するのが難しいトリプルハープから練習を初め、バイロン卿の娘エイダの影響でロンドン音楽院

に進みます。

卒業後は王立音楽大学


とギルドホール音楽学校


で教鞭をとります。

オペラ、交響曲、2 つのハープ協奏曲、序曲、室内楽、2 つのカンタータ( Llewellyn (1863) とThe Bride of Neath Valley (1866)) を書きました。

彼は 1852 年のフィルハーモニーのコンサートで自作のハープ協奏曲の 1 つを演奏しました。


1861年、彼はベルギーのソプラノ歌手デジレ アルトー


と短期間婚約しました。

彼は最終的に 2 回結婚し、いずれも元学生と結婚しました。

彼の最初の妻であるアリス・アン・キートは、結婚から2年後の1880年に亡くなりました。

2回目は1885年にジョーン・フランシス・デニーと結婚しました。

1861年 Pencerdd Gwalia (ウェールズの吟遊詩人の酋長)という名称を1861年授与しました。

1872年ヴィクトリア女王のハープ奏者に任命されました


ヴィクトリア女王 ハインリヒ・フォン・アンジェリ1875年

「小麦を見ている」はウェールズの民謡でトーマスによって楽譜集が出版されると、シューベルトの変奏曲や、メンデルスゾーンの無言歌に収録されるなど人気になりました。