音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

涙の流行した時代に

2023-01-21 08:52:00 | ルネッサンス
京都知恩寺の近くに多肉植物専門のお店がありました。

店先にサボテンの自販機。
手作りの売れる街はこうやっておもしろいチャレンジが赦されています。

うちの多肉ちゃんも育っています。
近所の縁日で買ってきたものです。
商店街の中にある陶芸と多肉が趣味の方の手作り。
器を作っているうちに合体して作ることを思いついたそうです。
うちの小さなサンルームで何年もそのままで生きています。

多肉植物は寒いヨーロッパでは戸外では育ちません。
温室ができたことで普及しました。

紀元前48-33年の元帝(前漢)で使われていた記録があります。
季節を外れた頃に温室でできた植物を食べるのは健康に悪いので温室に使う燃料を削減してください。と言う上奏が残っています。

ヨーロッパではローマ帝国紀元前1世紀
透明石膏(セレニウム)

で作った家に油を塗ってきゅうりの苗を寒い夜に入れて育てた。と言う記録があります。

本格的な導入は17世紀以降、ガラスの技術が向上してからです。

上流階級が熱帯の果実を育てたもの
野菜を育てたウィンターガーデンでした。

最も古いのはイギリスのオクスフォードの植物園1621年

薬用植物の研究のために建てられました。
1673年にはチェルシー薬草園

と大学に属する研究施設として建てられました。
1759年にはキューガーデンが宮殿併設温室として建てられました。


熱帯植物マニアのケーブル卿が建てたものをオーガスタ妃が拡張しました。

1873年ベルギー ラーケン温室


ベルサイユ宮殿のオランジェリー1684-1686年


などなど、世界中の植物を集めました。

17世紀のイギリスは、ジョン ダウランド(1563-1623年)
イングランド生まれ、不明没


1588年にオクスフォード大学で音楽博士になりました。
エリザベス女王の宮廷楽士になろうとしましたが、なれずに、海外に職を求めて放浪。
フランスにも行き、一時期カトリック教徒になります。
そのためプロテスタントが主流のイングランドでは宮廷で務めることが難しく、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクを放浪しました。

1598年ー1606年デンマークのクリスチャン2世の宮廷楽士として務めます。
イングランドに戻り、1612年リチャード1世のリュート奏者になりました。

「涙のジョンダウランド」と自称。
イタリアでは「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ デュランデ」と名乗りました。

「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神の祝福を受けざりし者はただ憤るか泣きはらすのみ」
をモットーにしました。
「常にダウランド、常に嘆いている」
と自分の名前にかけた曲も書いています。

しかし、トーマス フラーは87曲の現存する曲のうち14曲しか明確に厭世的な曲はなく、実は快活な人だったのではないかと言っています。

16世紀からイタリアで神秘思想が流行し、大陸での流行をいち早く取り入れ、またパトロンのルーシー ラッセル(ベッドフォード伯爵夫人)もそういう思想を好んだのでダウランド自身が作った人物像だと言っています。

ボールトンによれば
資料の事実的根拠はなく、1595年イングランド政界の重鎮ロバートセシル
に宛てた手紙ではリュート奏者になれなかった不満が噴出し、宗教のせいで拒まれたと信じ込んでいて、そう明るい人物ではなかったと書いています。

リュート歌曲集から
Time stand still 時が静止する









動物が出てくるオペラ

2023-01-20 09:20:00 | 国民楽派
先週の鴨川には犬を散歩?させている人がいました。
寒いのに川の中で気持ち良さそうな犬でした。
とんびもたくさん。

出町柳駅の前でした。

レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928年)オーストリア帝国モルヴィア生まれ、チェコスロバキア オストラヴォ没


教師の父イルジーとアマリアの間に14人兄弟の10番目の子どもとして生まれました。

ブルノのアウグスティノ会修道院に入学、聖歌隊に入ります。
1869年王立師範学校に入り、教師を目指します。

1872年卒業し、2年間の無給の教育実習に入り、同時に聖歌隊の副指揮者になります。
ヤナーチェクは生徒の一人によると「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」
73年ストァヴァルク聖歌隊の指揮者になり、レベルアップに貢献します。
無伴奏の男性のための合唱曲を何曲か書いています。

1874年オルガンの才能が認められ、1年間プラハのオルガン学校で学ぶことになります。

ここでドボルザークに会い、親交を深め民族音楽に目覚めます。
1875年ブルノに戻ると師範学校の臨時教員になり、合唱団指揮者に戻りますがブルノクラブ合唱団の指揮者も引き受け、多忙になりスヴァトブルク合唱団を辞任します。

1879年ライプツィヒ音楽院に入学。
シュルツの薦めでした。
1881年帰国するとシュルツの娘ズデンカと結婚します。

翌年オルガが生まれます。

オルガ
長男ウラディミールもうまれますが、
1890年2歳で猩紅熱で亡くなります。
このことで結婚生活は離婚はなかったですが破綻します。(ズデンカの「ヤナーチェクとの生活」)

1882年ブルノにオルガン学校を設立音楽理論を教え、シュルツが心理学を教えます。

民話や音楽を採取し、それに基づいた曲を作曲し、成功していきます。

1917年、二人の子どもと夫を持つ38歳年下のカミラ シュテシュロバーに出会います。

ヤナーチェクは11年間で600通を超える手紙を送り、晩年の活動の刺激になりましたが、肉体関係はなかったと言われています。

1918年、チェコスロバキアが独立しオルガン学校は国立音楽院になりますが、学長は弟子がなりヤナーチェクは衝撃を受けました。
この頃4つのオペラをてがけますが、全て自分で台本を書いています。
そのうちの1つが「利口な女狐の物語」です。

この歌劇はカミラを見て女性の持つ3つの顔

「カーチャ カヴァノヴァー」苦悩に満ちた情熱

「利口な女狐の物語」自然な天真爛漫さ

「マクロブロス事件」冷たい不自然な美

を表現しています。

1928年ヤナーチェクはカミラの家族とフクヴァルディに出かけ、肺炎になり亡くなります。
カミラの11歳の息子が森で迷ったと思い、探しに出かけたのが原因とされています。

スデンカは死に目に会えず、ヤナーチェクは遺言書をカミラに有利に書いていて、死後二人は対立しました。


「利口な女狐の物語」
ルドルフ・ティエスノフリーデの物語が下敷きになっています。
ヤナーチェク家の家政婦マリーの勧めで作品化しました。

生命の森、動物たちの生き生きした姿、生と死を主題としています。

第一幕 森番が女狐を捕まえる
森番が疲れて一休みしているとコオロギ、バッタ、蚊、蛙が現れ、最後に女狐ビストロウシュカが現れます。

女狐が蛙を捕まえようとすると蛙は森番の鼻の上に落ち、目覚めた森番は女狐を捕まえます。

女狐は助けを呼びますが、誰も応えず。
森番は「子どもたちが喜ぶ」とビストロウシュカを家に連れ帰ります。

第2場 子どもに噛みついた女狐は森番に紐で縛られます。
捕まった女狐ビストロウシュカが泣いていると、犬のラパークが慰め、言い寄ります。
相手をせずにいると、森番の息子ペピークがやってきて棒でつついてきます。怒ったビストロウシュカはペピークの足に噛みつきます。

森番はビストロウシュカを紐で縛ります。

女狐が脱走
犬のラパークは「俺のように逃げないのが1番だ」と言います。
鶏は「お前は卵も産めないし、手伝いもできない、なんの役にも立たない」と罵ります。
ビストロウシュカは「おまえたちは利用されているだけだ」と雄鶏を捕まえ、雛鳥を殺してしまいます。

ビストロウシュカは紐を切って森へ逃げ去ります。

第2幕 
第1場 女狐が穴熊の広い家を奪い取る
穴熊の家を覗いたビストロウシュカは森の動物たちに「穴熊のおじさんがゴロゴロしてるよ。広い家なのに一人で。」と呼びかけ、みんなで攻めたてます。
穴熊は怒りながら逃げていき、ビストロウシュカは広い家を手に入れます。

第2場 森番が女狐のはなしをされると機嫌が悪くなる
森番が居酒屋で校長、牧師とトランプをしながらみんなが愛するテリンカの話しをしています。

「女狐の話しをしてください。」というと森番は機嫌を悪くして店を出ます。

第3場 森番が女狐を銃で撃つが取り逃す
校長が酔っ払いながら歩いていると、ビストロウシュカがひまわりの花を揺らし、校長は恋する女性テリンカと間違え抱きつきます。


そこへ森番が現れ、ビストロウシュカに銃を撃ちますが、外れます。

第4場 女狐が結婚をする
雄狐ズラトフシュピテークが通りかかります。
「この家は私のもので私は自立しています。」というビストロウシュカ。
ズラトフシュピテークはプレゼントのうさぎを渡し求婚。
2匹は結婚し、森の仲間が祝福します。

第3幕
第1場 森番が罠を仕掛けるが、女狐に見破られる
行商人がテリンカと結婚することになったと報告します。女狐が殺したうさぎが落ちていてそこに罠をかけます。
夫と子どもを連れてきたビストロウシュカは罠に気づき逃げます。

行商人が女狐を銃で撃ち殺す
行商人が「狐をマフにしてテリンカにプレゼントしよう。」と考えます。
逃げ回るビストロウシュカ。
その間に小狐は行商人の鶏を食べあらし、ビストロウシュカは必死で撹乱しますがとうとう行商人の銃弾に倒れます。

第2場 テリンカが狐のマフをしている
テリンカの結婚の日、居酒屋で森番が「女狐を追いかけていったけど穴は空っぽだったよ。」というと
「そういえばテリンカが狐のマフをしていたよ。」と聞きます。


森番は「年を取って足が痛いよ。」「人はいろいろ求めないのが一番なのかなぁ」と店から去っていきます。

第3場数年後、森番が狐の夢を見る
年老いた森番が居眠りをしているとビストロウシュカそっくりの小狐が現れます。
捕まえようとするとそれは蛙でした。
森番は昔会った蛙だと思い「今までどうしたんだ?」というと「それは僕のおじいちゃんだよ。何度もその話しを聞かされたよ」と言います。

銃が忘れられたかのように森番の体から地上に落ちたところで幕がおります。

奇妙な物語はカミラに当てた寓話とも言われています。
家庭に捕らわれて振り回されて終わりますよ。と言うことのようですが、どうでしょうか?
私がカミラならちょっと引いてしまいます。
カミラは実際には夫と仲睦まじく暮らし、添い遂げました。


調律!ピアノ

2023-01-19 09:14:00 | 古典
火曜日はピアノの調律に来てもらいました。
来てもらって弾いてもらうためのものなので、コロナ禍でほとんど利用できず、前回の調律は3年前でした。


いつもと違うピアノの姿に撮らずにはいられません。

探していたらピアニストの友達が弾いていないピアノがあると…ありがたく頂きました。

昭和57年製(1982年)MIKI。
うちに来て10年余。
かつての普及版ヤマハのピアノです。
タッチが柔らかく良く鳴ります。

「ちょっと柔らか過ぎる」とうちに来て弾いてくれたピアニストは言います。
練習は硬めでやって本番は柔かいと指が鍛えられていていい状態で発表できるみたい。

上から2番目のEがうなります。もう古いから、これが増えてくると弦換えしたほうがいいみたいです。
全部一度に変えるのがいいようなのでまだ先の話です。

乾燥剤は三年前のがまだ使えました。ハープのために夏場除湿機つけっぱなしが良かったみたいです。
結構高いので助かります。

中の掃除もしてもらってスッキリ!
久しぶりに少し練習もしました。
また、これからもよろしくね。とピアノに言いました。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク大公国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1785年26歳の時の作曲、ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482

第22番と第23番はセットで作曲されました。
オーボエの替わりにクラリネットを使ったのもこの協奏曲が初めてでした。

モーツァルトはこの頃、年末の予約演奏会と言うのを行っていて、120人の予約がありました。

そのため大急ぎで3回コンサートを行いました。
ただし日時、場所など詳細は不明です。

予約演奏会のために次々とピアノ協奏曲を作曲、発表していました。

音楽家協会主催でディッタースドルフが「エスター」と言うオペラを上演したときに、幕間に演奏。
人気でアンコールがあったと父に報告。レオポルドはナンネルにそのことを知らせています。

1786年1月13日、父レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘ナンネルへ

おまえの弟から12月28日付でやっと返事を一つもらいました。 彼は120人の予約会員からなる3回の予約演奏会を大急ぎでやったとのことです。 また、彼はそのために変ホ長調のクラヴィーア協奏曲を作ったが、そのとき彼は(ちょっと珍しいことだが)アンダンテをアンコールしなければならなかったとのこと。
[書簡全集 VI] p.225

これも曲は確定していませんが…。

モーツァルトのピアノ協奏曲の中では第21番がダントツの1番人気らしいですが、これもいいと思います。

あなたの好きなモーツァルトのピアノ曲はどれですか?




死者のためのミサ曲

2023-01-18 09:01:00 | 古典
昨日は18時から渡辺橋近くのサロン ド ブリンシパルでフルートアンサンブルレッスンでした。
筑前橋から海側を眺めると、空が少し明るい。
冬至12月22日を2週間ほども過ぎると、同じ18時でも明るさを感じるようになってきました。

アンサンブルは5人になってから、なかなか揃いません。
人数が増えると楽しさも増えるけれど、その分合わせるのはやっぱり難しいです。
ビートルズを2曲とカーペンターズを2曲やった後、ボワモルティエのフルート五重奏の4番をやりました。
もう、初見では無いのでインテンポで。
私はちょっとビブラートを深くゆっくりしすぎる傾向があるので、浅めにモデラートの速さ(80~100)で一拍に3回吹くようにしなくては。
みんなで吹くと楽しい!

今日は1月17日。
阪神淡路大震災の起きた日です。
この近辺は食器が落ち、テレビが跳んだ位でしたが、それでもご家族が被災し人生を変えられた人が何人かいました。
忘れられない、忘れてはいけない。

ヨーロッパは地震がないと言われていますが、地中海沿岸やアイスランドは群発しています。
155年 ギリシャ、ロドス島全滅。
365年 ギリシャ、クレタ沖地震でアレクサンドリア壊滅。

856年ギリシャ コリントス地震45000人死亡。
1348年 オーストリア ケルテン州フィラッハ 10000人死亡
1531年 ポルトガル リスボン地震で30000人死亡
1555年 ユーゴスラビア スゴビエ壊滅的被害。
1693年イタリア シチリア島 死者80000人
1755年ポルトガル リスボン地震 死者10000人
1783年 イタリア カラブリア地震
死者30000~50000人
1908年イタリア メッシーナ
死者110000人

大きな被害のあったものだけを書き出してみました。

ここであげていない国でも結構起きています。
記録のないものもあるでしょう。
世界中、地震の可能性が無い国はありません。

ドメニコ チマローザ(1749-1801年)ナポリ王国アヴェルサ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没


レンガ職人と洗濯婦の元に生まれました。
父は作業中に事故死します。
音楽の才能を僧院のオルガニストに見出され、サンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院(ミラノ音楽院の前身)に学びます。

1771年 22歳 初めのオペラで成功。
その後ローマ中の劇場からオペラを依頼されます。
1787年 38歳でロシアのエカテリーナ二世
に招かれ、ペテルブルクに行きますが、契約満了で帰国。

42歳、レオポルド2世の招きで、サリエリ

の後任、ウィーンの宮廷楽長になります。

1792年代表作「秘密の結婚」を書きます。レオポルド2世が亡くなり、また、宮廷楽士の地位も重要さが減ったためにかなり自由に作曲できるようになりました。

ナポリに帰り、オペラを次々に発表します。
1799年 一時共和制になったときに、革命政府の依頼で革命を讃える曲を書きます。
王政復古になり、そのことで逮捕され投獄され、死刑判決を受けます。
しかし、友人や支援者の助けで減刑され、ナポリ追放になります。

1801年52歳 ヴェネツィアのフェニーチェ劇場の依頼で書いていたオペラ「アルテミラ」を未完のまま亡くなります。

チマローザは人気で当時ヨーロッパの主要都市で公演されていて、名声を得ていたので、毒殺説が流れ騒ぎになりました。
そのためナポリ政府は死因を胃癌であると改めて発表しています。

1787年、38歳のときに「レクイエム」を書いています。

ペテルブルクでエカテリーナ二世に依頼され、ここで 1787 年 12 月 12 日、彼はレクイエム ミサを行いましたナポリ国王の使節の妻、セラ・カプリオーラ公爵夫人の葬儀のためでした。

チマローザの讃美者ヨハン ヴォルフガング フォン ゲーテ(1749-1832年)神聖ローマ帝国自由都市フランクフルト アン マイン生まれ、ザクセン ヴァイマール大公国ヴァイマール没

は、「若きウェルテルの悩み」を書いた小説家ですが、自然科学者でもありました。

カラブリア地震の4年後からイタリアを訪問して「イタリア紀行」を書き、地震の被害状況について書いています。余震が大きく被害が大きかったそうです。

2月5日の地震

被害を受けた街
チマローザは、レクイエムを公爵夫人のために書きましたが、この時期、地震の被害に心を痛めないではいられなかったと思います。

1) イントロイトゥス(入祭唱、46小節)
2) キリエ(61小節)
3) グラドゥアーレ(昇階唱、41小節)
4) セクエンツィア(続唱、705小節)
5) オッフェルトリウム(奉献唱、123小節)
6) サンクトゥス(53小節)
7) ベネディクトゥス(14小節)
8) アニュス・デイ(神羊誦、184小節)

怒りの日セクエンツィアの1部で「ラクリモサ」涙の日。



世俗のアート

2023-01-17 09:00:00 | ルネッサンス
日曜に行った知恩寺手作り市の収獲の一部です。
全長3cm位、とかげの木工と、それをくり抜いた時の枠。
なんだか使い道意味不明なアート!って感じの作品が好きです。

他の作品はこれ。

全部もらったらカレーができるぽち袋や、リコーダーケース(笛入れにします。)あみぐるみのキラキラトカゲ、スマホケース、スタンプ(ケーキ)、トリケラトプスクリップ、ポーチ大小、福助バッチ。他に椎茸の佃煮買いました。

福助バッチとポーチ大は夫にプレゼント。
実用品はポーチ小、印肉とハンコ両方入れます。
スマホケース。カバン変えたら前に使っていたのが合わなくなりました。
あおりの中に入れて使いますがトカゲバッチをつけて使おうっかな?
つけてみました。

おかしいかなぁ〜?

ジョスカン・デ・プレ(1450.55?-1521年)フランス北部サン=カンタン近郊生まれ、フランスオー=ド=フランス地域圏コンデ=シュル=レスコー没

少年聖歌隊から、作曲家になりました。詳しいことはわかっていませんが、生前から有名な作曲家でした。
オケゲムに学びました。

1475年エクス・アン・プロヴァンスのアンジュー家のルイ善良王


の音楽団の一員であったことがわかっています。
1480年にルイ善良王が亡くなると、フランス王ルイ11世に財産ごと引き継がれます。

1481年この王は脳卒中で倒れ、8人の声楽家に毎朝7時にミサ曲を歌わせました。この中に彼も入っていたと思われます。
1484年に枢機卿アントニオ スフォルツァの庇護を受けていたようです。

1484年にはミラノ公ジャン ガレッツオ スフォルツァの地位を得ていました。
然し充分ではなく安定した教会の役職を願って訴訟を起こしたりしていますが、うまくいきませんでした。

ローマでフィリップ美公に近づくためにスターバト・マーテルを送っています。

1500〜1502年にはルイ11世に雇われていましたが、未払い報酬があり、思い出してもらうためにモテット「御言葉を思い出し給え」と「人慈を持ってあしらいたまえり」を送っています。
1503年フェラーラの宮殿楽長職につこうとしていましたが、ペストの流行がはじまり、公爵も移住し、ジョスカンもフェラーラを去りました。
晩年のことはよくわかっていませんが、1509年、1513年と教会と俸禄のことで交渉しています。

彼の不安定な身分のせいで、教会音楽ばかりでなく世俗曲を多く残すことになりました。

これは世俗曲の1つで夫婦喧嘩の一シーンでしょうか?

三声の世俗音楽より
Mon mary m'a diffamée
夫は私を侮辱した。




伊藤公一先生80歳を祝う会

2023-01-16 09:08:00 | コンサート
昨夜は伊藤公先生一80歳を祝う会
に行ってきました。
発起人は竹林秀憲先生、長山慶子先生、佐渡裕さん、富久田治彦先生、吉岡アカリ先生、安川透さん。

4:30からのコンサート


歯神社の隣

ドルチェ楽器さんの前には、開演前から行列。
伊藤先生の関係者しか声を掛けておられないのに…。
ドルチェアートホール
満席。
司会は富久田治彦先生。
なごやかに始まりました。

アンドレ カプレの「夢と小さなワルツ」
モーリス ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」
ダニエル ウッド「ワルツ カプリス」
エドワード エルガー「気まぐれな女op17」
ジュール ムーケ「パンと小鳥たちop15」
ポール タファネル「魔弾の射手による幻想曲」

アンコール
グルック クライスラー編曲「クセルクセスよりメロディ」

ピアニストは水野久美先生。
こんなに丁寧で繊細、美しい音色、変化するニュアンスのフルートは他には、聞いたことはありません。


アルベルト フランツ ドップラー
「アンダンテとロンドop25」
今井満美さんのフルートとトリオ
中学生の頃から伊藤先生に学ばれている高校生ですがのびやかに演奏、先生はにこやかに演奏されていてとても温かいアンダンテとロント゚でした。

エルネスト ケーラー
「花のワルツop87」

なんと、今をときめく指揮者の佐渡裕さんのフルートとのトリオ。
佐渡さんは、40年前に伊藤先生に大学でフルートを学ばれ、その後指揮者に転向されたそうです。 

指揮者になるといったときも、「フルートを学んだ方がいい。フルートも吹けない人が指揮なんかできない。」と言われたそうで、その後もかなり頑張って練習されたそうで、1stを吹かれてしきりに「やるんじゃなかった」とおっしゃっていましたが、さすがの演奏でした。

ダニー ボーイ 「ロンドンデリーの歌」
1st佐渡さん、2nd伊藤先生、3rdフルートに長山慶子先生、4thに富久田治彦先生 
フルート四重奏で演奏。

同じ門下の演奏は音色、表情があっていて素晴らしかったです。

最後は
マレーナ ケシック
「アヴェ・マリア」

指揮佐渡裕さん、ソロフルート伊藤先生、1st長山慶子先生、山田律子先生、2nd大嶋義実先生、山田正子先生、3rd長谷瑞先生、武村美穂子先生、アルトフルート大久保香先生、中野幸代先生 バスフルート太田彩先生、松本弘子先生、コントラバスフルート富久田治彦先生

この曲は初めて聴きました。
ミラノ出身の女性フルーティストで作曲家の曲です。

伊藤先生のソロの美しいこと!
アンコールで2回演奏されて、2回目は撮影OKでした。

指揮の佐渡裕さんが、「ベルリンやウィーンや世界のオーケストラで指揮してきても、伊藤先生ほどのフルーティストはいなくて、やっぱりすごいフルーティストだったんだと改めて思いました。」と、言っておられて印象的でした。

コンサートの後は、お祝いのパーティー。

高校生でフルートを始められて19歳で京都交響楽団オーディションに合格。

驚く私たちに、「大したことないですよ。当時は20人くらいしか応募がなかったからね。」
「何も知らないで入ったから、」うまく行かなかったらクビになるかな?と思っていたけれど、何年もやることになってしまいました。」
「初めのころね、ハチャトゥリアンが来てね。彼の指揮で演奏したんだよ。この話すると、当時はそうでもなかったけれど、みんな驚くんだ。歴史上の人物だから。」

佐渡裕さんが
「伊藤先生のドボ8と、ダフニスとクロエが美しくて忘れられない!」と言われると
私の前の若手フルーティストのYくんが「その音源もってますよ。」と、「えー!いいなぁ。」なんて末席の私たちも盛り上がりながら…。

「僕もね、80歳まで吹くなんて考えられなかった。
秘訣?そんなのがあれば教えて欲しいくらいだよ。
あたりまえのことをあたりまえにできるように練習してるだけだよ。
年取ってくると大変だから、昔は正規の指使いでないとだめだなんて思ってたこともあったけれど、替え指もいろいろ考えてね。楽できるように。そしたらそれを使えるように練習しなくてはいけないんだけどね。」

すると奥さまの水野先生が「真面目に練習とか言ってるけれど、合わせのときにね。大相撲とかあるとつけながら、4つ位バイリンガルでやるんですよ。おほほ…。」
と、言い出されてびっくり!

私はというと、もっと早くお会いしたかったと、先生に今からでも学べる幸せをジンジン感じておりました。

最後に佐渡裕さんが超大きなケーキをプレゼント。 
たくさんのキャンドルを伊藤先生が吹き消し、私たちもお相伴に預かり終会となりました。

伊藤公一先生のフルート独奏ドビュッシーの「シリンクス」




パン職人が守った街

2023-01-15 08:36:00 | 古典
昨日は京都の今出川の先生にモーツァルトのDdurのカルテットを見てもらいに行きました。
磨いとかないとね。

終わってから、先生に前に行った素敵な和菓子屋さんの話しをしていたら、「この近くには美味しいパン屋さんがたくさんあるんですよ。」
と、たくさん教えて下さいました。

帰りに早速そのうちの1つを見つけて入りました。

買って帰りました。

あっ!ちょっとドーナツのイチゴチョコレートコーティングが剥げちゃった。
鞄の中で水筒の下敷きになっていました。
でもさすが京都人は食にこだわりがあります。
どのパンもおいしかった。

特にエッグタルトはおいしかった!
先生に感謝。

8000~5000年前の、古代メソポタミアで小麦を水を混ぜてこねたものが食べられていたそうです。

古代エジプトへ伝わり、偶然パン種に空気中の酵母菌がついて発酵し、ふっくらしたパンができました。


2500年前の古代ギリシャに伝わり、オリーブオイルを使った揚げパンが作られるようになりました。

酵母を使ったブドウ液を使ったり、挽臼の発明。パン焼き窯が作られたりしました。

古代ローマに伝わり、白いパンを作るために馬のしっぽを使った粉ふるいも発明されました。

ポンペイで見つかったパン焼き竈 79年

かまどの中でで見つかったパン
中世ヨーロッパではあまりパン作りが発展しませんでした。それは一部のパン屋、教会、修道院、貴族しかパン作りは赦されなかったからです。

14世紀頃から庶民もパンが家で焼けるようになりました。

クロワッサンは17世紀、トルコと闘っていたオーストリアの地下工房で働いていたパン職人が、地下トンネルを掘ってオーストリアに侵攻しようとしていた音を聞きつけ通報。
トルコ軍を追い払うことができました。

第二次ウィーン包囲戦ヤン3世
大トルコ戦争(1683-1699年)の
勝利を記念し、トルコ国旗のマーク

を真似て三日月型のパンを焼いたのがクロワッサンの始まりです。

クロワッサンがフランスへ渡ったのは1770年オーストリア王女マリー アントワネットがルイ16世に嫁いだ時です。

CLデレ マリー・アントワネットとルイ16世の結婚式1770年
クロワッサン好きな彼女はオーストリアのパン職人をフランスへ連れて行ったのです。
(山崎製パン)

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

ピアノソナタop11の三楽章はトルコ行進曲になっています。

作曲年代は特定されていませんが、モーツァルトがトルコ行進曲をつくったのは、この時のオーストリアにおけるトルコからの勝利による流行に乗ったものです。

ハイドンの交響曲100番 軍隊
ベートーヴェンのトルコ行進曲もそのブームの一部です。

モーツァルトのピアノソナタop11は
2014年自筆譜がハンガリーブダペストの国立セニーツェ図書館で発見されました。

第一楽章の第3変奏から第2楽章のトリオ10小節目で真筆だと認定されました。
初版のアルタリアとも相違があり、ヘンレ社が校訂版を出版。

後、第一楽章のはじめから第二変奏までと第二楽章11小節目から三楽章の89小節目が発見されていません。






バッハの教会音楽

2023-01-14 12:31:00 | バロック
先週末の琵琶湖。

あそこに何かあるのかもしれない。と思うのもわかります。

現実は、正月モードはなくなってきました。
昨日は「冬休みはダラダラできてよかったのに〜。眠い〜。」
と、言いながらレッスンに来てくれた小学生。
まあ、眠いながら元気です。
「フルートは好き。」だそうで、冬休みに練習していた曲を14曲連続で吹いてくれました。

感謝です!

雲の隙間からでる光線のことを、レンブラント光線とも言うそうです。
学名は薄明光線と言います。
神殿でのイエスの奉献 レンブラント 1640年

キリストの磔刑 レンブラント 1653年
わかりやすい薄明光線です。


キリストの昇天 レンブラント 1636年

マリアへの告知 ティントレット 1518-1594年
レンブラント以前にも、ゴッドレイとか、呼ばれて薄明光線を神の記しとして、絵画に使われていたのですね。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
キリストの昇天祭に演奏するミサ曲を書いています。
昇天祭はキリストが磔刑になり、その後復活。これが復活祭。
この後40日間地上にとどまり、奇跡を行った後、天に昇ります。
この時のことを祝うのが昇天祭で、だいたい5月頃に行われます。

カンタータ「ただキリストの昇天のみが」BWV128
1725年ライプツィヒで演奏されました。

1723年ライプツィヒの聖トーマス教会の教会音楽家に任命されます。

これは初めにテレマンに依頼されましたが、テレマンは当時人気者で他の仕事で忙しく断ったためバッハに話しが行きました。

他にも6人の名前が上がっていましたがいずれも辞退され、会議は混迷しました。

「最良のものが得られなければ、中くらいの者でも採用されなければならない。」と、議事録に残っています。

教理問答とラテン語を教える条件がついていて、これを他の人が嫌ったためと言われています。

教会音楽を作曲するというのはそれ以前の契約の本文でしたが。

それに従って、バッハは教理問答とラテン語を教え、教会の祝祭日や、ミサ曲を書き、監督指導演奏を続けました。

その中の一曲がこのカンタータです。







サン・サーンスの愛したアルジェリア

2023-01-13 09:03:00 | ロマン派
子育てサロンの会場の前に咲いていました。
寒菖蒲(カンアヤメ)と言うそうです。
1.2月に咲くあやめで1日でしぼむそう。
何年も月1回は通っているのに見なかったのはそのせいかも。

学名はAlgelian Iris アルジェリアのアイリス。
アルジェリア、ギリシャ、トルコ、西シリア、チュニジア原産
地中海南岸原産です。

シャルル カミーユ サンサーンス(1835-1921年)フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没

彼は旅行好きで、特に北アフリカを愛していました。
アルジェリア組曲は
1880年ブローニュ シュル メールで作曲し、12月19日にパリ シャトレ座で初演されました。

サン・サーンスは、官吏の父とオートマルヌ県の一家の母のもと一人息子として生まれました。

生後2ヶ月で結核で父がなくなります。
母と彼女の叔母の元に育ちます。

13歳でパリ音楽院に入学します。

15歳でローマ賞は逃しますが、サント セシル協会で一等賞をとります。

1853年からサンメリ教会でオルガニストを務めます。

1861年ニデルメイエール音楽院で教職につきます。
1864年には2度目のローマ大賞に挑みますが落選しています。

名声は高まっていきます。
1871年普仏戦争が起き2ヶ月国民衛兵として参戦します。
その後ロンドンに避難し歓迎されます。

1871年国民音楽協会を創設し副会長になっています。
1873年初めてアルジェリアを訪ねています。

交響詩、オペラを書き、順調に売れるようになってきた1875年19歳のマリー ロール トリュフォーと結婚します。

パリのアパートで母と二人で暮らしていたが、カルチェ・ラタンに越して結婚しましたが、母もついてきます。

母クレマンス・コラン
二人の子どもを授かりますが、1878年アンドレはアパートの窓から転落し2歳で亡くなり、下の子は6週間で肺炎で亡くなります。

1877年普仏戦争で延期されていたオペラ「銀の音色」が上演され18回を超える再演となり、オペラの献呈を受けたアルベール リボンは上演3ヶ月で亡くなります。

リボンはサン・サーンスに巨額の遺産を残します。

作曲に専念する環境が整い、オペラ「サムソンとデリラ」を書きます。

1878年妻とオーベルニュの温泉に向かいます。ここで彼はホテルから姿を消し、「二度と戻ることはない」という手紙がマリー・ロールの元に届きます。
以來、二人は二度と会うことはありませんでした。
サンサーンスは女性より男性に惹かれていたという説がいくつかあります。

サン・サーンスは以後女性と親密な関係になることなく、離婚手続きもせず、フォーレとその妻マリーと息子たち二人の世話を焼き、家族のようになります。


アル ジャザイール(アルジェリア)はアマーズィーグ(ベルベル人(西欧人がつけた蔑称)イスラム教を信じるアマーズィーグ語を話す先住民)
の国でしたが、カエサルの征服でローマ共和国の属州になります。
ウマイヤ朝の侵入以降イスラムの支配が続きます。

16世紀にはオスマン帝国、スペイン帝国が進出します。

1801年アメリカ合衆国が武力行使し、第一次バーバリ戦争、1815年第二次バーバリ戦争が起きます。
1817年西欧諸国によるアルジェ砲撃が起きます。

1830年フランスがアルジェを占領します。1847年全アルジェリアを支配し、アルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県が置かれ、ヨーロッパ人が入植しました。

1962年独立するまでフランス領でした。

サン・サーンスはアルジェリアを愛し、冬の寒さを避けアルジェで過ごすようになっていきます。
亡くなったのは、1921年12月16日冬のアルジェで死因は心臓発作でした。
亡骸はパリへ戻されマドレーヌ寺院で国葬が行われました。

そこには1881年以降、一度も彼と会うことのなかったマリー・ロールの姿がありました。

サン・サーンスは「この地では何人も来ることはなく、敵意のある声も届かない。静寂とそれを讃える崇高な歌をかき乱す声はない。」とアマーズィーグのことを言っていました。

アルジェリア組曲

第1曲 前奏曲 アルジェを目指してEn vue d'Alger)モルト・アレグロ

金管のファンファーレが挿入されます。楽譜にはアルジェに向けての航海の模様を記す詞が添えられています。


第2曲 ムーア風狂詩曲Rhapsodie mauresque)アレグレット・ノン・トロッポ ニ長調

6/8拍子3つの舞曲のメドレー風。


第3曲 夕べの幻想 ブリダにて(Rêverie du soir. À Blidah)

アレグレット・クアジ・アンダンティーノ イ長調 6/8拍子この楽章のみ原型が先に書かれ、1979年6月7日に初演。

フルートの序奏に続き、独奏ヴィオラの主要主題「愛の歌」が気だるいリズムに乗せて繰り返されます。


第4曲 フランス軍隊行進曲(Marche militaire française)アレグロ・ジョコーソ ハ長調 2/2拍子

アルジェの市中を進む、フランス軍の連隊の行進のようすです。



もう一つのバレエ音楽

2023-01-12 09:04:00 | 近代
琵琶湖のそばに水仙が咲いていました。

去年来た第2なぎさ公園の菜の花の畑にも菜の花が咲いていてすごい混雑でした。
駐車場に入れずスルー。
あれ?こんな時期だったかなぁ?と思って花期を見てみると2~5月。
しかし、食用は11〜4月、旬は1〜3月

昨年の写真を検索したら2月19日になっていました。
勝手に菜の花というと春、4月頃と変換していたのでした。

菜の花はアブラナ科アブラナ属の総称で特にアブラナ、セイヨウアブラナのことをいうと書いてありました。

菜の花は食用の葉という意味があり、ナタネ、カブ、ハクサイ、キャベツ、ブロッコリー、カラシナ、ザーサイなどアブラナ科アブラナ属で葉茎を食べるものすべてを言うって…!

菜の花や 月は東に 日は西に
          与謝野蕪村

俳句の季語としての「菜の花」は晩春 (清明から立夏 旧暦の3月)で5月だそうです。

このあたりで土手に咲く菜の花は4月頃。
まだまだ先のことです。
ということはなぎさ公園の菜の花とは品種が違う?
謎は深まりましたが、
水仙が見れたから良しとしよう。

ニコライ チェレプニン(1873−1845年)
ロシア帝国ペテルブルク生まれ、フランス共和国パリ没

サンクトペテルブルク音楽院で、リムスキー・コルサコフに学び、卒業後は同院の指揮科の教授になります。

ここでプロコフィエフを教えています。

帝室マリインスキー劇場の指揮をします。
1909-1914年セルゲイ ディアギレフ
のバレエ リュスの指揮をします。

1918年ロシア革命でグルジアに避難し、トリビシ音楽院の院長を務めます。
赤軍の侵攻でイスタンブール経由でフランスに亡命し、パリで死没しました。

彼の作曲したバレエ音楽「ナルキッソスとエコー」は1911年ニジンスキー主演で

ジゼルのときのニジンスキー
モンテカルロ劇場で初演されました。

舞台美術のレオン バクスト(1866-1924年)


が1907年ギリシャ訪問の強い印象をもとに、古代ギリシャの3連作「ナルシス」「ダフニスとクロエ」「牧神の午後」を構想します。

その頃、バレエ リュスで古代エジプト「クレオパトラ」、アラビア千夜一夜物語「シエラザード」と異国情緒のある作品を取り上げ、次に続くものとして古代ギリシャに挑んだのでした。

ラヴェルの「ダフニスとクロエ」、ドビュッシーの「牧神の午後」はその後も残り続けましたが、チェレプニンの「ナルキッソスとエコー」は数年後には上演されることがなくななりました。

ラヴェルとチェレプニンは振付師のフォーキン(1880-1942年)


と相談し、大作であること、ヴォカリーズ(歌詞のない歌)合唱の挿入など共通点は多いのですが。

ナルシスとエコー
女神ボモナの神殿の果樹園は森の沼地にあり鏡面のような泉があります。
そこに住む美しい若者ナルシスは、山の妖精エコーに誘惑されます。

ナルシスは恐れを知らず、エコーを拒絶するだけでなく嘲笑します。

傷ついたエコーは、女神ボモナに「彼が報われない恋に落ちますように」と願います。

願いは聞き入れられます。

ナルシスは泉を覗いた途端に泉に映る自分の姿に恋をして、
Jhon Cossiers1600-1771
そこを動けなくなってしまいます。

ついにはナルシスの姿はそのまま消えて彼のいたところに水仙(ナルキッソス)の花が咲いたのでした。

■ 多神教的な夜明け
■ 森の獣が目覚め・・・笛を吹く
■ ボイオティア人たちとその恋人たちの登場
■ バッカスの信女たちの踊り
■ 遠くの声
■ ナルキッソスの踊り
■ 置き去りにされるエコー
■ 憔悴したナルキッソスの登場
■ エコーの到着
■ 花に変身するナルキッソス